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完全自殺マニュアル批判 12

2005-10-19 | 『完全自殺マニュアル』批判
『完全自殺マニュアル』完全批判12


いじめの構造


『完全自殺マニュアル』が暗に発している、“いじめる側からのメッセージ”を暴き出すにあたり、少し長くなるが、ここで“いじめる側”の心理を考えてみたい。

柔軟な自信とそれに裏付けられた謙虚さをもって自然に振舞うことができる人間がいじめに走ることは、たぶんけっしてない。
そういう立場に立った方や、いじめの状況に居合わせた方はよくご存知と思うが、いじめる側の人間も、じつは根深い劣等感を抱えているという事実は、おそらく普遍的だと思う。

ここでいう劣等感とは、本書の著者が強調しているような、暗さとか人間関係の下手さとか能率が悪い、などということと単純イコールなのではない。

そういうふうに何をもって劣等-優越と見るかにかかわらず、社会(外部)の側が要請する価値のモノサシを自分にあてはめて、それを基準に自分が他人より劣った存在だと計る心性こそが、劣等感にほかならない。
成績、地位、知識、容姿、性格特性、運動技能…と挙げていけばきりがない中で、たとえば“明るい/暗い”というのは特殊な一つの価値軸にすぎないことがわかる。

そのように置かれた状況によっていろいろなモノサシがありうるわけだが、しかしこの“外から押し付けられたモノサシを受け容れて自他の優劣を計る”という構造は、実にあらゆる劣等感、そしてその裏返しの優越感に共通していると思う。

そういう社会があてがうモノサシを無自覚に受け容れ続け自分に当てはめていく限り、ありのままの自分を素直に認めて揺らぐことのない自己信頼=自信を獲得することなどできないのは、ちょっと考えてみれば当然だ。

なぜならそういうモノサシを自分に当てはめる限り、どこまでいっても誰かとの比較を意識させられ、比較すれば常に誰かよりも劣っている自分を意識せざるをえないのだから。

仮にちょっとばかり優越してもそれは必ず相対的なものにすぎず、またすぐに他人に追いつかれるもので、決してどこまでも安心できはしない。
そのように優越感には常に劣等感が表裏一体のものとしてとりついている。
それが無条件に自分を信頼するという意味での自然な自信ではないのは明らかだと思う。

社会からのモノサシを自分に当てはめて不安定に優越感と劣等感の間を行ったり来たりするような、誰も幸せにならないこんな心のあり方を、いったいぼくらの世代はどこで身につけてしまったのだろうか?

それは、記憶力、性格特性、運動能力、社交性、人間関係、個性・自発性(そんなものまで比較優劣の対象だったのだ)、等々という人間のじつにさまざまな側面を、集団の中で比較し優劣を付け成績評価を下す、競争社会の準備機関である学校という特殊な環境の圧力によって、ぼくらの世代のたぶんほとんどが、いわば骨の髄まで条件付けられてきたものなのだと思う。

だからぼくらの多くには、“ありのままの自分を認める”なんていう言葉は、安っぽいセールストーク以上には聞こえない。それは他人と比較して目だった長所も美点もない、醜くてつまらないところばかりが目につく自分を、みじめなままありのままに受け容れろということになってしまうからだ。
比較をしてしまうと、ありのままの自分とはつねに誰かに劣っており、したがって大した価値なんてないように見えてきてしまうのである。

じつは単に方法を知らなかっただけで、そういう外からあてがわれた価値のモノサシを外して自分を絶対評価してやり、揺るぎない自信を確立することは、意外に簡単なことのようだ(前掲書『生きる自信の心理学』岡野守也著、参照)。
しかしそういうことは、ぼくらが教育を受ける過程で耳にしたことは多分まったくなかった。

ぼくらは社会や学校の要請するいくつかのモノサシに沿うことこそが正しいと教え込まれてきたために、つねにアイツより上か下かと考えるように、あまりにも条件付けられしまっている。
そのなかで上に下に、右に左に、自分の価値は浮動し安定していることができない。

ぼくらが自然で健康な自信=自己信頼をなかなか身につけることができないでいるのは、たぶんそういうわけなのだと思う。


では、いじめが起こるような学校の教室での価値のモノサシとは、一体何だっただろうか?

ぼくらの通過してきた学校は、“明るく・仲良く・元気よく”というふうな空疎なスローガンを表のプログラムとして建前上運営されていながら、実際には競争社会に適応できる人間を大量生産し、それに乗れない人間を矯正することを公然の裏プログラムとした、産業主義の準備・養成機関であった。

これはそこに携わる人の善意や教育への熱意を皮肉るものではなく、単に全体の文化状況がそうなっていて、その一単位である学校もそのなかにはめ込まれたものであると言っているにすぎない。

そして学校の建前のモットー“明るく・仲良く・元気よく”とは、そんな社会における適応的な人格の特性にほかならない。
そういう無内容ではあるけれども自然の健やかさへの理想が込められた“期待される人間像”は、しかし競争へ競争へと方向付ける学校的価値観のギスギスした圧力によって、グロテスクに変形される。

