『完全自殺マニュアル』完全批判(8)
「あとはもう“あのこと”をやってしまうしかないんだ」
さて、世の中に絶望し(またはしたふりをし)、生きることなんてくだらない(ただし、たぶん他人が)と宣言してみせた著者は、ではなぜさっそく『マニュアル』の方法を実行して、早々にこの世に見切りをつけなかったのだろうか?
なぜ著者はこんな本を書いていながら、自分自身は自殺しないで生きているのか?
これはこの本を読んだ多くの冷静な人たちが抱く素朴な疑問だ。
著者は本の最後に「生きたけりゃ勝手に生きればいいし、死にたければ勝手に死ねばいい」と述べている。そのことによって、自殺をするかしないかは単なる自己決定の問題だと、その追及を巧妙にかわしているようである。
しかし、それは同時に自身が述べた本書のメッセージからの、明らかな逃げにほかならない。
そうしてみると、著者が本書冒頭と後書きでわざわざ繰り返し、自分自身の寒々しい執筆の意図をはなから存在しないものにしようとした、いまひとつの理由が見えてくる。
ようするに、そこまで自殺を奨励している書き手がなぜ死なないでいるのかという、容易に予想できる追及から逃げをうつための予防線を張っているのである。
こういう点については本書の語りは周到である。
「最初から営業のためで、本気で書いたものじゃなかったんだから、そんなに目くじらを立てられても困るよ。死にたいヤツが勝手に死んだだけだろう?」、といったところだろうか。
しかし、「生きる」方向へ向かうための根拠をすべてくだらない幻想だと破棄し毒づくことで、ある種の自己表現をするのが著者の本書執筆の意図だったのは、先に見たようにはっきりしている。
さらに、いろいろ逃げ道を作っていようと(その「自殺しちゃえばいい」という言葉にはたいてい「~ならば」という限定・条件がついている)、ようするに本書が、苦痛だけのまったく無意味な人生という悪夢から目覚めるためには自殺こそが正しくポジティブなのだというメッセージを発し、読者に自殺を強く教唆していることは、読み手の大多数が賛同するだろう。
文章の意図がどこにあるのかという判定は、本来読者の側の読みと解釈に任されるものである。
殺人の容疑者がいくら「殺すつもりはなかった」と口先で弁明して逃げてみたところで、陪審員の過半数が一致して宣告するなら、彼は殺人犯なのである。
もちろんこれはあくまで喩えにすぎない。
そういうふうに、生きるも死ぬも自己責任の問題だから「勝手にしてくれ」と、あくまでも自分自身にふりかかる問いを回避しようとしたところで、著者は結局どこまでも自身の語った言葉に拘束されざるをえない。
ではあなたは、そんな暴力的に無意味な世界での苦痛ばかりの生を、なぜあえて「勝手に」選択して生きているのか?
すべてを無意味だとし自殺を正当化する信念は、自殺を仄めかす冷たく突き刺さるような言葉は、あなた自身に限っては適用されないのか?
この著者はそれに答えることができるだろうか?
間違いなくできないはずだ。
本書冒頭のように、言葉による生の理由付けなどはすべて幻想で意味も根拠もないと宣言してみせたからには、その上にどんな言葉を積み重ねようとも、嘘に嘘を塗りたくる結果になり果ててしまう。
つまり、“生きること”について何かを語った途端に、彼が『完全自殺』で表現しようとした意図のすべてが裏切られることになるのである。
したがって、生きるか死ぬかという選択肢は、本書に関する限り著者には最初から存在しない。自分の語った言葉に真実があるというのなら、著者は自殺に到る一本道を歩むほかにないはずなのだ。
それとも自分の生きている主観的な世界に限っては別のルールがあって、何らかの生きる理由を自分なりに感じ取るのは個人の勝手だ、とでも言うのだろうか。
そう、そのような自己欺瞞的な二重基準を著者は生きているのかもしれない。あとで見るようにその可能性は十分にありうる。
もちろん、それも本書のメッセージらしきものの全否定に他ならない。
この本を批判しその意図を無効化しようとする立場からは、そのどちらであっても大いに結構、ということになろう。
いずれにせよこの本の著者は、「なぜお前は生きているのか」という疑問に言葉でもって反駁し弁明するという退路を、最初から自分で断ってしまっている。
だから、自身の著書の視点からすれば、著者には書いたとおりに自殺に向かって突き進むか、生きて嘘を騙ったことを暴露し続けるか、そのどちらかの道を選ぶしかできないのである。
「理由などない、生きるのは本能だからだ」「言葉以前に、死ぬのは誰でも怖いからだ」などというようなもっともらしい逃げも、もちろん無効である。
そんな“本能”も“恐怖”も軽々と乗り越えるごく簡単な手段があることと、それを実行した下は12歳の少年と少女にはじまる幾多のケースが存在することを示したのが、まさに自身の書いた『完全自殺マニュアル』にほかならないのだから。
その著者が「消えかかりそうな、ほそーい境界線」の、「息苦しくて生き苦しい」こちら側に、それでもまだ踏みとどまっているのはどうしたことだろう?
