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その1★で「生物の『生』の意義は、子孫を残すこと」と書きました。そして「それは自然(野生)の摂理であり、野生でない動物には当てはならない」と述べ、「すべての人間は『生きる』価値がある」と言いました。
この辺りを大幅にはしょった感じがするので、詳しく述べます。
「死」を考える動物は人間だけです。他の動物は、なにかの死体を見ても、それが死体だと認識はするかもしれませんが、さらに「自分も、いずれはあのように死に至る」とは考えないでしょう。
しかし、人間は「死」の意味を知ってしまった。祖父が死に、祖母が死に、父が死に、母が死ぬ……そういう姿を見ているうちに「いずれは自分も、あのように『生』が終わる」という事実を知ってしまいました。
そして「生」への執着が生まれた。
「子孫を残すという自然界での役割は果たしたから、もう死んでも構わない」とは思えなくなった。「少しでも、長く生きたい」と望むようになった。
そのため「生物の『生』とは、子孫を残すこと」という自然の摂理以外に、別の「生の価値観」を作り出さなければならなくなりました。
それが「自分自身の『生』を大切にすること」です。
自分自身の生を大切にしなければならないから、自殺してはいけないのです。他人の「生」を断つ「殺人」はいけないのです。
また過激な事をあえて書きますが、「子孫を残す『生』の意義」では、仲間を殺すのは悪いことではありません。むしろ理に適った行動です。発情期に牡が牝を奪い合って激しい争いを繰り広げるのは珍しいことではありません。中には殺し合いまで発展することもあります。あれは、より力が強い遺伝子を持った子孫を残すためです。勝ち残った力の強い牡の遺伝子を子孫に継承して、個体をより強力にしていくためです。
しかし、現在の人間社会では、他人を殺すことは認められません。つまり「子孫を残す」という自然界の摂理よりも「自分自身の生をまっとうする」という人間社会の倫理のほうが上回っているからです。
だから「すべての人間には生きる価値がある」のです。さらには、人間が関わった動物たちにも「自己が持つ『生』の価値を認めるべき」だと思うのです。
坂東氏の主張に「納得できる部分が感じられる」という人が多くいます。当たり前です。自然の真理を下敷きにして述べているのですから。
しかし、もうひとつの価値観である「人間社会における『生』の意義」を曖昧にしたまま、あのような論理展開をしているから、あんなおかしな主張になっている訳です。
同氏は、わざわざ「獣の牝は」と書いています。そう書かなければ、容易に人間に論理が転化されて、これまで筆者が述べてきたような様々な矛盾が噴出してしまうからです。
自然の摂理は真理です。しかし、実際に人間が「生」を支配、管理しはじめた現在においては、それだけが正しい価値観ではなくなっているのです。それが不満ならば、人間も含めて、すべての「自分自身が生きる価値」を否定するべきです。それができないならば、他の「生」を認めるしかありません。
筆者は自分自身の「生の価値」を否定されたくないので、他人の生の価値を奪いません。また、不必要に他の動物の生も奪いたくありません。
いつまでも長々と、この問題ばかり取り上げてても仕方ないので、筆者なりの結論を書きます。
自然の摂理は、突き詰めれば「弱肉強食」になると思います。弱い物が強い物に滅ぼされるのは仕方ないんですね。
でも、人間は「それはやめよう」と考えた。「弱い人間も、生きる権利は認めよう」と合意した。
だから殺人犯とか強姦犯とか、獣のような生き方をする人は裁かれる。
野生動物が自然の摂理で弱肉強食で生きるのは仕方がない。ライオンがシマウマを殺して食うのは止められません。
でも、ペットには、その価値観を与えるのは止めた。
セントバーナードを飼う人が、チワワを飼う人にけしかけて、噛み殺させたら犯罪になります。野生動物が野生動物を襲って殺すのは犯罪にならないが、ペットがペットを襲って殺せば犯罪になる。野生動物とペットは違うルールの世界で生きている。
元々、そういう相反するふたつの価値観が有る訳です。そもそも矛盾しているのです。坂東真砂子氏が、そういう価値観をペットに認めないならば、人間社会で生活するのは止めるべきです。文筆業で生計を立てるのもお辞めになれば良い。タヒチなんて場所で暮らさずに、人間がいない未開の地で、弱肉強食の原理で生きればいい。坂東氏より弱い動物をいくら殺しても自由です。しかし自分より強い動物に襲われて殺されても自己責任です。そうやって、本来の「生」を尊重してお生きあそばせ――と申し上げます。
※「弱い物にも生存権を認める」ことは、生物としての「人間」の種族力を弱める面は確かに有ると思います。しかし、人間は医学などの科学を発達させることによって、そのマイナス面をカバーして生きる道を選んでいると思います。ですから、この考え方は間違っていないと思っています。
【おことわり】
「なぜ動物を殺してはいけないのか?」という議論は、ディルレヴァンガー事件前から2ちゃんねるのムツ板あたりで延々と行われ、未だに続いております。結局、極論の応酬で水掛け論になるしかないんですよね。時間の浪費はしたくないので、当コメント欄で、その議論をするつもりはありません。違うお考えをお持ちの方は、このエントリーを無視してください。
