たとえば、そんな彼のペットテーマであるらしいいじめ自殺の記述が、冷笑的な、すなわち文字通り冷たい笑いをバックにしたものであることに注目しよう。
以下引用すると:
「さてこの事例は少年自殺の定番、“いじめモノ”である。」
「どこへいってもいじめられるヤツはいじめられる」
「いじめられるヤツはなにをしてもいじめられる。」
「まあ、クラブ活動に限らず世の中といったものは大体こういったものだ。」
「むしろ最初にマンションに登ったときに死んでいたほうがまだましだった。早めに自殺しておくこともまた大切なのだ。」
読み方にもよるのだろうが、少なくともいじめられる者(ちなみにこれは当時12歳の少年のエピソードに関する言葉だ)を「いじめられるヤツ」と突き放し、それをまったく共感抜きの表面的な言葉で弄んでいるといったニュアンスは伝わってくるだろう。
これらの記述は本書の文脈からいって、いろいろな意味で社会から脱落した人間の不幸な物語を紹介する、同じような一連のエピソードのひとつにすぎない。
全体の文脈からいえば、そんな著者自身の思いをあたかも除いて自殺の外面的な経過をなぞっているだけに見えるほかの大部分の描き方自体にも、そういう冷たい興味本位の動機が見えるのである。
それはあたかも“劣等”な存在の生き様・死に様を、なにか興味深い下等動物の生態を発見でもしたかのように見下ろし、その自滅に至る行動を共感抜きに観察しているかのようなのだ。
さらに、いじめ自殺をはじめ、精神障害、人間関係の破綻、借金、アルコール、ギャンブル、等々のあらゆる不幸と自殺のエピソードに一貫しているのは、冷たく軽薄で対象的であることに徹しながら、しかしどこか笑いをとろうと読み手の表情を窺っているような、そんな書き手自身の媚びた目線と姿勢である。
俗に「他人の不幸は蜜の味」という嫌な言葉がある。
いろんなメディアから常時、悲惨な事件や有名人の離婚騒動、等々の情報が延々と溢れんばかりに流され続けているのは、蜜の味を求める圧倒的な需要があるからにほかならないだろう。(しかしそういう心の動きが自分自身にもあることは否定したら、それこそ偽善になってしまうが)
考えてみれば本書のようなものが書店で多くの人の手に取られ、社会的にいわばウケてベストセラーになってしまうことにも、そんな背景があるのだろう。
そう考えると、この著者の記述ぶりはそういうニーズによく対応、というか迎合したものには違いない。
そしてここまでは、あたかも“そんなことは先刻承知だ”とでも言いたげな、著者自身の「もろもろの営業上の理由」という言葉でかたづけることもできるのかもしれない。
それで議論は終わり、というわけだ。
しかし、そんなふうに表層を滑空する言葉が彼特有の逃げであるのは、すでにこれまで見てきたとおりだ。
そしてそんな彼の一見軽い言葉の羅列の背後にある、隠されたメッセージを討つのがここでの目的であり、暗くて重い人間の側面を排除しようとする書き手の暗い動機の摘出こそがここでの関心なのである。
だから、さらに追撃しないわけにはいかない。
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自分を含めて……