―― 私は、大井沢にある「加登屋」という老舗旅館で、ものすごく厳しい父と、女将として気配りの上手な母の長女として生まれ育ちました。
山形で下宿をしながら通っていた高校を卒業した後は短大に進学する心づもりでいたものの、父の「花嫁修業をしろ」との言いつけに素直に従い、実家へと帰ってきた私。
その後は、家業の手伝いの合間を見つけて、和裁や大好きな日本舞踊をしながら日々を過ごしていた私に、出逢いは突然訪れました―――。
あれは、19歳の冬のこと。大雪だったその日、家に帰ってきた私が玄関先で目にしたのは見慣れない一足の靴でした。時期はずれのお客さんを不思議に思っていた私と、後に夫となるそのお客さんを出逢わせたのは、大雪のせいで起こった停電でした。停電のせいで、囲炉裏の周りにみんなが集まらざるを得なくなったんですよね。
当時、国家公務員の就職内定を得ていた大学4年生の彼。大井沢を題材にした卒業論文を書くためにここに来ていた彼と出逢った瞬間、その洗練された風貌にときめきを感じた私の中で、すでに彼は“心に決めた人”となっていました。今思えば、まだ若かった私が勝手に作り上げていた夢物語だったのかもしれないけれど。
電話やメールなんてもちろんなかった40年前。遠く長野で働き始めた彼と連絡をとる術は、届くまでに1週間かかる手紙だけ。そんな時代に、赤い糸が二人を導いてくれたんでしょうか?どちらからともなく文通が始まり、約2、3年の交際期間の間に交わした手紙は、計61通。未だにどちらが先に手紙を出したかはわからないまま。
(笑)その手紙は、今でも大事にとってある私の宝物です。「好きです」「愛しています」との言葉は、ついぞ文面には現れずじまい。そんな台詞の代わりにか、彼は私の字の間違いをいつも指摘してくれていました。(笑)
だけど、その手紙の中に滲み出ていた彼の誠実な人柄を感じる度に、私の中で「この人ならついて行っても大丈夫だろう」という思いが増してきたんです。
だから、ほとんど会ったことがなかったにも関わらず、結婚まで踏み切れたんでしょうね。
一方で、「朝晩も休みもない実家のような商売は絶対したくない」というのが本音としてあった私は、“普通の主婦”に対する憧れが半端なく強かった。そんな切なる私の願いも、結婚に踏み切った一つの動機となったのかもしれません。――
上の文章は、西川町の大井沢で宿を営んでいる小山裕子さんの公演における話の内容だ。
これは会いに行かねばならないという使命感に駆られ、9月23日、家族で
孝庵を訪れた。
コオロギやら鈴虫などの音色が満載の大井沢が大好きだ。
平家落人伝説があり、煙る山紫水明のこの地に想いを馳せる日々を過ごす。
井戸に梅花藻が動き揺れ
カズラやアケビやサルナシが出迎えてくれる。
近くの温泉を満喫し夕飯を楽しむ。
ご主人が近くの川で釣り上げた天然のイワナ
アケビにブナハリタケとマイタケを仕込んでいる。
芋煮には大きな麩が入る。
大量のシシトウやナスの天麩羅
お蕎麦に栗ご飯も旬のご馳走
女将さんからいろいろな旦那様とのエピソードをお伺いした。充足な時間にほのぼの~
朝食もこまごまとした配慮が感じられた。
帰り際にスナップショット 再訪を約した。