2020年の東京オリンピックの開催決定からはや一年が経ちます。滝川クリステルさんのプレゼンで放たれた「お・も・て・な・し」の言葉。「おもてなし」って四国遍路のお接待とかでよく使われていたので、四国の人間として、四国遍路道沿いに住む人間として、東京にやられたぜ!と勝手に思ったわけですが、「おもてなし」や「お接待」が四国独自のものではなく、日本文化の中に深く刻まれた行為であり、贈与、交換に関する人間関係や社会関係の中で普遍化しながら考えるべき問題であり、「おもてなし」は四国のものだ!これぞ四国へんろ道文化の世界遺産化の重要要素の一つだと決めつけて、他(プレゼンの「お・も・て・な・し」)を排除する気持ち(一種のジェラシーですね)が心の隅にあったことに、ちょっと反省したのでありました。
さて、その「おもてなし」。漢字で書いたらどうなるん?
まずは「表無し」説。これじゃあ、表のない裏ばかりの行為で、何か怪しげ・・・。表は繕った姿であり、裏(中身、本質)を見せてあげよう!という意味に取れなくもないが、やはりこれは語源や表記としては違うよなあ。「表無し」=「裏有り」ですからね。
「もてなし」「もてなす」ということは饗応することだから、飲食物、ごちそうを「持って為す」でおもてなし。これはちょっと一理ありそうだ。
ところがどっこい。『和訓栞』をみてみると「持成の義」とあるではないか。『日本国語大辞典』もそれを踏襲している。つまり、「おもてなし」を漢字で書けば「お持て成し」ということになる。
ただ、『日本国語大辞典』では「もてなす」にはいろんな意味があることが紹介されている。
第一に、意図的に、ある態度をとってみせる。わが身を処するという意味。これは他者に対して何か饗応するというわけではなくて、自分自身の態度、行為の問題。他者の存在、関係性が前提ではない使い方。これは蜻蛉日記とか源氏物語が引用されているので、平安時代にはこの用例があったわけである。
第二に、見せかけの態度をとる。みせかけるという意味。第一の意味に似ているが、「見せかけ」というのが引っ掛かる。流行語になった「おもてなし」は決して「みせかけ」ではない。そうであってほしい。無欲で私欲のない他者に対する行為なのだから(と思いたい)。この第二の意味には邪心、私心を感じてしまいます。これは今昔物語集が引用されているから、平安時代末期の用例として出て来る。
第三に、何とか処置する。対応してとりさばく、の意味。これも源氏物語に出ている用例。何か自分を取り繕うような意味で、違和感がある。これも他者との関係ではなくて、自分個人の行為で完結している用例。古語としての「もてなす」は個人完結で、取り繕うというちょっとネガティブな雰囲気が漂う。
さて、第四の意味。ここから他者との関係性の中で用いられる用例だ。意味としては、相手を取り扱う、待遇する、あしらう、とある。「あしらう」ってまたネガティブな意味じゃないか。源氏物語や落窪物語の用例が紹介されている。これはやばいですね。あまり「お・も・て・な・し」の語源、起源、歴史を解明しようとすると、待遇しつつ、あしらう。したたかでもあり、自分本意。第二の意味の「見せかけ」に通じるところがある。「もてなし」って結構自分勝手な意味で用いられていたのか?
次に第五の意味。大切に扱う、大事にする。この意味が出てきてよかった。ようやくプラス思考になってきた。これは枕草子が引用されている。じゃあ平安時代にも「見せかけ」「あしらう」と「大事にする」っていうのが併存していたということか。
第六の意味。手厚く歓待する。饗応する。ご馳走する。この意味が現代の「おもてなし」に近いであろう。用例は平家物語が引用されている。
第七の意味。取り上げて問題にする。もてはやす。これは他者との関係でいけば行き過ぎの感もある。「もてはやす」ことと「もてなす」ことは異なると思うのだが、古語ではそうはいかない。徒然草にそう書いてあるのだ。鎌倉の海の鰹が珍しいからもてはやす。これを「もてなす」と表現している。他者との人間関係ではなくて、何か珍しい「もの」や「こと」を、「持って成す」つまり俎上にあげるというニュアンスもあるだろう。
以上、『日本国語大辞典』の「もてなす」を眺めてみたら、私心なく、邪心なく、他者を饗応するという意味がもともとではなかったようだ。「持って成す」ということで、良き方にも悪き方にも、「自己の行為」とでもいうべきだろうか。行為という言葉も「行って為す」の意味だから、良き行為もあれば、悪い行為もある。どちらでも使われる言葉。「持って成す」も自己の行為のあらわれ方であり、「見せかけたり」「あしらったり」「もてはやしたり」「大事にしたり」と多義で用いられるのだ。
そうなると、「もてなす」の語源に何か深い哲学のようなものが含まれているかというとそうでもないようだ。他者との関係の上で語られる際に「他者に対する態度の一つの現れ方」とでも言っていいのではないか。
「お・も・て・な・し」は、心のこもったお接待だと定義したいが、古代からの用例を見て行くと、他者の存在、そして前提としての私心、邪心の無さ、これが条件となる。この条件は「もてなし」の言葉自体や語源からは導き出せない。
類義語を挙げるとすれば「とりなし(執り成し)」だろうか。「取り繕う」のような意味が垣間見えて、ちょっとマイナスイメージではあるが。
という具合に、「おもてなし」の古い用例から、お接待の文化なども含めていろいろ考えてみたいと思ったが、すっきりしない結果になってしまったのでありました。