「飛び降り自殺は痛くない。痛みも不安も恐怖もない。それどころかむしろ気持ちがいい」
「首吊り以上に安楽で確実で、そして手軽に自殺できる手段はない」
「身ぶるいするほど恐ろしい日常生活」に対して、自殺するのはこんなふうにごく簡単なこと、生きるよりはるかに簡単なことなのではなかったのか?
そう語った著者自身が、いまだ生存してこの世を選んでいることこそ、本書のメッセージのすべてが嘘であったことを、雄弁に証拠立てている。
彼はそれに反論する言葉を何一つ持ち得ない。
by type1974 | 2005-10-02 18:50
『完全自殺マニュアル』完全批判(9)
彼自身の理由
さて、このように著者自身が本書のメッセージを欺いて、なぜか生きのびているのである。
だとすれば、著者がいまだ「勝手に」生きているのは、本書で彼が語っていない、というか当然語ることのできなかった、暗黙の理由なり意味感覚があるからに違いない。
つまり、「この生きるに値しない世にあって自殺はとてもポジティブな行為で、しかもとても簡単だ」ということを語りながら、自殺することなく人生を続行するというとても器用な綱渡りができるためには、“語ってみせたクールなタテマエ”と“生きていられる実態というリアルなホンネ”、すなわち著者なりの人生の二重基準が存在するとしか考えられない。
そして、当然ながらそのタテマエとは自分に関係のない他人に限って適用される、というわけだ。
これは推測だが、曲がりなりにもライターとして大ヒットを当てると、後続の著作を出して安定収入を得ることができ、自分の名前が世間に流通し、マスコミで発言する機会が出てきたりする。そしてそんな彼の言葉を真に受けてしまうような信奉者がそれなりに出てきたりすると、人間の本来自己愛的な傾向の強い深層自我は大いに刺激されて肥大するのではないかと思われる。
そしてそこに、彼が否定してみせた“生きる意味”を感じたりしているのではないだろうか?
これには根拠がある。
それはとりわけ、『完全自殺』から三年後に刊行された『人格改造』のほうに、はるかに自己言及的で自己愛的と読める記述が多く見られることにある。
前者においては一見観察者に徹しきった視点をとって自分を打ち出すことを抑圧していたのに比べて、後者では著者はずっと主体的・能動的で、“自分を癒す”ということが主眼になっているのだ。
すなわち、『完全自殺』が著者の抱えている人生観にかかわるメッセージの表明(自殺の誘いはその手段)だったとすれば、『人格改造』は著者自身を表現することが目的(“改造”のテクニックはその手段)となっていると読める。
もっぱら自分自身を表現しようという意図とは、この場合歪んだ自己愛の営みに他ならない。そのような表現に意味を感じるなどということは、彼の当初の言葉を額面通り受け取る限り、ありえないはずなのだから。
穿った読みをすれば、この間の『完全自殺』の“大成功”に気をよくして、自分の語る言葉にある種の自信を得て、後続の著作ではより自分の思いを打ち出してきている、という印象がある。
そしてそこでは、見てきたように、どれほど否定的で悲しいまでにフラットなものであったにせよ、彼なりの生きる根拠を掴もうとして必死なのであった。
よくは知らないし、あまり知りたくもないのだが、どうも『完全自殺マニュアル』の著者・鶴見済氏はまだどこかに生存していて、何か著作活動などもしているらしい。
ここに滑稽だが笑えない、根本的な矛盾と欺瞞がある。
まるで、資本主義の転覆をアジる痛烈な演説をぶった元学生活動家が今や有名一流企業の管理職をやっているような、若者に“大義のため”と特攻での死を命じた司令官が戦後天寿を全うしたような、最終解脱と世界の救済を標榜して無差別テロを実行した教祖サマと幹部らが法廷で醜態を晒しているような、それと同じ虚脱感。
語った言葉のすべてがウソだったことを自らの生き様で証明する、卑怯だけど腹を立てるのもむなしく感じられてしまう、あまりに人間くさい人物たち。
いや、そもそもこの著者の小さな物語は最初から虚脱感と虚偽に満ちているので、そういう皮肉も成り立たないのであった。
むろん自分の考え違いに殉じて死ぬのは悲しくてロマンティックな愚か者だ。しかしそれでもいくばくか、自分が語った言葉への責任と誠意とが感じられるというものだろう。
ぼくらが映画や小説の結末などで目にするそういうタイプの死は、だからこそドラマになり、共感や感動をそそることになっている。
それどころか、この国には“自決”という観念と風習が、意外に最近まで存在した。
