不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

時代のウェブログ

イマを見つめて
提言します

坂東真砂子「子猫殺し」へ。その3

2006年08月25日 02時22分22秒 | 学術・教育
ソース・資料はこちら→


その1で「生物の『生』の意義は、子孫を残すこと」と書きました。そして「それは自然(野生)の摂理であり、野生でない動物には当てはならない」と述べ、「すべての人間は『生きる』価値がある」と言いました。
この辺りを大幅にはしょった感じがするので、詳しく述べます。

「死」を考える動物は人間だけです。他の動物は、なにかの死体を見ても、それが死体だと認識はするかもしれませんが、さらに「自分も、いずれはあのように死に至る」とは考えないでしょう。
しかし、人間は「死」の意味を知ってしまった。祖父が死に、祖母が死に、父が死に、母が死ぬ……そういう姿を見ているうちに「いずれは自分も、あのように『生』が終わる」という事実を知ってしまいました。
そして「生」への執着が生まれた。
「子孫を残すという自然界での役割は果たしたから、もう死んでも構わない」とは思えなくなった。「少しでも、長く生きたい」と望むようになった。
そのため「生物の『生』とは、子孫を残すこと」という自然の摂理以外に、別の「生の価値観」を作り出さなければならなくなりました。
それが「自分自身の『生』を大切にすること」です。
自分自身の生を大切にしなければならないから、自殺してはいけないのです。他人の「生」を断つ「殺人」はいけないのです。
また過激な事をあえて書きますが、「子孫を残す『生』の意義」では、仲間を殺すのは悪いことではありません。むしろ理に適った行動です。発情期に牡が牝を奪い合って激しい争いを繰り広げるのは珍しいことではありません。中には殺し合いまで発展することもあります。あれは、より力が強い遺伝子を持った子孫を残すためです。勝ち残った力の強い牡の遺伝子を子孫に継承して、個体をより強力にしていくためです。

しかし、現在の人間社会では、他人を殺すことは認められません。つまり「子孫を残す」という自然界の摂理よりも「自分自身の生をまっとうする」という人間社会の倫理のほうが上回っているからです。

だから「すべての人間には生きる価値がある」のです。さらには、人間が関わった動物たちにも「自己が持つ『生』の価値を認めるべき」だと思うのです。

坂東氏の主張に「納得できる部分が感じられる」という人が多くいます。当たり前です。自然の真理を下敷きにして述べているのですから。
しかし、もうひとつの価値観である「人間社会における『生』の意義」を曖昧にしたまま、あのような論理展開をしているから、あんなおかしな主張になっている訳です。
同氏は、わざわざ「獣の牝は」と書いています。そう書かなければ、容易に人間に論理が転化されて、これまで筆者が述べてきたような様々な矛盾が噴出してしまうからです。

自然の摂理は真理です。しかし、実際に人間が「生」を支配、管理しはじめた現在においては、それだけが正しい価値観ではなくなっているのです。それが不満ならば、人間も含めて、すべての「自分自身が生きる価値」を否定するべきです。それができないならば、他の「生」を認めるしかありません。
筆者は自分自身の「生の価値」を否定されたくないので、他人の生の価値を奪いません。また、不必要に他の動物の生も奪いたくありません。



いつまでも長々と、この問題ばかり取り上げてても仕方ないので、筆者なりの結論を書きます。
自然の摂理は、突き詰めれば「弱肉強食」になると思います。弱い物が強い物に滅ぼされるのは仕方ないんですね。
でも、人間は「それはやめよう」と考えた。「弱い人間も、生きる権利は認めよう」と合意した。
だから殺人犯とか強姦犯とか、獣のような生き方をする人は裁かれる。

野生動物が自然の摂理で弱肉強食で生きるのは仕方がない。ライオンがシマウマを殺して食うのは止められません。
でも、ペットには、その価値観を与えるのは止めた。
セントバーナードを飼う人が、チワワを飼う人にけしかけて、噛み殺させたら犯罪になります。野生動物が野生動物を襲って殺すのは犯罪にならないが、ペットがペットを襲って殺せば犯罪になる。野生動物とペットは違うルールの世界で生きている。

元々、そういう相反するふたつの価値観が有る訳です。そもそも矛盾しているのです。坂東真砂子氏が、そういう価値観をペットに認めないならば、人間社会で生活するのは止めるべきです。文筆業で生計を立てるのもお辞めになれば良い。タヒチなんて場所で暮らさずに、人間がいない未開の地で、弱肉強食の原理で生きればいい。坂東氏より弱い動物をいくら殺しても自由です。しかし自分より強い動物に襲われて殺されても自己責任です。そうやって、本来の「生」を尊重してお生きあそばせ――と申し上げます。