そんなふうに目的も方向性なくただ成績によって上下関係をつねに意識させられる一方、適切な人間関係の持ち方だとか、仲間集団をどのように健康なかたちで形成するかというような、社会を担う者にとって本質的に必要なスキルは、すくなくともカリキュラムとして教えられることはなかった。

適切な文化的枠組みを与えられていないそういう未成熟な集団にあって、価値あるように見えるものとは、商業主義一辺倒でカネ勘定以外社会的責任などということはたぶん何も考えていない巨大メディアが発する情報の刺激であり、それらが形作る“社会とはようするにこんなもんだ”という総体としてのメッセージである。

たとえば高視聴率を獲得しているという民放テレビのひたすら“お笑い”を追求するいわゆるバラエティ番組に、そういう子供たちが受け取るメッセージが典型的に見て取れるであろう。
それらはあたかも、どんなに作られた白々しいものであっても、痙攣したような強迫的な“明るい”笑い声がないと、一秒たりとも場を保つことができないといったふうではないだろうか。

そんなレベルのものが、人格形成過程の子供が受け取る人間関係のモデルとなるのである。
情報はただ受け取られるだけでなく、受け手の心そのものとなり、行動を規定していくということが、そういうメディアの担い手は見えていない、というか見えていないふりをしているのではないか。

であるとすれば、さきの学校の建前のうち、“明るく”が、ひたすら外向的であることや会話をしらけさせずに回すことに、“仲良く”が、なるべくフラットに人間関係を拡大すること、そういう集団から取りこぼされることを恐れて同調に汲々とすることに、“元気よく”が、明るさのヒエラルキーの上位に立って下位の者を抑圧し、取りこぼされた人間を排除するようなことに、簡単にすり替わってしまうもそれほど怪しむべきことではない。

そして一日八時間以上、毎日毎日詰め込まれて逃げ場がない学校の、無目的でルールも役割もない教室的な人間関係の中で生き延びるためには、たとえそんなふうに歪なモノサシではあっても、それに沿うよう自分を当てはめて生きることは、適応のためにはとても重要となる。
モノサシに沿うことができず雰囲気にとけ込めない人間は、寛容性の低い集団ではすぐに排除の憂き目に遭うのが常だ。

そういう息が詰まるような、“明るさ”への同調圧力が横溢する教室の雰囲気の中で、内向的に暗く一人でいたりするのが危険なのはいうまでもない。そんな集団に適応するためには“明るさ”を装わなければならない。擬態して、周囲の色に溶け込むのである。

さもないと、人間関係のヒエラルキーの底辺に貶められた存在にされるか、悪くするとそこからの排除、つまりいじめの標的にされてしまうだろう。そうならないためにはハイでいなければならない。内心つねに張りつめていなければならないのである。“テンション高い”なんていう言葉を、最近よくそんな文脈で聞いたりしないだろうか?

これは生徒間だけの話に限らない。子供を指導すべき学校が、そうした歪んだ(こういってよければ誤った)方向づけを修正して、適切な価値基準を教えることをほとんど怠っているように見えるからだ。むしろ学校自体が全体の文化の一単位として、そういう息苦しい風潮をはびこらせている温床となっている。

これは自分の体験と主観から語っているところが大きいので、現在の学校の状況にどこまで一般化できるかはよくわからないが、しかしすくなくとも、そういう歪んだ神経症的な価値観がこの社会のいたるところに瀰漫しているのは、あまりにも明らかだと思う。


このように、学校の教室における人間関係の価値軸とは、とりもなおさず明るく・外向的・社交的であるかどうかということである。したがって内向的で人間関係を結ぶのが下手だったりすると、それは劣等にほかならないのである。

また、さきに見た社会的モノサシによる相対的な自己評価それ自体がつねに揺らぐものであったように、教室的な同調圧力に一見適応できているかに見える者もまた、相対的にアイツに較べてダメだとか、いつ自分が転落するかとか、心は揺れ動いて安心するいとまがない。優越感は常に劣等感の裏返しである。

自分の本音が暗く内向的で、そんな息苦しい雰囲気についていけないものであったとしても、それは強い劣等感とともに恥ずべきものとして感じられ、素直に自分のものとしては認めがたい。そんなものがあると認めると立場自体がやばくなるのだ。

そういうふうな、つねに“お笑い”がないと間を取り繕うことさえむずかしいような空虚な人間関係にあって、自分の内に抱えた劣等感をないものにし、集団から排除されることがないようにするためには、自分自身の劣等感をより劣等に見える者に投影して、それを貶めて排除おくのがいちばん手っ取り早い。

こういう歪に変形した“明るさ”を強要する雰囲気と、それにもとづく暴力的な同調-排除の圧力のなかで、他人を蹴落としてちょっとした優越感を感じ安心を得ようというのが、ようするに学校という特殊な閉鎖環境での、いじめの心理的な構造であると思う。

                                            (以下、次回)


by type1974 | 2005-10-19 03:03

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