きょうは都心の渋い禅堂で、禅宗四部録の一つ、『信心銘』の講座を受講してきた。
場所も渋ければ内容も古典的に渋く、とても深かった。
(サングラハ心理学研究所、中級講座「『禅宗四部録』を読む」、講師:岡野守也)
とにかく漢文書き下しの言葉がとてもかっこいい。
とりあえず意味がわからなくても、その抑揚を聞いていると身が引き締まる感じがする。
なお題名の「信心」とは、ふつうにイメージされる“アタマから信じ込む”というような話ではなく、“覚りの心、それに至りうる心を信頼して認識する”というきわめて理性的でポジティブな意味があるとのこと。
内容はひとえに覚りの無分別の境地とはこういうものだと言葉を尽くして語り、そして読み手・聞き手をそれに向けた坐禅を要とする修行的実践に誘うものであるという。
そういうわけで、いろいろ手を変え品を変え表現を変え語っているけれども、ようは「宇宙と私は現に一体です」というそのわずか一行のメッセージのみを語っているのだという。
え、そんなシンプルな話なんですか?
しかしわずか一行とはいえ、心底そのとおりに常時感じていることができるかというと、われわれの心はぜんぜんそうはなっていない。
だからそのシンプルだけど深い(深すぎる)言葉は、凡人である自分には雲を掴むようにとらえどころがないように感じてしまうのだろう。
こういう深い言葉の数々が、結局その一つの体験とメッセージを表現するために語られるという構造は、道元、鈴木大拙、その他偉大な宗教家(この言葉がどれほど矮小化されていることか)に共通していることで、ある意味そんなに難しげに語らなくてもいいじゃない、というところがあるという。
道元も大拙もろくに読んでいない自分は、「講師、そりゃいいすぎですよ」と若干思ったが、しかし体験とはそういうものなのだろうなと納得させられた。
深い体験は共通しているということなのだろう。
そういう「全宇宙が自分だ」という直接体験が、常識がひっくりがえって錯覚に見えてしまうような、文字通り想像を絶するものだということは、とりあえずよくわかった気がする。
ぜひともあれこれ思い煩うのをやめて、それを目指したいものだ!
…と、ここで『信心銘』は
「心動じて止に帰すれば、止更に弥弥動ず。」
と先回りしてクギをさしている。
つまり「心が動くからといって静止させようとすると、静止させるほどますます動く」(テキスト現代語訳より)と。
意図的努力じゃ思い煩いはなくならずかえって思いが湧いて増幅してきりがない、ということだと思う。
じゃあどうすればいいというのか?
「多言多慮、転(うた)た相応せず」
「言葉が多く分別が多いと、いよいよ事実とぴったりいかぬ」(同上)、つまり言葉であれこれわかったつもりになると、かえって根元的・本質的なことへの気づきから遠ざかってしまう、と。
うーん、ふだん言葉の洪水にすっかりまみれ、言葉=自分みたいにして生きていて、しかもそれで世の中がぜんぶわかったような気になっている、自分のような一般人(つまりは凡夫)にとってはなかなか耳の痛いところだ。
言葉は社会でよくやっていくための、そして覚りという究極を目指す成長のための道具として、人間にとって不可欠だが、でもそれがすべてでは全然ないということなのだろう。
結局言葉にしがみつくことはできない、それは高い境地からすればどこまでも相対的なものなのだ、ということだけは覚っていない身にもよくわかった気がした。
ここで講師曰く「私もあれこれ語るのがめんどくさくなってきたので、やめてだまっていようかな」
…そりゃないすよ!
そして
「絶言絶慮、処として通ぜざるなし」
「言葉を絶ち分別をなくせば、どこといって通じないところはない」、つまり「全宇宙と自分が通じている」ということになるとのこと。
ほんとですか?という気になるというものだが、とにかくこの古典の体験者はそういっている。
坐禅をせよ、そしたらわき目もふるな、ということですね。
ハイ、わかりました、なるべく、がんばりたい、と。
それをさぼって、こうしてブログを書くのはまさに「多言多慮」にほかならないわけだが…ま、それはそれ、ということで。
それにしても、さきの『十牛図』もそうだったけれども、禅の古典というのはとてもすきっとしていてシンプルで、それでいて果てしなく深い含蓄があって、じつに味わい深いと思った。
なお『信心銘』の「超意訳」が、さきに紹介した
岡野守也の公開講座+α
にあり、原漢文と同じことを言っているはずなのになぜかとても優しく感じられるという、おもしろい試みがされているので、ご一読いただけるといいのではないかと思います。
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場所も渋ければ内容も古典的に渋く、とても深かった。
(サングラハ心理学研究所、中級講座「『禅宗四部録』を読む」、講師:岡野守也)
とにかく漢文書き下しの言葉がとてもかっこいい。
とりあえず意味がわからなくても、その抑揚を聞いていると身が引き締まる感じがする。
なお題名の「信心」とは、ふつうにイメージされる“アタマから信じ込む”というような話ではなく、“覚りの心、それに至りうる心を信頼して認識する”というきわめて理性的でポジティブな意味があるとのこと。
内容はひとえに覚りの無分別の境地とはこういうものだと言葉を尽くして語り、そして読み手・聞き手をそれに向けた坐禅を要とする修行的実践に誘うものであるという。
そういうわけで、いろいろ手を変え品を変え表現を変え語っているけれども、ようは「宇宙と私は現に一体です」というそのわずか一行のメッセージのみを語っているのだという。
え、そんなシンプルな話なんですか?
