平安時代の貴族藤原良相(813~867年)の邸宅跡(京都市中京区)で出土した9世紀後半の土器片約20点に「かつらきへ」(葛城へ)など和歌とみられる平仮名が書かれているのが見つかった。京都市埋蔵文化財研究所が28日、発表した。同時期の平仮名は多賀城跡(宮城県)などでもわずかに出土しており、最古級となる。
平安時代の貴族の邸宅跡で出土した、平仮名が書かれた9世紀後半の土器片(28日、京都市)=共同
文化の中心地だった平安京でのまとまった出土で、合同調査した京都産業大の吉野秋二准教授は「平仮名の確立は10世紀と言われていたが、約50年さかのぼることが分かった」としている。
仮名は9世紀に、1音に1字を当てる万葉仮名、万葉仮名の草書体を用いた草仮名、そして平仮名の順に移行するとされる。
同研究所によると、昨年の調査で邸宅跡の池から皿などの土器の破片約90点が出土。うち20点に墨で「かつらきへ」(葛城へ)「きなくひとにくしとお□はれえす」(□は欠字、来泣く人憎しと思われえす)などと記されていた。
京都大の西山良平教授によると、神楽歌「朝倉」には「葛城へ渡る久米路の継橋の心も知らずいざ帰りなむ」とあり、その一部とすれば、邸宅で神楽が行われ、その際に記された可能性がある。
また同時に見つかった木簡には「む」を表す草仮名に近い平仮名があった。
一方、9世紀前半の井戸跡で、檜扇(ひおうぎ)と木簡を発見。それぞれ万葉仮名で手習い歌の「難波津」を示す「奈尓波」などと記されていた。同じ遺跡で万葉仮名から平仮名までが見つかったことで仮名の変遷が分かるという。
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右大臣を務めた藤原良相(よしみ)は漢文や仏教に造詣が深く、自らの邸宅を「百花亭」と称し一流の文化人が集まった。清和天皇とともに「桜の宴」も開催されたこともある。
今回発見された土器片は9世紀後半のものとのことだが、良相の晩年の宴だったのだろう。
この発見以前は、正式な平仮名の文書は905年に醍醐天皇によって出された勅撰和歌集の「古今和歌集」が最初だとされていた。それゆえ今回の発見は画期的なものになった。
2008年には富山県射水市一条の溝から9世紀後半のものといわれる草仮名(そうがな)が書かれた酒杯が発見された。
地方に任官した官人たちが「曲水の宴」などで和歌を詠む際に筆慣らしの意味で酒杯に墨で書いたものらしい。
2011年12月8日には、藤原良相の邸宅跡と庭池の遺構も発見されている。池の周囲からはS字形の敷石が出土し、良相ら貴族も「曲水の宴」を開いていたことが窺い知れる。
藤原冬嗣の子であり、初めて摂政となった藤原北家良房を兄に持つ良相であったが、彼の死後不運にも子どもたちに公卿が生まれていない。
弁舌さわやかで才気煥発な彼は、信仰心にも厚く人徳もあり、延命院を建てて一族の学生の内で病苦があり家業がない者を養い、また、六条の邸宅を崇親院と名付けて一族の子女で自ら生計を立てられない者を養った。
にもかかわらず子孫が繁栄しなかったのは、良房の策略があって故意に良相を失脚の方向に持っていったからであろうと推測する。
「曲水の宴」ではないが、鴨長明が悟った
無常を感じざるを得ない。