〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

後悔は反省と似て非なるもの

2006-04-23 | Weblog
きょうは久々の休日だった。で、いろいろやろうと思ったのだが、結局ひとつの作業を始めたら止まらなくなってしまい、こんな時間になってしまったのだ。
一度始めると止まらないのは、そういう気質なのだろう。また一人で生活していると、周りからの目や刺激がないため歯止めが効かないということろがあると思う。そういうときにはものすごく心の視野が狭くなっているのを感じる。
かつて「感覚遮断実験」という危険な心理学的実験があったという。まわりからの刺激から隔絶された被験者は、かなり短時間の内に意識が保てなくなり、自我の崩壊に似た体験をしたという。これは、人の心が本質的にいかに関係的・縁起的な現象として存在するものであるかを示していると思う。
一人で、誰とのしがらみもなく、何の束縛もなく暮らすというのは、一見すごく自由なようでいながら、そういうふうな関係性の中にあってはじめて存在し維持し得ている人間の心にとっては、きわめて不自然である意味不自由なことであるのかもしれない。よほど自覚的でないと、いままでのパターンを繰り返し、惰性のままこれまでのアイデンティティにしがみついているだけということになりかねないだろう。
だから現実との肯定的な関係、他者とのより深く広くより親密な関係がその人の心の豊かさを決めているというのは、そういう意味できわめてリアルな事実だということになる。
さて、反省(自覚的反省「慚」・対他的反省「愧」、ブックマークのブログ授業、本日の記事参照)というのは、後ろ向きにぐちゃぐちゃやって後悔することではなく、未来に向けてよりよい一歩を今踏むために、何がまずかったのかといったん後ろを振り返ることであるとのこと。
反省しているつもりが、ただの不毛な後悔に終わったりしていないだろうか?
惰性で何となくよくなりたいからとあれこれ浅くやるのではなく、明確な目標を定め、その視点からバック・キャストで振り返りつつ、計画的にプログラムを組んで実行していくことが肝心だ。そして言葉だけではなく実行すること。目標がないと、生活をどうするか、どころかいま何をしたら良いかすら組織化することができないのは、あたかも自転車に乗ってて、足下ばかりに気を取られて、まっすぐ行き先・前方を見てないとバランスを崩してしまうのと一緒だ。
それはそうと、後に残る資料系のことは、その時点で面倒くさがらずに処理しておくことが肝心だ。放っておいてあとで見返すと、もはやいつの・何の資料だかわからなくなってしまう。せっかくの貴重な資料も、データがなければ死んでしまうのだ。ひとつひとつやっていくこと。


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