〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

『完全自殺マニュアル』完全批判15

2005-11-21 | 『完全自殺マニュアル』批判
こんな本が生まれてしまう時代とは何なのか


さきに述べたとおり、いじめとは心理的に未成熟な人間の集団で、同調-排除の圧力を原因として起こるものだ。それは競争主義的な文化における人格養成の場である、学校という特殊な閉鎖的環境を温床にした、社会現象であると思う。

競争主義とは何もビジネスの世界に限られたものではない。それはこの社会にどこまでも広く深く根付いてしまっている自明化された常識的価値基準だ。
ぼくらが通過し人格形成を遂げてきた学校もまた、競争へという方向づけの中で、つねに何らかの形で相対的な上下ということを意識させられざるを得ない環境であった。

もちろん教育にそうでない善意もはたらいているに違いない。
しかしぼくらがつねに他者との比較・相対評価の中でしか自己確立できず(ということは結局自己確立などできない)、比較を外して自他を絶対評価するという可能性を考えることもできなかったのは、あきらかにぼくらの受けてきた教育が、人格形成という本質的な機能を決定的に見失ったものであったことを表していると思う。

そんな受験知識をたたき込むだけで子供の心に触れることを忘れた“教育”なら、本だけ・ネットだけ・ロボットにだって可能だろうと思われたものだ。
そしてそんなことで“先生”といわれる人たちがたくさんいたように思う。サラリーマンとしてはそれこそ「ソツなくいい仕事をしている」ということになるのだろうが。
もちろんそうでない問題意識を持った先生方もたくさんいたが、なんだか弱々しかったのが印象的だった。

さて、成績というのは学校的競争においてたしかに重要なファクターであったが、一方で非公式な人間関係においては別のもうひとつの価値尺度がはたらいていて、多くの場合そちらのほうがより切実だったと思う。

そのもうひとつの尺度というのは、見てきたような騒々しくて空しい「明るさ」だ。
一瞬たりとも場をシラけさせず、人間関係をとりつくろうとための、息苦しい「明るさ」。教室ではあたかも、誰もがテレビのいわゆる“お笑い芸人”になったかのようである。

そういえば子供たちのいつだかのアンケートで「理想的な人物」の第一位が誰だかそんな芸人であったと記憶している。次代を担う子供たちの人格モデルとは、歴史上の偉人でもなく、社会をよりよくすることに献身してきた人物でもなく、厳しい自己錬磨を積み重ねたスポーツ選手ですらなく、かぎりなく軽々しく騒々しい芸能人、というのが現状なのだろう。

学校の教室における雰囲気的なヒエラルキーとは、そんな「成績」と「明るさ」による上下関係が微妙に混淆したものであったと思う。
これはほかにもいろんな要素があることを否定するものではなく、話をわかりやすくするため思いっきり単純化しているにすぎない。

人間は本質的に他者から存在を認められことを必要とする存在であるのは、おそらくまちがいないことだろう。
もちろん他者の承認がなくても死にはしないだろうが、死ぬほどキツいことは容易の想像できる。
もちろん“集団に適応する”という発達課題に直面している心理的に未熟な中高生であれば、それはより切実さを帯びたものに違いない。

そして彼らは学校において、すべてはモノだけで意味も価値も存在しないというメッセージが公式のカリキュラムを通じて繰り返し繰り返し心にたたき込まれ、一方非公式に(ということは世の中のホンネとして)競争にもとづくカネの獲得とそれが可能にする快楽やら力の追求だけがリアルであると刷り込まれる。


むろんことは学校に限らず、別の方向を見ればあらゆるメディア、たとえばネットで、広告で、漫画で、ゲームで、現に流されている情報はだいたいがそんな程度のものであると見受けられる。

というか、そういう世の常識に敏感に反応して情報の質は劣化し、さらに劣悪な情報が文化レベルの低下を招いている、という悪循環が起きているのだろう。
そしてそれらはとりもなおさず子供たちの心に取り込まれて人生を規定する内面の物語となるものだ。

