それにしても、著者がそれらのコメントにおいて強調する、自殺が必然に思われてしまうような、自殺者の「どうにもならない不幸」とは、いったいどれほどの不幸だというのだろうか?
そもそもこの地球上には六〇億以上の人間が生活している。で、それらのエピソードがこの世界で何番目に不幸だというのだろうか?
この日本にいて、普通に生きていればとりあえず日々の食事に困ることはなく、ちょっと怪しくなってきたものの生活上の安全がほぼ確保され、必要であれば社会保障が受けられるような世の中に生きていることが、自殺に至らざるをえないほど最低最悪に不幸だというのだろうか?
とりわけ、適切な介入があればなんとかなり、そして大人になって振り返ってみればじつにつまらないことに見える、学校という特殊環境でのいじめが、飢えて死に、内戦で死に、虐待で死につつある世界の子供たちに較べて、いったいどれだけの不幸な境遇であるというのか?
たとえば、そんな著者の言葉の戯れにつきあう金銭的・時間的な余裕がある人間というのは、客観的に見ればこの世界では相当幸福な方の上位に位置しているにちがいない。
要するに、何か思うに任せぬ現実があるとしても、それをどうにもならない不幸であると捉えてしまうのは、受け取るものの心の側、主観の方の問題という側面がひじょうに大きいことが、決定的に見過ごされているのだ。
そんなふうに大きな視点でちょっと考えてみれば、彼の人間的な不幸に関する考察はひじょうに狭くて底が浅いと言わざるを得ない。
すこし注意をはたらかせて読むと、本書は“暗い→不幸→最悪→自殺”と、著者自身の思考回路の単純図式を極端に走っているにすぎないことがすぐにわかる。それはまぎれもなく、一つの型にはまった強固な信念・思い込みだ。彼の自殺に関するすべての饒舌な言葉で、その信念の枠組みから出てきていないものは一つとしてないように見える。
しかしこの著者にとってはそんな極端な単純論理にももっともな理由があるのであった。
なぜならこれまでみてきたとおり、いじめる側の優越者の立場にいたい彼は、学校的価値観の適者生存的な世界において弱者は徹底的に追い込まれて自殺に向かわざるを得ないと、そういうふうに読み取りたいのだから。
さきにも述べたように、このような本を執筆することで相当の稼ぎを得、ライターとしての社会性と計算を活かして、歪んだかたちであれ社会的な発言力と知名度を得ているらしい著者に、有り体に言えばそんなふうに自殺者を文字通り食い物にしている彼に、人間の不幸を云々する資格がそもそもどの程度あったのだろうか?
奥付からみる限り、おそらく間違いなく両親その他の恵まれた関係性おかげで一流大学を卒業することができたのであろう、本書執筆にあたってまだ20代だった著者は、“不幸のどん底”とはどんなものかを論ずる、どんな見識があっただろうか?
そんな彼の論理の背後にはたらいている心情のレベルは、見てきたとおりの惨状なのであった。
結局、彼はその恵まれた高みから、底辺にいる自殺者の「不幸」を見下ろして、なにか笑える格好のネタを発見したかのように描写してみせているにすぎない。
そしてどこまでもそんなレベルにとどまりながら、自分とは違うそんなどこか劣った人間の生き様/死に様を、恥ずかしくてみっともない姿として描き出すことで、彼ら自殺者を淘汰されるべき劣った存在としてさらに追い込んでいる。
それは端的にいえば、死者をさらにいじめている、ということだ。
「いじめられるヤツは何をしてもいじめられる」という体温ゼロの冷たい言葉は、ようするにいじめる側に立つ彼が、そういうことにしておきたいというホンネを思わず顕わにした、極めつけの表現なのだろう。
この著者は、あたかも自分が心の弱い人に寄り添って、楽に死ねる=楽に生きられる手段を提供しているかのような偽善を装っているが、このように少し注意して見てみれば事実はその正反対であることがすぐにわかる。
言葉の正確な意味で低次かつ病的な動機から、自殺した人びとの死にざまを観察対象として冷たく突き放して見下ろし、さらに心の弱い者には死が当然と決めつけて、実際に広く社会に自殺を教唆しているのが、ようするに本書のやっていることにほかならない。
そのようなことを軽いノリで書き、社会に背を向けたように恰好をつけながら、じつは世間の裏のホンネの興味本位に迎合しているにすぎないこの著者は――本書を執筆したという愚行の限りにおいて――疑いなくこの社会で「生き苦しさ」をかかえている、すべての人の敵と言わざるを得ないだろう。
(気を付けるべきは、彼と同じような“敵を作る”タイプの思考に陥ること。いわば同じ土俵に乗っかって敵をやっつければそれでよし、となってしまうことだ。それではここまで書いてきた試みもまた、この『マニュアル』と同レベルのきわめて不毛なものになってしまう。語ることをなにがしか意味のあるものにするためには、そんな自他分離にもとづいた個人レベルの欲求にとどまっていてはならないだろう。)