※「弱い物にも生存権を認める」ことは、生物としての「人間」の種族力を弱める面は確かに有ると思います。しかし、人間は医学などの科学を発達させることによって、そのマイナス面をカバーして生きる道を選んでいると思います。ですから、この考え方は間違っていないと思っています。



【おことわり】
「なぜ動物を殺してはいけないのか?」という議論は、ディルレヴァンガー事件前から2ちゃんねるのムツ板あたりで延々と行われ、未だに続いております。結局、極論の応酬で水掛け論になるしかないんですよね。時間の浪費はしたくないので、当コメント欄で、その議論をするつもりはありません。違うお考えをお持ちの方は、このエントリーを無視してください。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブリトニーのヌード掲載――東京メトロ

2006年08月25日 02時18分34秒 | 社会・経済
東京メトロ「降伏」 ブリトニーのヌードそのまま掲載

世の中には、いくら議論しても結論が出ない問題がいくつも有る訳で、猥褻と表現の自由も、そのひとつだろう。そもそも猥褻とは個人の尺度であって、人それぞれ違う。いっぽう表現の自由も個人の感性だから、アダルトビデオだって「表現物」である。
かといって野放図に野放しにしとけば、色々と問題が発生して当然で「青少年への悪影響」なんていうのは、むしろ後付けの理由で、要はそれを見て不快感を持つかどうかだろう。
もちろん「好む物を見る」自由があると同時に「不快な物を無理矢理見せられない自由」もある。そのバランスを取るのが非常に難しいって事だろう。

この件に関していえば、最初の東京メトロの、
「公共の場での掲載なので、原案のまま裸体で掲載すると、刺激が強いというお客様もいる。青少年保護の面でも問題がある」
という言い分は、全くおかしな部分はない。それは表現の自由云々の問題ではなく、東京メトロという会社の広告掲載基準である。
これに対して出版社の、
「雑誌の表紙はいわば当社にとって商品で、宣伝できなければ広告スペースを買った意味がないとして、別の体裁にはできないと主張した」
も不当ではない。広告料を払っているのだから宣伝効果が下がる修正を拒否して当然だ。
どちらも正しいのだから、問題解決法はひとつしかない。東京メトロが代金を返却して、広告掲載を止めれば良い。
ところが
「シールで写真の下腹部周辺を隠すことで決着した」
なんて事をするから、おかしな方向へ流れて行く。ソースで表紙を見れば解るが、下腹部の問題ではなく全体だろ?
さらにさらに、
「妊娠している姿がわいせつなのか?」
って……。妊娠してる姿じゃなくて、問題はヌードでしょ?
また「猥褻だから」ではなく「刺激が強すぎる」が最初の修正理由だったはず。

ここまで拗れたら、もう収拾が付かなくて当然だ。
2番目でボタンを掛け違えて、一番下まで締めちゃったんだから。
「新聞、電波で取り上げてもらった結果」によって「かえって雑誌の宣伝になったともいえる」出版社はウハウハだろうが、「降伏」なんて書かれてる東京メトロも、むしろマスコミのお墨付きを貰って広告料が入って来たんだからウハウハだろう。
「どうして、あんな広告を掲載しているのか」と抗議されても「ウチは嫌だったんですがね、マスコミが掲載するべきだってキャンペーンしたせいで押し切られちゃったんですよ」と言い訳できる。

なんか小手先ごまかしと偽善の応酬で、非常に不愉快な結末である。別にヌードは嫌いじゃないけど(自爆)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

惑星の数が変わる?

2006年08月24日 18時54分00秒 | 学術・教育
チェコの首都プラハで開幕したIAU(国際天文学連合)の総会から、色々と面白い話題が伝わってくる。まずは15日のライブドア・ニュースから。

冥王星が惑星でなくなる?
天文学者が議論しているらしい。

世界で一番小さな大陸はオーストラリア大陸で、世界で一番大きな島はグリーンランドである。なぜか?
それは「オーストラリア大陸以上の面積を持つ陸地を、大陸と呼ぶ」と決められているからだ(笑)。いじわるクイズだな。

惑星の定義を調べてみると、「太陽を周り、ある程度の大きさを持ち、軌道を占有している天体(Wikipedia)」と書かれている。「ある程度の大きさ」って(笑)。
ゼナは冥王星よりでかいらしい。というか冥王星が当初、予測されていたよりも遥かに小さいらしい。小惑星帯には冥王星よりもでかい天体がたくさんあるが「軌道を占有している」という部分が引っ掛かり(”帯”なので占有していない)、かろうじて冥王星の立場は守られたそうだ。しかし冥王星も軌道を占有していないという学説もある。ちなみに小惑星帯の最初の1個が見つかった時は、一時的に「新惑星」と考えられたそうだ。のちにぼこぼこ発見されたので「小惑星帯」に変更された。
別に冥王星が惑星だろうがそれ以外の天体だろうが、どっちでも良い。天文学者以外で困るのは、SF作家と占星術師くらいだろう。



