四月の八日は花まつり、二十四節気では今度の19日は穀雨だ。いよいよ春になるか。
ここでは山吹の花を掲げる。公園に植栽されている派手な八重咲ではない、山林に自生する野生の一重咲だ。色彩の色名では山吹色として現代でも古来から残っている。画像は一輪挿しである。
わたしには余情というか、幼き日々の光景、田舎では沢筋にふんわりと鮮やかにに咲きほこる灌木である。山吹の花びらは透明感あるすっきりした色合いだ。ちょうど、もみじイチゴ(木苺)がオレンジ色に熟し、そろそろもいで食べられる頃だったろうか。山吹は実も付けず、樹木の樹姿としての賑々しさはない。また山裾にも多く、殊に山道沿いにも見られ、咲いた花びらをさし枝にて突きだすようだ、そしてそこだけは明るくなるのだ。しかし、敢えて花生けに使うほどでもない、供花にもならない。田舎では、用材にも薪にもならず、生活上何の用途にもならないのだ。
時折り、わたしは和室から庭先をじぃーと見つめる。
ここでは山吹の花を掲げる。公園に植栽されている派手な八重咲ではない、山林に自生する野生の一重咲だ。色彩の色名では山吹色として現代でも古来から残っている。画像は一輪挿しである。
わたしには余情というか、幼き日々の光景、田舎では沢筋にふんわりと鮮やかにに咲きほこる灌木である。山吹の花びらは透明感あるすっきりした色合いだ。ちょうど、もみじイチゴ(木苺)がオレンジ色に熟し、そろそろもいで食べられる頃だったろうか。山吹は実も付けず、樹木の樹姿としての賑々しさはない。また山裾にも多く、殊に山道沿いにも見られ、咲いた花びらをさし枝にて突きだすようだ、そしてそこだけは明るくなるのだ。しかし、敢えて花生けに使うほどでもない、供花にもならない。田舎では、用材にも薪にもならず、生活上何の用途にもならないのだ。
時折り、わたしは和室から庭先をじぃーと見つめる。