〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

大和魂ある者の (2)

2007-05-22 | 「特攻」論
 さて、先日鑑賞した映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」の、内容自体について書いていきたいと思う。

(そう書いていて思うのは、どうも映画それ自体をダシに、というかそれを離れて、現代日本人としての自分の思いを語ってしまいそうだということ。が、ブログという自由な場なのだから、たぶんそれもまたいいのだろう。お読みになって、映画の感想という文脈から飛躍していると感じられたら、笑ってお許しいただければと思う。結局のところ批評というのはそういうものなのかもしれない。題材への敬意のない、よくある自己目的化した寄生的な「自己表現」がだいたいのところであると見えるし、それが行なわれる動機もよくわかる。しかし、ことこのテーマに関しては、それは避けたいものである。以下ネタバレしてますので注意)

 今回映画を観て、当たり前だったはずなのだがあらためて驚かされたのは、特攻で死んだのは10代か20そこそこの若者であったという事実だ。
 結局最後に生き残る(徳重聡という人が演ずる)小隊の隊長すら、自分より年下だったろう。

 演じられていた、あどけないところをまだ残しつつ、死を目前に深く葛藤しながら(しかもそれは極限の死なのだ)、しかし国のため愛する者のためにと従容として任務に出撃する彼らの姿に接して、観る人はまさに隔世の感を抱かざるを得ないだろう。
 そう、いまの私たちと彼らの間には、思えばあまりにも大きい断絶が横たわっている。

 もちろんそこには有無を言わさぬ軍隊組織の強制があるのは確かだ。
 それは映画でもほとんど無責任というぐらい非情に描かれていた幹部将校たちの姿が示すとおりの事実だったと思われる(そのことは別に取り上げたい)。
 が、それでも隊員たちが強制を強制として引き受け、任務に一命を投げ出すことができたという事実は残る。
 年齢的にはあまりに若いはずの、そんな彼ら隊員たちの心の裡を理解することが、いまの私たちにはたしてどこまで可能なのか?

 だからこそ、たとえ演技的にはつたないかもしれないとしても、そして戦後の価値観であるヒューマニズム的な解釈が色濃かったとしても、それでも演じていた現代っ子の若手俳優が心情的にそこにかなり肉迫する努力をしていたことを賞賛したい。

 食堂のおかみさんに「蛍になって帰る」「19歳の残りの寿命をお母さんにあげる」といって別れを告げるひ弱そうな少年(しかし最後突入に成功するのは彼だった)、
 こっけいを装っているが最後の夜に一人で吹くハーモニカが悲しい太っちょ、
 母のためにと日本陸軍の士官として特攻に志願し、涙の「アリラン」を歌う朝鮮の若者、
 出撃前夜に平和な両親の日常を見て別れを告げることもできず立ち去る芋飴屋の息子、
 「日本は負けだ」という同期の親友の抗議の自殺(多分)に動揺しつつも覚悟を決めざるをえない音痴で人情家の隊長…。

 そういう個々のエピソードの積み重ねから、特攻の出撃の多くが、勇ましい職業軍人ではなく戦時動員されたごく普通の若者によってなされていたことの重みと、彼らと彼らをただ見送ることしかできなかった人たちの痛切な思いとが伝わってくるのであった。

 とくに、戦友に遅れて死に焦る坂東少尉の役を演じていた窪塚洋介はよかったと思う。
 これまで漠然と「アブナイ人」くらいの印象しかなかったが、映画ではその彼の危なげな個性がよく活かされていたのではないだろうか。

 しかしラスト近くの、突入後救出されて彼は沖縄の小島に…というエピソードは、ストーリーとしても不自然なくらい、あまりに唐突でうまくない。
 また、それを含む、敗戦以降を描いた20分くらいは、テーマを語る上ではむしろなかったほうがよいと思う。
 テーマからしても全体の流れからしても、とってつけたような蛇足となっていしまっている感がぬぐえないのだ。

 そこには、生きて残ってしまったことに自責する隊長を、孤島に一人とどまる窪塚の生存とを対比させて、後に残された者たちのそれぞれの苦悩を描く意図があったのだと思われるが、残念ながらその描き方が平板で、それまでの緊張感を単純に弛緩させる結果となってしまっていたと思う。

 さらにいうなら、この作品全体にいえることとして、個々に感動的なエピソードを、テーマに沿って一貫してまとめあげることができていないのがいかにも残念だった。

 これもまた主観に過ぎないかもしれないけれども、それには「お母さん」役の岸恵子のミスマッチが大きかっただろうと思う。
 各エピソードをつなぎとめる軸になるべき、隊員との「心の交流」が演じ切れておらず、なぜ若者たちがそこまで彼女を慕うのかという必然性が伝わってこないのである。
 それは多分に演出の問題であり、べつに彼女の役者としての技量不足でもなく、おそらく難しい薩摩弁を含め役作りの失敗ということなのだろう。
 ともかく演技が茫洋として地に付いていない印象なのだった。

 結局、なぜ彼女がぎりぎりのところにいた隊員たちにそこまで慕われたのか、映画からはうかがい知ることができないと感じられた。
 すくなくとも、そこにはとてもやさしくて気の利く(便利な)定食屋のオバチャンという以上のものがなければならなかったと思うのだ。

 多くが母親へのメッセージだった特攻隊員の遺書に見られるとおり、極限の死に臨んだ彼らがそういう日本的な「母への思い」を最後の支えにしたのは、心理的にという意味でかなり事実を衝いているようには感じられるのだが…

 そこは残念ではあるけれども、しかし時代の経過と価値観の激変とともにいわゆる日本的母性がほとんど絶滅化しつつある中で、映画に描かれる「慕われる母親」像がぶれて抽象化されてしまうのも、また致し方ないことなのかもしれない。

 …冒頭で戒めたはずの批判的蛇足が長くなってしまったが、次回はこの映画でかなりよくバランスをもって描かれていた(と思われる)、特攻作戦における色濃い影と、その中の「美しい」とされた光の部分のそれぞれについて、焦点を当ててみたいと思う。


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