愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

甘茶とムカデ除けの俗信

2005年08月28日 | 年中行事

 昨日の朝、自宅でシャワーを浴びようとしたら、アシナガ蜂が数匹、風呂場の中を飛んでいて驚愕、仰天!!気が付かずシャワーを浴びていたら、大変なことになっていたかもしれない。出かける前の朝の貴重な時間。しかも昨日は愛媛民俗学会例会の会場準備をしなければいけなかったので、急ぎ仕度をしていた最中だった。即刻対処しなければと思ったが、無念、残念。駆除スプレーを家に常備していない。朝早くにスプレーを売っている店は開いていない。危険は承知で、原始的な方法ではあったが、新聞紙を丸めて、風呂場の中の蜂と格闘した末、何とか無事退治することができた。
 しかし安堵も束の間。家の外から確認すると、風呂の換気扇外側に、アシナガ蜂の巣ができつつあり、即、長い竹棒で巣を駆除した次第。おかげで、すっかり目も覚めたし、朝の体操(?)にもなった。今思えば、無謀な駆除方法だったが、放っておくわけにもいかなかったので、仕方がない。
 そんな昨日の喧騒を、今日、西予市明浜町渡江の方と話していたら、蜂除けではないが、渡江では昭和30年頃まで、墨で紙に「あまちゃ」と平仮名で書いて、それを逆さにして、家の中の柱などに貼っていたという話が出てきた。蚊帳を出している夏の季節に貼っていたといい、ムカデ除けだと言われていたという。
 『日本民俗大辞典』によると、柳田国男著「卯月八日」を参考文献として、潅仏会(花祭り)の甘茶で「ウヅキヨウカは吉日でオナガムシの成敗をする。」と書いて、便所に貼っておくと虫がつかぬとか、甘茶を家の廻りにまけば蛇が入らぬとか、田圃の周囲にまけば虫がつかぬなど、近畿地方各地で伝えられると紹介されている。『愛媛県史民俗編下』でも花祭りのについて「甘茶には格別の呪力があると信ぜられていて、家族で分けて飲む。またこれで墨をすり、『千早ぶる卯月八日は吉日よ、神さげ虫を成敗ぞする』とか、『卯月八日のちる日に神さげ虫を成敗する』とか『茶』とだけ書いた紙片を逆さにして家の柱や入口に貼っておくと長虫が入らぬといわれている。また甘茶を家の周囲にまいて百足や蛇除けの呪いをする。」とある。ここでは具体的な地名は出ていないが、愛媛県内の各市町村誌を眺めてみると、類例を数多く散見することができ、県内でも広く見られる俗信のようである。例えば『伊方町誌』には、4月8日の花まつりで参拝人は甘茶を受けて帰り、この甘茶で墨をすって「茶」と書いた紙を逆さに家の柱にはるとムカデ、蛇が入らないといわれている、とあり、『八幡浜市誌』でも「甘茶は呪力があると信じられ、家族で分けて飲んだり、これで墨をすり、小さな紙片に『ちゃ』と書いて、むかでの出そうな所の柱の下の方へ逆さに貼り付けておくと、むかでが出てこない」と紹介されている。また、『ふるさと年中行事調査報告書』(昭和49年、愛媛県教育委員会発行)では越智郡岩城村(現今治市)の事例として、「(潅仏会への)一般の参拝者は甘茶を持って帰り、蚊帳をこの日に出して甘茶をふりかける。長虫がつかないとの意である。」と紹介されている。このように、潅仏会の甘茶が、ムカデや蛇(長虫)を寄せ付けない呪力を持つものと信じられていたようである。
 しかし、なぜ紙片に「あまちゃ」とか「ちゃ」、「茶」と墨書きして、それを逆さに貼るのだろうか。その点は疑問として残る。潅仏会の由来譚に、そのヒントがあるのかと思って少し調べてみたが、必ずしもそうではないようだ。