あらら、冥王星が外されて8個に減るの? と思っていたら、翌16日の毎日新聞は「3個ふえて12個になる案が浮上」という報道が。
増やすにしても、減らすにしても、結局匙加減ひとつなんですね。
でも名前はどうなんのかなぁ。火星や天王星という日本名と、カロン・セレスなんていう英語名の混在はしっくり来ないなあ。やっぱり○○星って付けて欲しいのだが。

なんて思っていたら、テレビのニュースによると「12個案が採用されると、新たに惑星に認定される可能性がある天体は合計24個になるかも」という報道が。
24個?
とても「水・金・地・火・木……」なんて簡単に暗記できる数じゃなくなるな……。
そのうち「水素・ヘリウム・リチウム・ベリリウム……」っていう規模になるかもしれない。
天文学者や占星術師だけでなく、全国の受験生に影響を与えることになりそうだ。

【ブログ移転のお知らせ】
トラックバック文字化け問題が長期に渡って解決されないので、この度Goo-Blogへ移転することにしました。なにかとお手間を取らせますが、引き続き宜しくご愛読のほどをお願いいたします。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坂東真砂子「子猫殺し」へ。その2

2006年08月24日 12時59分01秒 | 学術・教育
ソース・資料はこちら→

あれ? 軌道修正すんじゃなかった?
と言われそうですね。
でも、今回は猫の話ではないので、ご勘弁を。

筆者が中学時代、パーマは校則で禁止されていました。今でも中学はほとんど禁止なのかもしれませんが(良く解らん)。
ところが少し洒落っ気のあるやつは、パーマを掛けて、よく生徒指導部に呼び出されておりました。その時、決まって名前を挙げたのが「だって、○○○○だってパーマかけてるじゃん」という言い訳です。
○○○○の実名は出せません(完璧に年齢がバレるもん)。
今で例えれば、小泉純一郎とか安倍晋三あたりの人物だと思ってもらえばOKです。

もちろん、そんな屁理屈は認められないのですが、子供というのは「だって、○○○○も……」という言い訳が結構、得意なんですよね。

でもって、坂東眞砂子氏です。同氏は「もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである」と、大層ご立派な考えを述べておられる。もちろん実際に熟慮に熟慮を重ねた結果に出した結論かもしれません。

しかし同氏ほどの熟慮を重ねず、単に面白半分に動物を虐殺した少年が、大人(あるいは警察なども含めて)から注意されて「だって直木賞作家だって、殺してんじゃん」と言われた時に、どう答えるおつもりなのか?

「直木賞なんてビギナーズ・ラックで取れる。大した賞じゃない」なんて言うのは、本当は欲しくて欲しくてたまらない流行作家で、実際には権威ある文学賞と見て構わないでしょう。それだけの肩書きを持つ人間は、やはり自分の言動には責任を持たなければならないと感じる訳です。
「権威なんか関係ない。自分は自分がやりたいように生きる」というのでしたら、即刻、直木賞なんかご返上なさいませ。
少なくとも坂東真砂子氏は、今後「総理の靖国参拝は影響が大きい」なんて言論はできないと感じております。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旭山動物園に勝つ秘策

2006年08月24日 10時50分39秒 | 生活・娯楽
ひとつ前のエントリーで「野良猫は減らしていくべきだ」と書いた。
でもそうなると、猫を飼える猫好きさんは良いが、猫を飼えない猫好きさんは寂しい思いをすることになるだろう。
そこで秘策がある。
動物園で、猫を放し飼いにする。猫だって動物だ。動物園にいておかしい道理はない。
しかし動物園の入園料は1000円とか1500円とかする。そんな金を払って、猫を見に行く物好きは少ないだろう。そこで某大手遊園地のように「アフター5」とか「アフター6」という夕方からの入場券を作る。動物園なんて施設は昼間に親子連れで訪れる施設だ。夕方からは客が減る。さらに猫は基本的に夜行性なので、夕方からの方が、よく出て来る。料金は100円か200円でいい。
それじゃ儲からないって?
さにあらず。園内で猫缶を販売する。
地域猫に餌遣りをする人間が一番楽しいのは、猫がおいしそうに餌を食べてる光景を眺めることだ。絶対に買う。
猫に餌をやっていると、別の猫が寄ってくる。猫好きさんは、その度に売店へまっしぐらである。3缶・4缶と買ってもらえば、瞬く間に正規の入園料など回収できてしまう。さらに動物園としては猫の餌代が掛からない。一石二鳥だ。
これが実行されれば、旭山動物園を越える人気動物園になるかもしれない。