言葉で交わした信義を個人としての自分の生命よりも重んじるその生き様は、そういう時代からは価値的にもはや遠いところにきてしまっているぼくらには到底真似しがたいものだけれども、それでもある種の高潔さを実感することはできる。
そう感じさせるのは、彼らが保持していた信仰やイデオロギーの内容自体ではない。
そうではなく、彼らが小さな自己保身や執着を捨て、自分の全心身を挙げてその“大きな思い”そのものとして生き、いのちを賭けたからだろう。それが「言行一致」という言葉の本来の意味だと思われる。
それに較べるべくもないのだが、「生きるなんてどうせくだらない」「もう“あのこと”をやってしまうしかないんだ」と吹聴しながら、『完全自殺』刊行後10年以上を生きおおせ、社会を拒絶するポーズをとりながらその社会のある種の波にしっかりと乗り、判断能力の未熟な若者や自殺志願者および実際の自殺者から今も多額の印税収入を吸い上げているライター・鶴見済氏の存在は、おそらく意識的と思われるその自己欺瞞のゆえに、限りなくインチキくさい。
「恥を知らないのか」とぶつけても、たぶんむなしく響くだけだ。
先に見たように、彼は自分の言葉など最初から全部ウソだとどこまでも逃げ続け、自分が内に抱え込んでいる空虚に向かってかぎりなく退却していくだけだろうから。
責任からの逃避と自己解体による退行を人生の真理と考える人間には、恥という概念はそもそも存在しないに違いない。
恥というのは自分のそういう無惨な有様を省みる視点があってはじめて生まれる感情なのだから。
ただ、もし著者がこの本で表現しようとした、価値観にもならないような混迷しきった価値観をいまだ抱え込みながら、それを世間にバラまきつつ“おめおめと”生きているのであれば、結局はどこかで行き詰まってしまうだろう。
それは、そういう価値観が、本論全体を通じて見ていくように、人生の理に合わないいわば錯覚にほかならないからだ。
そして彼が自身の錯覚に追い込まれて、実際に安易な死を選んでしまうのではないかという予測も十分成り立つ。
たとえば、最近自分が書いた“思想”に行き詰まって自殺した、見沢知廉氏のように。
彼もまた、その著作のいたるところで自殺を暗示していたと思う。
考えてみれば、もっぱら根深いナルシシズムを書く動機として多くのムリを抱え込んだまま、ある種の価値観を伝播させようとニヒルに居直って社会の常識一般を挑発し、世を注目させつつ顰蹙させるその姿勢は、じつに両者共通していないだろうか。
読後の印象がどちらもおなじような、とても饒舌な言葉とその半面の空虚感であるのは、読んだ方はよくご存知だろう。
ところでこう書いている自分は、どんなに劣悪で害を及ぼす存在であっても、だからといって死んでいい人間などこの世にはいないと、心底思えるように目下努力している。
あとで紹介するように、科学と理性を含んで超えて、どんな人間にも根本的に生きる理由と意味があるということの宇宙的根拠を語ることができる時代状況に、ぼくらはすでに生きているからだ。
しかし、心に深く染みついたばらばら思考のニヒリズムを脱却するには、ちょっとアタマで考えるだけではまったく不十分で、意図的で持続的な内面の作業と、それを腹に収めるための相応の時間が必要らしい。
そのような発達途上の自分が、常時・心底・無差別に、“どんな人間にも生きる理由が与えられている”と思い切れているわけではないことは、ここで認めておく必要があるだろう。
さもないと、この『完全自殺』の著者と同じく、自分がうまいこと語ってみせた言葉を、じつは全然生きていないというような、よくありがちな恥ずかしい自己欺瞞に陥ってしまうだろうから。
そうならないために、たとえすべて言葉による理念のとおりには生きられないにせよ、少なくとも語った言葉と自分の現実との間の距離を、たえず振り返って確認しておく必要があると思うのだ。
そしてその距離にこそ真実が存在するのだと思う。
そういうわけで、ライター・鶴見済氏が、この本を出すことでどれほど世に毒を放ち、そのメッセージによって多くの若者の死を煽って社会的に損失を与えつづけることで、いわば(単に公衆衛生的な意味で)“社会のガン”と化していようとも、そんな彼にも人間としての尊厳と人生を生きる何らかの意味が与えられているのだと考えるべく、努力をしているつもりである。
by type1974 | 2005-10-03 16:21
「あとはもう“あのこと”をやってしまうしかないんだ」
さて、世の中に絶望し(またはしたふりをし)、生きることなんてくだらない(ただし、たぶん他人が)と宣言してみせた著者は、ではなぜさっそく『マニュアル』の方法を実行して、早々にこの世に見切りをつけなかったのだろうか?
