猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

中将姫物語全文

2021年09月10日 10時19分10秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
このページで忘れ去られた物語シリーズが破損していて読めないことをお詫びいたします。
いとう様のリクエストにお応えして、「中将姫」を再掲載いたします。
また、ファイルの破損等で読めない記事がありましたら、お手数ですがお知らせください。
渡部八太夫

中将姫 ①

さて、大和の国の当麻(たいま)曼荼羅の由来を詳しく尋ねてみることにいたしましょう。

神武天皇より四十七代の廃帝天皇(淳仁天皇758年~764年)の頃のことです。大職冠

鎌足の四代後の孫で、横佩(よこはぎ)の右大臣、藤原豊成(とよなり)とい方は、又の名

を、難波の大臣と申します。藤原の豊成には、子供が一人おりました。名前は、中将姫と

言いました。十三歳になった中将姫の姿はの美しさは、秋の月と言いましょうか。お顔は、

露が降りた春の花。翡翠の黒髪は、背丈ほど。眦(まなじり)は愛嬌があり、丹花の唇は

鮮やかです。微笑む歯茎は健康で、細い眉は、優しげです。辺りも輝くそのお姿の話を聞い

ただけでも、恋に落ちない男は居ませんでした。

 しかし、可哀想な事に、中将姫は既に母を亡くしていたのでした。父豊成は、これを不憫と思

って、後添えを貰ったのでした。中将姫は、素直に継母を受け入れて、良く従って、親孝行

をしましたので、心の奥底は分かりませんが、継母も表面的には、中将姫を可愛がったので

した。こうして、表面的には、平穏な日々が流れ、豊成も喜んだのでした。

 ところで、中将姫のことを、内々に聞いた御門は、難波の大臣豊成を、内裏に呼ぶと、

中将姫を皇后に迎える由の宣旨を下したのでした。

「年の暮れか、来年の春には、秋の宮に迎えよう。」

これを聞いた豊成は、畏まって退出し、喜び勇んで館へと戻るのでした。天皇家への輿入れ

に、一人を除いて、皆大喜びです。昔から、継子と継母が仲良しだった例しはありません。

この事を聞いた継母は、自分の子供の出世の機会が奪われると感じて、その心は、忽ちに曇りました。

そして、何とかして、姫を殺してしまおうと、恐ろしい計画を立てるのでした。

 御台所は、親近の若者を選ぶと、こう命じたのでした。

「お前は、冠、肩衣の正装で、朝夕、中将姫の所へ出入りしなさい。」

命じられた若者は、言われるままに、毎日、中将姫の所に出掛けて行くのでした。それから、

当御台は、豊成に近付いて、こう言うのでした。

「どうか、お聞き下さい。窺いますところでは、この頃、姫の所に、怪しい者が通っている

ということです。まったく女の身程、浅ましいものはありません。」

継母は、泣き真似までして、訴えるのでした。豊成は、これを聞くと、

「姫は、まだ子供であるぞ。そんなことがあるはずがない。それは、誰かの偽り事であろう。」

と相手にしませんでしたが、御台が更にしつこく、

「私も、そうであろうとは思いますが、事の次第をはっきりさせるため、物陰から、ちょっ

と覗いて見ることにしましょう。」

と迫るので、豊成は仕方無く、御台と連れ立って、中将姫の様子見に行きました。このこと

が、姫君の運命を変えてしまったのです。

 さて、中将姫の部屋の近くを見てみますと、年の頃十七八歳の衣冠正しい若者が、忍び

顔で部屋から出て来るのでした。これを見た豊成は、刀に手を掛け、飛び掛かり、その場で

切り捨てようとしましたが、

『待て暫し、我が心。ここで奴を誅すれば、返って我が身の恥をさらすことになる。』

と思い留まると、怒りに顔を真っ赤にして、自室に戻りました。

 余りの事に、豊成は、竹岡の八郎経春(つねはる)を呼びつけると、

「やれ、経春。中将姫を引っ立てて、雲雀山(ひばりさん:奈良県宇陀市;日張山)に連れ

て行き、殺せ。」

と、言い放ちました。経春は、驚いて、

「これは、どんな咎があって、そうのようなことを仰るのですか。恐れながら、お姫様は、