 潅仏会で誕生仏に甘茶をかける行為の由来は、『仏教儀礼辞典』(東京堂出版)によると、摩耶夫人がルンビニー園で身を洗浴した時、産気を催して無憂樹の下で、垂れ下がった花の枝をとろうとした時、右脇から安らかに太子を誕生された。『普曜経』第二にその時の様子が記されており、「爾の時菩薩右脇より生じ、忽然として身宝蓮華に住みするを見る。地に堕ちて行くこと七歩、梵音を顕揚して無常を訓教し、我れ当に天上天下を救度して天人尊と為り、生死の苦を断じ、三界に上なく、一切の衆をして無為常安ならしむべしと。天帝釈梵忽然として来下し、雑名香水をもて菩薩を洗浴し、九竜上に在りて香水を下し、聖釈を洗浴す。洗浴竟已(おわ)つて身心清浄なり」とある。潅仏会は釈迦の誕生を祝うためのものであるが、竜王が空中より香水を濯ぎ、その身体を洗浴したということから、潅仏会(花祭り)では誕生仏の像に甘茶をそそぐというのである。しかし、『普曜経』の記述では、そそぐのは甘茶ではなく、香水となっている。この点についても『仏教儀礼辞典』によると、甘茶を用いるようになったのは江戸時代からだろうとしており、それ以前には五色香水を混合して用いたらしい。そして18世紀前半の享和年間頃の『燕石十種』第一に潅仏会に茶を用いていることや、文政5(1822)年成立の『民間時令』第二に「五香水をそゝぐよしみえたれど、江戸にては茶をもてそゝげり」という記述を引用しており、江戸時代に次第に香水から甘茶へ移行していったことがうかがえる。
 以上の潅仏会の由来や歴史からは、甘茶が本来用いられていたわけではなかったこと、そしてムカデや蛇除けのまじないにつながる要素は見出せないことがわかる。『普曜経』の記載を基礎として考えるのであれば、「香水」と紙片に墨書して長虫除けとすべきところを、管見できる、どの民俗事例も、紙片には「茶」もしくは「甘茶」を漢字、もしくは平仮名で書くことになっている。
 つまり、この俗信は江戸時代以降に成立したものと考えることができ、もともとの潅仏会という仏教儀礼そのものから派生した習俗ではないようである。
 そこで、この疑問を推測するヒントとなるのが、茶や甘茶の「お接待」との関係である。愛媛でも西予市城川町など南予山間部では「茶堂」と呼ばれる辻堂があり、そこで遍路や旅人に茶や甘茶などの接待をするという習慣がある。これは地区の外から来訪する者を歓待するために行われる行為であるが、「あまちゃ」と書いた紙片を逆さに貼る行為は、歓待の逆の意味で、つまり排除したいという心意から、外から浸入してほしくないもの(家ではムカデや蛇など)への対策として逆さに貼るのではないだろうか。「甘茶」=歓待、「甘茶」を逆さにする=排除ということである。ただし甘茶を家の周囲に撒くことや、蚊帳にふりかける行為は、純粋に甘茶の呪力を信じてのことであろう。
 甘茶の呪力に関する俗信については、結局、江戸時代以降の潅仏会での甘茶の使用を基礎として、そこに民間の心意が働いて誕生した民俗といえる。とはいうものの、墨書して「逆さ」して貼るという行為が、限られた地域のものではなく、愛媛県のみならず、全国各地にも共通して見られるのは何故であろうか。その点だけは不思議でしょうがない。この行為を広く定着せしめた要因は何なのか。自然発生的なのか、それとも何らかの文献にでも紹介されて、情報流通して広がったものなのか、よくわからない。
 そういえば、今年は、例年行っている山田薬師(宇和町山田)の潅仏会(花祭り)に行っていなかった。甘茶も飲んでいない。今年は家の中にムカデは出るは、蜂の巣はできるは・・・。来年は甘茶の呪力を信じて潅仏会に行くことにしよう・・・。