なぜ著者はこんな本を書いていながら、自分自身は自殺しないで生きているのか?
これはこの本を読んだ多くの冷静な人たちが抱く素朴な疑問だ。
著者は本の最後に「生きたけりゃ勝手に生きればいいし、死にたければ勝手に死ねばいい」と述べている。そのことによって、自殺をするかしないかは単なる自己決定の問題だと、その追及を巧妙にかわしているようである。
しかし、それは同時に自身が述べた本書のメッセージからの、明らかな逃げにほかならない。
そうしてみると、著者が本書冒頭と後書きでわざわざ繰り返し、自分自身の寒々しい執筆の意図をはなから存在しないものにしようとした、いまひとつの理由が見えてくる。
ようするに、そこまで自殺を奨励している書き手がなぜ死なないでいるのかという、容易に予想できる追及から逃げをうつための予防線を張っているのである。
こういう点については本書の語りは周到である。
「最初から営業のためで、本気で書いたものじゃなかったんだから、そんなに目くじらを立てられても困るよ。死にたいヤツが勝手に死んだだけだろう?」、といったところだろうか。
しかし、「生きる」方向へ向かうための根拠をすべてくだらない幻想だと破棄し毒づくことで、ある種の自己表現をするのが著者の本書執筆の意図だったのは、先に見たようにはっきりしている。
さらに、いろいろ逃げ道を作っていようと(その「自殺しちゃえばいい」という言葉にはたいてい「~ならば」という限定・条件がついている)、ようするに本書が、苦痛だけのまったく無意味な人生という悪夢から目覚めるためには自殺こそが正しくポジティブなのだというメッセージを発し、読者に自殺を強く教唆していることは、読み手の大多数が賛同するだろう。
文章の意図がどこにあるのかという判定は、本来読者の側の読みと解釈に任されるものである。
殺人の容疑者がいくら「殺すつもりはなかった」と口先で弁明して逃げてみたところで、陪審員の過半数が一致して宣告するなら、彼は殺人犯なのである。
もちろんこれはあくまで喩えにすぎない。
そういうふうに、生きるも死ぬも自己責任の問題だから「勝手にしてくれ」と、あくまでも自分自身にふりかかる問いを回避しようとしたところで、著者は結局どこまでも自身の語った言葉に拘束されざるをえない。
ではあなたは、そんな暴力的に無意味な世界での苦痛ばかりの生を、なぜあえて「勝手に」選択して生きているのか?
すべてを無意味だとし自殺を正当化する信念は、自殺を仄めかす冷たく突き刺さるような言葉は、あなた自身に限っては適用されないのか?
この著者はそれに答えることができるだろうか?
間違いなくできないはずだ。
本書冒頭のように、言葉による生の理由付けなどはすべて幻想で意味も根拠もないと宣言してみせたからには、その上にどんな言葉を積み重ねようとも、嘘に嘘を塗りたくる結果になり果ててしまう。
つまり、“生きること”について何かを語った途端に、彼が『完全自殺』で表現しようとした意図のすべてが裏切られることになるのである。
したがって、生きるか死ぬかという選択肢は、本書に関する限り著者には最初から存在しない。自分の語った言葉に真実があるというのなら、著者は自殺に到る一本道を歩むほかにないはずなのだ。
それとも自分の生きている主観的な世界に限っては別のルールがあって、何らかの生きる理由を自分なりに感じ取るのは個人の勝手だ、とでも言うのだろうか。
そう、そのような自己欺瞞的な二重基準を著者は生きているのかもしれない。あとで見るようにその可能性は十分にありうる。
もちろん、それも本書のメッセージらしきものの全否定に他ならない。
この本を批判しその意図を無効化しようとする立場からは、そのどちらであっても大いに結構、ということになろう。
いずれにせよこの本の著者は、「なぜお前は生きているのか」という疑問に言葉でもって反駁し弁明するという退路を、最初から自分で断ってしまっている。
だから、自身の著書の視点からすれば、著者には書いたとおりに自殺に向かって突き進むか、生きて嘘を騙ったことを暴露し続けるか、そのどちらかの道を選ぶしかできないのである。
「理由などない、生きるのは本能だからだ」「言葉以前に、死ぬのは誰でも怖いからだ」などというようなもっともらしい逃げも、もちろん無効である。
そんな“本能”も“恐怖”も軽々と乗り越えるごく簡単な手段があることと、それを実行した下は12歳の少年と少女にはじまる幾多のケースが存在することを示したのが、まさに自身の書いた『完全自殺マニュアル』にほかならないのだから。
その著者が「消えかかりそうな、ほそーい境界線」の、「息苦しくて生き苦しい」こちら側に、それでもまだ踏みとどまっているのはどうしたことだろう?
