沖縄戦の実相と教訓を胸に 遺族ら5、670人が参列、平和を誓う
比嘉康文2008/06/28
「鉄の暴風」と形容された沖縄戦で犠牲になった御霊を慰め、恒久平和を祈願する沖縄県(仲井真弘多知事)主催の第51回沖縄全戦没者追悼式が23日午前11時50分から糸満市摩文仁の平和祈念公園で開かれた。
福田康夫首相、河野洋平衆議院議長、江田五月参議院議長、岸田文雄沖縄担当相らをはじめ県議、県内外の遺族など5、670人が参列、犠牲者の御霊に手を合わせて焼香した。
追悼式は沖縄県議会の仲里利信・議長の式辞で始まり、「今年もまた『慰霊の日』が巡ってまいりました。今、御霊前にぬかずき、過ぎし63年前に思いを馳せるとき、あの忌まわしい記憶が昨日のことのように甦ってまいりました。史上まれにみる激しい戦火が沖縄の島々を襲い、3カ月に及ぶ鉄の暴風は、島々を見る影もないほど焼け野が原に変え、貴重な文化遺産等を破壊し、20万人余の尊い命までも奪い去りました。(中略)今日の平和と繁栄を享受することができましたのも、み霊の重く尊い犠牲の上に築かれていることを、私たちは決して忘れることはありません」と述べた。
大勢の遺族らが参列し、御霊の冥福を祈り、平和を誓った
参列者は正午の時報と共に黙祷をささげた。各地の慰霊碑前や、また式典に参列できなかった県民の中には職場や家庭で黙祷をささげる者もいる。財団法人・沖縄県遺族連合会の仲宗根義尚・会長は追悼の言葉の中で「集団自決は、我が国唯一住民を巻き込んだ地上戦があった故に、惹起し、紛れもない真実であり、歴史的事実を正しく後世に伝えることこそが平和建設に邁進する原動力であります」と述べた。そして「沖縄県主催により、追悼式が継続されますよう、切望致します」と言及した。同遺族会によると、「2万人余もいた遺族会だったが、現在は4千人を切るほどになった」という。
福田首相、岸田文雄沖縄担当相、招待客、小中学生の代表者らが献花したあと、仲井真知事が平和宣言をした。仲井真知事は最初に「私たち沖縄県民は、先の大戦において、筆舌に尽くし難い極限状況の中で、戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。この悲惨な体験を通じて、私たちは平和がいかに尊いものであるかという人類普遍の教訓を学んだのです。戦争の記憶を正しく伝えること、二度と戦争を起こしてはならないと確認し続けること、この信条こそが沖縄の原点であります」と述べた。
そして戦後から今日までの復興は道半ばであるとし、「沖縄には依然として広大な米軍基地が集中しており、基地から派生する事件や事故、騒音などに悩まされ続け、県民が納得できない負担を今なお強いられています。目に見える形で、県民の負担を軽減するために、基地の整理縮小や日米地位協定の見直し、事件・事故の防止などを、県民一丸となって、日米両政府に訴え続けるものであります」と基地問題の現状を指摘した。
最後に「祖先が築いてきた独自の歴史や文化によって培われた寛容の心と万国津梁の精神を生かし、『平和の礎』や『沖縄平和賞』に込めた理念をもって、沖縄が引き続き、国際社会に対し恒久平和の発信拠点となるよう努力しなければなりません。慰霊の日に当たり、戦争で尊い命を失い、私たちに平和への思いを託し、私たちを見守って下さる全戦没者の御霊に心から哀悼の誠を捧げます。私たちは沖縄戦の実相と教訓を胸に刻み、沖縄、日本、そして世界の人びとが安心して暮らせる平和な社会の実現を目指して、県民の英知を結集し、ここ沖縄の地で力強く邁進することを宣言します」と、平和宣言を読み上げた。
つづいて行われた「平和の詩」の朗読では、読谷小学校4年生の喜納英佑君が「世界を見つめる目」と題して自作の詩を朗読した。
(詩の前半を省略)
みんながしあわせになれるように
ぼくは、
世の中をしかりと見つめ
世の中の声に耳をかたむけたい
そしていつまでも
やさしい手と
あたたかい心を持っていたい
そのあと、来賓として参列した福田首相、河野衆議院議長、江田参議院議長があいさつ、慰霊の電報披露、閉式の辞で追悼式は終了した。
<写真・省略>
「平和の礎」の刻銘の前で花などを捧げて祈る遺族たち
