世界価値観調査(WVS)による国際比較について、今回はいわゆる「価値観」そのものを決定づけている根本的な価値観について、そのものズバリの質問、
「あなたは神を信じているか」
である。
WVSの数ある調査項目のうちでも、人の価値体系の核心に最も迫る調査項目と言えるだろう。
私もごく普通の日本人として、日常の中でいきなり「神を信じているか」などと聞かれたら、
というような考えが無意識に瞬時に巡り、結局「よくワカリマセン」などとあいまいに答えるような気がする。
お読みのみなさんも(伝統的なものでない特定の信仰を持っている方を除き)、ほとんどが同じような感覚ではないかと思うが、いかがだろうか。
それほど「神」を「信じる」というのは、多くの私たち日本人の日常感覚から離れている。
しかし一方で、例えば筆者の明治生まれの祖父母は、朝な夕なに仏壇に手を合わせ、神棚に手を合わせる人々であった。先祖への尊敬と、天皇・皇室への崇敬の念は同じように強かった。
彼らが「神(仏・ご先祖さま)を信じているか」と尋ねられたら、間違いなく「信じている」と答えたに違いない。
彼ら祖父母たち、すなわちかつての日本人たちの場合、例えば欧米人のようなものと違って、信念として論理的には神・仏・祖霊が混交しあいまいになっているように見える。
しかし、その宗教的心情は極めて確固としたものだった。
そして祖父母たちの世代は極めて真面目で働き者の人々であった。物的困難にもかかわらず精神的には健康であり、彼らの世代では例えば「うつ病」といった心の病気はごくわずかであっただろう。
おそらく「真面目」や「心の強さ」と「大いなる何者かへの畏敬」は、間違いなくセットになったものである。
いま「宗教的心情」と書いたが、より正確には「伝統的コスモロジーを純粋にそのまま疑っていない状態」とでも言い換えた方が、より正確であると思う。
コスモロジーとは、宇宙観・世界観・人生観をひっくるめた価値観の総体のことであることは前に述べた。
そして近代以前のコスモロジーは、すべてが宗教的コスモロジーだったのである。
コスモロジーと人の心ないし深層心理の関係について、詳しくは岡野守也『コスモロジーの心理学』や『唯識の心理学』(いずれも青土社)等を参照してほしい。ここで書いていることの理論的ベースはすべて岡野先生の思想によっている。
しかし誰が語るのであれ、こうしたことは普遍的事実だといってよいと思う。
さて、一方で戦前・戦争期に生まれ戦後教育を受けた私の両親の、同じ神・仏・祖霊に対する心情、すなわち伝統的コスモロジーは、すでにかなりあいまいなものになっていた。
そもそも亡父は「迷信だ」と言って宗教的なものに終生軽蔑の念を示していたし、今年80歳になる認知症の母は、いまも形ばかり仏壇に水をあげたりしているが、昔から単に習慣としてやっているだけのようであり、祈る姿はほとんど見たことがない。
この事情は、おそらく世代を下るほどそうであろうと思う。
私および同世代以降の中からは、リアルなものとしての神・仏・祖霊ははっきりと死に絶えつつある。若い世代については言うまでもない。
つまり、いわゆる「明治維新」に始まる近代化後、日本人の中からは世代を経て神的なものは徐々に消滅してきたのだが、アタマの先ではともかく、心の深層ではその進行はゆっくりしたものであったのだと思う。
とくに庶民レベルでは戦前まで、ほぼ伝統的コスモロジーの中に人々は生きていた。天皇がてっぺんに付加されたが、素朴な信仰心という意味で、心情的には変わるものではなかっただろう。
それが戦後を生きた祖父母たちの姿だったのだ。
彼らには、ニーチェ的な「神(的なもの)の死」はまだ縁遠いものであったのである。
旧来のコスモロジーの崩壊すなわち「神の死」は、日本の場合特に戦争及び占領期を挟んで決定的なものになったのではないかと強く推測される。
「推測」と書いたが、そのことは職務上約20年にわたり多数の高齢者(実数で千人は超えていることだろう)とかかわってきた私の体験から、個人的には確実だと実感している。
戦争・占領期を挟んで、どちらの時期に価値観を形成をしたかで、それほど人々の印象が大きく変わることを実体験してきたのである。
おそらく、ヒトの人格形成の根本的な部分で、いかなる価値体系=コスモロジーを抱いているかが極めて重要となるのだと思う。