「飛び降り自殺は痛くない。痛みも不安も恐怖もない。それどころかむしろ気持ちがいい」
「首吊り以上に安楽で確実で、そして手軽に自殺できる手段はない」
「身ぶるいするほど恐ろしい日常生活」に対して、自殺するのはこんなふうにごく簡単なこと、生きるよりはるかに簡単なことなのではなかったのか?
そう語った著者自身が、いまだ生存してこの世を選んでいることこそ、本書のメッセージのすべてが嘘であったことを、雄弁に証拠立てている。
彼はそれに反論する言葉を何一つ持ち得ない。
by type1974 | 2005-10-02 18:50
『完全自殺マニュアル』完全批判(9)
彼自身の理由
さて、このように著者自身が本書のメッセージを欺いて、なぜか生きのびているのである。
だとすれば、著者がいまだ「勝手に」生きているのは、本書で彼が語っていない、というか当然語ることのできなかった、暗黙の理由なり意味感覚があるからに違いない。
つまり、「この生きるに値しない世にあって自殺はとてもポジティブな行為で、しかもとても簡単だ」ということを語りながら、自殺することなく人生を続行するというとても器用な綱渡りができるためには、“語ってみせたクールなタテマエ”と“生きていられる実態というリアルなホンネ”、すなわち著者なりの人生の二重基準が存在するとしか考えられない。
そして、当然ながらそのタテマエとは自分に関係のない他人に限って適用される、というわけだ。
これは推測だが、曲がりなりにもライターとして大ヒットを当てると、後続の著作を出して安定収入を得ることができ、自分の名前が世間に流通し、マスコミで発言する機会が出てきたりする。そしてそんな彼の言葉を真に受けてしまうような信奉者がそれなりに出てきたりすると、人間の本来自己愛的な傾向の強い深層自我は大いに刺激されて肥大するのではないかと思われる。
そしてそこに、彼が否定してみせた“生きる意味”を感じたりしているのではないだろうか?
これには根拠がある。
それはとりわけ、『完全自殺』から三年後に刊行された『人格改造』のほうに、はるかに自己言及的で自己愛的と読める記述が多く見られることにある。
前者においては一見観察者に徹しきった視点をとって自分を打ち出すことを抑圧していたのに比べて、後者では著者はずっと主体的・能動的で、“自分を癒す”ということが主眼になっているのだ。
すなわち、『完全自殺』が著者の抱えている人生観にかかわるメッセージの表明(自殺の誘いはその手段)だったとすれば、『人格改造』は著者自身を表現することが目的(“改造”のテクニックはその手段)となっていると読める。
もっぱら自分自身を表現しようという意図とは、この場合歪んだ自己愛の営みに他ならない。そのような表現に意味を感じるなどということは、彼の当初の言葉を額面通り受け取る限り、ありえないはずなのだから。
穿った読みをすれば、この間の『完全自殺』の“大成功”に気をよくして、自分の語る言葉にある種の自信を得て、後続の著作ではより自分の思いを打ち出してきている、という印象がある。
そしてそこでは、見てきたように、どれほど否定的で悲しいまでにフラットなものであったにせよ、彼なりの生きる根拠を掴もうとして必死なのであった。
よくは知らないし、あまり知りたくもないのだが、どうも『完全自殺マニュアル』の著者・鶴見済氏はまだどこかに生存していて、何か著作活動などもしているらしい。
ここに滑稽だが笑えない、根本的な矛盾と欺瞞がある。
まるで、資本主義の転覆をアジる痛烈な演説をぶった元学生活動家が今や有名一流企業の管理職をやっているような、若者に“大義のため”と特攻での死を命じた司令官が戦後天寿を全うしたような、最終解脱と世界の救済を標榜して無差別テロを実行した教祖サマと幹部らが法廷で醜態を晒しているような、それと同じ虚脱感。
語った言葉のすべてがウソだったことを自らの生き様で証明する、卑怯だけど腹を立てるのもむなしく感じられてしまう、あまりに人間くさい人物たち。
いや、そもそもこの著者の小さな物語は最初から虚脱感と虚偽に満ちているので、そういう皮肉も成り立たないのであった。
むろん自分の考え違いに殉じて死ぬのは悲しくてロマンティックな愚か者だ。しかしそれでもいくばくか、自分が語った言葉への責任と誠意とが感じられるというものだろう。
ぼくらが映画や小説の結末などで目にするそういうタイプの死は、だからこそドラマになり、共感や感動をそそることになっている。
それどころか、この国には“自決”という観念と風習が、意外に最近まで存在した。
