うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

行きがかりに・・・・・

2024年11月10日 08時13分21秒 | 短編小説、エッセイ・創作作品・成果品など
 わたしの過去の創作、成果品造りを振り返ると、その頃に出回ったワープロにより平成 9 年に“自分史”、また平成 16 年に極私的造園設計経歴書“緑の仕事(自叙伝ふうに)”を冊子にまとめたものである。また、当時の造園会社在社時に設計室として、北鎌倉の邸宅庭園や品川区内の天王州アイル PT を含む自作作品の設計図集を発行したことがある。変わった例では在社時の贈収賄事件の“鴨川裁判傍聴記録”がある。
 ところで、ここでは東洋大学文学部にいた頃に文学サークル会誌の「たいやき 第3号」に発表したものを思い立ってこのブログに転載する。原稿用紙12枚の分量だ。この前後と思われるが、独自にわら半紙にガリ版(孔版印刷)で雑文集「うざね博士の文集」を作っていた。
 わたしは大学生とは言え、当時は勤労学生でバイトで生活費を稼ぐのに追われて、学校の講義にはあまり出ていない。世相的には70年安保の世代、のどかな田舎から上京し自らの生き方について放浪していたのだが、社会的な問題を自らに引き付けていて頭でっかっちの時代であった。
 この短編はボキャブラリーの少なく短文で綴られているが、これはこれでわたしの20歳前半の作と言えそうだ。したがって、あえて修正していない。時代は1970代前半だろうか、半世紀前のことである。当時の東北の方言や古い言い廻しに対し、わたしは、このwordの使い方が未熟のために注釈やルビを振れずにいる。

 岩手に入ると、俺はもう来てしまった、と思った。上野駅を深夜に発ち、今はもう乾からびたような朝景色がつらなっていた。
 もう、刈り入れも終え、脱穀も終わったのだろう。朝もやを透かして見る崩れた田んぼの畝は、どの田んぼもぶんなげられたようだった。
 どうでもよいこの世のありさまであった。

 ゴトン、ゴトンとひびく。
 ふと、俺は思う、確かにゴトン、ゴトンと鳴っているんだろうな。何か、田舎の方に近づく度に、レールが段々と低くなってるんじゃないか。
 ポカンとしていると俺はやっと気付く。で、しかたなく、網棚のバッグを向かい側の席に下す。車内はがらんどうである。しかたなく、俺は散らかした酒の飲みかすやら、つまみやら、本やらを片付けた。そして、元の通りに、赤茶けた向かいの席に足をのばした。
 綺麗な女でも近くにいれば、俺はそこに目を置きたかった。いやだれでもいいから人が居れば耳を傾けたかった。
 ああそれなのに、と思う。ああそれなのに、と俺は性懲りもなく文庫本を引っ張り出した。鼻紙にも使えないな、と出鱈目に本を開く。
 途端に俺は目がくらくらした。紙の白さが俺に本だと知らせたのだ。

 この小林秀雄という著者は偉いんだと、人は云う。この近代批評の確立者(文学史において)は今の文壇でもかなりの権威者として仰がれているらしい。批評家としての初期は、フランス象徴主義の大きな影響のもとに出発したのである。そして、俺はこの二、三年、この小林に、どう生きるべきかの問題として、滅茶苦茶に振り回されていた。
 俺の兄貴が、この前、沖縄返還批准法案阻止とかのデモ、総評が各組合に全国動員をかけたのだが、町役場の代表みたいなものになって上京した。その時に、俺は御覧の通りのありさまですと、ずっと小林秀雄のことばかりしゃべりまくっていたような気がする。その時も兄貴は云ったものだ。小林秀雄ってええば、なんだおめえ、エライ人じゃないか、と。おめえも変わったなあ、終始、奇妙な顔をしていたのだが。

 俺はひとりごとみたいに、口の中で、もやもやと、何かを云ってみた。
 ほんとにひどい人にぶつかったものだ。
 このようなものが俺には秀でているなど、と口はばったくて云えないな。何がいいのか知らないけれど、全てが凡庸に見えてきゃあがる。ああほんとにおまえは。ああ、ほんとにおまえは、毒があり過ぎる。
 ふと、俺は我に返る。
 この人でなしの文学め!

