18年にもなりますか

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教えてくれないから出来ないのか?

2004-12-14 01:41:23 | 
 京都清水寺の例年の行事である今年を表わす一文字がニュースで報道されていた。ことしは「災」が圧倒的だったそうだ。振返らなくても、日本人が壊れかけているのではないかと真剣に心配してしまうことが本当に多く発生している。

 しつけのつもりで子どもを殺す母親、なつかない連れ子を平気でなぶり殺す、若い男、集団で婦女暴行をゲーム感覚でやる有名大学のスポーツ部員。犯罪は一部の悪辣な存在だけのものでは無くなってきているのが恐ろしい。

 さて、その中でも大変胸の痛みを感じるのが、しつけのつもりで子どもを虐待致死させてしまう親の存在だ。なぜ、自分のおなかを痛めて産んだ子供をそんな目に遭わせるのだろうか?別の命をもった別の人格なのだと考えれば、いくら母親とはいえ、自分の感情の赴くままに虐待してもいいなんてことは無い筈だ。

 しかし、繰り返される。子どもの虐待ホットラインには毎日のように電話が寄せられる。虐待してしまう母親からの相談なのだ。いったいいつ頃からこんな事になってしまったのだろうか?昔からそんなぎすぎすしたものだったのだろうか?

 いや違う。昔はそんなことは無かった! では何が違うのか?

 以前にこの日記でも書いたが、社会がよってたかって、子どもが「標準値以内」であることを強要するような新生児診察制度や、受験、資格主義、あるいはエリート意識、たった一つの失敗を人生すべてが失敗であるかのように考える風潮。努力の前に諦める無気力感。そんなのが親の精神をむしばんでいるとしか思えない。

 「ダメもと」という発想がまったくない。テストでも100点満点で70点でも20点でもええやんと考えるような柔軟さがない。20点とると、人生終わったかのように考えるのはおかしい。こどもがちょっと言うことを聞かなかったり、繰り返し教えてもその通りできなかったりしても、「まあ、ええやん」と言えるおおらかさが無い。「おねしょ」も、しかれば叱る程直らないそうだし、大人になってからも、夢のなかで、トイレにいって開放感に浸ることが一度ならずあるはずだ。その時に「あ、これは夢の中やった!」と気づくかどうかの問題。おねしょしたところで、何があかん?と言えるぐらいの度量が欲しい。

 また、一方で、子どもの親を観る目は、なんとも澄んでいて全く疑うことを知らない。全幅の信頼を親に置いているその小さな存在は、親をより親らしく愛情豊かにさせるものである。当然のことだが、身体も小さい。腕も、指もほんとうにか細い。守ってやるべき存在である。 にも関わらず、一部の親は「いうことを聞かないから、泣きやまないから」とその守ってやるべき存在を、疎ましく感じ、自分の言うとおりにするために、「暴力に頼る」。自分の身長の半分ほどのか弱い存在を痛めつける。如何に自己中心的に育てられてきたかがわかる。か弱い存在を守ってやれる心の余裕が無い。

 ニュースを注目していると、子どもを虐待してしまう親の年代が、30代に集中している。いわゆる団塊ジュニア世代である。団塊の世代に育てられた子どもたちが親になっている。急速な経済成長が、豊かさと引替えに作り出したのではないか?日本経済の高度成長期は、多くの中流意識を生んだが、一方でそのような社会の波にもまれてはじき飛ばされた存在も少なからずいたのだろう。 

 あまりにも多く発生する犯罪が、いわゆる生活貧困者が原因ではなく、高級官僚も巻き込んだ形で明らかになっているが、それが「”ズル”は、やったもの勝ち」的な発想を「別にわるいことじゃない」と思わせてしまうことにつながっているのではないか。お金の豊かさを得る手段を選ばないことは悪くない、悪くてもつかまらなけりゃ大丈夫といった根拠のない安心感をもっているからかも知れない。周囲がやってれば少しぐらいの”ズル”は許されるモノだという甘い考え。自分で、その行動が恥ずべきものかどうかを主体的に考えることを辞めたのではないか。

 だれも、子どもの育て方なんて教えてくれない。誰も自分の行動をしっかりさせる方法を教えていないのは確かである。だからといって”できません”ではあまりに努力がない。親はたくさんの本を読んで、自分に向き合い、こどもに向き合うことおドンドンすべきである。