……って、なんだか『時代のウェブログ』じゃなくて『おネコのウェブログ』みたいになってきた(自爆)。
少し軌道修正の必要があるな――
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミイラとmixiで患者中傷――岩手大生

2006年08月24日 03時02分00秒 | ネット・IT
岩手の大学生が、皮膚病患者を「ミイラ」と中傷・SNSに書き込む。(サンケイ・ウェブ)
イザ!
livedoor news

また、こんなことをしでかした馬鹿者が出たか――という感じ。類似のネット・トラブルとして、昨年8月にコミック・マーケットでアルバイトしていた女性が会場の写真をブログで公開し「オタクきもい」と書き込み、雇用先の企業が謝罪した一件や、12月に宮崎大学医学部生が解剖した兎の死体をブログに掲載して停学処分になった一件を思い出す。
その度に書いて来たことだが、どうして彼らはインターネットが不特定多数から閲覧されるメディアである自覚が無いのか不思議でならない。今回はSNSのmixi(ミクシィ)であるが、それとて誰にも見られないメディアとは言えない。

そもそもホームページやブログを作るからには、多少なりともインターネットを経験している筈で、ウェブにアップした物は他人に見られることを知っているはずだ。

大学生にもなって、どうして社会から非難されるような問題を起こすのか不思議だが、さらに恐れることがある。それは、彼らが、このような言動を「何も悪いことはしていない」と判断しているのではないか?と思える点だ。もしそうだとしたら、ネット問題以上の根本的な問題を孕んでいるように思えてくる。
これはあくまでも筆者の個人的な価値基準であるが、たとえば「オタクはキモイ」などというのは不特定多数が閲覧するネットに書くのは無神経だが、友人同士でマクドナルドあたりで雑談中に出る会話としては許容できる。しかし、今回の患者差別のような発言は、たとえ私的な仲間内の会話であっても品性を疑う内容で、書き込んだ本人だけでなく、周囲の人間たちにも大いに疑問を感じざるを得ない。

ネット上で発言するのはテレビで発言するのと同じくらい責任が問われるという心構えを持っておくべきだろう。

【ブログ移転のお知らせ】
トラックバック文字化け問題が長期に渡って解決されないので、この度Goo-Blogへ移転することにしました。なにかとお手間を取らせますが、引き続き宜しくご愛読のほどをお願いいたします。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坂東真砂子「子猫殺し」へ。その1

2006年08月24日 02時58分04秒 | 社会・経済
ソース・資料はこちら→

坂東さんのエッセイにあれこれ言う前に、まず自分自身のことから語るのが自然だと思うので、うちの猫の話を書きます。
うちには雌猫が1匹います。素性は2才まで野良猫(正式には「地域猫」)でした。地域猫というのは、餌遣りされている野良猫です。猫擁護ばかりになっては公平ではないので、まず地域猫(ある人たちにとっては、ただの野良猫)問題から入りたいと思います。
猫好きさん達にとっては、地域猫は可愛い存在です。猫が飼えない環境に住んでいる猫好きさんたちにとっては、野外で地域猫に餌遣りしてる時間が至福のひとときだったりします。しかし地域猫が被害を与えているのも事実です。庭への糞尿、花壇などを荒らす、猫同士の喧嘩、発情期の鳴き声、あるいは自宅敷地内で死なれるのさえも猫好きでない人たちにとっては迷惑な行為でしょう。さらに猫アレルギーなどの疾患を持つ人にとっては深刻な健康問題にもなります。
筆者個人の考えでは、地域猫は減らして行くべきだと思います。本来、愛玩動物である猫は、野生にはいなかった動物です。ツシマヤマネコやイリオモテヤマネコとは違います。地域猫といっても、元は野良猫で、ペットが捨てられたか、その後に繁殖した物です。これは減らして行くべきだと思います。実現不可能かもしれませんが、0を目指すべきだと思います。
しかし駆除・殺処分による根絶には反対です。「絶対に飼い主が捨てないこと」と「すでにいる野良猫に不妊処置をして繁殖させないこと」の2つを柱として減少させていくべきだと思います。因みに筆者の住む地域にいる餌遣りおばさんたちは、自費で雌猫に不妊手術をしています。筆者が雌猫を一匹拾って飼っているのも、微力ながら野良猫を減らすためです。もちろん不妊手術済みです。2匹以上は飼えないので、たった1匹だけですが、それでも猫の生涯出産数を考えれば、数十匹の野良猫を減らすことはできたと思っています。

さて、筆者宅で飼うことになった雌猫ですが、不妊手術をする時、実は坂東氏と同じような悩みを抱えました。「獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか」の部分ですね。いや、雌に限らず、すべての生物にとって、これは真理だろうと思います。