 俺は例えようもなく、イライラしてくる。ああ、次は花泉なんだな、うん、降りるんだな、とまたつぶやく。

 で、俺は今、絶望している時なのかもしれぬ。だから田舎の一大事に、当然のことながら、何ができる筈もない。

 ホームにとび降りると、覚束ない足どりで閑散とした駅の改札口に向かった。屋根に瓦が葺いてある。駅全体が色褪せて見えた。まだ残っている冷気の中を雉鳩なのか、啼き声がつんざいた。
 駅員がじろじろ俺をながめた。何かあったんですかとでも云うように、切符を渡しながら、俺は見返した。途端に俺は恥ずかしくなった。日頃の無精に加えて、頭はボサボサの蓬髪であった。着るものはそんなに可笑しくもない筈なんだが、とひとり合点したらまるでべそをかいたのだ。


 「何があったのか」
 父が庭で籾殻を焼いている。冬、火持ちを良くするため、炭火の上に振りかけておくのに使う。均一に焼けるように箒でならすのだ。二メートル直径の形に拡げる。箒を左手に持ち替え、トントンとしたと思うと、こう云った。
 その泥分を顔じゅうにまぶしたような、老いた親父をを見て、俺は目の遣り場もまないままその場にかがんだ。
 「麦蒔きはやったの」
 「う、うん、なにい、とっくにやってすまったあ」
 三毛(猫)も耄けたと思った、けむくはないのか、すぐ傍で背を丸めて、ちょこんとしている。日向ぼっこに目をほそめて、澄ましている。以前は雀を取ったことがあるが、鼠でも今は無理だろう。背に手をやってなでてやると尾をパタパタと動かす。相変わらずだな、と思うと、思わず、嬉しくなった。
 「まず、えま、えぐがら、うづんなかに入ってろ」
 このごろめっきりしらがの多くなった親父を横目に見ながら、家に入った。玄関でポンポンと叩く靴音がしたのか、奥から「わあ、来たど」という、とっくの喚き声ともつかぬ声がした。
 この夏に高齢ではあったが祖母が死に、今まで母がいない後、不自由な身で台所仕事を仕切っていたが、この貧寒とした居間も至るところにちりがたまっていた。昼にはまだだとはいえ、うす暗いなかに紙くずが妙に光って散らばっている。三毛がぱたぱたと音をさせたと思うと、台所の方からニャアゴニャアゴとがたごとした。戸棚をあさっているらしい。とっくがひとりで怒っている。
 俺が帰ってきたのはバイトの都合上、死に目にも会っていなかったから、学校をうっちゃり、墓参りにきたのだった。それと実家の不如意について案じていたからであった。というより、一度とにかく帰ってみた方がいい、という俺自身に対する、いわば強迫観念からであったからかもしれない。
 何故こうなんだろう? 本当に、何故? こういう追いつめられた俺等六人兄弟には、いつ俺らの生まれた家に陽光が差しこむというのだろう。いつになってもそうだ。いつになっても、忍従しかない。
  囲炉裏につくった炬燵の上で、お土産だと云って小牛田まんじゅうを二袋、とっくにさっきバスの停留所で買った飴をやった。
 親父が出涸らしの急須に湯を注いで、茶を入れた。漬物はないかな、俺はあちこち探し、まだ、生の大根のような沢庵を皿に盛ってお茶を飲んだ。
 近所こととか、平塚の叔父のこととか、一服ごとに話していたが、やがて誰に聞かせるともなく、煙管を掃除しながら、云った。「はっぱり駄目だあ。気持ちがわけわがんなくって、春男は、はっぱり家に寄ってづかねえ。今でもこっそり会ってるって話だけんとなあ。はっきりしたことは分かんねえけんども、本家の人が云うにあ、そんなふうだあ、まつ子あ、ちゃんと俺のめえゃあで、うづに来るってえゃがって。てゃあほうつきやあがって、わけわがんなくってくるう。とっくはこんなざまだす。おめえあだって帰ってくればええんだ。」
 とっくがその間、ひとりで笑ったり、ポカンとしたりしながら、飴を手でもてあそんでいた。俺は、それをむいてやりながら、惨めな気持ちでいた。たとえ、親父が俺自身のことを、ひとことでも聞かなかったにしろ、俺は、何も、それに反発することはできなかった。
 親父と長男の兄貴と、頭の少し遅れた小児マヒの次女(姉)の三人しか今、家に残っていない。それで兄貴の嫁に来ることになっていた隣の町のまつ子が、一週間許りためしに家に来た。が、すぐにあちらの家に呼び戻されたのだ。しかしそれは二年前のことである。その間、家柄があわない、長女だから、等々でもめていたのだ。

