「石神井書林」の店主、内堀弘氏が書いた「ボン書店の幻」を読んでいる。
昭和8年から13年までの僅かな期間に35冊ほどの詩集を出版した鳥羽茂は
まさに詩集を作ることに全エネルギーを費やしたような人物だった。
ボン書房刊行の山中散生著「火串戯(ひあそび)」などは20万円以上もする。
雨の脚ー山中散生
僕のアンブレラのなかには君もゐる
この窓あの屋根を下ってもろもろの口笛も戻る
君はそんなに耐へかねてゐる
僕はそんなに剛情だ
小鳥たちが超え聲を落として羽搏くこともやる
夕暮が夜に呑まれた
僕のアンブレラのなかには僕はゐない
彼はシュールレアリストやモダニストを愛し、敢えて有名な詩人を取り上げなかった。
時には早稲田の新人詩人の作品を出版したりもした。
けれど彼の残した作品はわかるが、彼が出版をやめて姿を消してからの足取りを誰も知らなかった。
ただ一人当時を知る鳥羽茂の妹が存命で話を聞くことができたし、茂の息子さんにも会うことができた。
彼は妻が亡くなった後、妻の実家大分県の緒方村で四歳の息子瑶君と数か月を過ごしたのだそうだ。
当時の断片的な記憶が残る70に近い息子さんは、父親とリンゴや梨の苗木を植えたことを覚えていた。
束の間の穏やかな親子の情景・・・けれど鳥羽茂は死ぬためにそこにやってきたのだという。
作者の内堀氏は鳥羽茂が亡くなって65年後ぐらいだろうか、何年かの鳥羽茂の命日に大分のその村を訪れている。
もうすでに鳥羽茂の住まいはなくなっていたが、当時の彼らを知っている老婦人に会って話を聞いている。
「近くに井戸があって、小さな男の子がよくバケツを持って水汲みに来ていたよ」。
そう話す老婦人は、当時鳥羽茂氏が結核の病気にもかかわらず、よくドロップをくれたので
家に遊びに行ったという。
けれどいつの間にかその父子はいなくなった。
内堀氏がその場所を引き上げようとしたとき、一本の樹が目に入った。枝葉の間に梨の実がなっていた。
このへんに梨の樹はこれだけだという。
『親子が姿を消し、誰も住まなくなった小さな土地で、梨の苗木は静かに育っていたのだ。
これが墓碑なのだと私は思った。』と内堀氏は書いている。