その1★で「生物の『生』の意義は、子孫を残すこと」と書きました。そして「それは自然(野生)の摂理であり、野生でない動物には当てはならない」と述べ、「すべての人間は『生きる』価値がある」と言いました。
この辺りを大幅にはしょった感じがするので、詳しく述べます。
「死」を考える動物は人間だけです。他の動物は、なにかの死体を見ても、それが死体だと認識はするかもしれませんが、さらに「自分も、いずれはあのように死に至る」とは考えないでしょう。
しかし、人間は「死」の意味を知ってしまった。祖父が死に、祖母が死に、父が死に、母が死ぬ……そういう姿を見ているうちに「いずれは自分も、あのように『生』が終わる」という事実を知ってしまいました。
そして「生」への執着が生まれた。
「子孫を残すという自然界での役割は果たしたから、もう死んでも構わない」とは思えなくなった。「少しでも、長く生きたい」と望むようになった。
そのため「生物の『生』とは、子孫を残すこと」という自然の摂理以外に、別の「生の価値観」を作り出さなければならなくなりました。
それが「自分自身の『生』を大切にすること」です。
自分自身の生を大切にしなければならないから、自殺してはいけないのです。他人の「生」を断つ「殺人」はいけないのです。
また過激な事をあえて書きますが、「子孫を残す『生』の意義」では、仲間を殺すのは悪いことではありません。むしろ理に適った行動です。発情期に牡が牝を奪い合って激しい争いを繰り広げるのは珍しいことではありません。中には殺し合いまで発展することもあります。あれは、より力が強い遺伝子を持った子孫を残すためです。勝ち残った力の強い牡の遺伝子を子孫に継承して、個体をより強力にしていくためです。
しかし、現在の人間社会では、他人を殺すことは認められません。つまり「子孫を残す」という自然界の摂理よりも「自分自身の生をまっとうする」という人間社会の倫理のほうが上回っているからです。
だから「すべての人間には生きる価値がある」のです。さらには、人間が関わった動物たちにも「自己が持つ『生』の価値を認めるべき」だと思うのです。
坂東氏の主張に「納得できる部分が感じられる」という人が多くいます。当たり前です。自然の真理を下敷きにして述べているのですから。
しかし、もうひとつの価値観である「人間社会における『生』の意義」を曖昧にしたまま、あのような論理展開をしているから、あんなおかしな主張になっている訳です。
同氏は、わざわざ「獣の牝は」と書いています。そう書かなければ、容易に人間に論理が転化されて、これまで筆者が述べてきたような様々な矛盾が噴出してしまうからです。
自然の摂理は真理です。しかし、実際に人間が「生」を支配、管理しはじめた現在においては、それだけが正しい価値観ではなくなっているのです。それが不満ならば、人間も含めて、すべての「自分自身が生きる価値」を否定するべきです。それができないならば、他の「生」を認めるしかありません。
筆者は自分自身の「生の価値」を否定されたくないので、他人の生の価値を奪いません。また、不必要に他の動物の生も奪いたくありません。
いつまでも長々と、この問題ばかり取り上げてても仕方ないので、筆者なりの結論を書きます。
自然の摂理は、突き詰めれば「弱肉強食」になると思います。弱い物が強い物に滅ぼされるのは仕方ないんですね。
でも、人間は「それはやめよう」と考えた。「弱い人間も、生きる権利は認めよう」と合意した。
だから殺人犯とか強姦犯とか、獣のような生き方をする人は裁かれる。
野生動物が自然の摂理で弱肉強食で生きるのは仕方がない。ライオンがシマウマを殺して食うのは止められません。
でも、ペットには、その価値観を与えるのは止めた。
セントバーナードを飼う人が、チワワを飼う人にけしかけて、噛み殺させたら犯罪になります。野生動物が野生動物を襲って殺すのは犯罪にならないが、ペットがペットを襲って殺せば犯罪になる。野生動物とペットは違うルールの世界で生きている。
元々、そういう相反するふたつの価値観が有る訳です。そもそも矛盾しているのです。坂東真砂子氏が、そういう価値観をペットに認めないならば、人間社会で生活するのは止めるべきです。文筆業で生計を立てるのもお辞めになれば良い。タヒチなんて場所で暮らさずに、人間がいない未開の地で、弱肉強食の原理で生きればいい。坂東氏より弱い動物をいくら殺しても自由です。しかし自分より強い動物に襲われて殺されても自己責任です。そうやって、本来の「生」を尊重してお生きあそばせ――と申し上げます。
※「弱い物にも生存権を認める」ことは、生物としての「人間」の種族力を弱める面は確かに有ると思います。しかし、人間は医学などの科学を発達させることによって、そのマイナス面をカバーして生きる道を選んでいると思います。ですから、この考え方は間違っていないと思っています。
【おことわり】
「なぜ動物を殺してはいけないのか?」という議論は、ディルレヴァンガー事件前から2ちゃんねるのムツ板あたりで延々と行われ、未だに続いております。結局、極論の応酬で水掛け論になるしかないんですよね。時間の浪費はしたくないので、当コメント欄で、その議論をするつもりはありません。違うお考えをお持ちの方は、このエントリーを無視してください。