〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

崖っぷちに向かうバスの中で

2006-06-11 | Weblog
環境問題というのは、ほんとうに大きく根深い問題だと思います。

現在読んでいるテキスト、小澤徳太郎氏の『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(朝日新聞社)によれば、われわれの社会の存続すら危ぶまれるようになるまでに至った環境危機に対して、この日本で採られている対策というのはじつに手ぬるく、本質を見失ったものであることがわかります。

つまり、巨大化した社会全体の大量生産・消費・廃棄の経済活動それ自体がもともと環境破壊的であるという事実を見過ごし、というか見て見ぬふりをして、経済規模の拡大という前提を変えないまま、環境のことは小手先の技術開発の推奨とか法・制度改変とかでお茶を濁していると。

また、よくある“良識ある市民”の「できることからはじめる」的な草の根活動も、全地球的な危機の規模と深さに対して、ちょっと考えればわかるようにほとんど実効性がない上に、深刻な事態を矮小化し見えなくさせてしまうという意味で、やはり同じくごまかしがある、とのことです。
これは辛辣ですが、でもなるほどなと思われませんか? エコロジカルな全体の危機を何とかしなければという危機感が、なぜか(その自覚の有無はさておき)私が“いい人”になることに微妙にすり替わっていると。

「右往左往して崖っぷちが迫っているバスの中で、しかしそのことに声を上げられない」という、組織論の譬えについて、たしかに愚かしくはありますが、なんだかすごく生活実感としてわかるような気がしました。

確かにこのままじゃヤバイ、しかし、とりあえずいまいい生活ができてるし、自分が生きている間はとりあえず安泰だろうし、そんな大変なことに取り組んで損をしたりあぶない目を見るのはイヤだし、問題がでかすぎてどうせ何もできやしないし…といった感じでしょうか。

これは人ごとではありません。そういっている自分の生活自体がこの社会の経済活動の中で成り立っている以上、ちょっとゴミを減らそうが車に乗るのを控えようが、危機自体はほとんど何も変わりません。それではもう気休めにもならない。

つまりことは「生活の質」が「モノの豊かさ」にすり替わってしまっているようなこの社会の文化ひいてぼくらの価値観、そしてそれをベースに無目的な成長=肥大をひたすら追求している経済の構造、しかもその全地球規模の問題です。

それを変えるのは何なのでしょうか? 
そのひとつの回答が、どうも経済・福祉・そして環境の先進国スウェーデンにあるらしい。ひきつづき勉強していきたいと思います。


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2 コメント

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Unknown (type1974)
2006-06-11 23:16:15
HIROさん、どうもです。

ま、場所移動しただけですけど、気分一新でがんばりたいと思います。

ランキングのものを見る限り、ちょっとごう慢のようですが、まさに「環境問題の矮小化」ですね。しかしまあそんなものなのでしょう。

さて、どうしたものかな…
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環境問題★ (HIRO)
2006-06-11 07:52:51
環境問題へ移行~良いですね!!



にしても、一位はタバコなんですね・・・。
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