上記のような表題で書き始めたのは、ずいぶん前に売れた(と思う)「お笑い創価学会」とか「お笑い北朝鮮」にあやかって、これまでの文脈から西欧列強の植民地戦争と世界支配、そしてそのあと追いの模倣をやって現地に大迷惑をかけ自らもひどい目にあった近代日本のアジア進出/侵略、当時大真面目に行われたそんな国家の愚行を、現代の視点から笑い倒そうして相対化しよう――というような、そんな殊勝な意図からでは全くない。
「帝国主義を笑う」のではなくて、「お笑いが帝国主義」なのである。
言いたいのは、いまのテレビとかなんとかでやっている「お笑い」なるものが、この社会の雰囲気というか人間関係の間の取り方というかの中で、ほとんど「帝国主義」と化しているといっていいほど傲慢にも幅を利かしているのではないか……そういう強烈な違和感が感じられてならないということだ。
民放テレビは10年くらい前からすでに見るに耐えない状況になっている。
ともかく10秒くらい見ているとイライラしてくるか腹が立ってくる。
どの番組見てもお笑い・お笑い。
何が面白いのか?
最近じゃご丁寧にも右下とかのちっちゃい画面で「コメンテーター」が場面に表情を合わせて笑っている。
そして絶えずなんか下にテロップが出て、笑いのポイントを強調して笑わせようとしているらしい。
視聴者をバカにしているのか?
そんな自分にとって唯一の味方だったNHKにも、恐るべきことに「お笑い」が相当に侵食してきている。
いうまでもなくドラマもお笑い、スポーツもお笑い、政治もお笑い。
環境問題で北極の氷が解けてもお笑いにせずにはすまないらしい。
これは冗談ごとではなく、日々のニュースがお笑いに支配される日も近いであろうと、そう思われるのである。
違和感なんていうニュートラルな言い方をしてみたが、ようするにこう書いている自分は「お笑い」なるものが大っきらいだ、ということである。
つまり最近の風呂屋(自宅に風呂がないからである。そのぶん家賃は安くすむ)にはご丁寧に大画面テレビが浴室に取り付けられており、しかも両面の壁に2台取り付けられ、外付けスピーカーで大音量で流している。
そしてそれがいつもお笑い(というか民放のこの時間は「バラエティ」というやつしかやっていないのだろう)。
両方のスピーカーから音の響く風呂場の中なので、何言っているかは聞きとれず、ひたすら「ゲハゲハゲハゲハ」というようなどでかい音声だけが渦巻く。
別の風呂屋を選べばいいところだが、あいにく23時以降開いている風呂屋はそこしかないのである。
それはともかく、そんなふうにメディアの垂れ流す「お笑い」の毒電波攻撃がこの社会を覆いつくしている(あ、この表現は危ないな)。とりわけわれわれの人間関係を、だ。
そしていまや「お笑い」に乗れないようじゃ周囲との会話もままならないというようなひどい状況になっているのではないか?
ぜんぜん笑えないのだが「そこは笑うところでしょ」みたいに。
「お笑い」のくせにそれにのれない奴に対してはきわめて不寛容ときているのである。
「まじめな」話などはこの体制下では危険なのでしてはならない。
とにかくなんらかの「笑える」軽い要素をまぶしてコミュニケーションしなければならないのだが、そこにもメディア的な微妙なコードがあるらしく、外すと危ない。
ちょっとまえに言われた「KY」とかいうのも、ようするにそういうことだろう。
そこにはアウトサイダーには立ち入りがたいのである。
今の社会で妙に幅を利かせていてますます雰囲気的な圧力を強める「お笑い」、それに乗れない人間を排除し抑圧するようなほとんど権力と化した「お笑い」、大切な問題を何でも茶化して無化しないではいられない「お笑い」、表情筋と咽頭を使って脳幹あたりでゲハゲハ条件反射する「お笑い」…ともかくそんなほとんど「帝国主義化」した厚かましい「お笑い」が、大っきらいだということだ。
これを読んでる人!
もしあなたが同じように、大っぴらには危険なので言えないが本当はそんな「お笑い」に乗れないものを感じているのならあなたは友達だ。さらにはっきりと大っきらいなのならあなたは同志だ。こんなバカげたお笑い帝国主義をともに粉砕しよう!
そしてもしあなたが「お笑い帝国主義」の体制内部の人なら、ようするに上に書いたことは「そんなあなたはバカだ」と言っているのとほとんど同じなのであるから、「そんなオマエに人をバカ扱いする資格があるのか」と、ぜひ正当な怒りを感じていただきたい。
そして怒りを感じたのならそのことについて議論しようではないか。
冗談のつもりで書きだした上記ですが…実は半分本気だったりして。
「帝国主義を笑う」のではなくて、「お笑いが帝国主義」なのである。
言いたいのは、いまのテレビとかなんとかでやっている「お笑い」なるものが、この社会の雰囲気というか人間関係の間の取り方というかの中で、ほとんど「帝国主義」と化しているといっていいほど傲慢にも幅を利かしているのではないか……そういう強烈な違和感が感じられてならないということだ。
民放テレビは10年くらい前からすでに見るに耐えない状況になっている。
ともかく10秒くらい見ているとイライラしてくるか腹が立ってくる。
どの番組見てもお笑い・お笑い。
何が面白いのか?
