文芸評論家の亀井勝一郎は、大正12年に現在の山形大学人文学部の前身である旧制山形高等学校の文科乙類(ドイツ語)へ入学。ゲーテ、ハイネに親しみ、神保光太郎らとの交友を通して文学に興味を抱き、東京帝国大学美学科へ進学した。以下の文章は、「大和古寺風物誌」に収められた「薬師寺」の冒頭、「春」という小題のついた一節である。
私の早い青年時代、つまり高等学校の頃は山形で暮した。
それまで朝夕海を眺ながめてくらしてきた私は、この山国へ来て、はじめて山岳のもつ美しさ、威容、圧力などを感じた。
山形は盆地である。
近くで最も高い山は、樹氷で有名な蔵王山であるが、それから北へ連なる雁戸(がんど)山、もっと近くて低い千歳(ちとせ)山、丘と云っていい盃(さかずき)山、
また西方には朝日岳(あさひだけ)連峰がつらなり、それから北方へかけて、月山(がっさん)、湯殿山、羽黒山などが望見された。
春は三月、四月、その頃になると私はよく盃山へ登った。
この小山の裾すそを馬見ヶ崎川(まみがさきがわ)が流れているのだが、それを眼下にみおろし、山形の街、桜桃畑、野、田畑とひろびろとした盆地を眺めつつ、柔い春風のなかで昼寝したものである。
海のないのがはじめの間実に不思議であった。山岳の重苦しい圧迫を感じた。しかし緑の美しさをほんとうに昧あじわえたのは、やはりこの山国であったろう。
故郷の山も、春は若葉に蔽おおわれるのだが、海があり、白砂があり、砂丘や牧場があって、その若葉はさしてめだたなかったのである。
ところが山形へ来ると、眼のとどくかぎり山また山で、春になると一面の若葉、まるで頭から若葉をかぶったような感じで、鮮かな緑色が私には驚きであった。
この地方では蚕を飼うので桑の木が多い。北海道では桑畑は全くみられない。山形で一番さきに春の訪れるのを感じるのは、この桑の若芽の萌もえ出いずる頃である。
丈(たけ)の低い、ふしくれだった頑丈なその幹と枝ぶりはゴッホの筆触を思わせた。
そこから実に可憐な小さな若葉が出て来る。雪が消えて、道路のぬれたところを歩きながら、ふとこの桑畑に眼をやると、ああ春が来たのだと心から感じるのであった。
また、これは晩春であるが、桜桃畑の眺めも忘れ難い。
その花はさして美しくはないが、桜桃の実の熟するときは、すべての木々に小さな提灯をつるしたようで、一面に周囲が朱い点々となり、眼と食慾(しょくよく)とを同時に誘惑したものである。
平生の散歩道であるし、桜桃の枝は肩のあたりまで垂れているので、つい手が出る、というより口が出る。
つまり唇の辺に、桜桃の朱い実がたわわにぶらさがっているのだ。春がくるたびに、私はいつも頬にふれたその柔い感触を思い出す。