動物は、なんのために生きているか?
多分、子孫を残すためでしょう。生命に限りがあり、子孫を残すという形で「種を保存」する意味は、「遺伝子のスクランブル」だと考えています。「進化論」は、このようなシステムが有るから成り立っています。仮に種が単純再生産されていけば、環境変化などに対応できません。気温が下がれば低温に適したように進化する、上がれば高温に適したように進化する。そういう個体を作り出すために、動物は自分自身が生きながらえるのではなく、自分は死して子孫を残すという生命活動を繰り返していると思います。
それなのに生殖能力を奪ってしまうのは、「生」の意義を奪ってしまうのではないか?
ここまでは坂東氏と同じです。
しかし、その後、別の考えが浮かびました。この論理が当てはまるのは、純粋な野生動物だけだろうと考えました。これは「自然の摂理」です。「自然の摂理」が適用されるのは野生動物であって、野生でない動物には適用されないのではないか?と考えるようになりました。それは以下の理由によります。

最も野性的でない動物とは何か? それは人間です。
上記の「動物は子孫を残すために生きている」という論理を、人間に適用したらどうなるか?
子供を産めない女性は生きている価値がない――極論ではこうなります。もしも坂東さんが、そこまで考えているのでしたら、「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている」として書いて頂きたい。
筆者は、この種の保存原理は、野生ではなくなった生物には当てはまらないと考えます。すべての人間は、生きる価値があります。
ですから、人間と関わるようになってしまった動物たちにも、これは当てはめられると思います。例えば家畜(牛・豚など)です。人間の都合によって大量繁殖させられて大量にされています。ここに野生の原理は当てはまりません。
ペットとして飼われる(依存させられる)犬や猫にも、もはや坂東氏の考える自然の摂理は当てはまらないと考えます。牛・豚・犬・猫は、自然の摂理の下で種の保存のために子孫を残してはいません。人間が「生産」という管理下において繁殖が行われているのです。坂東氏は妊娠・出産において管理者の葛藤に直面しているように書いていますが、すでに坂東さんが猫を飼った時点で、その猫は坂東氏の管理下の置かれています。ならば管理者(飼い主)として繁殖にも責任を持つのが当然です。それ以上、面倒を見切れないのであれば繁殖調整、つまり不妊処置を取るべきです。
もちろん、犬・猫は不妊手術を望んではいないでしょう。しかし子孫を殺されることも望んでいません。もしもムツゴロウさんのように広大な土地を所有して動物王国でも作る気ならば、自由に交尾させて繁殖させても構いません。しかし、そんな余裕が無い場合は、どちらかを選ぶしかありません。筆者は繁殖させない不妊手術を選びました。それは手術しないことによって誕生する数十の生命を無残にも殺す事態を回避するためです。子種を断つのも子猫も殺すのも同じと坂東氏は書いていますが、全く違います。不妊手術は「殺害」ではありません。
完全に野生であれば、「生」の意義であった「繁殖」を奪う代償として、筆者は雌猫に誓いました。「子を産む権利を奪う代わりに、お前の生命は最後まで見届ける。筆者の力でできる最大限の努力として、1日でもお前を長生きさせてやる」と。
おかげ様で、当家の雌猫は11才になりました。野良猫の平均寿命は、だいたい3~4年と聞きますから、もう3倍くらい長生きさせてやることができました。もちろん、だから「子を産む能力」を奪った代償を果たしたとは考えていません。これから高齢になっていくほど、さらに責任は重くなると思っています。

なんだか猫の話になると、いつもの調子が出ませんね。話も全然まとまっていない(汗)。
でも、こんなに書いても、まだ言いたい事の1割も言った気がしません(爆)。これについては、またどんどん書いて行きます。
興味が無い方は「坂東エントリー」は、全部無視でお願いします(笑)。

【おことわり】
「なぜ動物を殺してはいけないのか?」という議論は、ディルレヴァンガー事件前から2ちゃんねるのムツ板あたりで延々と行われ、未だに続いております。結局、極論の応酬で水掛け論になるしかないんですよね。時間の浪費はしたくないので、当コメント欄で、その議論をするつもりはありません。違うお考えをお持ちの方は、このエントリーを無視してください。
コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「子猫殺し」  坂東眞砂子

2006年08月24日 02時07分48秒 | 社会・経済
日経新聞に載った坂東眞砂子エッセイ「子猫殺し」が議論されている。色々と書きたいのであるが、書きたいことが有り過ぎて、全然まとまらない。とりあえず、今後のエントリーのためのソースとして、問題のエッセイと、ALIVEの統計を掲載する。筆者の考えは追い追い述べることにする。

 「子猫殺し」  坂東眞砂子

 こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
 家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである。タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がころころしている。子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。自然に還るだけだ。
 子猫殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。
 私は猫を三匹飼っている。みんな雌だ。雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。タヒチでは野良猫はわんさかいる。これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。
避妊手術を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
 猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。生きるための手段だ。もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
 飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。
 ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。
 愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
 人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない。それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
 私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。(作家)