さて、実際に「生き苦しさ」をかかえた多くの人々が、本書を読んでその破滅的なメッセージを真に受け自殺を図るという、痛ましい社会現象が現に起きているという。
加えて、昨今多数の自殺者を生み社会問題化している自殺系サイトも、その多くが低レベル・病的な心情的動機にもとづく思考の産物として、本書の引き写しや模倣の類であるのはおそらく間違いない。
結局のところ本書を起点として、同じような心性がどこまでも広く伝染してしまっているのが、この社会の現実なのであろう。
こうして著者の内にあったひそやかないじめの構造は、出版さらにはネットという巨大メディアの言語空間の中で際限なく繁殖し、歪に拡大再生産されつつ、著者自身予想だにしなかったであろう大規模な形で、この社会に実現してしまっているのだ。
この本を離れて考えれば、じつは彼もまたこの社会の強迫的な競争への要求にほんとうにはのっていけないような、暗くて重いものをかかえた、彼自身の言う「心の弱い」人間の一人にすぎないのだろう。
しかし自分がなした行為の責任をあがなう必要が、人間には、やはりあると思う。
これは単なる比喩だが、殺人犯は一人の弱い人間としてどれほど情状酌量の余地があったとしても、やはりその身をもってその罪相応の償いをせねばならない。
また、社会の中で、関係性によって生かされている者として、人は自らのなした行為の反映を不可避に受けて生きていかざるをえない。そして人間の心とは、自らの経験・行為の履歴と影響力が深く蓄積した、いわばその総体なのだと思う。
だから、こういう本をじつに軽々しく書いたというその行為は、書き手にとってつねに人生の内と外における“重さ”として意識されざるをえないであろう。
そして書いた破滅的なメッセージを、自らの人生に、自らの心の履歴に、深い傷として刻印するという意味を持ち続けることだろう。
彼がそのようないわば思考の病を自覚し脱却することを望まない限りは、それは文字通り“死に至る病”として行く道に影を落とし続けるに違いない。
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そもそもこの地球上には六〇億以上の人間が生活している。で、それらのエピソードがこの世界で何番目に不幸だというのだろうか?
この日本にいて、普通に生きていればとりあえず日々の食事に困ることはなく、ちょっと怪しくなってきたものの生活上の安全がほぼ確保され、必要であれば社会保障が受けられるような世の中に生きていることが、自殺に至らざるをえないほど最低最悪に不幸だというのだろうか?
とりわけ、適切な介入があればなんとかなり、そして大人になって振り返ってみればじつにつまらないことに見える、学校という特殊環境でのいじめが、飢えて死に、内戦で死に、虐待で死につつある世界の子供たちに較べて、いったいどれだけの不幸な境遇であるというのか?
たとえば、そんな著者の言葉の戯れにつきあう金銭的・時間的な余裕がある人間というのは、客観的に見ればこの世界では相当幸福な方の上位に位置しているにちがいない。
要するに、何か思うに任せぬ現実があるとしても、それをどうにもならない不幸であると捉えてしまうのは、受け取るものの心の側、主観の方の問題という側面がひじょうに大きいことが、決定的に見過ごされているのだ。
そんなふうに大きな視点でちょっと考えてみれば、彼の人間的な不幸に関する考察はひじょうに狭くて底が浅いと言わざるを得ない。
すこし注意をはたらかせて読むと、本書は“暗い→不幸→最悪→自殺”と、著者自身の思考回路の単純図式を極端に走っているにすぎないことがすぐにわかる。それはまぎれもなく、一つの型にはまった強固な信念・思い込みだ。彼の自殺に関するすべての饒舌な言葉で、その信念の枠組みから出てきていないものは一つとしてないように見える。
しかしこの著者にとってはそんな極端な単純論理にももっともな理由があるのであった。
なぜならこれまでみてきたとおり、いじめる側の優越者の立場にいたい彼は、学校的価値観の適者生存的な世界において弱者は徹底的に追い込まれて自殺に向かわざるを得ないと、そういうふうに読み取りたいのだから。
さきにも述べたように、このような本を執筆することで相当の稼ぎを得、ライターとしての社会性と計算を活かして、歪んだかたちであれ社会的な発言力と知名度を得ているらしい著者に、有り体に言えばそんなふうに自殺者を文字通り食い物にしている彼に、人間の不幸を云々する資格がそもそもどの程度あったのだろうか?
