岡村由美子さんは、私にとって頼りになる先輩議員であるという前に、
この世で最も心がつながっていた親友であり、最も尊敬する同世代の女性でもありました。
彼女は今日29日、ご遺族に見守られ荼毘に付されました。
7月24日、仕事を終えた私は、夕方6時過ぎに彼女の自宅を訪ねました。
ダイニングルームの端に置かれたベッドの上に、岡村さんはいつものように横たわっていました。
でも、その日の彼女は、もうろうとした意識の中で途切れ途切れに深い息をするばかりでした。
ついこの間まで、私が顔を見せると、
「ああ小沢さん、忙しいのにわざわざありがとね」と笑いかけてくれていたのに。
それでも、ご主人が、「小沢さんだよ、小沢さんが来てくれたよ」と話しかけると、
岡村さんは、一生懸命目を開いて私を見ようとしてくれました。
そして、振り絞るように、「ありがとう」と言ってくれました。
私は、岡村さんの手を取って「よく頑張ったね」としか答えられませんでした。
それが、最後の会話でした。
それから約12時間後の翌25日の朝、岡村さんは眠るように静かに息を引き取りました。
私と岡村さんは、幼稚園のママ仲間として出会いました。もう13年前になるでしょうか。
その頃の私は、自閉症で動きの激しい長男が毎日のように行方不明になるうえ、さらに弟二人の育児も重なり、体力的にも精神的にも一番参っていた時期でした。
子育てに自身がなくなりそうになったとき、周りの理解を得られず悔しい思いをしたとき、
いつも岡村さんは、
「小沢さんは間違ってないよ。大丈夫よ」と言って私を励ましてくれました。
二人で長男のチラシを作って、ご迷惑をかけた近所中に配り歩いたこともありました。
岡村さんがいてくれなかったら、あの時期を乗り越えることはできなかった。本当に慈悲深い女性でした。
二人とも子育てが落ち着いて働くようになってからも、忙しい合間を縫っては会って食事をしたり、買い物をしたり。
いいことも、悪いことも、他の人には(身内にも)話せないことも、互いに何でも話をしてきました。
私が岡村さんの後を追って議員になってからも、その関係は全く色あせることはありませんでした。
乳癌が見つかった時も、岡村さんはすぐに私に打ち明けてくれました。
その頃の彼女は、病院で医者の意見を聞いたり、癌の経験者に尋ねたり、本やインターネットで調べるなど、自身が納得できる治療法を必死で模索していました。
そして、最終的に下した結論が、
「外科手術も化学療法も放射線療法も一切受けず、人間が本来備わっている治癒力を高めながら、癌と戦うのではなく、癌と共存しながら生き抜いていく」
というものでした。
彼女の壮絶な決意に異を唱える理由は、私にはありませんでした。
岡村さんは、その信念を最後まで曲げず、一日も入院することなく、ぎりぎりまで議員の仕事を全うしました。
彼女ほど自分の人生に対し真摯に向き合った人を、私は知りません。
岡村さん
目を閉じると、岡村さんが優しく微笑んでいる姿が目に浮かびます。
私はまだあなたがこの世にいないことを受け止めることができません。
天国に行っても、昔のように
「小沢さんは間違ってないよ。大丈夫よ」と言って励ましてくれますか?
私は明日から、前を向いて歩いていかなければなりません。
この世で最も心がつながっていた親友であり、最も尊敬する同世代の女性でもありました。
彼女は今日29日、ご遺族に見守られ荼毘に付されました。
7月24日、仕事を終えた私は、夕方6時過ぎに彼女の自宅を訪ねました。
ダイニングルームの端に置かれたベッドの上に、岡村さんはいつものように横たわっていました。
でも、その日の彼女は、もうろうとした意識の中で途切れ途切れに深い息をするばかりでした。
ついこの間まで、私が顔を見せると、
「ああ小沢さん、忙しいのにわざわざありがとね」と笑いかけてくれていたのに。
それでも、ご主人が、「小沢さんだよ、小沢さんが来てくれたよ」と話しかけると、
岡村さんは、一生懸命目を開いて私を見ようとしてくれました。
そして、振り絞るように、「ありがとう」と言ってくれました。
私は、岡村さんの手を取って「よく頑張ったね」としか答えられませんでした。
それが、最後の会話でした。
それから約12時間後の翌25日の朝、岡村さんは眠るように静かに息を引き取りました。
私と岡村さんは、幼稚園のママ仲間として出会いました。もう13年前になるでしょうか。
その頃の私は、自閉症で動きの激しい長男が毎日のように行方不明になるうえ、さらに弟二人の育児も重なり、体力的にも精神的にも一番参っていた時期でした。
子育てに自身がなくなりそうになったとき、周りの理解を得られず悔しい思いをしたとき、
いつも岡村さんは、
「小沢さんは間違ってないよ。大丈夫よ」と言って私を励ましてくれました。
二人で長男のチラシを作って、ご迷惑をかけた近所中に配り歩いたこともありました。
岡村さんがいてくれなかったら、あの時期を乗り越えることはできなかった。本当に慈悲深い女性でした。
二人とも子育てが落ち着いて働くようになってからも、忙しい合間を縫っては会って食事をしたり、買い物をしたり。
いいことも、悪いことも、他の人には(身内にも)話せないことも、互いに何でも話をしてきました。
私が岡村さんの後を追って議員になってからも、その関係は全く色あせることはありませんでした。
乳癌が見つかった時も、岡村さんはすぐに私に打ち明けてくれました。
その頃の彼女は、病院で医者の意見を聞いたり、癌の経験者に尋ねたり、本やインターネットで調べるなど、自身が納得できる治療法を必死で模索していました。
そして、最終的に下した結論が、
「外科手術も化学療法も放射線療法も一切受けず、人間が本来備わっている治癒力を高めながら、癌と戦うのではなく、癌と共存しながら生き抜いていく」
というものでした。
彼女の壮絶な決意に異を唱える理由は、私にはありませんでした。
岡村さんは、その信念を最後まで曲げず、一日も入院することなく、ぎりぎりまで議員の仕事を全うしました。
彼女ほど自分の人生に対し真摯に向き合った人を、私は知りません。
岡村さん
目を閉じると、岡村さんが優しく微笑んでいる姿が目に浮かびます。
私はまだあなたがこの世にいないことを受け止めることができません。
天国に行っても、昔のように
「小沢さんは間違ってないよ。大丈夫よ」と言って励ましてくれますか?
私は明日から、前を向いて歩いていかなければなりません。