言葉で交わした信義を個人としての自分の生命よりも重んじるその生き様は、そういう時代からは価値的にもはや遠いところにきてしまっているぼくらには到底真似しがたいものだけれども、それでもある種の高潔さを実感することはできる。
そう感じさせるのは、彼らが保持していた信仰やイデオロギーの内容自体ではない。
そうではなく、彼らが小さな自己保身や執着を捨て、自分の全心身を挙げてその“大きな思い”そのものとして生き、いのちを賭けたからだろう。それが「言行一致」という言葉の本来の意味だと思われる。
それに較べるべくもないのだが、「生きるなんてどうせくだらない」「もう“あのこと”をやってしまうしかないんだ」と吹聴しながら、『完全自殺』刊行後10年以上を生きおおせ、社会を拒絶するポーズをとりながらその社会のある種の波にしっかりと乗り、判断能力の未熟な若者や自殺志願者および実際の自殺者から今も多額の印税収入を吸い上げているライター・鶴見済氏の存在は、おそらく意識的と思われるその自己欺瞞のゆえに、限りなくインチキくさい。
「恥を知らないのか」とぶつけても、たぶんむなしく響くだけだ。
先に見たように、彼は自分の言葉など最初から全部ウソだとどこまでも逃げ続け、自分が内に抱え込んでいる空虚に向かってかぎりなく退却していくだけだろうから。
責任からの逃避と自己解体による退行を人生の真理と考える人間には、恥という概念はそもそも存在しないに違いない。
恥というのは自分のそういう無惨な有様を省みる視点があってはじめて生まれる感情なのだから。
ただ、もし著者がこの本で表現しようとした、価値観にもならないような混迷しきった価値観をいまだ抱え込みながら、それを世間にバラまきつつ“おめおめと”生きているのであれば、結局はどこかで行き詰まってしまうだろう。
それは、そういう価値観が、本論全体を通じて見ていくように、人生の理に合わないいわば錯覚にほかならないからだ。
そして彼が自身の錯覚に追い込まれて、実際に安易な死を選んでしまうのではないかという予測も十分成り立つ。
たとえば、最近自分が書いた“思想”に行き詰まって自殺した、見沢知廉氏のように。
彼もまた、その著作のいたるところで自殺を暗示していたと思う。
考えてみれば、もっぱら根深いナルシシズムを書く動機として多くのムリを抱え込んだまま、ある種の価値観を伝播させようとニヒルに居直って社会の常識一般を挑発し、世を注目させつつ顰蹙させるその姿勢は、じつに両者共通していないだろうか。
読後の印象がどちらもおなじような、とても饒舌な言葉とその半面の空虚感であるのは、読んだ方はよくご存知だろう。
ところでこう書いている自分は、どんなに劣悪で害を及ぼす存在であっても、だからといって死んでいい人間などこの世にはいないと、心底思えるように目下努力している。
あとで紹介するように、科学と理性を含んで超えて、どんな人間にも根本的に生きる理由と意味があるということの宇宙的根拠を語ることができる時代状況に、ぼくらはすでに生きているからだ。
しかし、心に深く染みついたばらばら思考のニヒリズムを脱却するには、ちょっとアタマで考えるだけではまったく不十分で、意図的で持続的な内面の作業と、それを腹に収めるための相応の時間が必要らしい。
そのような発達途上の自分が、常時・心底・無差別に、“どんな人間にも生きる理由が与えられている”と思い切れているわけではないことは、ここで認めておく必要があるだろう。
さもないと、この『完全自殺』の著者と同じく、自分がうまいこと語ってみせた言葉を、じつは全然生きていないというような、よくありがちな恥ずかしい自己欺瞞に陥ってしまうだろうから。
そうならないために、たとえすべて言葉による理念のとおりには生きられないにせよ、少なくとも語った言葉と自分の現実との間の距離を、たえず振り返って確認しておく必要があると思うのだ。
そしてその距離にこそ真実が存在するのだと思う。
そういうわけで、ライター・鶴見済氏が、この本を出すことでどれほど世に毒を放ち、そのメッセージによって多くの若者の死を煽って社会的に損失を与えつづけることで、いわば(単に公衆衛生的な意味で)“社会のガン”と化していようとも、そんな彼にも人間としての尊厳と人生を生きる何らかの意味が与えられているのだと考えるべく、努力をしているつもりである。
by type1974 | 2005-10-03 16:21
最初にこの本を読んだ時は、楽な自殺方法なんて無いって、自殺を止めてくれないだろうか?という淡い期待で藁にもすがる思いで、おそるおそる見てみました。