奥付からみる限り、おそらく間違いなく両親その他の恵まれた関係性おかげで一流大学を卒業することができたのであろう、本書執筆にあたってまだ20代だった著者は、“不幸のどん底”とはどんなものかを論ずる、どんな見識があっただろうか?
そんな彼の論理の背後にはたらいている心情のレベルは、見てきたとおりの惨状なのであった。
結局、彼はその恵まれた高みから、底辺にいる自殺者の「不幸」を見下ろして、なにか笑える格好のネタを発見したかのように描写してみせているにすぎない。
そしてどこまでもそんなレベルにとどまりながら、自分とは違うそんなどこか劣った人間の生き様/死に様を、恥ずかしくてみっともない姿として描き出すことで、彼ら自殺者を淘汰されるべき劣った存在としてさらに追い込んでいる。
それは端的にいえば、死者をさらにいじめている、ということだ。
「いじめられるヤツは何をしてもいじめられる」という体温ゼロの冷たい言葉は、ようするにいじめる側に立つ彼が、そういうことにしておきたいというホンネを思わず顕わにした、極めつけの表現なのだろう。
この著者は、あたかも自分が心の弱い人に寄り添って、楽に死ねる=楽に生きられる手段を提供しているかのような偽善を装っているが、このように少し注意して見てみれば事実はその正反対であることがすぐにわかる。
言葉の正確な意味で低次かつ病的な動機から、自殺した人びとの死にざまを観察対象として冷たく突き放して見下ろし、さらに心の弱い者には死が当然と決めつけて、実際に広く社会に自殺を教唆しているのが、ようするに本書のやっていることにほかならない。
そのようなことを軽いノリで書き、社会に背を向けたように恰好をつけながら、じつは世間の裏のホンネの興味本位に迎合しているにすぎないこの著者は――本書を執筆したという愚行の限りにおいて――疑いなくこの社会で「生き苦しさ」をかかえている、すべての人の敵と言わざるを得ないだろう。
(気を付けるべきは、彼と同じような“敵を作る”タイプの思考に陥ること。いわば同じ土俵に乗っかって敵をやっつければそれでよし、となってしまうことだ。それではここまで書いてきた試みもまた、この『マニュアル』と同レベルのきわめて不毛なものになってしまう。語ることをなにがしか意味のあるものにするためには、そんな自他分離にもとづいた個人レベルの欲求にとどまっていてはならないだろう。)
さて、実際に「生き苦しさ」をかかえた多くの人々が、本書を読んでその破滅的なメッセージを真に受け自殺を図るという、痛ましい社会現象が現に起きているという。
加えて、昨今多数の自殺者を生み社会問題化している自殺系サイトも、その多くが低レベル・病的な心情的動機にもとづく思考の産物として、本書の引き写しや模倣の類であるのはおそらく間違いない。
結局のところ本書を起点として、同じような心性がどこまでも広く伝染してしまっているのが、この社会の現実なのであろう。
こうして著者の内にあったひそやかないじめの構造は、出版さらにはネットという巨大メディアの言語空間の中で際限なく繁殖し、歪に拡大再生産されつつ、著者自身予想だにしなかったであろう大規模な形で、この社会に実現してしまっているのだ。
この本を離れて考えれば、じつは彼もまたこの社会の強迫的な競争への要求にほんとうにはのっていけないような、暗くて重いものをかかえた、彼自身の言う「心の弱い」人間の一人にすぎないのだろう。
しかし自分がなした行為の責任をあがなう必要が、人間には、やはりあると思う。
これは単なる比喩だが、殺人犯は一人の弱い人間としてどれほど情状酌量の余地があったとしても、やはりその身をもってその罪相応の償いをせねばならない。
また、社会の中で、関係性によって生かされている者として、人は自らのなした行為の反映を不可避に受けて生きていかざるをえない。そして人間の心とは、自らの経験・行為の履歴と影響力が深く蓄積した、いわばその総体なのだと思う。
だから、こういう本をじつに軽々しく書いたというその行為は、書き手にとってつねに人生の内と外における“重さ”として意識されざるをえないであろう。
そして書いた破滅的なメッセージを、自らの人生に、自らの心の履歴に、深い傷として刻印するという意味を持ち続けることだろう。
