〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

反省的な補足、若干

2007-06-09 | 「特攻」論
そういうわけで、前回の記事で書いたとおり、今後暫くはかつて日本人が遂行した「特攻」についてを課題に、更新を続けていく予定です。

ところで、なぜこれを行なうかについて、若干反省し、自分でもはっきりとわけて整理しておいたほうがいいように思われました。
こういうテーマに自然関心が向くについては、省みるとそこにはやはり個人的なこだわりというか無意識的な傾向性があるように思います。

私の場合は、自覚的にはいわゆる右寄りの感情(最近多いようですね、「嫌○流」とか…)から来るものではあまりなく、それよりもミリタリーなことへの関心から来ているように感じます。
で、やっぱり気になるわけですね、航空機、艦船、装備がどうだとか、作戦はこうだとか、指揮官はああだった、とか。

しかし今回はそれから離れた(つもりの)視点で書ければ思います。そんな興味本位からでは、当時の人の真剣な思いからすれば、実際申し訳なく恥ずかしいような気がしますので…

さきにも書きましたが、なぜいまことさらに「特攻」を取り上げるかというと(その動機はともかく意味づけとしては)、日本の歴史をもう一度取り戻したいということがあります。

私は歴史学を専攻するところを何とか卒業したのですが(卒論書きやすいから、という理由で選択してしまった)、にもかかわらず最近に至るまで日本の歴史にはあまり興味がありませんでした。
自分の不勉強なことを棚に上げていうのですが、なにせそれを学ぶ意味・理由がほとんどわかりませんでしたので。

ようするに、次のようなことがあるわけです。

・日本史の学びなど、実生活・人生においてはまず役に立たないのではないか。

・「歴史に学ぶ」というような「いいこと」がよく言われるけれども、時代も選択基準も大きく変わってしまったいま、過去に学ぶことなどあるのか。
(歴史学ではほぼいずれも過去にさかのぼるほど人間は無知蒙昧だった〔=バカだった〕ことになっているではないか)

・それどころか歴史学は現在ではモノとカネとシステムの動きだけがリアルだとしている。そのとおりに、学ぶべきとされてきた歴史の意味も価値も物語も、結局のところそのためのウソであり幻想であるにすぎなかったのではないか。

・とどのつまり歴史などには理由もなければ意味もないのではないか。

・とくにそういうふうに歴史に意味がないことを暴き出している歴史学それ自体にこそ、もっとも意味がないのではないか。

・端的に言えば、歴史のお勉強など単なる趣味の問題に過ぎないのではないか。

「なぜ歴史を勉強しなきゃならないの?」…小中学生のようですね。
しかし学びの原点となる、本質的だったはずの問いです。

多分この問いについては、ひじょうに詳細・厳密な知識を持った歴史の先生にも答えることができないのが(狭いですが私の触れた範囲で)たいがいの現状なのではないかと思います。

(お読みの方、そうでない現行水準の歴史学の全体的な視野と、集団としての人間に関する深い見識を持っている学者さんをご存知でしたら、ぜひお教えいただけないでしょうか。そういう人に学びたいと切実に思います。)

しかしそういう疑問が自分のいわば足元を見失っていたものであったことが、今ではすくなくともアタマではわかります。

すでに書いてきたように、日本史、つまり私たち日本人という集団の履歴を学び内面化することとは、私たち個々人の日本人としてのアイデンティティ形成に本質的に関わることです。
というかある意味両者はイコールですらあるように思われます。

「そんなもん関係ない、個人は個人で自信を持てばよい」とか、「日本などというくだらん国にこだわるのは危険だ。そんなものはおいておいて世界市民を目指すべきだ」とか、そういう現行主流の反論が予想されるところです。

しかしそういう「個人」も「世界市民」も、私たちの心の実際に即して言えば、「日本人である」という健全な思いの大枠の中/土台の上にしか成り立たないのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

すくなくとも、日本に生まれ、日本語で思い語りコミュニケートし、日本の文化的観念を身につけ、つまりそれを否定するにせよやはり日本人としての枠組みで生きていて、さらに日本国という社会システムの中に生活を営み、国際的には日本国籍を持ち庇護されるほとんどの私たちは、そのことを否定しがたいのではないかと思います。

言葉によって生きているという人間の心の構造の本質からして、そのように個人として健全に生きていくのにも、さらに世界市民として国際的に活躍するのにも、いかに健全に「日本人であるか」ということが、たぶん不可分・不可欠に関わってくると思うのです。

またこの日本社会が健全に集団としてやっていくためにも、そういう私たち個々の成員の健全な集団に対する帰属意識が必要だというのは、現状の日本社会の病理現象とさらにその予想される行く末を見ると、多くの方が痛感されることだと思うのですが、いかがでしょうか。

つまり、私たちは日本人であることを「含んで超える」ことしかできないのではないか、ということです。



…と、こんな書いている時間はないのだった。以降、本論とは別にまた書きたいと思います。
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(にもかかわらずやってしまいました、ランキング。一押しいただけるとうれしいなと…)

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