いま日本は先の見えない下り坂を下っている。経済的なプレゼンスは世界の中でますます後退しつつある。子どもの人口は過去40年にわたり減少し続けているという。新型コロナウィルスの対策で他国に遅れをとっているのも、総体で見ればそのためだと思われる。
国力の衰微、いわば緩慢な亡国の過程にあるというのが、クールに見れば日本の現状なのだというほかない。その根底には、コスモロジーないし確固とした価値体系、集団レベルでいえば国民としての統合の原理の、深刻な「深層崩壊」があると見えてならない。
あらゆるコスモロジーの中核には「神(的な大いなる全体)」があるわけだが、一方で現在の私たち日本人は「神や仏など人生に関係ない」、つまり「コスモロジーなど意味がない」と心底思いこんでいる。もちろん、かくいう私も例外ではなかった。
では、現在の私たちのこうした感覚は、世界的に見ていったいどうなのか。
それが世界共通のごく普通の感覚なのであれば仕方がないし、それでよい。
しかしもし世界の中で特殊なもので、しかも日本人がもともと持っていた感覚とも大きく違ってしまっているのだとしたら、どうだろう。だとすれば、そこに現在の日本の「弱さ」の根源がある可能性は高い。
WVSに戻れば、次に挙げるグラフは、
との質問に対して、「God(神)」という選択肢に「Yes」と答えた人の割合を、上位からランキングしたものである。
回答データのある国・地域は全部で54に及ぶ。
真ん中より下あたりにある国名が空白の棒グラフが、全部の国・地域の回答の割合を示している。おおむね世界の平均値といったところだろう。
(つづく)
*なお、質問文の翻訳がWVSAのサイトで各国語で確認できることは知らなかった。今回からWAVE6(第6次調査)の質問文を和訳を含め掲載したい。
「あなたは神を信じているか」
である。
WVSの数ある調査項目のうちでも、人の価値体系の核心に最も迫る調査項目と言えるだろう。
私もごく普通の日本人として、日常の中でいきなり「神を信じているか」などと聞かれたら、
「変な質問だな。神さまなんて」
「神さまがいるような気はするけれど、でも科学では証明できないよな」
「いないかもしれない。いや、いないんじゃないか」
「いるといいけど、それにしちゃ世の中ひどすぎるし」
「でもいないって言いきるのもちょっと…」
「そういえばそもそも実家は仏教の檀家だな」
「ところで『神』って、日本の神さまのことなのか?
「そもそも仏さまやご先祖さまって『神』なのか?」
「神さまがいるような気はするけれど、でも科学では証明できないよな」
「いないかもしれない。いや、いないんじゃないか」
「いるといいけど、それにしちゃ世の中ひどすぎるし」
「でもいないって言いきるのもちょっと…」
「そういえばそもそも実家は仏教の檀家だな」
「ところで『神』って、日本の神さまのことなのか?
「そもそも仏さまやご先祖さまって『神』なのか?」
というような考えが無意識に瞬時に巡り、結局「よくワカリマセン」などとあいまいに答えるような気がする。
お読みのみなさんも(伝統的なものでない特定の信仰を持っている方を除き)、ほとんどが同じような感覚ではないかと思うが、いかがだろうか。
それほど「神」を「信じる」というのは、多くの私たち日本人の日常感覚から離れている。
しかし一方で、例えば筆者の明治生まれの祖父母は、朝な夕なに仏壇に手を合わせ、神棚に手を合わせる人々であった。先祖への尊敬と、天皇・皇室への崇敬の念は同じように強かった。
彼らが「神(仏・ご先祖さま)を信じているか」と尋ねられたら、間違いなく「信じている」と答えたに違いない。
彼ら祖父母たち、すなわちかつての日本人たちの場合、例えば欧米人のようなものと違って、信念として論理的には神・仏・祖霊が混交しあいまいになっているように見える。
しかし、その宗教的心情は極めて確固としたものだった。
そして祖父母たちの世代は極めて真面目で働き者の人々であった。物的困難にもかかわらず精神的には健康であり、彼らの世代では例えば「うつ病」といった心の病気はごくわずかであっただろう。
おそらく「真面目」や「心の強さ」と「大いなる何者かへの畏敬」は、間違いなくセットになったものである。
いま「宗教的心情」と書いたが、より正確には「伝統的コスモロジーを純粋にそのまま疑っていない状態」とでも言い換えた方が、より正確であると思う。
コスモロジーとは、宇宙観・世界観・人生観をひっくるめた価値観の総体のことであることは前に述べた。
そして近代以前のコスモロジーは、すべてが宗教的コスモロジーだったのである。