最近じゃご丁寧にも右下とかのちっちゃい画面で「コメンテーター」が場面に表情を合わせて笑っている。
そして絶えずなんか下にテロップが出て、笑いのポイントを強調して笑わせようとしているらしい。
視聴者をバカにしているのか?
そんな自分にとって唯一の味方だったNHKにも、恐るべきことに「お笑い」が相当に侵食してきている。
いうまでもなくドラマもお笑い、スポーツもお笑い、政治もお笑い。
環境問題で北極の氷が解けてもお笑いにせずにはすまないらしい。
これは冗談ごとではなく、日々のニュースがお笑いに支配される日も近いであろうと、そう思われるのである。
違和感なんていうニュートラルな言い方をしてみたが、ようするにこう書いている自分は「お笑い」なるものが大っきらいだ、ということである。
つまり最近の風呂屋(自宅に風呂がないからである。そのぶん家賃は安くすむ)にはご丁寧に大画面テレビが浴室に取り付けられており、しかも両面の壁に2台取り付けられ、外付けスピーカーで大音量で流している。
そしてそれがいつもお笑い(というか民放のこの時間は「バラエティ」というやつしかやっていないのだろう)。
両方のスピーカーから音の響く風呂場の中なので、何言っているかは聞きとれず、ひたすら「ゲハゲハゲハゲハ」というようなどでかい音声だけが渦巻く。
別の風呂屋を選べばいいところだが、あいにく23時以降開いている風呂屋はそこしかないのである。
それはともかく、そんなふうにメディアの垂れ流す「お笑い」の毒電波攻撃がこの社会を覆いつくしている(あ、この表現は危ないな)。とりわけわれわれの人間関係を、だ。
そしていまや「お笑い」に乗れないようじゃ周囲との会話もままならないというようなひどい状況になっているのではないか?
ぜんぜん笑えないのだが「そこは笑うところでしょ」みたいに。
「お笑い」のくせにそれにのれない奴に対してはきわめて不寛容ときているのである。
「まじめな」話などはこの体制下では危険なのでしてはならない。
とにかくなんらかの「笑える」軽い要素をまぶしてコミュニケーションしなければならないのだが、そこにもメディア的な微妙なコードがあるらしく、外すと危ない。
ちょっとまえに言われた「KY」とかいうのも、ようするにそういうことだろう。
そこにはアウトサイダーには立ち入りがたいのである。
今の社会で妙に幅を利かせていてますます雰囲気的な圧力を強める「お笑い」、それに乗れない人間を排除し抑圧するようなほとんど権力と化した「お笑い」、大切な問題を何でも茶化して無化しないではいられない「お笑い」、表情筋と咽頭を使って脳幹あたりでゲハゲハ条件反射する「お笑い」…ともかくそんなほとんど「帝国主義化」した厚かましい「お笑い」が、大っきらいだということだ。
これを読んでる人!
もしあなたが同じように、大っぴらには危険なので言えないが本当はそんな「お笑い」に乗れないものを感じているのならあなたは友達だ。さらにはっきりと大っきらいなのならあなたは同志だ。こんなバカげたお笑い帝国主義をともに粉砕しよう!
そしてもしあなたが「お笑い帝国主義」の体制内部の人なら、ようするに上に書いたことは「そんなあなたはバカだ」と言っているのとほとんど同じなのであるから、「そんなオマエに人をバカ扱いする資格があるのか」と、ぜひ正当な怒りを感じていただきたい。
そして怒りを感じたのならそのことについて議論しようではないか。
冗談のつもりで書きだした上記ですが…実は半分本気だったりして。
笑わそうと、笑おうとなんだかヒステリックです。
おまけに笑わないとKYといって変人になってしまいます。
陰惨なことになっていて、不快です。
にもかかわらず、なかにはおもしろいものもあって、あまりのばかばかしさに、あきれ、ばかわらいしております。
「同志」と言いたいところですが、ときどきヒヨルようです。
どうもこんばんは。コメントいただきありがとうございました。コメントいただけるのはうれしいことです。
まあ本文にはああ書きましたが、けっこう面白い芸人もいるし、人気者として頑張っているのはすごいなとも思います。ブログに書くのはパフォーマンスに過ぎないとはいえちょっと言い過ぎのような気もしました。
ただなんというか今のお笑いというのはほんとうにお書きになっているようにヒステリックで、何か笑わなければならないというような強迫めいたもの、これに乗れないやつはダメだみたいな一種暴力的な圧力を感じます。まあこれは「アウトサイダー」の感想にすぎないのかもしれませんが。
でも笑いの質というのが、テレビという歴史の短いメディアをとってみても非常に、加速度的に変っているのは明らかに見えます。いま私たちが当たり前だと思っているこの雰囲気というのは、そうしてみるととても特殊なものなのだと思います。