さて、一方で、ふつうよくいわれているような「心の壁を作ってはならない」「壁を取っ払ってオープンにコミュニケーションをすべきだ」「分け隔てのない人間関係」というのも、きれいな理想としてはいいのですが、現実のふつうの人間の関係性や心のあり方からして、逆に無理を生じてしまいがちだと思います。
そういうふうに理屈を言わず周りと合わせて明るく仲良く、というふうに育てられてきたぼくらは、ともすればどうやって自分を保って人中で元気にやっていくかに、ひじょうに苦労したりします。心のまとまり・主体性が育っていなかったわけですね。
だから、そういうあまりにもオープンであること、明るく周囲と合わせることにのみ重きをおくような、いまの常識的な雰囲気は、ちょっとどうかと思われてしまうのです。
したがって問題は、どうやって柔軟で社会的にうまくやっていくことができて、人のもっている壁とうまくすりあわせていくことができる、コミュニケーション的に出入りと遮断の自在な壁を構築するか、ということになると思います。
壁の分厚さで跳ね返そうというような下手くそな自己防衛ではなく、受け流したり受け止めたりときに打って出たりの、巧みな間合いをもったやりとり・ゲームができるように。
そういうふうに、うまく機能した自他の相対的な区別というのは、“壁”というよりも“膜”のようなものかもしれません。
細胞が膜によって相対的に外界と自分を区別し、しかし膜を通じて新陳代謝し外界とつながることではじめて生命たりえているように、心もまたそういういわば膜によって形づくられて生きることができているのではないでしょうか。
その区別が分離に至り周囲との関係を絶って孤立したら細胞は生きられないし、周囲との区別が失われてもまた溶解して死んでしまう。
心の場合、その“壁”“膜”というようなものにあたるのが、とりわけ言葉であるように思います。記憶され蓄積された深層の言葉の構造。
それが硬直し絶対化して、あたかも壁のようなビリーフを築いて自他を分離し身構えるか、周囲の理にかなった柔軟で修正可能なシステムで主体性と共同性をうまく両立させるか。
ここでも話は社会の理にかなったビリーフを再構築する論理療法、そしてコスモスの自然の理にかなった現代科学の世界観の物語を心に取り入れるコスモロジー、というこれまでのテーマに行き着いてしまいました。
壁の存在を否定するような理想主義的な無理はやめ、しかしその過剰な分厚さ・高さ・硬さはできるだけ適当なものにあらため、主体性を保ちつつ出入り自由な、柔軟な膜のような心になりたいものです。そしてそれを超えられたらなおよし。
ブログによるコミュニケーションもまた、そういう譬えが成り立つかもしれませんね。バランスが大切なのでしょう。その点でも、まだまだのようです。がんばりたいものです。
お読みいただきありがとうございました
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そういうふうに理屈を言わず周りと合わせて明るく仲良く、というふうに育てられてきたぼくらは、ともすればどうやって自分を保って人中で元気にやっていくかに、ひじょうに苦労したりします。心のまとまり・主体性が育っていなかったわけですね。
だから、そういうあまりにもオープンであること、明るく周囲と合わせることにのみ重きをおくような、いまの常識的な雰囲気は、ちょっとどうかと思われてしまうのです。
したがって問題は、どうやって柔軟で社会的にうまくやっていくことができて、人のもっている壁とうまくすりあわせていくことができる、コミュニケーション的に出入りと遮断の自在な壁を構築するか、ということになると思います。
壁の分厚さで跳ね返そうというような下手くそな自己防衛ではなく、受け流したり受け止めたりときに打って出たりの、巧みな間合いをもったやりとり・ゲームができるように。
そういうふうに、うまく機能した自他の相対的な区別というのは、“壁”というよりも“膜”のようなものかもしれません。
細胞が膜によって相対的に外界と自分を区別し、しかし膜を通じて新陳代謝し外界とつながることではじめて生命たりえているように、心もまたそういういわば膜によって形づくられて生きることができているのではないでしょうか。
その区別が分離に至り周囲との関係を絶って孤立したら細胞は生きられないし、周囲との区別が失われてもまた溶解して死んでしまう。
心の場合、その“壁”“膜”というようなものにあたるのが、とりわけ言葉であるように思います。記憶され蓄積された深層の言葉の構造。
それが硬直し絶対化して、あたかも壁のようなビリーフを築いて自他を分離し身構えるか、周囲の理にかなった柔軟で修正可能なシステムで主体性と共同性をうまく両立させるか。
ここでも話は社会の理にかなったビリーフを再構築する論理療法、そしてコスモスの自然の理にかなった現代科学の世界観の物語を心に取り入れるコスモロジー、というこれまでのテーマに行き着いてしまいました。
壁の存在を否定するような理想主義的な無理はやめ、しかしその過剰な分厚さ・高さ・硬さはできるだけ適当なものにあらため、主体性を保ちつつ出入り自由な、柔軟な膜のような心になりたいものです。そしてそれを超えられたらなおよし。
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