コスモロジーと人の心ないし深層心理の関係について、詳しくは岡野守也『コスモロジーの心理学』や『唯識の心理学』(いずれも青土社)等を参照してほしい。ここで書いていることの理論的ベースはすべて岡野先生の思想によっている。
しかし誰が語るのであれ、こうしたことは普遍的事実だといってよいと思う。
さて、一方で戦前・戦争期に生まれ戦後教育を受けた私の両親の、同じ神・仏・祖霊に対する心情、すなわち伝統的コスモロジーは、すでにかなりあいまいなものになっていた。
そもそも亡父は「迷信だ」と言って宗教的なものに終生軽蔑の念を示していたし、今年80歳になる認知症の母は、いまも形ばかり仏壇に水をあげたりしているが、昔から単に習慣としてやっているだけのようであり、祈る姿はほとんど見たことがない。
この事情は、おそらく世代を下るほどそうであろうと思う。
私および同世代以降の中からは、リアルなものとしての神・仏・祖霊ははっきりと死に絶えつつある。若い世代については言うまでもない。
つまり、いわゆる「明治維新」に始まる近代化後、日本人の中からは世代を経て神的なものは徐々に消滅してきたのだが、アタマの先ではともかく、心の深層ではその進行はゆっくりしたものであったのだと思う。
とくに庶民レベルでは戦前まで、ほぼ伝統的コスモロジーの中に人々は生きていた。天皇がてっぺんに付加されたが、素朴な信仰心という意味で、心情的には変わるものではなかっただろう。
それが戦後を生きた祖父母たちの姿だったのだ。
彼らには、ニーチェ的な「神(的なもの)の死」はまだ縁遠いものであったのである。
旧来のコスモロジーの崩壊すなわち「神の死」は、日本の場合特に戦争及び占領期を挟んで決定的なものになったのではないかと強く推測される。
「推測」と書いたが、そのことは職務上約20年にわたり多数の高齢者(実数で千人は超えていることだろう)とかかわってきた私の体験から、個人的には確実だと実感している。
戦争・占領期を挟んで、どちらの時期に価値観を形成をしたかで、それほど人々の印象が大きく変わることを実体験してきたのである。
おそらく、ヒトの人格形成の根本的な部分で、いかなる価値体系=コスモロジーを抱いているかが極めて重要となるのだと思う。
いま日本は先の見えない下り坂を下っている。経済的なプレゼンスは世界の中でますます後退しつつある。子どもの人口は過去40年にわたり減少し続けているという。新型コロナウィルスの対策で他国に遅れをとっているのも、総体で見ればそのためだと思われる。
国力の衰微、いわば緩慢な亡国の過程にあるというのが、クールに見れば日本の現状なのだというほかない。その根底には、コスモロジーないし確固とした価値体系、集団レベルでいえば国民としての統合の原理の、深刻な「深層崩壊」があると見えてならない。
あらゆるコスモロジーの中核には「神(的な大いなる全体)」があるわけだが、一方で現在の私たち日本人は「神や仏など人生に関係ない」、つまり「コスモロジーなど意味がない」と心底思いこんでいる。もちろん、かくいう私も例外ではなかった。
では、現在の私たちのこうした感覚は、世界的に見ていったいどうなのか。
それが世界共通のごく普通の感覚なのであれば仕方がないし、それでよい。
しかしもし世界の中で特殊なもので、しかも日本人がもともと持っていた感覚とも大きく違ってしまっているのだとしたら、どうだろう。だとすれば、そこに現在の日本の「弱さ」の根源がある可能性は高い。
WVSに戻れば、次に挙げるグラフは、
In which of the following things do you believe, if you believe in any?
(あなたは次にあげるものの存在を信じますか)
(あなたは次にあげるものの存在を信じますか)
との質問に対して、「God(神)」という選択肢に「Yes」と答えた人の割合を、上位からランキングしたものである。
回答データのある国・地域は全部で54に及ぶ。
真ん中より下あたりにある国名が空白の棒グラフが、全部の国・地域の回答の割合を示している。おおむね世界の平均値といったところだろう。
(つづく)
*なお、質問文の翻訳がWVSAのサイトで各国語で確認できることは知らなかった。今回からWAVE6(第6次調査)の質問文を和訳を含め掲載したい。
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