彼がそのようないわば思考の病を自覚し脱却することを望まない限りは、それは文字通り“死に至る病”として行く道に影を落とし続けるに違いない。
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鶴見氏のホームページなんかは最近、まったく見ていないので、活動しているかも不明ですが、本が出版されてもおそらく買わないだろうなぁ。いや、中古本で安くなってたら買うかも
これからはセルフトークなど、type1974さんのしたいことに集中してくださいね☆
こんばんは。お読みいただいてどうもありがとうございました。適宜コメントをいただき、とても励みになりました。
当初はもうちょっと書くつもりだったのですが、ちょっと何のために書いているのか見えなくなりつつあったのと、対象があまりに浅薄で手応えがなく退屈してきたため、ここまででまとめてみました。とりあえず鶴見氏がどういう視点からああいう言葉を発していたのかは明らかにできたと、これは自己評価で。
やっぱりケンカをするからには(問題は著者が相手にしないことだけど)もうちょっと歯ごたえのある相手がいいな、と思いました。
時間があれば、つぎは宮台真司氏とかに取り組みたいです。撃沈するからにはやっぱり駆逐艦レベルじゃなくて、戦艦とか正規空母がいいですからね。
これはお世辞でもなんでもなく、卓越した文章力と表現力に脱帽です。すごいです!
本書は、私が学生時代に流行してましたね。
内容は、友達が持っていたのを、パラパラとめくっただけで、詳しいところは記憶してませんが…。でも当時はこの本に対して、なんら問題意識を持っていなかったように思います。それだけ、私もニヒリズムにおかされていたんでしょう。
宮台真司氏批判、是非!
宮台氏のほうは、学生時代、少年誌に連載しており、とりあえず妙に納得はするんだけど、読後、殺伐とした空虚な気持ちになったのを覚えています。
彼は優れた社会学者には違いないけど、バラバラの事象を統合したところで、結局真の世界像を提示することはできなかった(当たり前ですけど)。
分析するだけならまだしも、多くの若者を、ニヒリズムという、どこまでいっても虚しい世界へ陥れた。この罪は大きい。彼の考えを推し進めたら、やはり究極「自殺」するしかない…。
こうした、ニヒリストは手当ての必要なクライアントです。
「宮台真司をぶっとばせ」という本が出ており、私も読中ですが、type1974さんの視点で、ぶっとばしてくれたら爽快です!
ですが、お仕事も大変な様子、自分のペースで無理しないでくださいね。
余計な老婆心ですが・・・。
りょうさんとはちょうど同世代のようですね。僕もちょうど学生の時分に、宮台さんが知的に一世風靡している、という感じでした。いまもけっこう名前が出ているようですね。
読後感、まさにそんな感じでした。言っていることは反論できないような気がする、しかしその寒々しさは…
私は幸い不勉強だったので徹底しないで済みましたが、あれを真に受けた人は、書いておられるように究極のところ自殺まで至ってしまいかねないと思いました。
世界像の呈示、まさにそこがポイントだと思います。いろんな世界像を、それは根拠のない幻想にすぎないと切って捨ててみせるのが彼の基本的なスタンスだと思います(これは詳しく読んでいないので、たぶん)。
これは、現代科学のコスモロジーの切れ味を試すいい素材なのではないかと、お読みしていて思えてきました。
それはそうと、この『完全自殺マニュアル』批判は前のブログから続けてきたものです。よろしければそちらもご覧いただけるととても嬉しいです。
http://type1974.exblog.jp/
私達に要求されてきた枠組みは、改めて見つめ直してみるととてもナンセンスですね。いつも明るく、元気で、社交的な人を目指せという風潮は疲れた現代人と息苦しい社会を副産物として作り上げてきた側面もあると思います。枠組みには大切な役割があるけれど、
窮屈になりすぎた枠は大きなものに変えていきたいですね。いろんな人がいた方が絶対、世の中の楽しみが広くなるし深くなる気もします。自分一人をとってみても、いろんな苦手があるし、ものすごく落ち込んで立ち直れないかもというときもありますもん。
窮屈な枠組みはご一緒に壊してまいりましょう。(広げて?)
