『すべからく』という言葉は『須く』と書くが、「すべて」や「全部」という意味ではない。
サ変動詞「す」に推量の助動詞「べし」の補助活用「べかり」のついた「すべかり」のク語法。
推量の助動詞「べし」を伴い、「是非ともしなければならない」という意味になる。
次は「やぶさかでない」という言葉。
「吝かでない」と書き、「喜んで~する」とか「~する努力を惜しまない」という意味になる。
このように直接言わないで否定を使って肯定文を作る修辞法を緩叙法という。
『すべからく』という言葉は『須く』と書くが、「すべて」や「全部」という意味ではない。
サ変動詞「す」に推量の助動詞「べし」の補助活用「べかり」のついた「すべかり」のク語法。
推量の助動詞「べし」を伴い、「是非ともしなければならない」という意味になる。
次は「やぶさかでない」という言葉。
「吝かでない」と書き、「喜んで~する」とか「~する努力を惜しまない」という意味になる。
このように直接言わないで否定を使って肯定文を作る修辞法を緩叙法という。
むかし、「わたし」を意味する日本語は「あ」であった。
それが次第に「わ」へと転化する。
奈良時代にはアよりワが多く使われており、「あ」は親近感の有る相手に、「わ」は改まった気持ちで向かう相手に用いられた。
もうひとつ自分を言い表す「な」という言葉もあった。
ところが、この「な」は、やがて二人称の「あなた」の意味になり、「なれ」、「なむぢ(汝)」に移っていった。
現代でも一人称が二人称に転用されることがある。
「自分はどう思うの?」
と相手に聞くことがあるが、勿論 この場合の「自分」は、「あなた」「お前」の意味になる。
「手前」を「てめえ」と発音すれば、相手を見下して言う二人称代名詞になる。
「おのれ」「われ」も二人称になる。
男性の使う一人称代名詞の「ぼく」は、言うまでもなく「しもべ」から来ており、つまり相手にたいしてへりくだった意味で使った言い方である。けれど今は同等以下の相手にたいして使う言葉とされている。
同じように「俺」も同等以下の者にたいして用い、「あたし」とは、「わたし」のくだけた言い方とされている。
また、目上の人には、「わたくし」を使うことが多い。
大阪では自分のことを「わい」と言い、長崎県では
二人称が「わい」になり、一人称は「おい」である。
古代語の「わ」は青森県の津軽地方、北海道の南、愛媛県伊予地方で使う。
このように人称代名詞は相手によって無意識のうち変わるし、県や地方によって使い方がだいぶ異なる。
なぜ日本語は一人称が二人称に転化されるのか?
この不思議な現象は何を表しているのか。
ヨーロッパの哲学は「われ」と「なんじ」という人間の対立によって生まれた。個の自覚、自我の確立は社会の戦いの中で手に入れた。ゆえに一人称代名詞は
I,Je,Ichの一語しかないし、二人称の英語もyouだけドイツ語はIhrとDeinだけ、フランス語もtu(テュ)、vous(ヴ)の2つだけだ。
ところが日本では、「われ」がたちまち「なんじ」に転化してしまう。
ということは、日本人にとって「われ」も「なんじ」も厳密に区別してこなかったと言える。
自分と他人に厳重な垣根をもうけなかったのである。
個人と相手と社会の一体感が生まれ、常に世間の中で自分の立場を確認し、相手の位地を伺い、微妙な人間関係を維持していくという配慮を何より優先させたからなのである。
『按ずるに筆は一本也、箸は二本なり。衆寡敵せずと知るべし』
という齋藤緑雨の箴言がある。
意味は「稼ぐための筆一本では、二本の箸で食べることに勝てるはずもない。少数では多数に敵わない。」ということ。
つまり、文筆業だけで食べていくのは難しいという事を、アイロニカルに表現したものだ。
白樺派のお坊ちゃんたちならいざ知らず、泉鏡花でさえ食えない時期があった。ましてや詩人の萩原朔太郎などは道楽で
詩を作ったりマンドリンを弾いたりしていると非難された。
啄木なぞは酒や女にうつつをぬかし、貧乏なくせに
見栄っ張りで、知人に金を借りては平気で踏み倒した。
なかなか作家にとって明治期は受難の時代といっていいだろう。
知り合いに寒河江さんという人がいる。「さがえ」と読むのだが、同じ寒河江さんでも上山市に
寒江(さがえ)さんもいる。最初の寒河江さんは、上山の寒江(さがえ)さんは変だと言い、
この字だと「さがえ」とは読めないだろうと主張する。(人によってプライドがあるのかしら。)
けれど馬鹿さんと書いて「ましかさん」と読むらしいし、四月一日さんは「わたぬき」さんだし、
名字のルールは無きに等しいのだ。
きっと寒江さんの「が」が抜けているのは、silent letterだと思えば良いのでは。