ALIVEの調査では、平成15年度の犬の殺処分数は164,200匹ですが、そのうち、子犬33%、成犬 67%となっています。

また猫の殺処分数は275,600匹で、そのうち子猫は81%、成猫は19%となっています。この子猫はまだ目も開かないような産まれたばかりのものが大多数と言われています。このことは、特に猫については、不妊去勢の周知徹底により、8割以上の殺処分をなくすることができることを意味します。

飼育できずに殺処分ということに至る前に、飼い主のモラルの向上が強く望まれます。

犬猫の処分数の減少に向けてalive-net



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

税制だけなら谷垣なんだが

2006年08月23日 21時50分08秒 | 政治
ポスト小泉は安倍晋三で大勢が決した。
まあ、誰がなっても似たり寄ったりと思うが。
小泉さんほどの「偉大な変人」は、そう出て来る物ではない。
信長・秀吉・家康と並び称されるが、信長は天才だけど、秀吉・家康は秀才だからね。

もっとも、かねてから直間比率是正を唱えている筆者は、税制だけは谷垣支持だが。消費税10%は必要でしょう。
さらに将来の少子高齢化を見据えれば、いつかは10%でも足りなくなる。
しかし、古いブログで布引氏も言っていたように、日本人には「清貧――質素・倹約が美徳」という厄介な国民性がある。おそらく10%が限界で、それ以上になれば経済に悪影響が出るだろう。

そこで消費税10%、特別消費税20%という案はいかがだろう?
非現実政党である社民党や共産党は「食・衣などには非課税」とか抜かしているが、3000万円する腕時計や毛皮のコートが「庶民の服飾品」か?
いっぽうでは自動車は相変わらず贅沢品扱いで、消費税以外にも、自動車税とか重量税とか、いろいろと課税されている。しかし交通網が貧しい過疎地域では、自動車は生活必需品だ。

そこで、全品目に価格に応じた税率を適用する。
たとえばバッグの場合は、15万円未満の商品は消費税で10%、15万円以上は特別消費税で20%、乗用車は300万円未満が10%・300万円以上が20%という具合だ。
当然、メーカーは税制を逆手に取って、14万8千円のバッグや298万円の乗用車を販売してくるだろう。しかし心配いらない。
今の風潮を考えると、14万8千円のバッグを持っていたり、298万円の乗用車に乗っている人間は「セコい」、「ダサい」、「カッコ悪い」――と嘲りの対象になるだろう。
本物のセレブを自認する人間たちは、むしろ20%の商品を買い求める。税金は、そういう「本物のセレブ」さんたちから徴収すればいい(笑)。
あるいは、その上に「超特別消費税50%」なんていう価格帯を作ってもいいかもね。有名セレブ姉妹などは「これは50%、これも50%、全部『超特』ですの。オホホホホ……」なんて自慢して使ってくれそうだ(爆)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ムシキング地下鉄?

2006年08月23日 18時45分56秒 | トピックス
都営浅草線の車内で虫飛び交う。駅員、駆除に追われる。参照リンク・asahi.com

タイトルで釣られた。なんか2流のパニック映画っぽくて良い(笑)。
それと、『かきなぐりプレス』さんが書いてた「変な客」というエントリーを思い出した。多分、あのお客さんは絶対に都営浅草線には乗れないだろうな。
「時にはカブトムシやクワガタも乗り込んでくる。」って、すごく楽しそうじゃん!! 『ムシキング』好きの子供たちにとっては夢のような電車だと思うが(笑)。
ただね、全体を通してみると、なんとなく都民が千葉を馬鹿にしているような妙なニュアンスが伝わってくるのだが……。「虫対策は、駅周辺に明るい建物がいち早く建つことに尽きる」。特効薬はなかなか見つからない。とかね……。
執筆者におかしなプライドが見え隠れする……。
あっ、でびっこさんも大嫌いな朝日か(笑)。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

馬鹿親・増殖中!!

2006年08月23日 13時17分00秒 | 学術・教育
「うちの子がけがをして学校を休む間、けがをさせた子も休ませろ」
「あの子の親と仲が悪いから、今すぐうちの子を別のクラスに移して」
挙句の果てには、持ち込み禁止の携帯電話を生徒から取り上げた中学教師に向かって「基本料金を日割りで払え」などと迫る馬鹿親までいるとか。
●参照――サンケイ新聞記事

確かに子育て関係のBBSなんか見ていると、これに類した書き込みをちょくちょく見かける。学校を批判する前に、まずお前の悪ガキを叱れ!
以前、暴力団関係者が「子供がいじめられる」と、暴力追放ビデオの上映禁止を求めたというエントリーにも書いたが、抗議する前に、まず自分が改めなければならないことがいっぱい有るだろ?
わが子をまともな大人にしたけりゃ、まず自分を律せよ。