逆に、自殺なんて簡単、楽に死ねると書いてあり、毒でも飲んだように気持ち悪くなり、うつ状態が悪化しました。
首吊りをしてみましたが、とても苦しかったです。
気持ちいい人もいるみたいただし、個人差もあるのかもしれませんが。
この記事を読んで、そういえば確かに何でまだ著者が生きているのかは不思議ですね。
おそらく、実際に自殺を実行させてみて、その苦しみや恐怖を身を持って感じたら、自殺を思い留まることが出来ると思い、わざと楽だと書いたのかな?と思っていましたが、実際にこの本を読んで、自殺した人がいるわけだから、そうでは無いのかもしれません。
首吊りは芸術品、カジュアルな方法などのあまりにも軽い表現も気になります。
実際に自殺した人が出たことに対しても、もともと自殺したい人がたまたまこの本を読んでいただけなどの冷たいコメントでした。
もともと、死にたかったけど、自殺を止めてくれるんじゃないか?と思って読んだ本が自殺を勧めていたら死にたくもなります。
私の想像ですが、著者も認めている通り、自分にも自殺願望があったので、本で他人を自殺させることで代理自殺させて精神的に安定しようとしているのではないかと思います。
自分への攻撃性が他人に向いてしまった、青の鯨の犯人と同じで、死んだら異世界で救われるなどの嘘を自殺志願者に吹聴して殺すことで安心している。
著者の本を書いた動機のいざとなったら、死ねると思うことで安心して生きられるという発想がよく分かりません。
本の中で、いじめられる前に早めに自殺しておこうと言っているのと矛盾します。
偽善を装って、自殺志願者をさらに追い込んでいるのだとしたら、とても許せません。
私は、本が好きなのですが、こういう人の命を奪うことに本が使われているのが、とても怖いです。
この記事を読んで、完全自殺マニュアルやコピーしたような自殺サイトでの被害者が減ることを願います。
インタビューでは、むしろ本を出したことでメディアに叩かれたかわいそうな人を演じて、コメンティターに同情するような文章を書かせて、けっして自殺を勧めてるような内容ではないと堂々を嘘を言っているのには、驚愕しました。
この記事が本当のことを書いてくれたので、救われました。
ありがとうございました。
かなり前に書いた記事ですが、お読みいただけてうれしいです。
おっしゃるとおり、鶴見氏のあの文章には明確な「毒」があったと思います。
悪質な本およびその社会的影響(当時はなかったネット環境での奇怪な増幅)によって多くの人が死に、現に死んでいるのだから、実際鶴見氏は罪深いと思います。
ああいう本を書いた鶴見氏がいまだ生きて何かを語っているというのは、何か連続殺人犯が精神疾患によって免責され街中で生きおおせているかのような、気持ちの悪い不条理感があります。
あの本で唯一真理だと思ったのは首つり自殺の簡易性・確実性ですが、それでも鶴見氏が何かがんばって生きているというのは、個人的には、できの悪いコントようで、失笑という意味で嗤えます。
まあしかし、鶴見氏の生存していること自体は、『完全自殺マニュアル』で書いた彼自身の偽善的メッセージの全てが嘘だったことを雄弁に証明しつづけてくれているのですから、そうした社会的な意味はあるのかも知れません。さらに徹底的にたたかれ、きちんと抹殺されるのが望ましいと思います。
あの本が出たのは確か九〇年代半ば頃、私は大学生でオウム事件の記憶とオーバーラップしています。まだ社会に余裕のあった時代でしたが、いまはそんな余裕もなくなってしまった。彼はいわば自殺を「ネタ」にウケを狙って成功したわけですが、いまではネタにもならない日常と化しています。
おそらく鶴見氏はああした本を書いたことで、物書きとして「完全自殺の鶴見」という致命的なスティグマを負ってしまった。さぞかし不自由なことでしょう。若気の至りと言うやつです。自ら吐いた毒をくらい続けている訳です。
しかし書いておられるところからすると、まだ何か強がっているようですね。確かに懺悔し過去の言説を完全否定でもしない限り、強がる以外にないでしょう。
彼自身にその自覚がなかろうと、刑法で罰する規定がなかろうと、彼は「罪を犯した」という意味で本質的な意味で犯罪者です。また、ああした言説を生み出し野放しにしてしまう社会の病でもあると思います。
結局、生きる意味を失った社会で、私たちが日常を生きるつらさを、尖った毒のある表現で犯罪的に語ったのが鶴見氏だったのだと思うのですが、しかし無意味感・つらさのメッセージ自体はある意味で「わかるなあ」という感じがしたのも事実です。
