まちがいなく(たぶんいろいろで証明できると思います)昔の日本の社会はまじめで、そういう意味で強い倫理感が働いていたように思われます。いろいろ議論の余地があるにしても総体としてそういって間違いないと思います。
資料をもって主張するほどの勉強はしていませんが、しかしみなさんの祖父母の世代を実際の記憶をもとにとらえてみると、いまとずいぶん違っているのではないでしょうか。
昔にあって、いまそうとうに無くなってしまっていると思われるもの、それはつまり私たちの心の中の倫理感であり、倫理感とは口先のものではなく、生まれてこの方深層心理にいわば埋め込まれてきたもので、それは社会のコスモロジー、前近代にあっては宗教こそがそれであったと思われます。
で、近代になり、ひじょうにおおざっぱなとらえ方ではありますが、その共有された宗教心をベースに、それを含んで超えるかたちで、国民国家的な民族としての結集が可能になったのだと思います。
日本の場合は外圧でそうせざるを得ず、しかも時間的な余裕もなかったことから、伝統的な宗教心に無理やり天皇陛下を乗っけるかたちになったようです。
(近代に持ち上げられた神道・儒教の陰に隠れて忘れらがちですが、仏教こそがまさにその中心だったそうです。たとえば日本の伝統美術・建築、等々がほぼすべて仏教に由来するものであることから考えると、それには非常に説得力があります)
そこにそうとうな無理があったとはいえ、なにせ当時は「欧米列強に伍」さなければほんとうに国を骨抜きにされてしまうという危機的状況だったのですから、いわば緊急措置としての正当性はあったという必要があると思います。
私たちに引きつけて考えれば、そのようにして培われてきた倫理感とは、大雑把に見て、そのレベルではいわゆる「愛国心」と不即不離、いわばコインの表裏として一体であったといってもいいのではないのでしょうか。
つまり国=「大きな意味での私たち」がどうでもよければ、この社会をよりよくしていこうということは意味を失います。
どころかよい生き方をしよう、人とうまくやっていこう、という動機が無くなってしまうからです。そうではないでしょうか?
そうした個人的なレベルでの倫理感も「わたしたち」という根拠抜きには存在しえないからです。あとは個々ばらばらにやってくしかない、と。
いきなり話が飛ぶようですが、たとえば最近の凶悪犯罪の彼らにはたぶん間違いなく個人的なレベルでの倫理感が欠落し、いうまでもなく「愛国心」はほぼかけらも存在しなかったでしょう。
家族歴や成育歴や職歴でいろいろ言われていますし、人格形成においてそういう要因がきわめて大きいのは間違いありません。
しかし言いたいことは、そういう社会的関係は、そのベースに働いている意識、みんなでよりよくやっていこうという共有された心がなければそもそも機能しえず、それはいいかえれば集団でやっていこうという倫理感であり、それは端的に愛国心ではなかったか、ということです。
たとえば、かつての相当物質的窮乏のきびしかった時代にしかしこのような犯罪が起きず、いろいろあっても物質的・情報的に満ちているこの時代にこのようなことが起きるという、その条件の根本的な違いは、単に社会的関係性に求めるには無理があると思われるのです。
ところで愛国心ということについては、いうまでもなくタブーとなっているニュアンスが濃厚にがあります。
私もブログじゃなかったらこんなことは言うのをはばかるところです。
そして問題はまさにそこにあります。
タブーと感じるということは、その背後・深層に働いている、私たち日本人の大きなわだかまりというか混乱があるのは間違いないからです。
(「愛国心」でなく「集団的なセルフアイデンティティ」とかと言い換えれば若干受け取りやすいなと感じています。しかし言っていることは変わりません。)
この場合、それはまさしく戦争の記憶に他ならないでしょう。
私たちにとって、先の戦争(大東亜戦争/太平洋戦争)に対する思いには非常に複雑なものがあります。
それは上に書いたように、日本というのは「わが祖国」であり、「私が私である」ことの理由のひじょうに大きな一部であり、そういう意味で日本=私・私たちといっても過言ではないからです。
難しいのは、この事を取り上げるのは、その大きな意味での「私・私たち」(わずか2・3世代上の世代のなしたこと)の、いわば「犯罪」をどのようにとらえるかという、私たちの感情を深いところから刺激する作業だからだと思います。
結果を見ればあの戦争は自他に多大な迷惑をかけた世紀の愚行といわなければ言葉の正しい意味で嘘になってしまいます。
犯罪は正しく犯罪といわなければならない。
そういう意味で戦前・戦中のいわゆる軍国主義といわれる日本の国家体制にはそうとうな問題があったと言わざるを得ないと思います。
で、一方、たしかに犯罪は犯罪、しかしそれだけをもって私たちが「我が国の過去は罪だけであった」と歴史(われわれのライフヒストリー)を断罪していいのでしょうか。
はやりの言葉でいえば、これは私たちの「トラウマ」に他ならないでしょう。
そして個人の「トラウマ」同様、そこには起こった事態をあり得ないことだと捉える「過度の一般化」という非合理的な論理が働いているように見えます。
たとえば日本の近代におけるそのような歩みには相対的に正当性はなかったのか。
ほかにどのような選択肢があったのか、それは実際に可能だったのか、
またたとえば私たちの国の「犯罪」を声高に言いつのる他者の足元はどうなのか。
ようは私たちのライフヒストリーの「暗部」のとらえ方を問題にしたいということで、時間を見てそのことを書いていきたいと思います。
なぜ書くかは単なる個人的なこだわりが動機の大半のような気がしますが、しかし私個人もまたこの国に根差す存在で、お読みのみなさんもそうなのですから、もし思いをシェアしていただければそれにも何がしかの意味があるのではないかと思います。
日本史知識的にははなはだ心もとないのですが、しかしある意味典型的な現代日本人だからこそ書くべき…書けることがあるのではないか、ということです。
