18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

普通の人がそこまで出来るのはなぜ?

2007-01-11 01:50:36 | 
 このブログに書くのもはばかれる、事件が発生している。家族や夫婦の間での殺人と遺体損壊と遺体遺棄。それが最近、続けて報道されている。

 どんな感情が支配すればそこまで出来るのだろうか?それが普通の家庭での話なのだから余計に信じられない。

 神戸の少年Aの事件は1997年だからちょうど10年前。いまこの事件を起こした人たちは10年前は一体何歳だった?少年Aと対して変わらない世代から、少年Aよりも十分大人の世代もいる。

 少年Aの事件は全く驚くべき事だった。だれも10代の少年が犯人だとは思わなかった。衝撃が走った。それから10年が経過しようとしている今年、まさか10年後に連続して遺体損壊を伴う殺人事件が報じられるとだれが想像できたであろう。

 犯人達は精神鑑定を必要とする人たちなのか?特殊な環境に居た人たちなのか?そういう意味では、少年Aとなんら変わらないごく普通の人たちではないか?

 何がそこまでさせるのだろう?

 こんな事件が連続して起きる、しかも犯人は一般人である現代は、どこか人間性を奪う時代なのか?これが幸せな時代といえるのだろうか?
 



DJ OZMAとTBSはどっちが悪質か

2007-01-11 00:01:47 | テレビ
 NHKの紅白歌合戦のDJ OZMAの裸体に見える服を来たダンサーとOZMA本人のコスチュームの問題がいまだに続いているようで、NHKにDJ OZMA、OZMAの事務所とレコード会社がNHKに謝罪に行ったそうである。
 
 物議を呼ぶことはあきらかなのに、やってしまった勇気には喝采を送るが、別の見方をすればNHKに断りなしにやったわけだから非常識ともいえる。ただ衣装を変えるといってNHKが認めたかどうかは分からないから、OZMAとしても突っ走るしかなかったのだろう。でも、実際は本物の裸体ではなかったわけだから、せいぜい紛らわしいことをした程度なはずである。反響は大きいが、たいしたことはないのだ。ただそれだけの話を、NHKや文部科学大臣がコメントするものだから、いまだに尾を引いてしまっている。

しかし、実はDJ OZMAよりももっと抗議されてしかるべきはTBSである。

 同じテレビで物議を呼んだのは、2006年8月2日に行われた亀田興毅のタイトルマッチのTBSの放送開始から試合開始までの引っ張り倒した番組構成である。

 DJ OZMAの場合は、DJ OZMAらしい演出だがきちんと謝罪したが、TBSはあの構成について謝罪は一切していない。

 よくよく考えたら、なかば強制的に時間稼ぎの放送を見せられたわけだ。もしかしたら風呂にはいるのをずーと延ばしていた人もいたかも知れない。時間を返せといいたい人も居たはずである。

 あからさまな時間稼ぎは、DJ OZMAよりもはるかに悪質である。しかも紳士面した大TBSがやったのだからこれは悪質だ。視聴者の事よりも、スポンサー様しか見ていないからこういうことをやっても平気なのだろうと感じてしまう。

腹が立つのは、こんなに悪質なのに、これは単なる番組の構成上の問題であるから謝罪の必要はないというところである。しかし、やっているのはDJ OZMA並かそれ以下である

 なぜなら、DJOZMAの演出は、笑って済ませる人もいただろうが、TBSの構成はだれも笑顔ではない。笑顔なのはスポンサーとTBSだけである。こう考えればTBSってひどい放送局だということが明らかだ。

 悪質さ加減はどちらだと言いたい。しかも謝罪しないTBSは問題な放送局である。

4万人以上の高齢者刑法犯

2007-01-09 00:33:04 | 
1月8日は成人式が各地で執り行われ、相変わらず”成人”というにははずかしい行動で警察のお世話になっている奴らがニュースで報道されていて、本当に情けないというか”幼稚”だとあきれていたら、なんと刑法犯の1割超が65歳以上だというニュースがYahooに載っていた。

65歳以上といえば、戦前生まれで、高度成長期を支えた人たちのはず。1940年以前に生まれた人たちは昭和35年(1960年)から平成元年当たりのバブル絶頂期までの間を働き抜いて、企業戦士として戦い抜いた人たちの筈。酸いも甘いもかみ分けて、しっかりと分別もついていて当然な年代の筈。それが刑法犯全体の10.9%の4万人を越えているというのには驚きである。

