〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

大和魂ある者の (3)

2007-05-28 | 「特攻」論
 さて、映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」をご紹介しているが、これが戦争の悲惨さの中にぎりぎりなものとしてあらわれた「美しさ」を見出すことを主題として描かれた作品だったのは明らかだと思う。

 そのように映画が正当にも目指そうとしながら、しかし一方で明らかに限界があって描ききれていないように見えたことがある。
 それはすなわち、「特攻」のネガティブな面とポジティブな面のそれぞれをしっかり分けて私たち日本人自身の歴史として取り戻す、ということではなかったかと思うのだ。

 以下、大枠ではあるがひとつの試みの作業として、そのことを書いていきたい。

 が、その前に今回から括弧でくくって使っている「特攻」という用語の問題性について、その言葉に抵抗を覚えるというご意見があったので、取り上げておこう。

 「特攻」とはいうまでもなく本来「特別攻撃」という軍事用語の略であり、またそれを象徴するものとして一般的に使われている「神風・カミカゼ」とは海軍特別攻撃隊の総称として冠された言葉であった。
(あまり説明されていなくて現代の私たちにはわかりにくくなっているが、映画は陸軍の話である)

 しかし言葉は時代の経過や意味的な俗化に伴い大きく変質していくという幾多の例にもれず、というかそれを大きく越えて価値的な転倒というほどに、これらは現在ではいずれも揶揄を含んだ自嘲的で軽薄なニュアンスをもって広く語られるようになってしまっているのは間違いない。

 いわく、競争に勝たねばならない体育会系やビジネスマンの掛け声だったり、戦後一時期のアメリカのB級戦争映画の邦題に(原題と無関係に)つけられるものだったり、果てはいまだ細々と生息している暴走族系ヤンキーの奇抜な晴姿を指したり…等々といった具合に。

 「カミカゼ」にいたっては、海外の報道を有難がっておめでたくも日本人自身がテロによる自爆攻撃をそう表現したりする現状だ。本来それは明確に混同・誤用なのだが、もはやそう指摘することすらあまりにむなしい。

 嘆くのは無意味だろうが、そういう用法の軽さには、この言葉が本来帯びていたきわめて深刻かつ悲壮な意味合いがまったく欠落しているのは明らかだ。
 そのことに怒りを通り越して情けなさを感じ、この言葉を使うことに抵抗・反発を覚える向きがあるのはある意味で当然といえるだろう。
 それは日本人という社会集団に生きる者として、その歴史を担った存在として、たぶんとても正常かつ健全な反応なのではないかと思う。

 そして否応なく自覚させられるのだ――思えば私たち日本人はそこからあまりに遠い地点に来てしまった、と。

 この意味的な逆転の背後にある、読み取ろうとする私たち自身のコンテクストの激変を自覚することは、「特攻」について何事かを語る上で、たぶんきわめて重要であると思う。
 そしてそこを考慮しないまま、いまだに多くの言葉が費やされているのが現状だと見えるのだ。

 それを踏まえたうえで、しかしやはりこのことは総称として「特攻」と表現するのが適切だと思う。
 括弧にくくるのは、上記のような現行の通俗的なイメージの喚起をできるかぎり避けるためであり、そのことにより、それは当時の人が心に抱いていただろう意味での使用であることを、いくばくかでも表せればと思ったからにすぎない。



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