資料をもって主張するほどの勉強はしていませんが、しかしみなさんの祖父母の世代を実際の記憶をもとにとらえてみると、いまとずいぶん違っているのではないでしょうか。
昔にあって、いまそうとうに無くなってしまっていると思われるもの、それはつまり私たちの心の中の倫理感であり、倫理感とは口先のものではなく、生まれてこの方深層心理にいわば埋め込まれてきたもので、それは社会のコスモロジー、前近代にあっては宗教こそがそれであったと思われます。
で、近代になり、ひじょうにおおざっぱなとらえ方ではありますが、その共有された宗教心をベースに、それを含んで超えるかたちで、国民国家的な民族としての結集が可能になったのだと思います。
日本の場合は外圧でそうせざるを得ず、しかも時間的な余裕もなかったことから、伝統的な宗教心に無理やり天皇陛下を乗っけるかたちになったようです。
(近代に持ち上げられた神道・儒教の陰に隠れて忘れらがちですが、仏教こそがまさにその中心だったそうです。たとえば日本の伝統美術・建築、等々がほぼすべて仏教に由来するものであることから考えると、それには非常に説得力があります)
そこにそうとうな無理があったとはいえ、なにせ当時は「欧米列強に伍」さなければほんとうに国を骨抜きにされてしまうという危機的状況だったのですから、いわば緊急措置としての正当性はあったという必要があると思います。
私たちに引きつけて考えれば、そのようにして培われてきた倫理感とは、大雑把に見て、そのレベルではいわゆる「愛国心」と不即不離、いわばコインの表裏として一体であったといってもいいのではないのでしょうか。
つまり国=「大きな意味での私たち」がどうでもよければ、この社会をよりよくしていこうということは意味を失います。
どころかよい生き方をしよう、人とうまくやっていこう、という動機が無くなってしまうからです。そうではないでしょうか?
そうした個人的なレベルでの倫理感も「わたしたち」という根拠抜きには存在しえないからです。あとは個々ばらばらにやってくしかない、と。
いきなり話が飛ぶようですが、たとえば最近の凶悪犯罪の彼らにはたぶん間違いなく個人的なレベルでの倫理感が欠落し、いうまでもなく「愛国心」はほぼかけらも存在しなかったでしょう。
家族歴や成育歴や職歴でいろいろ言われていますし、人格形成においてそういう要因がきわめて大きいのは間違いありません。
しかし言いたいことは、そういう社会的関係は、そのベースに働いている意識、みんなでよりよくやっていこうという共有された心がなければそもそも機能しえず、それはいいかえれば集団でやっていこうという倫理感であり、それは端的に愛国心ではなかったか、ということです。
たとえば、かつての相当物質的窮乏のきびしかった時代にしかしこのような犯罪が起きず、いろいろあっても物質的・情報的に満ちているこの時代にこのようなことが起きるという、その条件の根本的な違いは、単に社会的関係性に求めるには無理があると思われるのです。
ところで愛国心ということについては、いうまでもなくタブーとなっているニュアンスが濃厚にがあります。
私もブログじゃなかったらこんなことは言うのをはばかるところです。
そして問題はまさにそこにあります。
タブーと感じるということは、その背後・深層に働いている、私たち日本人の大きなわだかまりというか混乱があるのは間違いないからです。
(「愛国心」でなく「集団的なセルフアイデンティティ」とかと言い換えれば若干受け取りやすいなと感じています。しかし言っていることは変わりません。)
この場合、それはまさしく戦争の記憶に他ならないでしょう。
私たちにとって、先の戦争(大東亜戦争/太平洋戦争)に対する思いには非常に複雑なものがあります。
それは上に書いたように、日本というのは「わが祖国」であり、「私が私である」ことの理由のひじょうに大きな一部であり、そういう意味で日本=私・私たちといっても過言ではないからです。
難しいのは、この事を取り上げるのは、その大きな意味での「私・私たち」(わずか2・3世代上の世代のなしたこと)の、いわば「犯罪」をどのようにとらえるかという、私たちの感情を深いところから刺激する作業だからだと思います。
結果を見ればあの戦争は自他に多大な迷惑をかけた世紀の愚行といわなければ言葉の正しい意味で嘘になってしまいます。
犯罪は正しく犯罪といわなければならない。
そういう意味で戦前・戦中のいわゆる軍国主義といわれる日本の国家体制にはそうとうな問題があったと言わざるを得ないと思います。
で、一方、たしかに犯罪は犯罪、しかしそれだけをもって私たちが「我が国の過去は罪だけであった」と歴史(われわれのライフヒストリー)を断罪していいのでしょうか。
はやりの言葉でいえば、これは私たちの「トラウマ」に他ならないでしょう。
そして個人の「トラウマ」同様、そこには起こった事態をあり得ないことだと捉える「過度の一般化」という非合理的な論理が働いているように見えます。
たとえば日本の近代におけるそのような歩みには相対的に正当性はなかったのか。
ほかにどのような選択肢があったのか、それは実際に可能だったのか、
またたとえば私たちの国の「犯罪」を声高に言いつのる他者の足元はどうなのか。
ようは私たちのライフヒストリーの「暗部」のとらえ方を問題にしたいということで、時間を見てそのことを書いていきたいと思います。
なぜ書くかは単なる個人的なこだわりが動機の大半のような気がしますが、しかし私個人もまたこの国に根差す存在で、お読みのみなさんもそうなのですから、もし思いをシェアしていただければそれにも何がしかの意味があるのではないかと思います。
日本史知識的にははなはだ心もとないのですが、しかしある意味典型的な現代日本人だからこそ書くべき…書けることがあるのではないか、ということです。
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