「今時の若い者は!」なんて台詞はローマ時代からあったらしいが、「今時の65才以上は!」というのは有史以来初めてでは無かろうか。

元気といえば元気なのだろうが、しかし、そんな元気はもっと別のところで発揮して欲しい物だ。もし、元気を発揮するところが無くて、こういう事態になっているとしたなら、それこそ若者の犯罪に類似することである。若いエネルギーをもっとよい方面に使おう!というのが、まだまだ現役としてやれるエネルギーも同じように良い方向へ持っていかねばならない。

年金問題が論じられるなかで、若い世代が年金世代である65才上を支えなければならないという話が良く出てくるが、そんな元気な65才以上のことを本当に支えなきゃイケナイのか?疑問だ。

日本を世界でも例をみない戦後復興と経済成長でここまでにしてくれた人たちが、4万人も刑法犯になっているというのはどこかさみしい話でもある。なぜ、そんなことになったのか?ひたすら走り続けてきた人たちの世代としてはなんだか悲しい。

よもやだれもそういうことを想像できた人は居ないであろう。何を追いかけてきたのか、何を犠牲にしたのか、そして得た物は何だったのか?本当の幸せは手にすることができたのだろうか?

このニュースに驚くとともに、どこかすこし寂しく悲しい気持になるのは自分だけでは無いだろう。

改めて”幸福”は物質的なことよりも精神的な事であると思わせるニュースである。


3年前の占い

2007-01-08 00:16:03 | 
 生きていていつも物事が上手く行くなんて言うことはない。理屈では分かっていても現実に”うまく行かないこと”にぶつかって乗り越える手段が見つからないと、「もうだめだ」と感じてしまうものだ。それぐらいに人間は弱いものなのだ。

 そういう時に話を聞いてくれる人が回りに一人でもいれば、「もうダメだ」と思っていたという心の中の重い石が、少しだけ動きだしたりする。全く可能性がなく思えたのに、ちょっとした言葉が、もうどうしようもないと思っていた状態からすこし可能性が見えてきて半歩だけ前に進むことが出来るのだ。

そういう人が周囲に無いときほど苦しいものはない。お酒に頼ったり、衝動買いをしてみたり、ケンカをふっかけたり、こころの苦しさのせいで自暴自棄になる。そんな時にふと頼りたくなる物にはいろいろあるが、その中の1つに占いがある。

 ”安心したい”と思っている心の渇望に、占いが正しく使われれば大いなる助けになる。

 「山羊座生まれのあなたは・・・」という風に自分を客観的に見てくれて、長所と短所を上手く本人に伝えてくれて、今の苦しい時期はやがて終わると言われると、少しだけだが安心できる。占いにはそういう効果がある。

 毎朝の星占いも結構だが、心の迷いや寂しさに気づいたときに、”怪しげ”で”金品を買わせるような”占いは困るが、自分自身を客観的に見つめ直させてくれる占いを上手く使うことは大切である。

 いつも思うことなのだが、実はこんな風な自分の心の中にある迷いや絶望、挫折は本当はいつも心の中にあるのではないか? それが普段の忙しい生活の中に居るうちに、”感じて”いられないだけなのではないかと思う。

 仕事が充実していたり、学校生活が楽しかったり、部活に専念出来たりという時はこういったことに気持を向けなくて済む。つまり好循環の状態である。ところが何かのきっかけで、心の迷いだったり、不安や絶望に心が引っかかってしまうととたんに悪循環に入ってしまう。

 すべては気の持ちようとはよく言った物で、悪循環も好循環も自分自身で作っているのだ。本人の気持のコントロールは本人しか出来ない。

 自分で作ってしまった負の心の動きに、自分自身が取り込まれて自らなかなか抜け出せなくなってしまったときに、自分自身を深く見つめる機会として占いが必要になるときもある。

 将来はどうなるだとか、金運がいつ良くなるだとかといった事の為の占いではなくて、自分自身の良い面や、直した方が良い面、考え方の傾向などが分かるような占いは、たとえその根拠が科学的でなくてもいいアドバイザー的役目を果たす。もしかしたら占いの誕生はそういうところから来たのかも知れない。

 他人をうらやむ気持になったりした時や自己嫌悪に苛まれる時、自分には無い物を持っている人をねたむ気持がこころのなかに渦巻いてしまうときというのは、どうしても心を素直にできないものだ。自分自身で抜け出せないのに、友人や他人のアドバイスが入り込める余地などどうしても少なくなる。そんなときの占いによる客観的なアドバイスは凍った心に少しだけ暖かさを運んでくれるように思う。

