新年になってしまいました…いやいや、なりました。
ブログ更新ご無沙汰でしたが、その日付を見ても時間のたつのの速さが感じられます。若干焦ります。しかし焦りはあまりうまくありません。
フランクルという心理学者が、「人生の時間が有限でなかったらすべてを後回しにしても全然かまわないのだから、結局何をするもしないもどうでもよくなってしまう。人生を意味あるものにするのはじつは人生が有限であり人間が遠からず死んでしまうという事実である」ということを言っているのを学びました。
なるほどなと思います。これは一見よくある人生訓めいた「いいお話」のようですが、そうではなく正確な事実認識ではないでしょうか?
なおこのフランクルの学びはほとんどもっぱら、サングラハ教育・心理研究所でのかつての講座、「生きる意味の心理学――フランクルに学ぶ」で教わったことによっています。いまの日本では得難い学びだったと記憶しています。
かつて学生の頃、フランクルの本を読んだ覚えがあるのですが、「いい話」で終わって読めてなかったなと思います。読めるコンテクストがもともとなく(そもそも「人生」「意味」なんてお笑いのネタだったし)、むろん読書力ということもあったでしょう。
フランクルという人は日本では『夜と霧』の著者として有名で、上記のような人生の意味感覚の発見を促し鼓舞する彼の「ロゴセラピー」という心理学の側面はあまり知られていないように感じます。
(とくに版を重ねた『夜と霧』旧版には、編集者によるものと思われる本文よりずっと分厚いナチス絶滅収容所のいわば暴露記事があり、それはそれでいいのですが、著者の真意という意味では逆に誤解をまねく構成だったと見えます)
重要なのは、一般に認識されているように、フランクルの有名な強制収容所体験が彼の哲学的心理学をもたらしたのではなく、事実は逆で、そういう哲学による心の支え・強靭で柔軟な精神が(無論それだけではなく運も)あったからこそ、彼は苛烈な体験を生き延びることができたということだと思います。
またなぜ彼がそのような哲学と心理学を統合したような体系を作ったかと言えば、その背後にはユダヤ教信仰と一方でのニヒリズムとの格闘という個人的かつ時代的な課題があり、彼の心理学はそれと取り組んだ結果であり、その成果であったとのことです。
(これもまた、みすず書房刊の日本語訳の彼の主著『死と愛』の表紙の写真は絶滅収容所の壁に彫られたキリストの十字架像となっており、それは鬼気迫るものですが、しかしフランクルの著作としては二重に誤解を招くものとなっていると思います)
私たちが生きている日本のこの社会の現実は、まがりなりにも人権も安全も保障されていて、もちろんナチスの強制収容所に比べるべくもありません。
しかし彼の生きた時代状況、つまりキリスト教信仰(彼の場合はユダヤ教信仰ですが)が疑われ廃れ、世の中意味もクソもない(表現はいろいろありますが)というニヒリズムの空っ風が吹きすさぶような内面ということについていえば、時代を超えて課題は共通しているのではないでしょうか?