たとえば漫画について、ぼくらの世代が小中学生時代にヒットした鳥山明の『ドラゴン・ボール』に、そういう変化が象徴的に表れていたと思う。
おそらく部数拡張を露骨に狙う編集サイドの方針転換が大きく絡んでいたと思うが、初期の少年たちの夢いっぱいの友情と正義のストーリーが、いつのころからか物語もクソもない、ひたすらどぎつくインフレしていく格闘的強者との、単なるマッチョなパワーゲームに成り下がってしまったのであった。

漫画は描き手(多くのアシスタントも含め)の心理状態がダイレクトに描画に表現されるという意味でおもしろいメディアだと思うが、そんな『ドラゴン・ボール』の背景描画が、いつしか岩石だけの荒涼とした世界になり、キャラクターの線も丸みを帯びていた初期からひどくトゲを帯びたものとなってしまったのは、そういう事情なのだろう。

こんなものが描きたいという描き手の思いが商業主義にのみ込まれてしまうと、結局そんなところに落ちてしまうのだろう。そしていま見受けられる大多数はもっと荒涼とした漫画ばかりだ。

蛇足を重ねるが、こういうことが常識化した世の中で子育てをするのは、たぶんなかなかの難事業なのだろうと思われる。
親が見せたくなくても、子供はあらゆる場面でそういう情報をどんどん取り入れてしまうだろうからだ。


さて、学校的価値観の話に戻すと、言葉を悪くして言えば、これはようするに純粋培養のニヒリストを大量生産する、国民的規模の教育(=洗脳)プログラムにほかならないだろう。どう言いつくろっても、結局それが教育の現状なのではないだろうか。

こういう見方を否定する向きももちろんあるだろうし、それはそれでもっともな意見なのだと思うが、しかし現実に教育がどのような子供を育てつつあるかという結果を見るのが、プロセスを評価するいちばんの指標だと思われるのだ。

そして電車で、道で、コンビニで見かける彼ら中高生が、ぼくらの世代がそうであったよりもはるかに荒んでしまっているように見えるのは、たぶん大方の意見が一致するところであって、否定しがたいように思われる。昨今の理解に苦しむような中高生の犯罪はその先鋭的な現れにちがいない。


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2 コメント

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毒を以って毒を制す (asassata)
2005-11-22 22:37:01
 実は『完全自殺マニュアル』も『人格改造マニュアル』もまったく食指が動かず、手に取ったことすらありません。宮台真司氏の論もろくな物ではなかろうと、ひとつとして最初から最後まで目を通したことが無いので、私にはこれらを批判する資格は無いのかもしれません。しかし、以前のブログから皆さんの書かれていた内容を拝読する限り、聞きしに勝る(劣る?)中身のようですね。



 『完全自殺』を市立図書館で借りてみようと検索してみると閲覧禁止とのこと。賢明な処置だ!実家の方の図書館を調べてみると三冊とも貸出中になっている!しかも一冊は書庫にあるもの!! 町田ってところが洒落にもなりません。



 ところで、たとえば宮台氏がなぜ「意味も糞もない」という著しく品位に欠けた言葉で普遍的な価値や意味を否定しようとしているかというと、彼の論(と呼ぶのも馬鹿馬鹿しいですが……)がこれらを否定することによってのみ「意味」を持ち得るからなのでしょう。もし、普遍的価値・意味があるとすれば彼の「論」こそ「意味も」無く「糞」でしか(もしかすると「ですら」)ないことが解っているからこそ、それらを怖れているのだと思います。



 「糞」はそのままだと腐敗熱や有毒ガスを発生して作物の根を傷めてしまいますが、十分に腐熟してあげることによって良い肥料となり、田畑に豊かな実りをもたらします。『完全自殺』のような「毒」も無毒化・弱毒化することによりニヒリズムという病の有効なワクチンにすることも可能だと思います。このような腐熟、無毒化・弱毒化する手段として「『完全自殺マニュアル』完全批判」や「つながり-かさなりコスモロジー」がとても有効だろうと期待しています。どれほど鶴見済氏や宮台氏の論が見掛け倒しで幼稚であるのかを暴き出すのですから。



 鶴見・宮台両氏とも賛同されれば勿論のこと、批判を受けたとしても蛙の面に何とやらで、却って批判者を愚か者扱いして増長するだけでしょう。しかし、彼らの論が俎上に載せらて、嘲笑されれば彼らにとってこの上ない屈辱になるでしょう。水戸黄門の悪代官よろしく、はじめのうちは好き放題やっていても最後には黄門様御一行にボコボコにされるのですから。