 何も訊くことがないのに占うような事は普通滅多にしないもの。もし何かの機会に”心が頑なになるようなことがあって、心がささくれ立ってきたり、挫折感に押しつぶされそうなくらい心が重苦しくて光が見えなくなったときに、一度自分自身を占いで見てもらうことをオススメする。

 たまたま片づけをしていたら、2004年の3月に調べた西洋占星術の結果が出てきた。2004年3月にはどういうきっかけで調べようとしたのか、もう憶えていないが、いま改めて読んでもすごく参考になることがたくさん書いてあった。3年近くまえの結果だけども、観てもらった占いの結果をちゃんと保存しておくと、こんなにも役に立つ物かと関心してしまった。

 自分の心は自分でしかコントロール出来ない。しかもそのコントロールは思っているよりもあまりにも難しい。自分自身の特性を知るのはコントロールするの為にもこのような占いは必要だと思う。

 もし、何かの機会にちゃんと観てもらう事があったら、観てもらった結果をちゃんと残しておくことをオススメする。

 ただ、この手の占いは、自分自身がどんな人なのかを占うぐらいにしておくことがポイント。深みにはまって、高価なツボや、高鑑定料を払うというのは絶対にやってはならない。

 こころが弱っているときに頼りたくなるのが占いだから、どうしても弱みにつけ込んで来る人が居る。くれぐれも注意が必要である。




ごくせん

2007-01-05 01:53:08 | ドラマ
 お正月をどう過ごすか?家の中で寝てばっかりというのも気分がすっきりするものではないし、だからといってどこかへ旅行するようなお金も無い。そういうときは、映画に限る!

 毎年年末の大晦日に朝一番で映画を見ていたのが、今年はサンタクロースが届けてくれたWiiのおかげで映画に行かずに済んだ。本当は映画代の方が安いのだが、Wiiはサンタが届けてくれた(事になっている)のでここは仕方ないところだ。

 もちろんWiiばっかりやっているわけにも行かず、初詣を済ませてレンタルDVDでドラマを借りてくる。家族でドラマ好きなので、DVDを借りてみることには不平不満は一切ないので大変助かる。

 今回借りたのは、「ごくせん」の初回版である。松本潤君の出てる「白金学園」編である。

 この「ごくせん」は中高生向けに作られているのだろうが、その中で出てくるエピソードや、ヤンクミの台詞には、そのまま社会人にだって十分通用するものが多い。ある回での松本潤君が早稲田も慶応も合格しているのに進路を決めていないというのがあった。彼の仲間は、ラーメン屋を中華料理屋にしたいとか、デザインを勉強して自分のブランドを持ちたいとか、建築の勉強したいなど、夢をもってその為に進んでいるが、松本潤君演じる沢田は、なにも目標が無いことに悩んでいるという話だ。

 「ごくせん」の良いところはあまり説教臭く無いところだし、押しつけがましいところがないところだが、この回のこの彼の悩みは殆ど多くの中学生や高校生が持っている悩みなのではないかと思う。もしかしたら大学生でも、やりたいことが決まらない人が多いのではないだろうか?

 悩むことはいいことなのでどうこう言いたくは無いが、やりたいことが決まらない人には幾つかのタイプがあって、やりたいこととお金を儲けることと自分が出来そうなことが、ぐるぐると頭のなかで回っている場合と、まったくやりたいことが無い場合があるように思う。3つの事がぐるぐる回っている人に対するアドバイスは、自分のやりたいことではお金が儲からないのか?ということと、やりたいことの為に何を犠牲にできるか?と言うことを考えなさいということである。それからの選択は自分自身がすればいい。天秤に掛けるというのではない、まず中心に据えることができるものを持って考えなさいと言うことである。

 もうひとつの本当にやりたいことが無いのであれば、まずは何か行動する事をオススメする。その行動はできれば人と関わるような種類のものがいい。ボランティアでおじいちゃん、おばあちゃんの話し相手になるだとか、養護施設に預けられた子ども達と遊んでみるとかである。もちろん無償であるが、まずやってみる事である。できれば2~3ヶ月続けてみる。そうして生身の人間がそれぞれの事情を抱えながらもどうやって生きているのか、どうやって夢の実現に向けて進んでいるのか、それに触れることができて、考えるきっかけを持つことが大切だ。

 そこに立ち止まったままではなく、前向きに考えて生きることの大切さを「ごくせん」では話を通じてメッセージを出していた。2007年は、ドラマの中の3-Dの連中に負けないように、顔をあげて前を向いて行ければと思う。

 2007年。すべての人に良い年でありますように。