【ブログ移転のお知らせ】
トラックバック文字化け問題が長期に渡って解決されないので、この度Goo-Blogへ移転することにしました。なにかとお手間を取らせますが、引き続き宜しくご愛読のほどをお願いいたします。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

好きな写真で切手が作れる

2006年08月23日 02時00分25秒 | 生活・娯楽
9月1日から好きな写真を印刷したオリジナル切手が販売されるという。参照・ゆうびんホームページ
切手の下部分に写真が使える「写真付き切手」は既に3年前から発売されているが、切手本体に写真を入れられるのは今回が初めて。もちろん「自由に」と言っても公序良俗に反する物などは駄目だからね(笑)。

さて日本の象徴と言えば天皇陛下だが、意外と思われるかもしれないが、天皇陛下の御肖像が使われた記念切手は一度も発行されていない。なぜならば、天皇陛下のお顔に消印を押すなどもってのほかであるからだ。従って昭和天皇以前の天皇陛下が描かれた記念切手は1枚もない。現天皇陛下は一度だけ切手になっている。それは皇太子時代の昭和34年に、現皇后陛下である正田美智子さまと御成婚された時の切手である。

「なーんだ、天皇陛下の切手って、あるじゃん」と言われそうですね(自爆)。
しかし同じく現皇太子殿下が雅子さまと御成婚された時の記念切手も発売参照リンクされているが、郵政公社が発売した「20世紀デザイン切手シリーズ」で、大きく扱いが異なっている。現皇太子殿下の御結婚は第17集参照リンクに収められ、お二人の御肖像が用いられているが、現天皇陛下の御成婚が取り上げられた第12集参照リンクでは御肖像ではなく「御祝宴の記念菓子器(ボンボニエール)のイメージ」となっている。天皇陛下の御肖像を切手には描かないという不文律は現在でも生きているようだ。試しにデザイン切手で申し込んでみてはいかがだろう。多分、肖像権や撮影したカメラマンの著作権を理由に断られると思う(まあ正当な理由だが)。

ところで、この歳になると、毎年もらう年賀状の図柄が子供の写真というのが増えてくる。でも、さすがに筆者の友人は筆者の性格をよく心得ていて、実際に会った時に「大きくなっただろう」なんてことは言わないので助かる。なにしろ、こっちは1秒も見ていないのだから(笑)。逆に「毎年、子供の写真でつまらないと思うけど、あれって誰に出すにも無難だし、楽なんだよ」なんて本音を言ってくれるので助かる。そんな時は、周囲に賢い善い友に恵まれた事を密かに感謝している。子供の写真やペットの写真は、親や飼い主が思ってるほど、他人は喜んで見ないことを頭の片隅に記憶しとくべきだろう。筆者も、このブログに世界一カワイイねこの画像をアップしたい衝動に何度も駆られているが、かろうじて理性で押し留めている(笑)。

【追記】
あと結婚披露宴の引き出物として新郎・新婦の写真入りプレートなんか配る人がいますが、あれは法規制モノです(笑)。他人の晴れ姿を部屋に飾る訳ないし、もちろんあれで料理を食う人間は皆無でしょう。かといって下手に捨てたりしたら、偶然にも相手がケガや病気をしたり、離婚でもされたら、こっちは全然悪くないのに後ろめたい気分になる。結局、押入れの奥深く仕舞い込んで、その存在を忘れるしかない。本当に困った贈り物ですね(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜアラブとユダヤは戦い続けるのか?

2006年08月22日 14時29分00秒 | 学術・教育
キリスト教ってのは、神様がマリアにキリストを産ませて、彼がメシア(救世主)となって人々を救う――が基本コンセプトです。
その後、キリストをさらに権威付けるために「カエルの子はカエル」という理屈で「神の子は神。だからキリストも神」という教理に発展します(三位一体論)。

イスラム教とは、唯一の絶対神アラーがいて、それが預言者を遣わせて人々を啓蒙する――ってコンセプトです。ムハンマド(マホメット)はアラーが遣わした預言者です。
イスラム教では、アラーはムハンマド以前に、別の預言者も送ったことになってます。それはキリストです。キリストもムハンマドと同じくアラーが遣わした預言者の一人としています。
イマ風に言えばイスラム教はキリスト教にインスパイヤされて誕生したと言えます。
キリスト教の聖地とイスラム教の聖地が重なってしまうのは、偶然ではなく必然なのです。
キリスト・ヨドバシが「業界一の安さ!」って売り上げを伸ばしてたら、イスラム・ビックカメラが「ヨドバシよりも安い!」って参入したような物ですね(なんちゅう例えじゃ)。
後発組は、先行組の弱点を突く比較広告をよくします。
「向こうはポイントで還元だけど、うちは現金で還元!」みたいに。
後発のイスラム教が勢力を伸ばすには、キリスト教の欠点を突くのが効果的です。
「キリストは神って言ってるけど、神が遣わした只の預言者だよん。ムハンマドも、キリストと同じ預言者じゃ~。だから、その上にいるアラーを信じなさいね(はあと)」