とくに私たちのこの社会ということについていえば、精神的な荒廃はすさまじいものがあり、それはおそらく西洋世界が18世紀以来時間をかけて徐々に経験してきたニヒリズム=「神の死」を、我が国日本は非常に短期間に、商業主義マスメディアによりいびつに拡大されたどぎつい形で、再現しているということではないかと思われます。
ドイツのナチズム体制がいわばニヒリズムが生んだ政治的怪物だったように、エコロジカルな持続がまず不可能ないびつな経済成長をあくまで追求し、カネが事実上すべてとなっていて「弱者」を切り捨ててはばからない、私たちが巻き込まれ取り組まなければならないところの、「醜い国」になってしまったこの日本社会もまた、形を変えた私たちのニヒリズム=内面的欠落の反映であり、コインの表裏の関係にあるものだと見えます。
私たちは生きる支えを取り戻さなければなりません。
…「生きる支え」などというとすぐに、それは幻想であり「思想的」で「宗教的」であり危険だ、というアレルギー反応が予想されます。それは気持ちとしてはよくわかります。
とくにいまの思想状況というのはそういういことになっていて、逆に危険だと感じます。それはすべてを嘲笑(「お笑い」)しなければ気が済まない神経症的な傾向だと思われるのですが、それは置いておきましょう。
しかし、あえてそういう言葉を使うのなら、その「幻想」こそが心を持ち・持たざるをえない言葉の動物である私たち人間にとって、じつは本質的・不可欠なものであったはずです。
前にロストジェネレーションでいろいろ書いたように、とにかくわれわれ同世代にはそここそがが欠落していると、そういうふうにいっておそらく間違いないと思います。
フランクルの思想はたしかに生きるのを鼓舞してくれるようですが、不勉強を棚にあげてあえて言うと、しかしこの欠落感にはまだ何かが、決定的に足りません。
フランクルの生涯を支えたものはじつはユダヤ教信仰だったことが、彼の自伝からも推察できますが、彼は心理学の著作においてはそのことは意図的に書くのを自重しているようです。むろんそれは賢明な思想的戦略だったと思いますが。
ユダヤ人ではなく、ましてヨーロッパ世界からはるかに離れて精神形成をしてきた私たち日本人が、かつて持っていたといわれる美点のそのさらによりどころとして持っていたもの、つまりニヒリズムに行きつく以前はたしかに心に抱いていたはずのものは何で、それはなぜ失われ、これからそれをどのように整理して取り戻していくか――
絵空事のようですが、このブログでも実生活でも、そのことを今年の課題にしていきたいと思います。
絵空事…といいましたが、先にも書いたようにそういう幻想こそが私たちにとってはまさにリアルだというのが心の現実なのですから、しっかりまじめに「絵空事」をしようと思います。
お年賀には謹賀新年と書きおめでたいということにしておかなければなりませんが、はっきりいって新年を寿ぐのも難しいような、この社会の、そして私たちの内面の現実ということがあります。
しかしなんとかしたいものですし、それはできると思うのです。
何よりフランクルは絶望の果ての強制収容所を単に生き延びるだけでなく生き抜いたのですから、目を向ければ多くのものを与えられている私たちが彼の言うように「よく生きる」ことは、じつは楽勝!のはずです。
書いているうちに新年二日目となってしまいましたが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
ブログ更新ご無沙汰でしたが、その日付を見ても時間のたつのの速さが感じられます。若干焦ります。しかし焦りはあまりうまくありません。
フランクルという心理学者が、「人生の時間が有限でなかったらすべてを後回しにしても全然かまわないのだから、結局何をするもしないもどうでもよくなってしまう。人生を意味あるものにするのはじつは人生が有限であり人間が遠からず死んでしまうという事実である」ということを言っているのを学びました。
なるほどなと思います。これは一見よくある人生訓めいた「いいお話」のようですが、そうではなく正確な事実認識ではないでしょうか?
なおこのフランクルの学びはほとんどもっぱら、サングラハ教育・心理研究所でのかつての講座、「生きる意味の心理学――フランクルに学ぶ」で教わったことによっています。いまの日本では得難い学びだったと記憶しています。
かつて学生の頃、フランクルの本を読んだ覚えがあるのですが、「いい話」で終わって読めてなかったなと思います。読めるコンテクストがもともとなく(そもそも「人生」「意味」なんてお笑いのネタだったし)、むろん読書力ということもあったでしょう。
フランクルという人は日本では『夜と霧』の著者として有名で、上記のような人生の意味感覚の発見を促し鼓舞する彼の「ロゴセラピー」という心理学の側面はあまり知られていないように感じます。
(とくに版を重ねた『夜と霧』旧版には、編集者によるものと思われる本文よりずっと分厚いナチス絶滅収容所のいわば暴露記事があり、それはそれでいいのですが、著者の真意という意味では逆に誤解をまねく構成だったと見えます)
重要なのは、一般に認識されているように、フランクルの有名な強制収容所体験が彼の哲学的心理学をもたらしたのではなく、事実は逆で、そういう哲学による心の支え・強靭で柔軟な精神が(無論それだけではなく運も)あったからこそ、彼は苛烈な体験を生き延びることができたということだと思います。
またなぜ彼がそのような哲学と心理学を統合したような体系を作ったかと言えば、その背後にはユダヤ教信仰と一方でのニヒリズムとの格闘という個人的かつ時代的な課題があり、彼の心理学はそれと取り組んだ結果であり、その成果であったとのことです。
(これもまた、みすず書房刊の日本語訳の彼の主著『死と愛』の表紙の写真は絶滅収容所の壁に彫られたキリストの十字架像となっており、それは鬼気迫るものですが、しかしフランクルの著作としては二重に誤解を招くものとなっていると思います)
私たちが生きている日本のこの社会の現実は、まがりなりにも人権も安全も保障されていて、もちろんナチスの強制収容所に比べるべくもありません。
しかし彼の生きた時代状況、つまりキリスト教信仰(彼の場合はユダヤ教信仰ですが)が疑われ廃れ、世の中意味もクソもない(表現はいろいろありますが)というニヒリズムの空っ風が吹きすさぶような内面ということについていえば、時代を超えて課題は共通しているのではないでしょうか?