ところで上小林と書いて、「かみこばやし」と読む姓の人に会ったことがあるが、
この人の弱点は、数が少なく珍しいので、すぐ名前を覚えられるという事らしい。
「かみこばやしさ~ん」と二度目に会って呼ばれても、相手の氏名がわからないので
「あ!〇〇さんじゃないですか、とすぐ応えられないということだ。とてももどかしくスッキリしないそうだ。
上小林さんは岩手県の地名から出た姓で30名ぐらい存在するが、下小林と中小林はいないらしい。
その代わりに桐小林さんがいて、あとは小林のあとに一文字加わる名字ばかりだ。
広島に小林川さんがいて、埼玉に小林森さんもいる。茨城に小林木さんがいて、山口に小林内さんがいる。
そしてとどのつまりは福島県に小林古(こばやしふる)さんがいるのだ。
名字というものは奥が深く楽しいものだ。
栃木県小山市の小山駅から群馬県前橋市の新前橋駅まで結ぶ東日本旅客鉄道に
両毛線という鉄道がある。
私はいまだ乗車したことがないが、沿線に途中下車に適した町が
ほぼ等間隔に並んでいて、とても楽しいし、また山々の景観も素晴らしいとのこと。
この両毛線は、昔、両毛鉄道と言って、生糸や桐生織などを運んでいたそうだ。
両毛の意味は、現在の栃木の旧名「上毛野国(かみつけのくに)」と、今の群馬県「下毛野国(しもつけのくに)」を結んだからだ。
また、隅田川の架橋に「両国橋」という大橋がある。
昔は千住橋以外、隅田川の架橋はなかった。
1657年明暦の大火の時、橋がなく逃げ場を失った107000人の人が亡くなった。
そこで老中酒井忠勝らの提言で防火・防災目的のため架橋を決断、隅田川に
大橋を築いた。1661年のことである。
その時の大橋の位置が、武蔵国と下総国の間にあったので
みなこの橋を両国橋と呼んだ。
当時の言葉でいうと
「武州・下総両国へ掛かりたる橋なるがゆゑに両国橋と名付けるなり」となる。
加えて両国の「両」の文字は小判の一両、二両の両で
極めて縁起の良い「佳字」と言える。
最後に 国立(くにたち)。
国立駅は中央線ぞいにあり、西に行けば八王子や高尾があったが
大学時代ほとんど用事がなかった。
確か三鷹、阿佐ヶ谷、吉祥寺、高円寺どまりであった。
この国立という地名は、国立駅に始まる。
1925年谷保村に箱根土地(現プリンスホテル)の堤康次郎が開発を計画。
東京商科大学(現一橋大学)を誘致し学園都市にする予定を実行した。
昭和26年谷保村から国立町になり、昭和40年には富士見台団地が完成し人口が5万人を突破した。
昭和42年国立市が誕生、昭和55年には国立高校が都立で初めて甲子園に出て
国立フィーバーを起こした。
中央線沿線で「国立駅」は、国分寺駅と立川駅の中間に位置する。
1926年(大正15年)4月1日、国分寺駅と立川駅の中間の位置に
新しい駅を作ろうという事で、
それぞれの駅名の最初の一文字を取って国立駅と命名した。
なおかつ「この地から新しい国が立つ」という
良い意味合いを込めて、国立駅としたともいえる。
Aは卒論を書くとき、作家の先行研究が少なかったので、福島の図書館に足を運んだり、時には学習院大学の資料を読み漁ったりしていました。
謂わば「渉猟」していた、と言えるでしょう。
また、孔子が易経を革紐が擦りきれるほど何度も読んだことから「韋編三絶」という熟語が生まれました。
また、透視能力があるがのごとく、文章の真意を汲み取ることを、「眼光紙背を徹す」と言います。
「行間を読む」を更に格調高く表現した言葉なので、誉め言葉として使われることもあります。
精読、熟読、乱読、いろんな読み方がありますが、
貴方は積ん読(つんどく)かな?
似たような漢字に「祟」と「崇」がある。
祟が「祟り」と書いてタタリと読み、部首は(しめす・しめすへん)
後者は「崇める」と書いて、アガメルと読む。部首はやまかんむり(やまへん)。
意味は、「祟り」は「神仏や霊魂などの超自然的存在が人間に禍いを与えること」。
対して「崇める」とは、「尊敬する」、「敬う」、「神仏に対して畏敬の念を持つ」などの意味。
一見、相反する言葉のようだが、「祟る」には人間が怨霊と化したものを
その怒りや怨念による禍いや天変地異を鎮めるため、神社、祭祀を祭り上げたもの
という解釈ができる。具体例が菅原道真の天神様や平将門の神田明神である。
二つの字には、「神・目に見えないもの」への畏敬の念や畏怖が伴うので
ただ字面が似通っているだけではなく
元々は限りなく意味合いの近い存在ではなかったのだろうかと想像する。
ただ、人名や「兵庫県尼崎市崇徳院」などの地名には
縁起のいい「崇」が使われているという事は言うまでもない。