もはや私たちはそうした無意味感のままでは生きるのが難しいと思います。死ぬのは、あまりにも簡単です(少なくとも鶴見氏の言うように手段としては)。私たちに必要なのは、生きる理由です。
ブログは12年も前のもので、当時はあまり自分の価値観は出さないように書いていたのをまだ若かったなと感じます。「生きる意味」は現在リアルに可能となっていることを、先行世代は語っていますので、ぜひ一読されてはいかがでしょうか。
https://blog.goo.ne.jp/smgrh1992
世界に意味もクソもないのならば、鶴見氏のような病的な人物がああした毒を吐くのもある意味当たり前です。その意味で彼を生み出したのは社会の病です。
しかし世界には少なくともより意味深くという方向性があり、しかも宇宙は一体だ、というコスモロジーの大枠が根付けば、こうしたばかげたメッセージに足をすくわれることはなかっただろうと、若い日の自分を思い返して感じます。
私もいつかそうしたメッセージを語れるようになりたいと思います。
首つりで死ねる
自殺は、簡単には出来ません。
この本を読んで、自殺してしまう人がいなくなりますように。
鶴見氏は、自殺幇助で逮捕されなくても、罰を受けると思います。
本を人を殺すことに利用したのが、とても許せません。
ニヒリズムというとかっこいいクールなイメージですが、生きている意味は無いと言って、誰が幸せになれるのでしょうか?
そういう考え方は、私には理解出来なかったのですが。
強く生きろ!自殺なんて弱い人間のすることだって言われたら、息苦しいって言うのは分かります。
だからって、自殺肯定するっていうのも極端な気がします。
人格改造マニュアルにあるように、鶴見氏自体は覚醒剤に手を出してまで、必死に生きようとしています。
もし、仮に多くの人を殺した罪で死刑を受け、絞首刑になった場合、首吊りで楽に死ねるなんてラッキーなんて思わずに、きっと必死に抵抗するでしょう。
鶴見氏憎しと言えとも、彼にも生きている意味はあると言えることが素晴らしいと思います。
実際、完全の本のせいで息子や彼女が死んで、殺してやろうと思ったと言う話しはちらほら聞きます。
変な話しだけど、他人を自殺されることで必死に自分を守っていた、生きようとしていたんじゃないのかな?と思います。
軽い表現で死をばかにしてながら、お前なんて怖くないんだぞと強がって。
でも、偽善を装って心が弱っている人達を死に導いたことの罪はとても重いです。
今でも、なおこの本での犠牲者は出ています。
本からネットになったかもしれませんが、同じ事です。
学生運動やオウム真理教が人殺しをしているにも関わらずに自分達を正義の側にいると思っているように、鶴見氏にとってはこの本は正義なのかもしれません。
しかし、大義のために大勢の人を非情に虐殺しておいたのに、みんな自分の命が惜しいという感情は持っていることこそが、命の重さではないでしょうか?
私は、死刑は反対です。
社会のルールを守らないやつは殺してしまおうと言うのでは、何も解決しない。
生きて命の重さを実感出来るようになればいいと思うのですが、考え方が甘いでしょうか?
長く日記のようになってしまって、すいません。
精神障害があって、うまくまとめられなかったのですが、書く事で気持ちが落ち着きました。
私も何とか生きれるように頑張っていこうと思います。
鶴見氏に関し、精神障害云々と書いたのは少し失礼してしまったかと思います。ご不快にさせてしまったらすみませんでした。自殺が簡単にできるものではないというのもまったくそのとおりです。手段の簡単さと、事態の重大さは全く別です。その点で、鶴見氏は何と軽々しく書いていることか。
彼のその後は全く知りませんが、いまだ書いてられるようなことを言っているとすれば、心の深いところで病気の人物なのだと思います。
彼が当時「自殺」をダシにして自己顕示を行っていたのは間違いないと思います。そして明らかにニヒリズムをクールでかっこいいものと書いています。それが彼にとっての「真実」というわけですが、そのために多くの人が死んでいるという、その点がまさに罪なのだと思います。そんなニヒリズムは前前世紀の科学に基づく世界観にすぎないとわかれば、決してかっこいいものではないどころかあまりにも古くさいのですが、彼はそのことに全く気づいていません。
いただいたコメントについては、後日時間のある際に書いてみたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。