 鶴見氏と宮台氏が自分の著作を嗤われて恥ずかしいから絶版にして、出来れば全て回収したい、と思わせることが出来れば、そのとき本当にこれらの「有害図書」が「葬り去られ」たことになるでしょう。「『完全自殺マニュアル』完全批判」を読み、「つながり-かさなりコスモロジー」を学んだ後に鶴見氏や宮台氏の論を読むと、人生の意味を知り、生きることがどんなにつらく思えようと自ら命を絶とうとしたりしなくなれば素晴らしいですね。たとえ一人でも彼らの「思想」を真に受けて自殺した人がいるならばそれくらい役に立ってもらいたいものです。
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Unknown (type1974)
2005-11-23 21:56:54
asassata様どうもこんばんは。詳細なるコメントをいただきありがとうございます。



有害図書とのこと、まったくそのとおりだと思います。これを公共図書館で貸し出しているというのもスゴイ。



意味一般を否定することのなかに意味を見出すというそれ自体矛盾した姿勢が、たしかにこれらの本に感じられます。そしてそうすることの動機とは結局著者自身の「俺はこんなに知っている」というナルシシズム的なものにすぎないようです。ようするにそれは、すべてを否定することで自己確立しようというきわめて危うい曲芸に見えます。彼らはすべてを脱構築したさきに何を見ようとしているのか?こんな精神的な焦土状態でこれ以上何を解体しようというのか?結局答えなどはなから用意していないのではないでしょうか。



そうした嘘くさい姿勢は、こうして距離をおいてみれば明白なのですが、しかしこういう言説をまさに日常感覚として生きている多くの人にとっては、それはひじょうにリアルである種の「真理」だと感じられるものだと思います。「真理など存在しない」という唯一絶対の真理。これにどっぷりはまりこんでいるのがいまの文化状況なのではないでしょうか。



そういう意味で、とくに宮台氏がその文化的雰囲気を先鋭的に語ってみせた言葉は、その枠内で見ればとても説得力があるものだと思います。で、それらの言葉は社会学だとかの該博な裏付けがあったりするので、とりくむのは意外にやっかいなのではないかと思います。しかも彼らの方がじつは暗黙的な常識に根ざしているので、その意味ではとても強い。ちょっと歳をとって一時代前という感じになっていると思いますが、しかし「時代の子」というやつなのでしょうね。



宮台氏に関しては、どこかで「自分がきわめて論理的である理由は、じつはまったく論理的でないところから来ている」というようなことを自覚的に述べておられたと思います。つまり明晰な論理を行使するその背後にある動機は心情的なものであるのをよく自覚されているのだと思います。言論界に詳しくないものとしては、人に迷惑をかけない範囲で「好きにやってくれ」というほかありません。問題はその言説を真に受けたものに場合によっては破滅的な影響を与えかねないことですが。



鶴見済氏については、そういう言論をもっと通俗化して、いわばレベルを落として語ってくれているため、じつに批判しやすい。ある意味楽勝です。しかし現にたくさんの自殺者を生み出しているという実績があるのであり、「好きにやってくれ」(著作中でよく出る言葉)というわけにはいきません。しかしこれほど叩きやすい本もほかにない。



こんな恥ずかしい本(著者はクールに語ってみせているらしいのでなおさら)を真に受けて死ぬ人が、ぜひいなくなって欲しいと思いが半分、それから単にこの本をダシに自分の言いたいことを書いているというのが半分、というのがこのシリーズをやっている私の動機です。



それから、おそらく鶴見氏のような人は、どのような言葉にあっても恥も屈辱も感じられないと思います。逆にそういう言葉のすべてをシニカルに受け流すにすぎないのではないでしょうか。彼らにとって言説は、ナルシシスティックな動機にもとづく、単なる言葉の遊戯にすぎないのであり、しかも自覚的にそれをやっているのですから。



あと、当面はそのような方向性の言説が主流を占め続けると思います。今後もおそらく似たような人間とその本が出続けるのではないでしょうか。彼が自らの著作を恥ずかしいと感じ、それらが葬り去られるためには、そんなものをもてはやすような、現状の文化と倫理の水準の変革を見なければならないと思います。
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