〈私〉はどこにいるか?

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『完全自殺マニュアル』批判 10~11

2005-10-15 | 『完全自殺マニュアル』批判
『完全自殺マニュアル』完全批判(10)


死にゆく者への目線


 ここでは、自殺を刺激的な情報として語っている本書が、自殺した人間をどのように語っているかを見ていこう。
 見てきたように、この本は自殺の方法論については多くの紙幅を割きながら、それを実行した人間の内面にはほとんど踏み込んでいないのだった。

 しかしその中で、著者が人生観めいた感想と自殺者に対する共感らしきことを述べている異例の箇所が、いくつかあるのが目を引く。
 とりわけ漫画家・山田花子の死についてのエピソードをはじめ、いじめによる自殺に関してそういったコメントが目立つことから、著者の関心がどのあたりにあるかをうかがうことができよう。

 山田花子というと漫画家はひじょうに特殊な自分の世界を描いた作品で一部に知られている(最近は同名の芸人のほうが有名になっているが)。
 実を言えば絵はたいへんまずいし、ストーリーはあってないようなもので、これをそもそも読む対象としての漫画作品ということができるのかは疑問があるところだ。
 しかし、同じような心の傾向を持った人間には、その作品は痛いくらい“わかるなあ”と思わされるものである。

 その傾向とは対人恐怖というきつい心の歪みのことだ。
 彼女はそのひどい症状に悩まされて、社会との接点を見いだせないまま、結局24歳で飛び降り自殺をして果てた(92年)。

 彼女は死ぬ直前まで、自分が人との関係を結べないことを文字通り死ぬほど恥じつつ、これだけが自分の世界なのだというふうに、執拗に一貫して自分の対人恐怖をテーマに描き続けた。
 その醜いまでの自己暴露は、対人恐怖の人の見ている世界を窺うにあたって、ほんとうに希有なものだと思う。彼女はそれをごまかすことができなかったようだ。

 例えば太宰治の『人間失格』は、そういう対人恐怖の主観的世界を描いた文学作品とされるが、そこには対人恐怖という心の歪みに距離を置き、物語として美化する余裕が感じられて、ひどく甘ったるい印象が拭い切れない。
 文学人として自己確立し社会的関係を結ぶことができた彼の病とは、おそらく対人恐怖と別種のものだっただろう。

 文学的にはもちろん較べるべくもないのだろうが、こと対人恐怖という点において、自己美化とかナルシシズムの入り込む余地がまったくない山田花子の描写のほうが、はるかにリアリティと実感が込められていて、迫力がある。

 ほぼすべての作品に共通しているのは、人との接触にひどく取り越し苦労し、かといって人との接触を断つことができず、その中間でどうふるまっていいのか途方に暮れている姿だ。

 そうして、あまりにも自意識過剰で人と関係を作ることができず、そのことをひどく恥じ、自然にふるまうことができず友達を作れない自分はダメ人間なのだと、徹底的に自虐し続ける。
 その常に変わらないテーマは結局“友達がいない”ということだったと思う。
 そして、友達を作って自然に生きているすばらしい他人と、それができないまったく劣った自分、という自己確認が、作品の主要動機に見える。

 一言でいって、ひどく痛々しい。そんなに足りないところを凝視ばかりせずに、視点を外して自分を楽にしてやればいいのにと思われるが、若い彼女にはそんな余裕がなかっただろう。
 学校を出てみると、友達なんかいなくても、生きるのにはぜんぜんOKだということに気づくのだが。

 彼女がそのことばかり気にしている様は一見極端で異様だが、しかし友達がいないと自分の存在自体がやばくなってしまう教室的状況というのは、わかる方も多いだろう。
 “友達がいない”などということは、結構な歳になっても口にするのが難しかったりする。

 学校の教室で、やることのない休み時間、一人でいるような人間は、ほとんど“アンタッチャブル”扱いではなかっただろうか? 
 教室には、無内容な“明るさ”を基準とする人間関係のヒエラルキーがたしかに存在した。そういう事情は今も変わっていないのだろうか?