つまり「キリスト教もイスラム教も、お互いに認め合って仲良く」というのは教理が相反しているので無理です。穏健派は「水と油だね~」なんて居酒屋で話すこともできますが、原理主義者は、相手の教理を容認することは自分達の教理を間違いと認めることになるので、絶対にできません。

ヨドバシとビックカメラは競争するしかありません。
だって同業他社ですもの。



【ブログ移転のお知らせ】
トラックバック文字化け問題が長期に渡って解決されないので、この度Goo-Blogへ移転することにしました。なにかとお手間を取らせますが、引き続き宜しくご愛読のほどをお願いいたします。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目白御殿が公園に

2006年08月22日 07時18分41秒 | 政治
目白の田中角栄元首相のお屋敷の一部が公園になるらしい。(21日・共同通信)
大いに結構な事だと思う。別に田中真紀子が嫌いだからではない(笑)。

格差社会が問題と叫ばれているが、一代限りの格差については大いに賛成する。成功者はビル・ゲイツのようになればいい。23億円で宇宙旅行するのも良いだろう。そんなドリームが実現されなければ、死に物狂いになって働く意欲など湧かない。

しかし格差が孫・子の代まで遺伝するのは大反対だ。青森の監禁馬鹿者も、大阪の監禁馬鹿者も、資産家の親の金でぬくぬくと育てられ、あんな馬鹿げた行動を取った面は否めないだろう。
かなりの数の株式会社が同族経営で私物化されているのも、創業者の所有株券を相続で代々持ち続けるからだ。断っておくが、子孫が会社経営をするのが全部、悪いとは言わない。経営の才に恵まれれば、たとえ筆頭株主でなくても経営を任せられるだろう。そんな才能に恵まれない人間が株券だけで経営者に収まるのが良くないというだけだ。

『ハリー・ポッター』翻訳者の松岡佑子さんの納税問題でも書いたが、日本の累進課税は国際水準に比べて高すぎる。高額納税者の限度額を引き下げて、諸外国並みにするべきだ。
ただし、格差が子孫に伝わらないように、相続税はたっぷり徴収する。極論をいえば100%でも構わないと思う(笑)。親は親、子は子でリセットするべきだろう。そうした相続税によってまかなわれた金を、格差社会でケアが必要な社会保障に当てればよい。
「児孫のために美田を買わず」
昔の人は良い言葉を残している。

もちろん相続税を上げれば、節税対策として生前贈与が盛んになるだろうから、贈与税も相続税に準じて上げるべきだろう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幽霊列車、現る

2006年08月21日 07時13分02秒 | 趣味・遊び
無人列車、8.5km走る。(21日・読売)
見ていた人は、幽霊列車だと思ったそうだ。真夏の夜に相応しいミステリーか?
いつもいつもこういう話で「リスク・マネジメント」なんて書いてても芸が無いので、今回は少し軟らかめの話をする。
『幽霊列車』といえば、ご存知、赤川次郎のプロデビュー作だ。この作品で第15回オール讀物推理小説新人賞を受賞した赤川は、その後ヒット作を次々と執筆し、ユーモア・ミステリーの売れっ子作家となる。
ネタばれはマナー違反なので、ストーリー解説はしないが、ミステリー小説としてはストーリーはイマイチかな?という感想。あんな中途半端な嘘がOKなら、もっと徹底的に嘘を付けば幽霊列車のトリック自体、必要なかったのでは?と思う。
しかし、アマチュア時代に書いた作品に、そこまでケチをつけるのもどうかと思う。

いっぽうキャラクター作りには、すでにこの作品から非凡な才能が見られる。赤川作品に共通して言えるのは、魅力的なキュラクターだろう。三毛猫ホームズにしても、三姉妹探偵団にしても、吸血鬼エリカにしても、キャラに魅力があるからシリーズ物として成立していると思う。そんな数ある赤川作品の中でも、この「幽霊」シリーズの永井夕子は最も好きなキャラクターだ。
「どんな点が魅力か?」は、長いことうまく説明できずにいた。語り尽くせない魅力があり、とても短く表現することができずにいた。しかし、最近になって、漸く一言で言える便利な単語が生まれた。
そう。永井夕子は
ツンデレだ。赤川作品に登場する女性はツンデレが多いが、永井夕子は一番、典型的なキャラと言っていいだろう。
関係ないが、私は大の猫好きである(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする