僕の感性

詩、映画、古書、薀蓄などを感性の赴くまま紹介します。

中原中也 「在りし日の歌」

2008-06-30 23:19:39 | Weblog
 





中原中也の「在りし日の歌」です。創元社から昭和13年6月20日再版発行された元本です。気に入った詩を2つ載せておきます。  
  


 夏の夜に覚めてみた夢
 
 
 眠らうとして目をば閉ぢると
 
 真ッ暗なグランドの上に
 
 その日昼みた野球のナインの
 
 ユニホームばかりほのかに白く――
 

 
 ナインは各々守備位置にあり
 
 狡(ずる)さうなピッチャは相も変らず
 
 お調子者のセカンドは
 
 相も変らぬお調子ぶりの
 

 
 扨(さて)、待つてゐるヒットは出なく
 
 やれやれと思つてゐると
               
 ナインも打者も 悉(ことごと) く消え
 
 人ッ子一人ゐはしないグランドは
 

 
 忽(たちま)ち暑い真昼のグランド
                
 グランド繞(めぐ)るポプラ竝木は
 
 蒼々として葉をひるがへし
 
 ひときはつづく蝉しぐれ
                                
 やれやれと思つてゐるうち……眠た

 
    


    雲 雀 

 
 ひねもす空で鳴りますは
 
 あゝ 電線だ、電線だ
 

 
 ひねもす空で啼きますは
                  
 あゝ 雲の子だ、雲雀奴だ
 

 
 碧い 碧い空の中
                 
 ぐるぐるぐると 潜りこみ
 
 ピーチクチクと啼きますは
 
 あゝ 雲の子だ、雲雀奴だ
 

 
 歩いてゆくのは菜の花畑
 
 地平の方へ、地平の方へ
 
 歩いてゆくのはあの山この山
 
 あーをい あーをい空の下
 

 
 眠つてゐるのは、菜の花畑に
 
 菜の花畑に、眠つてゐるのは
 
 菜の花畑で風に吹かれて
 
 眠つてゐるのは赤ン坊だ?









巨人の星

2008-06-29 23:55:44 | 漫画

昔、漫画で見て、アニメで楽しんだスポ根漫画「巨人の星」です。
図は星飛雄馬のひとりキャッチボールのシーンです。
いくらスパルタ教育を受けた飛雄馬にしても、穴を通すことは可能でも、木に当たってそのボールが同じ穴から戻ってくるのは不可能でしょう。
しかし子どもながらにすごく感動した覚えがあります。
漫画コラムニストの夏目房之介は
「ある種のケレン味、マンガだからできるハッタリの楽しさ、面白さだと思う。」
と語っています。

大リーグボールには魅せられました。特に2号の消える魔球は絶対打たれるわけないと思っていたのにライバルたちに攻略されるわけです。
特訓→新しい技の完成→対決→決着→次の展開
以上の図式が繰り返され、我々には「努力が至上の美徳、努力、根性は報われる」とこのマンガを通して教えられました。

免許更新とジャカッセ

2008-06-29 23:36:34 | Weblog
 今日は、妻と免許書替えに行きました。(二人とも書替えです)
免許センターが新しい場所に移り、機材も新しくなったせいか、免許の写真が5年前より男前に写っていました。妻も自身の写真に満足していたようです。
 昼食を天童のジャカッセでとりましたが、デジカメを忘れ、食べた料理の絵を撮れませんでした。わたしは「ウニのリゾット」、妻は「ホタテとレタスのスープパスタ」をオーダーしました。リゾットは空腹を満たすには少々物足りなかったのですが、味が濃厚で、鼻腔に芳ばしい香りが抜けていきました。

甲子園

2008-06-28 21:51:58 | Weblog
「感動する話・泣ける話」の中の「甲子園」というタイトルの感動話です。

私の父は、高校の時野球部の投手として甲子園を目指したそうですが、「地区大会の決勝で9回に逆転されあと一歩のところで甲子園に出ることができなかった」と、小 さい頃良く聞かされていました。
そんな父の影響もあってか、私は小さい頃から野球が大好きで、野球ばかりやっていました。父も良くキャッチボールをしてくれました。
そして私は、小学5年から本格的に野球を始め、高校に入った私は迷わず野球部に入部しました。
ところが、高校入学と時を同じくして、父が病に倒れてしまいました。
その後入退院を繰り返し、高校1年の冬からはずっと病院に入院したきりになってしまいました。
父の体がどんどん細くなっていくのを見るにつれ、なんとなく重大な病気なのかなとは感じました。
父は、病床で私の野球部での活動内容を聞くのを一番楽しみにしてくれていました。

そんな高校2年の秋、私はついに新チームのエースに任命されました。
それを父に報告すると、一言「お前、明日家から俺のグローブ持って来い!」と言われました。
翌日病院にグローブを持っていくと、父はよろよろの体を起こし、私と母を連れて近くの公園の野球場に行くと言いました。
公園に着くと父は、ホームベースに捕手として座り、私にマウンドから投げるように要求しました。
父とのキャッチボールは、小学校以来でした。しかも、マウンドから座った父に向かって投げたことはありませんでした。
病気でやせ細った父を思い、私は手加減してゆるいボールを3球投げました。
すると父は、怒って怒鳴り、立ち上がりました。
「お前は、そんな球でエースになれたのか!?お前の力はそんなものか?」と。
私はその言葉を聞き、元野球部の父の力を信じ、全力で投球することにしました。
父は、細い腕でボールを受けてくれました。ミットは、すごい音がしました。
父の野球の動体視力は、全く衰えていませんでした。
ショートバウンドになった球は、本当の捕手のように、ノンプロテクターの体全体で受け止めてくれました。
30球程の投球練習の後、父は一言吐き捨てるように言いました。「球の回転が悪く、球威もまだまだだな。もう少し努力せんと、甲子園なんか夢のまた夢だぞ」と。

その数週間後、父はもう寝たきりになっていました。
さらに数週間後、父の意識は無くなりました。
そしてある秋の日、父は亡くなりました。病名は父の死後母から告げられました。
ガンでした。

病院を引き払うとき、ベッドの下から一冊のノートを見つけました。
父の日記でした。あるページには、こう書かれていました。
「○月○日  今日、高校に入って初めて弘の球を受けた。弘が産まれた時から、私はこの日を楽しみにしていた。
びっくりした。すごい球だった。自分の高校時代の球よりはるかに速かった。
彼は甲子園に行けるかもしれない。その時まで、俺は生きられるだろうか?できれば球場で、弘の試合を見たいものだ。
もう俺は、二度とボールを握ることは無いだろう。人生の最後に、息子とこんなにすばらしいキャッチボールが出来て、俺は幸せだった。ありがとう」
私はこれを見て、父の想いを知りました。それから、父が果たせなかった甲子園出場を目指して死に物狂いで練習しました。

翌年夏、私は背番号1番を付けて、地区予選決勝のマウンドに立っていました。
決勝の相手は、甲子園の常連校でした。見ていた誰もが、相手チームが大差で勝利するものと思っていたようでした。
ところが、私は奇跡的に好投し、0対0のまま延長戦に入りました。
10回裏の我がチームの攻撃で、2アウトながらも四球のランナーが1塁に出ました。
そのとき打順は、9番バッターの私でした。
相手のピッチャーの球は、140KMを超えていました。打てるはずもありませんでした。
あまりの速さに怯え、目をつぶって打とうとしたとき、亡くなった父の顔が一瞬まぶたに見えたように感じました。
気が付くと、目をつぶって打ったはずの私の打球は、左中間の最深部に飛んでいました。
私は夢中で走りました。相手チームの二塁手が、呆然として膝から崩れるのが見えました。サヨナラ勝ちでした。

チームメイトは、感動で皆泣いていました。
応援に来てくれていた父の当時のチームメイトも、泣いていました。
スタンドの母が両手で持った父の遺影が、静かに笑って、うなずいているように見えました。

甲子園では、結局1勝もできませんでしたが、父のおかげで甲子園に出ることがで きて、とても楽しく野球が出来ました。
そのときもって帰った甲子園の土は、全て父のお墓に撒きました。
甲子園に出れたのは、父のおかげだったような気がしました。
これから、どんなに辛いことがあっても、父のことを忘れず努力していきたいと思っています。
ありがとう、お父さん!!


山形名産「サクランボ」

2008-06-28 21:23:11 | Weblog

今日、東根市の知人が持ってきてくれたサクランボ(桜桃)です。
佐藤錦(サトウニシキ)という銘柄です。
最近7月上旬に出荷される紅秀峰(ベニシュウホウ)という品種も出回ってきました。
佐藤錦よりも大粒で実が硬く日持ちがするそうです。
酸味が少なく、若い人の受けがいいようです。

さだまさしの後悔

2008-06-27 13:47:19 | 思い出
さだまさしのおばあちゃんの思い出




いまだに苦い思い出として残っているのは、小学一年生のときの僕の誕生会。

僕を一番可愛がっていた祖母から「マー坊の一番好きなものをプレゼントするよ」と言われていて、これはすごい物をもらえるぞと期待していた。

そしたら色とりどりのご馳走が並んでいるテーブルの上に、山盛りのおにぎりがあった。でもそのおにぎりは、その場の雰囲気にまったくそぐわないんだな。



おばあさんのおにぎりは、さださんの大好物で、お腹がすくと 「おばあちゃん、おにぎり、おにぎり」とせがんでいたのです。

さださんのおばあさんはいつものおにぎりを作って、豪勢な料理の並ぶ中に置きました。

小学一年生の子供が、おばあさんの胸のうちを理解できるわけもなく、彼はおにぎりに手もつけず友達と遊びに出て行ってしまいました。豪勢な料理の皿は平らげられ、手付かずのおにぎりの山だけが残りました。


なんとなく子供心にも気にかかりながら家に帰ると、祖母が薄暗い土間の食堂でそのおにぎりを崩しながらお茶漬けにして食べているんですよ。

それを見た途端、「今から食べるけん」とかなんとか言ったんだけど、「そんなに気をつかわんでもいいから」って、祖母は厭味一つ言わなかった。

僕は子供心にも、自分がいかに祖母に酷なことをしたんだろうと思って、泣きながら二つばかりムシャムシャ食った記憶が今も鮮明に残ってるんです。

「精霊流し」(幻冬舎文庫) 解説から


さだまさしの幼い頃の胸にチクリとくる思い出です。喜ぶ孫の顔を見たくて一身におにぎりを握る。そんな優しさに答えられなかった自分にすごく腹が立って忘れられないのでしょう。








いちご白書をもう一度

2008-06-26 23:00:12 | 音楽

1975年、バンバンの「いちご白書をもう一度」です。

聴くと学生の頃の自分が現れて、消えかけた映像を再び鮮明に蘇らせてくれます。

文化祭で「いちご白書」が上映されると、映画通のY君は

「学生運動の映画だから面白くないぜ」

したり顔でぼくに説明してくれました。

確かにつまらない映画だったのですが、その頃好きな人がいて

授業を抜け出して一緒に映画は行かなかったのですが、

おとなしい青春を謳歌していたのかもしれません。

今でもその頃書いた詩が幾重にも自分の胸に折り重なり、

はらはらと一枚ずつ脳裏を巡るのです。


ゲソ天好きの山形県人

2008-06-26 22:30:57 | Weblog

大の目温泉近くの「有頂天」のゲソ天ラーメンです。
今日の「秘密のケンミンSHOW」で、山形県人は大のゲソ天好きということを
カミングアウトしていました。
日本そばだけじゃあなく、ラーメンにもゲソを入れて食べるという事が、他県民には不思議らしいのです。
確かに自分も昔から、イカの身よりもゲソのほうが味があって好きです。そして、蕎麦にイカ天が入ると、衣が溶けてスープがトロッと香ばしく、脂っこくなるのが大好きです。
スーパーにも山盛りのゲソ天が置いてあるんですよ。
「有頂天」のほかに、天童の「らーめん一歩」や「ごま蔵」、「そば処すぎ」などの店でゲソ入りラーメンが食べる事ができます。
山形まで食べに来てけろ~

山大前やまとや食堂

2008-06-26 22:09:06 | 食べ物

山形県米沢市、山形大学前の「やまとや食堂」の中華そば500円です。
2007年1月に卓球の練習試合の後、立ち寄った食堂です。
麺は細めの縮れ麺で、牛の背脂がたっぷり入った濃厚なスープにぴったりでした。
チャーシューもたくさん入っていて、歯ごたえがよく美味しかったです。
すごく混んでいたのに、丁寧で、愛想がよく、感じのいい店でした。