 彼女の場合輪をかけてきつかっただろうと思われるのは、そういう教室でかなり手ひどいいじめを受け続けていたらしいことだ。そういうミもフタもないいじめの様子も彼女の漫画に繰り返し登場する。
 『完全自殺』の記述を信じる限りは、卒業後も彼女はそういう人間関係のパターンをくり返し、まともな社会生活を送ることができない中で、自殺に到るまでそういう自己確認的な漫画を書き続けたらしい。

 みなと同じように人と関係を結びたい…自分にはそれができない…人並みに人間関係を結ばなければならない!…でもできっこない!というような、常に同じパターンの悪循環のくり返しにひどく囚われているのを、読者はその漫画から、いやというほど窺うことができるだろう。

 いろいろな要因はあるのだろうけれども、彼女がはまりこんでしまった悪循環とは、おそらくそういう教室的な状況でいじめをうけながら、毎日毎日、いやというほど直面させられて身についてしまったものなのだろうと推測される。

 山田花子作品については、この『完全自殺』でその存在を知って、さっそく買って読んだと記憶している。そしてそのつらさの強弱の度合いはともあれ、どこまでいっても続く醜い堂々巡りの暴露に、これはまさに自分のことが描いてあると思ったものだ。
 いたるところが自分にも思い当たって痛いような感じがする一方、自分と同じ種類の人間がいるのだと確認できたような気がした(といって安心は全然できなかったが)。

 そういう彼女の死のストーリーについて、本書は異例の4ページを割いて、人生の教訓めいたコメントともに紹介している。他に同じような扱いを受けている自殺者の記事がないことから、彼女のそういう生き様・死に様は著者の関心を強く引いたことが窺われる。
 それでは、本書はその彼女の死をどのように扱っているだろうか。

 「彼女の一生は他人の視線に怯え続けた人生だった…彼女の苦悩には、計り知れないものがある」
 そういったセリフで、一見彼女の苦悩に寄り添っているように見えるが、よく読むとむしろ共感とは別種の冷たい感情がそこにはたらいているのを、読者は見て取ることができるだろう。

 そのコメントを要約すれば、「彼女は生まれながらに暗く内向的で、常にいじめられ続けてきた。そういう弱者としての運命を抱えた彼女が自殺を選んだのは正しい選択であった。それがこの世の必然なのだ」ということになるだろう。
 そして作品の中の絶望の言葉を引いて(「イヤなら自殺しちまえ」)、そういう“諦念”こそが人生の真実なのだと述べる。

 しかし著者が彼女の対人恐怖を理解しているようにはまったく見えない。あくまで他人事にすぎないとしか読めないのだ。
 そこには、弱い人間は生来そういうふうにできていて、そして人間は終生変わり得ないのだという、先の本で見たとても狭くて浅い認識がある。

 すなわち、彼女の描く症状の部分だけを見て、そこから来る認識の歪みと、惨めさと裏腹な強がりだけを、彼女という人間の本質だと捉えている。そういう実体としての病そのものである彼女は、われわれ正常人とは別種であり、この社会では生きるに値しないと言わんばかりだ。

 しかしそうしたこの病の奇異な様は、じつは表面に現れたものにすぎない。
 そういう対人恐怖の表面上に表れた人間関係の不能の背後に、他者との関わりを痛切に求める本音があるのに、この興味本位の観察者は気づくことがない。

 見る眼があれば、彼女の作品のどのページにも背後にそういう切望があることをはっきり読みとれるのだが、このシニカルな著者がそれに気づくことができないのは、考えてみれば当然のことであっただろう。

 そういう人とのつながりを切望する本音と、裏腹な対人能力への強い羞恥心、関係の中で心理的なまとまりを保てない人格の未成熟さ、親しい関係を求めながらもそれができない自分を反省しすぎて自己非難してしまう過剰な自意識、それらこの病の中核にあるものに、この皮相な観察者はまったく疎い。