 ひとりでお墓のあたりを掃除していたら、もう夕暮れになったのか、と気づいて、松の木の傍の石の上に腰を下ろした。山肌に這うようにつくられた墓地だが、あたりが杉松の山並みに囲まれたせいで、いっそう趣きを添えている。パサパサと音がする方に気づく。なにか小さな虫なんだろうか。見下ろす小さな田んぼの方から蜩が響いてきた。俺はなんだかせつない気持ちになった。
 母ちゃんもいないし、と思った。その時、突然、親父もいなんじゃないか、と心中でつぶやく声がした。しばし茫然としていた。いや、いや、そんなことはない-----人ってそんなもんだよ。そんなもんってどんなもんなんだ。そう思いがちなんだよ。何、云ってやがる。もっとはっきり云ってみろ。馬鹿にしやがって・・・。わかんねえんだな、とにかく、そんなもんだよ。
 俺はますますせつなくなり、集めた落ち葉に火を点けた。ぼおーっと燃え上がる。それで線香に火を移した。
 とにもかくにもと思って、まだ卒塔婆をたてたままのお墓の前に腰をかがめ、手を合わせた。

 今晩、帰ろうかとしている時、兄貴の不規則な仕事の合い間に落ち着きもなく、話し合った。俺と兄貴はいつも何故か、そうだ。互いに忙しい、忙しいといいながら、ゆっくり話し合うということがない。俺が高校に通っている時もそうだった。
 「しょうがないんだ」と兄貴。
 「あまり心配しなくたっていい。もっともな、今じゃ親類の人も俺をあんまり信用してないがな。結局、ここまでくるとわかるんだなあ、利己的だということがな。」
 「俺、考えてみたんだが、一年間だけなら帰ってきてもいい。俺にとっちゃ、小林をとるか大学をとるかっていったら小林をとる位だからな----------でとにかくその間に何とか格好をつけてもらえばいいんだが----------。」
 興奮していたのだろうか。あまり声に落ち着きがない。顔をしかめてじっと考えていたが、組んだ腕を解きながら云った。
 「えや、ずっといろってんだとさ。----------まあ、なんとかするさ。----------その代わり何かあった時には云うつもりだ。本家もあまり頼りにならねみたいだもんな。」
 少しの間、買ってきたビールを飲み合っていた。兄貴はつとめて賑やかにふるまっていた。俺は俺で、もつをつまみに気難しい顔で飲んで許りいた。


 急行第四いわて。一ノ関駅、十九時二十分発。
 夜行の汽車に乗った。混んでいる人ごみで俺はどうにか、あたふたと席を見つける。
 ああ腹減ったなあ、と弁当をとり出した。足を伸ばしデパートの包み紙でくるんだ杉折を膝の上にのっけた。親類の人がおこわを作ってくれたのだ。何はともあれ、俺はムシャムシャと食った。それから思いだして、缶ビール、四合瓶、ハイライトを買った。
 ああ家郷っていいなあ、ああ家郷っていいなあ、と無理に淋しさをかみしめながら、反芻していると、俺は自分でも驚くほど、落ち着いていることに気づいた。途端にビールをぐいぐい一息に飲む。勿論、足りやしない。酒の栓を切り、付属のお猪口で続けさまに飲んだ。その間、汽車がでているのに頓と気づかなかった。
                                        〈了〉


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