2005-08-28

伊予の八朔習俗

2005年08月28日 | 年中行事

仕事の都合上、見には行けなかったが、今日は、四国中央市新宮の「鐘踊り」の日。旧暦8月1日に行っていたが、現在は8月最終日曜日に行われている。いわゆる八朔行事の一つだ。八朔(旧暦もしくは月遅れ)はもうすぐなので、ここで、愛媛の八朔習俗のうち、文献史料に見えるものを紹介しておきたい。
 江戸時代から明治時代初期にかけての愛媛(伊予)の八朔習俗の様子がわかる史料は主なものを3点。まずは南予地方の旧宇和島藩領内の八朔についてである。宇和島藩士桜田某が文政年間に記述した随筆(「桜田随筆」と仮称する。出典は『宇和島吉田両藩誌』、『愛媛県史民俗編上』にも所収)によると「八朔・田実朔 田の実の朔といふ事に就て農人の家々に稲の溝苅をして、其籾を煎りて平米にしてお伊勢様をはじめ氏神様へ備へると申す事、昔も今に替る事なし。此の起りを聞くに、此の備へ物をして次に御物成を計ると農家の老人の申せし事を考へて見れば、則新嘗会の心なるべく、いと貴き心地す」とあり、名称は「タノミノツイタチ」であり、焼き米(「平米」)を神に供えていたことがわかる。その神の中でも氏神よりもお伊勢様が先に記述されているが、この行事が伊勢信仰と関わることが推察できる。旧宇和島藩領内においては、藩が「神明社」の建立を奨励しており、この地域は伊勢信仰が盛んであった(註『県史民俗編上』六〇〇頁)。なお、近年でも八朔に伊勢踊りを奉納するというところが三間町や広見町にある。『日本民俗大辞典』の「八朔」の項に「神社の八朔祭も各地で行われているが、伊勢神宮でも八朔参宮といって、この日に初穂を神前に供えている」という記述があるが、『年中行事辞典』(六四〇頁)にも「八朔参宮 八朔の節供の早朝に伊勢神宮に参拝すること。米・粟などの初穂を抜いて神前に供え、五穀成就を祈る」とある。この八朔参宮の歴史的推移については未だ調べていないが、南予地方、特に旧宇和島藩領内の八朔行事は、伊勢神宮での八朔参宮に影響を受けた可能性があるのではないか。
 次に東予地方の今治藩領内関係の史料を紹介しておく。今治藩士戸塚政興が文政六(一八二三)年頃までに完成したといわれ、今治藩の文化年間頃までの諸雑記を集録した『今治夜話』(『伊予史談会双書第二集今治夜話・小松邑志』六一頁)には「田実、此地八朔之祝事也。世以八朔曰頼母之節、或曰田之実節者、共祝秋熟之儀、所以求親睦之和者乎。此物、方今三都及余国更無所聞者也矣。蓋田実者以新穀為団子造人物及鳥獣之形。大一寸五分、其彩乎以丹砂・緑青点之耳。其様古雅也。女児集之遊賞、或贈答之、似桃節雛遊。蓋伝古風者焉。(図挿入)女児呼之曰頼母、鬻者云之田実也兮田実也。一物二名、是亦一奇事也。」とある。この記述からは文化年間においては八朔の祝いの名称が「タノミ」であり、「頼母」・「田実」に漢字をあてていたが、どちらかに確定はしていないことや、当時の江戸・京・大坂の三都や他の国でも聞くことのできない行事であることが認識されていたことがわかる。また、新穀で人や鳥獣の形をした団子を作り、それを女児が鑑賞する点は三月の雛遊びに類似するとしている。
 なお、今治藩における八朔行事に関する史料は、明治時代中期に国分村の旧庄屋であった加藤友太郎が編纂した「国府叢書」巻二十三(『今治郷土史 国府叢書 資料編近世二』一〇一五頁)にも見られる。この「国府叢書」巻二十三は正月から節句、盆、大晦日までの年中行事、農作業暦、衣食住などを詳述しており、時代としては江戸時代末期から明治時代初期にかけての今治地域の民俗事例が把握できる史料である。ここに八朔について「田ノ実節句(八朔ト云) 八月朔日なり、此日ハ団子ニテ人形其他種々之物ヲ拵ヘテ、之レヲ祭リ、尚家内ノ諸神ヘモ、餅抔ヲ拵ヘ献スルモノ也、其他の供物ハ、御酒、飯等ニシテ、夜間ハ前夜及此夜ニ、燈火ヲ点スルモノ也、此月ハ海水田ノ実汐トテ、例年高ク満ツルト云、如何ニ也」とあり、団子で種々の人形を作って、家の中の諸神とともに餅、酒、飯などを供え、前夜と当夜は火を燈していたことがわかる。なお、この時期の大潮を「田ノ実汐」と呼ぶことは、吉海町誌に「この日は一年で一番潮の流れが荒い時期といい、これを「たのも潮」といっている」とあるように、近年でも使用されている。
 以上、八朔に関する史料を3点羅列してみた。今、このテーマに興味を持って情報収集してるのだが、追って、このブログで八朔習俗を紹介する場を設けたい。

2005-08-28