 ここに、病気がその人自身の本質であるかのような転倒した捉え方が見られる。それは、心の病とは生来のものでそれ自体としてずっと変わることがないという、無前提の実体視に他ならない。
 さきの『人格改造』の人間=機械観が、ここでも暗黙の内に前提とされている。壊れた機械は修理不能、というわけだ。

 ここでは心の回復ということにも、それを追求する臨床心理学・心理療法についても、一言も言及されていないことに注意しよう。
 症状のレベルによって困難はあるだろうし、現在の日本に有効な社会資源が少ないという事情もあるが、心の病は回復が可能である。

 にもかかわらず、この著者にはそのことが見えていない。いや、見ようとしていないというべきか。
 結局、“人は自分の心をどうすることもできない”という自分の間尺に合わせて、“観察対象”を自分の見たいようにみているにすぎないのだ。

 このように、明らかに著者にとっては、いじめも対人恐怖も視線恐怖も、自分に関わるものではなくあくまで他人事である。
 そういうふうに誰か自分とは関係のない弱い人間の特異なストーリーとして、クールに興味本位に観察して語っていることに、読者は注意する必要がある。

 そしてその死を、自分が社会から無批判に取り入れた価値観(暗く内向的=劣等・無価値)にそのまま当て嵌め、弱者の運命と必然の自殺という、短絡的で安易なストーリーに組み立てている。

 その背後に著者自身のどのような意図があったのか、次に見ていきたいと思う。


by type1974 | 2005-10-07 14:36





『完全自殺マニュアル』完全批判11


著者の抱く「真理」


 この『完全自殺マニュアル』の著者が、社会不適応な人間の不幸と絶望、とりわけいじめを受けて自殺した人間の生き様・死に様に、特殊な関心を抱いているのは本文を読む限り間違いない。

 それは死んだ人間の内面にほとんど触れることなく外面的な自殺方法の“情報提供”に終始している本書が、そういう自殺者の場合に限って異例なコメントを発していることから読みとることができる。

 それにしても、著者・鶴見氏の、これら社会不適応な人間の死への執着は、いったい何なのだろうか? そしていじめ自殺のエピソードに示された、異例とも言える彼の関心は何を意味するのだろうか?

 とりわけ彼にとっていじめは、単に他人事であるだけでなく、本書の中でくり返し自分なりの人生観を表明して取り上げるに足る、とても興味深い他人事だったようだ。
 これらを、著者自らがどのような立場に立ってこの本を書いたかを推測する足がかりとしたい。

 人は価値観からくる偏向抜きで客観的に真実を語っているつもりになりがちだが、実際には自分なりのものの見方・事実の切り取り方から、どこまでも自由になれるものではない。
 そして忘れたつもりの自分の足場を衝かれると、往々にして強烈な反応を示したりしがちだ。

 では彼は自分でも無自覚に(もしかしたら自覚的に)どのような立場に立ち、そこから何を見ようとしているだろうか。

 漫画家・山田花子の例に見られるように、この著者は、いじめを受けるような暗くて内向的な人間は、この社会に生きるのにそもそも適さないのだと明言している。
 それはつまり、そういう人間は生来劣った存在であり、そもそも生きるに値しない生命であるという決めつけ・価値付けにほかならない。

 そういう言葉の前に「この日本社会では」「クラスという奇妙な集団で」などと、一見留保を付けているようであるが、しかしまさにそのような産業社会の競争主義や教室的な価値観をあまりにも真に受けているのがこの著者自身であったことは、すでに明らかにしたとおりだ。

 つまり“この社会”や“息苦しい教室”がそういう人々を生きるに値しないと見なすとは、彼自身が自分の視界を覆った色メガネをとおしてそう見なしている、ということにほかならない。

 しかも“生きる上で割を食うことがある”から“劣った人間である”さらには“生きるのに適さないので自殺が当然“の間には、極端な論理の飛躍があるのに、著者はまったく無頓着である。

 その間にはきわめて大きな隔たりがあるはずなのだが、それが存在しないことになってしまっているこの思考のあまりの短絡は、いったい何なのだろうか? 