しかしわずか一行とはいえ、心底そのとおりに常時感じていることができるかというと、われわれの心はぜんぜんそうはなっていない。
だからそのシンプルだけど深い(深すぎる)言葉は、凡人である自分には雲を掴むようにとらえどころがないように感じてしまうのだろう。
こういう深い言葉の数々が、結局その一つの体験とメッセージを表現するために語られるという構造は、道元、鈴木大拙、その他偉大な宗教家(この言葉がどれほど矮小化されていることか)に共通していることで、ある意味そんなに難しげに語らなくてもいいじゃない、というところがあるという。
道元も大拙もろくに読んでいない自分は、「講師、そりゃいいすぎですよ」と若干思ったが、しかし体験とはそういうものなのだろうなと納得させられた。
深い体験は共通しているということなのだろう。
そういう「全宇宙が自分だ」という直接体験が、常識がひっくりがえって錯覚に見えてしまうような、文字通り想像を絶するものだということは、とりあえずよくわかった気がする。
ぜひともあれこれ思い煩うのをやめて、それを目指したいものだ!
…と、ここで『信心銘』は
「心動じて止に帰すれば、止更に弥弥動ず。」
と先回りしてクギをさしている。
つまり「心が動くからといって静止させようとすると、静止させるほどますます動く」(テキスト現代語訳より)と。
意図的努力じゃ思い煩いはなくならずかえって思いが湧いて増幅してきりがない、ということだと思う。
じゃあどうすればいいというのか?
「多言多慮、転(うた)た相応せず」
「言葉が多く分別が多いと、いよいよ事実とぴったりいかぬ」(同上)、つまり言葉であれこれわかったつもりになると、かえって根元的・本質的なことへの気づきから遠ざかってしまう、と。
うーん、ふだん言葉の洪水にすっかりまみれ、言葉=自分みたいにして生きていて、しかもそれで世の中がぜんぶわかったような気になっている、自分のような一般人(つまりは凡夫)にとってはなかなか耳の痛いところだ。
言葉は社会でよくやっていくための、そして覚りという究極を目指す成長のための道具として、人間にとって不可欠だが、でもそれがすべてでは全然ないということなのだろう。
結局言葉にしがみつくことはできない、それは高い境地からすればどこまでも相対的なものなのだ、ということだけは覚っていない身にもよくわかった気がした。
ここで講師曰く「私もあれこれ語るのがめんどくさくなってきたので、やめてだまっていようかな」
…そりゃないすよ!
そして
「絶言絶慮、処として通ぜざるなし」
「言葉を絶ち分別をなくせば、どこといって通じないところはない」、つまり「全宇宙と自分が通じている」ということになるとのこと。
ほんとですか?という気になるというものだが、とにかくこの古典の体験者はそういっている。
坐禅をせよ、そしたらわき目もふるな、ということですね。
ハイ、わかりました、なるべく、がんばりたい、と。
それをさぼって、こうしてブログを書くのはまさに「多言多慮」にほかならないわけだが…ま、それはそれ、ということで。
それにしても、さきの『十牛図』もそうだったけれども、禅の古典というのはとてもすきっとしていてシンプルで、それでいて果てしなく深い含蓄があって、じつに味わい深いと思った。
なお『信心銘』の「超意訳」が、さきに紹介した
岡野守也の公開講座+α
にあり、原漢文と同じことを言っているはずなのになぜかとても優しく感じられるという、おもしろい試みがされているので、ご一読いただけるといいのではないかと思います。
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お祖父さんが主計軍曹殿であられたとのこと、身近な、戦争の歴史ですね。いまになって聞こうと思っても聞けなくなってしまったのが残念です。単純に批判的か懐古的かじゃない聞き方というのは、戦争の体験だけに難しいと思います。でもお年寄りが戦争体験をある種生き生きと語られるのに出会うと、人間の心というのは単純に善-悪の図式で片づけられるものではないのだなと感じますね。
坐禅に関しては、時間をかけているだけで、肝心の内容のほうは恥ずかしい限りです。なんせ十数えられないですから。
自分の心自体が、こんなにコントロールがあてにならないものなのだというのは、ある意味けっこう笑えます。
しかしともかくこの地点を突破しないことには、学びが海談義の“いい話”で終わってしまうというような現状です。
坐禅、がんばりましょう。これができる仲間がいるというのは嬉しいことです。
…と、書いている間にできるのかもしれないですが、それはとりあえずおいておくということで。突き詰めるとブログもできなくなってしまう。
軍曹で、よろしくお願いします(笑)
type1974さんというのは、いささか長いハンドルネームなので、こちらでは軍曹さんと呼ばせてください(笑)そういえば、去年他界した祖父は大戦中、主計軍曹でした。すねに銃弾が貫通した傷痕があり、なまなましかったですね・・・。
さて、先週金曜の坐禅会は、残念ながら幼稚園の会合があり行けませんでした。
軍曹さん、私よりずっと坐禅組んでおられますね。間違いなく。
私も頑張らねばと思います。
私の場合、なまじっか曹洞宗の僧侶という愚かなレッテル貼りが邪魔して、これまで、十牛図とか、鈴木大拙先生の本は敬遠しておりました・・・。今となれば、実にくだらない偏見です。
最近の学びの影響があって、鈴木先生、秋月先生、山田無文老師の本など読み始めているしだいです。
先日初めて、臨済系のやり方で、坐禅させていただいてとても新鮮な感じがしました。
これから、一緒に頑張ってまいりましょう。
坐禅はやはりいいもんですね。