論理療法も頑張っておられますね。私から見たらMさんの「急がなければならない、大変なことになる」的なところはユニークな個性をかもし出していて見ていて飽きないのですが当事者としては大変なのですね。でも、危機的状況に対応できるインプットがされているようで頼もしくも感じます。きっと、Mさんが書いておられたようにグラデーション的な柔軟性が課題なのでしょうね。林檎の皮を
剥くのに出刃包丁は適切ではないということですな。
最後に少しだけいじわる!
寒くなってきました。風邪をひかないように
春菊を食べましょう!!!!!
どうもちょっとおひさしぶりでございます。風邪が超流行っていますが、ご家族ともお元気でしょうか?
コメントありがとうございます。あのくどくどと書いてきたものをお読みいただけたようで嬉しいです。
『完全自殺マニュアル』については、かつて自分が暗にこの世の真実みたいなものだろうと思っていたことをじつにあけすけに書いてくれているため、ある種“共感”した上での批判が可能で、じつにたやすく感じました。でもネットで見ると、いまでもあんなのを真に受けている人が多いようですね。
社会の枠組みは大切とのこと、まったくそのとおりだと思います。私も明るい人になりたいし、その方がこの社会では楽しく生きられますからね。しかし問題は、一つはそれがこの社会でのいわば強迫観念めいたものになっていることだと思います。メディアが煽るそうした風潮には、ちょっとついて行かれないものを感じます。これでは、内向的な傾向を持った子はなかなか楽しく生きていくのは難しいでしょう。
そしてもう一つは、健康的に明るく元気に社交的になる方法が、教育や社会化の過程でほぼまったく教えられておらず、またそうした社会資源にアクセスする方法がほとんど見えないことあるのではないかと思います。そのために、あたかもそうなることのできない「イケてなさ」が、脳機能だとか生来の性格とか遺伝上の問題であるかのように捉えられてしまっていることです。それがまさに『完全自殺マニュアル』の言っていることだったと思います。
論理療法については、まったく書いているとおりのレベルでして…。窮屈すぎる枠組みを、とのこと、ぜひそうしたいと思います。硬直化した思考の枠のコンクリートをたたき壊すハンマーが、論理療法の反論・論駁なのだと思って、がんばりたいと思います。
あと、とっさに春菊というのがどういうものなのか思い出せません。ええと、ネギのようなものでしたっけ?それともキノコだったかな?
つっこんでしまった。
再び、えっとですね、春菊とはほとんど何でも食べれるMさんにおいても やや苦手科目
の三つ葉やせり、セロリ方面に分類される、
いかにも「血液がきれいになりますぜ。」と
いうお味のすきやきや鍋物にとてもマッチしている濃い緑色のあの野菜ですよ。思い出しましたか。旬ですよ。「リメンバー ミー」
と春菊さんが言ってますぞ。
引き続きコメント、おありがとうございます~
今日一日、春菊ってなんだっけとアタマを巡っていたのですが、すきやきと聞いて思い出したような気がします。アレですよね、すき焼きによく入っているタンポポの葉っぱみたいな、アレ。懐かしの家庭料理、マザー、がんばっておられますね。
もはやどうでもいいような気もしますが、やっぱり“三つ葉”“セロリ”“セリ”も、なんか葉っぱ系の野菜、くらいのもやーっとしたイメージしか湧きません…。
春菊の形はタンポポの葉っぱに似ている、うん、似ているかもしれない。Mさんのそういうところは、なかなか目が離せない。ちなみに三つ葉は、お吸い物や茶碗蒸しに入っている和製クローバーみたいなので、セリは秋田名物キリタンポ鍋に欠かしたくない一品。キリタンポ、おいしいですよ。機会があったらどうぞ。セロリは・・・宿題ね。実は私も少し苦手でレパートリーが少ないのだ。
料理がんばっておられますねとほめられて嬉しい私は
来年の春は、タンポポ料理に挑戦しようかなという意欲が出てまいりました。緊急時に役立つかも!
ありがとう
きりたんぽ、おいしそうですね。たんぽぽ料理なんていうものがあるのですか?!確かに緊急時には役に立つ。秋田に行ったときにはきりたんぽをぜひ食べたいと思います。それはそうと食品に関する常識に疎いことが暴露してしまいました。そういうわけで今日も定食屋で600円の定食です。家庭料理が懐かしい。この文章も音声入力ソフトで入力しています。いや、本当にすばらしいですよ。