 それを以下に明らかにしていきたい。


 確かにこのますますギスギスしつつある産業主義・日本社会の、たとえば明るくノリがよくなければならないような雰囲気がある教室で、そういうふうな内向的で能率的に動けない人間が健やかに生きていくことが難しいという状況があるのは事実だろう。

 ところがそこから一足飛びに、いじめられるのはとりもなおさず劣等な人間(「いじめられるヤツ」)であり、そういう必然な不幸を生来背負った劣った存在は自分で死を選んで然るべきだと、なぜか断定してしまっているのである。
 念入りにオブラートに包んではいるが、それらの言葉が指し示していることを読み取れば、ようするにそういうことになる。

 もちろんそういう状況に陥った場合に、他に採るべき道はいくらでも存在する。
状況から退避すること、学校に行かないこと、人間的に成熟した大人の第三者に間に入ってもらうこと、人間関係を調整すること、本人が心理的に拒否できる能力を身につけること、等々。

 しかしこの著者にとっては、競争主義的・学校的な価値の枠組みを外れた選択をすることなど、最初からありえないらしい。

 つまり、こうした事例を取り上げることで、適者生存の競争社会で生きるに適さない人間は自分を廃棄処分にして然るべきだ、という彼自身のテーマを語りたいのだろう。
 要するに彼は、この社会とはきわめて単純な弱肉強食の構造にほかならないと言いたいのである。

 そうして彼は、「自殺とは…自然淘汰の一手段である」という、19世紀、つまり前々世紀(!)の自殺研究家の言葉をもっともらしく引いて、それは「間違いなく当たっている」と、もはや前提自体があやしい断定をする。

 二世紀も前の社会ダーウィニズムの言葉が彼にとって疑いのない真理というわけである。そんな科学的根拠のもはや疑わしい理論が、かつて自民族の人種的優越を正当化するナチスのお気に入りだったのは、記憶にとどめておいたほうがよいだろう。

 著者の中では、いじめという学校的な特殊な現象は、かつてダーウィンがイメージした素朴な自然の掟の露骨な縮図であるらしい。

 この本のいたるところに見て取れるように、著者自身がそういう弱肉強食・適者生存的な競争主義の価値観にひどく囚われている。
 そしてその記述に即して考えれば、彼はそういう価値尺度から“弱者”を設定し、明らかに自分自身を強者の側に置いて、その運命について発言しているのである。


 しかもこの著者にきわめて特徴的なのは、その価値軸がここでも”強い=明るく適応的/弱い=暗く不適応的”という単純図式であることだ。

 しかも暗く内向的、即劣等という価値付けの根拠が説明されることはない。それは著者にとっては説明するまでもない自明のことであるらしい。

 前に取り上げた『人格改造』が、暗くて内向的な自分が明るく外向的に生まれ変わる、という方向性への著者自身の強烈なこだわりに貫かれていたことを思い出そう。
 そこから、彼がなぜこの『完全自殺』で、ことさらにいじめにかかわるエピソードを取り上げているのかが見えてくる。

 つまり、本書のいじめ自殺に関するこだわりとは、彼自身が学校的価値観にいまだに囚われていることを雄弁に物語るものにほかならない。
 そして“明るい/暗い”というような二分法的な価値軸とは、以下に述べていくように、まさにそういう学校に詰め込まれている生徒らにとって、空気化・自明化しているものなのであった。

 そのような自らのうちにある弱肉強食の学校的価値観・教室的状況の図式において、著者はある立場を取ろうとしているのが、この本の軽々しい記述からあからさまに見て取ることができるのである。

 その立場とは、教室でのいじめる側のそれと同じものである。以下、そのことを掘り下げていきたい。


by type1974 | 2005-10-15 12:54

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