「平和の礎」前で、悲しみ越えて 遺族らが刻銘の肉親の冥福を祈り、平和を祈願
敵も味方もなく、沖縄戦で亡くなった全戦没者の名前が刻銘されている「平和の礎」前では、朝早くから遺族らが花や重箱、お菓子、果物、お酒、水などを供えて手を合わせる姿が見られた。特に外地で亡くなった者は遺骨や遺品も届けられず、戦死公報などでしらされているだけである。この「平和の礎」だけが死亡の確認できる唯一の“墓碑”となっており、遺族はお墓参りと同じ気持ちで毎年、慰霊の日前後に焼香する者が多い。
「平和の礎」は追悼式典のすぐ隣りで、毎年多くの遺族や親戚の者たちが訪れている。南洋群島に派兵され、長兄が戦死したという名護市の女性(79)は「靖国神社にも行きましたが、名簿さえ見ることができなかった。ここに来ればりっぱに名前が刻まれており、お兄さんに会えたような実感がする。人間はみんな平和に暮らしたい。それはどこの国の人も同じです。敵兵も同じです。この場所に米兵、外国人も一緒に祀られているのはすばらしい。立派な考えです。各県に『平和の礎』をつくれば、靖国神社は必要ないでしょう。戦争は国が起こすものであり、国民が政治を監視・注意して戦争を起こさせないことが大事です」と話していた。
この礎には昨年240、609人が刻銘されていたが、ことしは126人が新たに刻銘され、全部で240、735人となった。追加されたのは沖縄県出身者が42人、他都道府県が72人、韓国出身戦没者が13人、アメリカが1人となっている。
米国の碑や韓国の碑の前でも、それぞれの国の遺族や在日米国人・韓国人などが訪れて慰霊祭を行った。最近の特徴としては本土からの刻銘の申し込みが増えているという。在アメリカは毎年4月下旬になると、伊江島で亡くなった従軍記者アニーパイルの碑の前で星条旗を立て映画で観るような軍隊式の「慰霊の式典」を行っているが、「平和の礎」の前では名刺より一回り大きい星条旗の小旗を刻銘の前に立て、しめやかに祈を捧げているのが特徴。韓国は民族衣装に身を包み、韓国式の追悼を行っている。
首相一行の通りを待ち構えていたが、肩透かしを食らった抗議団
抗議団を避け別コースで式典に参列した福田首相
「福田首相は帰れ!」「一緒に基地を持ち帰れ」などとシュプレヒコールを繰り返していた約50人は一坪反戦地主と日雇い労組のメンバーたち。23日午前10時ごろから糸満市摩文仁の沖縄全戦没者追悼式に参列する福田首相に抗議するため、会場入り口の駐車場で首相一行の到着を待ち構えていたが、首相の乗った車が健児之塔からの別コースを通って式典会場に入りしたので、抗議団は肩透かしをくった。この抗議グループは毎年、糸満市役所から平和行進をしたあと、来沖した首相に抗議行動を展開してきた。今回は裏をかかれた格好となった。
抗議に参加していたのは牧師、ホークソング歌手、障害者、日雇い労務者、平和運動団体のメンバーなどで、本土の団体から派遣された者も参加していた。毎年ほとんど同じ顔ぶれ。その周りには警官、私服刑事など10人が警戒していたが、特にトラブルはなかった。抗議集会のあと、魂魄之塔前での反戦集会に合流した。この塔は敗戦直後に遺骨収集した際、納骨のため手づくりされたもの。最初に犠牲者を祀った慰霊碑。毎年、反戦地主や平和団体などが参加して集会を開き、御霊の前で反戦平和を誓い合った。
沖縄県福祉援護課によると、首相が全戦没者追悼式に初めて来賓として出席したのは1990(平成2)年で、海部首相が参列した。だが、毎年連続して首相が参加しているわけではないという。福田首相は「沖縄の苦難を忘れてはならない」と延べ、河野衆議院議長は米軍基地の政府の責任に言及し、旧日本軍の沖縄県民にたいする行為に目をそらしてはならない―などと述べた。だが、変わらぬ米軍基地の実態に県民は、その言葉を半信半疑で聞いている。参列者の男性(63)は「本土の政治家は沖縄に来ると、耳障りのよいことを言うのだが、どれくらい本心なのか、いつも疑問に思っている」と話していた。
この日は各地の慰霊碑の前でもそれぞれ慰霊祭が行われ、63年前に亡くなった肉親や友人らの冥福を子や孫、親戚、友人知人らが祈った。