とくに私たちのこの社会ということについていえば、精神的な荒廃はすさまじいものがあり、それはおそらく西洋世界が18世紀以来時間をかけて徐々に経験してきたニヒリズム=「神の死」を、我が国日本は非常に短期間に、商業主義マスメディアによりいびつに拡大されたどぎつい形で、再現しているということではないかと思われます。
ドイツのナチズム体制がいわばニヒリズムが生んだ政治的怪物だったように、エコロジカルな持続がまず不可能ないびつな経済成長をあくまで追求し、カネが事実上すべてとなっていて「弱者」を切り捨ててはばからない、私たちが巻き込まれ取り組まなければならないところの、「醜い国」になってしまったこの日本社会もまた、形を変えた私たちのニヒリズム=内面的欠落の反映であり、コインの表裏の関係にあるものだと見えます。
私たちは生きる支えを取り戻さなければなりません。
…「生きる支え」などというとすぐに、それは幻想であり「思想的」で「宗教的」であり危険だ、というアレルギー反応が予想されます。それは気持ちとしてはよくわかります。
とくにいまの思想状況というのはそういういことになっていて、逆に危険だと感じます。それはすべてを嘲笑(「お笑い」)しなければ気が済まない神経症的な傾向だと思われるのですが、それは置いておきましょう。
しかし、あえてそういう言葉を使うのなら、その「幻想」こそが心を持ち・持たざるをえない言葉の動物である私たち人間にとって、じつは本質的・不可欠なものであったはずです。
前にロストジェネレーションでいろいろ書いたように、とにかくわれわれ同世代にはそここそがが欠落していると、そういうふうにいっておそらく間違いないと思います。
フランクルの思想はたしかに生きるのを鼓舞してくれるようですが、不勉強を棚にあげてあえて言うと、しかしこの欠落感にはまだ何かが、決定的に足りません。
フランクルの生涯を支えたものはじつはユダヤ教信仰だったことが、彼の自伝からも推察できますが、彼は心理学の著作においてはそのことは意図的に書くのを自重しているようです。むろんそれは賢明な思想的戦略だったと思いますが。
ユダヤ人ではなく、ましてヨーロッパ世界からはるかに離れて精神形成をしてきた私たち日本人が、かつて持っていたといわれる美点のそのさらによりどころとして持っていたもの、つまりニヒリズムに行きつく以前はたしかに心に抱いていたはずのものは何で、それはなぜ失われ、これからそれをどのように整理して取り戻していくか――
絵空事のようですが、このブログでも実生活でも、そのことを今年の課題にしていきたいと思います。
絵空事…といいましたが、先にも書いたようにそういう幻想こそが私たちにとってはまさにリアルだというのが心の現実なのですから、しっかりまじめに「絵空事」をしようと思います。
お年賀には謹賀新年と書きおめでたいということにしておかなければなりませんが、はっきりいって新年を寿ぐのも難しいような、この社会の、そして私たちの内面の現実ということがあります。
しかしなんとかしたいものですし、それはできると思うのです。
何よりフランクルは絶望の果ての強制収容所を単に生き延びるだけでなく生き抜いたのですから、目を向ければ多くのものを与えられている私たちが彼の言うように「よく生きる」ことは、じつは楽勝!のはずです。
書いているうちに新年二日目となってしまいましたが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます