愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

鞆の浦散策

2005年08月23日 | 年中行事

先日、広島県福山市の鞆の浦を散策した。主な目的は三つ。①安国寺の石造地蔵菩薩坐像、②沼名前神社の石造物、③「鞆の津八朔の馬出し」の八朔馬の見学である。
 安国寺の地蔵菩薩像は、寺前の地蔵堂にあり、舟形光背を背負う丸彫の石像で、石材は花崗岩。解説によると、光背裏面に沙弥円乗・比丘尼妙蓮の逆修を目的に造立したもので、銘に「元徳二年庚午卯月廿三日、願主、藤原貞氏」とあり、1330年の製作である。鎌倉~室町時代にかけての石造の地蔵菩薩像を実見できる機会は少なく、愛媛でも中世に造像された石造の地蔵と思われるものがあるが、銘文が確認できないと造像年代を断定できないため、石造物を見る眼をを肥やす意味で前々から拝見したいと思っていた。それが実現できたので、第一の目的は達成。
 次に沼名隈神社の石造物である。愛媛(伊予)の商人がどれだけ寄進しているのか、確認したかったのだが、ちょうど、福山市鞆の浦歴史民俗資料館で沼名前神社の玉垣等の石造物の拓本等を紹介する展示が行われていて、しかも資料館の刊行物として『沼名前神社の石造物―石が語る鞆の津の歴史―』が販売されていた。銘文のデータも記載されており、訪れた甲斐があった。
 そもそも鞆の浦は、瀬戸内海中央部の「潮待ち」の港であり、全国から商船が寄航するところとして知られている。沼名前神社に海上安全祈願をする参拝者は多く、玉垣には、広範囲の寄進者の名前が刻まれていることを以前から聞いていたので、具体的な伊予の寄進者を確認したかった次第。
 さて、『沼名前神社の石造物―石が語る鞆の津の歴史―』から、伊予関係を抜粋すると次のようになる。
①「ニの鳥居」と呼ばれる寛永2(1625)年建立の鳥居(広島県重要文化財)に、「大工豫州住人左兵衛尉」とある。伊予のどこの石工なのかは不明であるが、銘文にはもう一人、「大工肥前住人中島弥兵衛」とあり、佐賀県小城郡の肥前石工と思われる人名が見られる。銘からは肥前石工と同等の扱いをされており、伊予にも石工集団が存在したことが推察できるが、具体的なことは不詳である。17世紀の鳥居といえば、伊予では八幡浜市矢野町の八幡神社の延宝6(1676)年の鳥居があるが、そこには石工の名前は刻まれていない。江戸期の伊予の石工について情報を集めてみる必要があることを実感した。
②寛政8(1798)年築造の玉垣に、「豫州三津濱 唐津屋治郎右衛□」、そしてこの玉垣を明治29年5月に補充しているが、そこに「イヨ壬生川 川上角治」とある。
③大石段北側の内側の玉垣には、伊予の者の名が多く刻まれている。この玉垣は、同書の解説によると、八籠屋與一郎と大阪屋萬右衛門の取次により、取引先や神社崇敬者の協力により大石段の拡張工事にあわせて築造され、文久3(1863)年の完成したとのこと。伊予、備前、備中、周防、豊前、豊後、大坂の寄進者が多い。伊予関係は「豫州川之江(四国中央市) 高津善兵衛吉徳」、「同所(川之江)下分屋源次吉充」、「豫州川之江 進藤長次英通」、「豫州川之江 岸井四良右衛門勝房」、「馬島(今治市馬島か?)撫屋冶兵衛」、「御生(御荘か?)吉田喜兵衛・濱田多兵衛」、「雨井(八幡浜市保内町雨井?)小松屋為蔵」、「下灘(伊予市双海町下灘?)□谷屋六太郎」、「雨井 福吉丸□右エ門」、「宇和島 濱田大兵衛」、「御生 吉田喜兵衛」、「川之濱(伊方町川之浜?) 神□丸三□良」、「同所(川之浜?) 金毘羅丸宗助」、「宇和島明神浦(伊方町明神)明神丸久次良」、「宇和島大江浦(伊方町大江)妙見丸嘉兵衛」の以上である。
 これを見ると、愛媛の東端の四国中央市川之江と、西端の佐田岬半島、宇和海沿岸が多く、松山周辺の中予地方や、地理的に鞆に近い今治地方の者の名前は見られないのが特徴といえる。越智郡島嶼部では、「鞆の祇園さん」として、庶民の沼名前神社に対する信仰は篤く、今治周辺の名前が出てこないのも不思議に思ったが、寄進者が商取引先であることから考えれば、沼名前神社に対する伊予における信仰圏域は、比較的近い今治・越智郡周辺では庶民(漁民)の海上安全祈願が主であり、その外縁にあたる川之江や佐田岬半島、宇和海沿岸部では、庶民信仰というよりも、経済的な繋がりが前提の信仰であったと理解すべきなのだろう。
 沼名前神社に限らず、瀬戸内の海岸部に位置する神社の石造物調査からは、地元の氏子を第一次信仰圏、日帰りもしくは数日で参拝することができる第二次信仰圏、そして、商人の寄航以外では訪れることが滅多にない第三次信仰圏というように、同心円状に信仰圏を設定できる可能性があることを感じた。
 とにもかくにも、福山市鞆の浦歴史民俗資料館による『沼名前神社の石造物―石が語る鞆の津の歴史―』は、非常に有難い調査成果といえる。
 次に、第三の目的の「八朔の馬出し」。今年は開催日が9月4日(日)なので、当然、その行事自体は見学できなかったが、福山市鞆の浦歴史民俗資料館に八朔馬が展示されており、それを見学できただけでも満足だった。観光案内所で配布されていたチラシには次のように記されている。「『潮待ち』の港町として栄えた鞆は、『海』を通じて様々な文化が伝わり、豊かな独自の文化を築いています。江戸時代、鞆町人は、子どもの誕生を祝い、健やかな成長を願って、勇壮な「八朔の馬出し」を出現させました。三年前、この行事を約70年振りに復活し、今年も風情豊かな町並みの中で鞆ならではの「八朔の馬出し」を楽しく行ないます。大小約10数台の「八朔の馬」を、太鼓や音頭のリズムにあわせて、古い町並みの中を引きまわします。大きいものは、実物大の勇壮な馬もあります。どうぞ皆様ご声援ください。」とある。この行事は、文化年間頃の「諸国風俗問状答」にも「鞆津馬出しの図」の挿絵があるので、200年近く(それ以上?)の歴史があると思われるが、八朔(旧暦8月1日)に馬を造る慣習は、広島県や香川県に見られる。愛媛では八朔の作り物といえば、タノモサンであり、東予地方では米粉細工で小さな人形や動物等を象って飾り、松山地方では紙人形を飾るが、全国の八朔行事の中でも最も盛大なのが、この鞆の八朔の馬出しである。復活してから四年目ではあるが、全国の八朔習俗を考える上では見逃せない行事である。当日、見学に行けないのは残念だが、現地で情報収集できたのは収穫であった。

2005-08-23