先ず、私にお預け下さい。」

と、取りなしますが、豊成は、

「思う子細があるのだ。早や、急げ。」

と、頑な(かたくな)です。経春は重ねて、

「何と仰られても、このようなご命令を、簡単に引き受けることはできません。一先ず、

姫君をお預かり申します。」

と、食い下がりましたが、豊成は、気色を変えて、

「親の私が、子供の命を絶てと言っているのだから、そのような重い咎があったと思え。

お前が引き受けないというのなら、中将姫と諸共に、勘当じゃ。」

と、怒鳴り散らすと、奥へと入って行ってしまうのでした。

 困り果てた経春は、せまじきものは宮仕えと、口説き立てますが、なんともしようがあり

ません。いくら嘆いても仕方が無いので、経春は、継母の御台所に何とかしてもらおうと考

えました。経春は、御台所の所に駆けつけると、

「姫君の事を、まだご存じ無いのですか。殿の御機嫌が悪く、直ぐに殺して来いと仰って

おられるのです。どうか、何とかして、殿を宥めて、姫の命をお助け下さい。」

と涙ながらに訴えるのでした。女房達が、御台所に取り次ぐと、御台所は、

「経春が、わざわざ言いに来なくても、私も、そうとは思います。しかし、原因は、世の常

のことではないとも聞きましたよ。唯々、豊成殿のお心に任せます。」

と無愛想な返事です。経春が、更に、

「それはご尤もですが、只一度の御勘気で、その上まだ、ほんのご幼少。どれほどの罪を

犯したというのでしょうか。御台様が申し入れなされれば、殿の気も変わるかもしれません。

叶わないまでも、どうか、今一度、殿を宥めていただけないでしょうか。お願いします。」

と食い下がると、御台所は気色を変えて、出居まで飛んで降り、

「経春。聞きなさい。お前は、まだ、知らないのか。毎日、姫君の本へ通う者は幾人とも限

りも無い。それをどうして、私が宥められるものですか。」

と言い張るのでした。御台所は、

「あら、難しや。」

と、言い捨てると、簾中の中へと逃げ込むのでした。

経春は、面目も無く、ただ、呆れ果てていましたが、

『これは、継母の御台の謀り事に違い無い。例え、そうしたことが事実であったとしても、

実母であるなら、必ず助けに入るだろう。なんと、なさぬ仲の浅ましき事か。』

と、気が付くのでした。経春は、悔し涙の暇より、

『とにかく、姫君を我が館に匿い。何度でも嘆願いたそう。それでもだめならば、腹切って

死ぬ外あるまい。』

と決心したのでした。八郎経春の心の内の頼もしさは、何とも言い様がありません。

つづく

中将姫②

八郎経春は、何とかして姫君を助けようと思いましたが、検使の役が付いてしまったので、

思う様に姫を匿うこともできませんでした。とうとう観念した経春は、

『もう、逃げようが無い。この上は、姫君のお首をいただいて、豊成に見せたなら、遁世し

て、姫の菩提を問う外はあるまい。』

と思い定めると、姫君を伴って、雲雀山へと向かうのでした。

 雲雀山の山中の、とある谷川の辺りに輿を止めました。何も知らない姫君は、御輿から

降りると、経春に聞きました。

「経春よ。どうして、こんな寂しい山中に連れて来たのですか。不思議ですね。」

これを聞いた経春は、言葉も無く泣くばかりです。姫君が、

「どうしたというのですか。おかしいですね。何故、何も言わないのです。何があったのですか。」

と、重ねて問い正すと、経春は、ようやく涙をぬぐって、

「ここまで来ては、隠すこともできません。父上様のご命令で、姫君のお命を頂戴いたします。

そのために、ここまでおいで願ったのです。」

と言うのでした。聞いた姫君は、夢現かと驚いて、

「それは、本当ですか。」

と、絶句して泣くばかりです。涙ながらに姫君は、

「母様が亡くなられてからというもの、ひとときも母様のことを忘れた事は無く、心が慰め

られることもなかったので、私を、慰めるために、ここまで連れてきてくれたのかと思って

いましたのに。それどころか、私を殺すというのですか。ああ、これは継母の仕業ですね。

なんという情け無い事でしょうか。」

と口説いて、身を悶えて嘆くばかりです。姫君は、更に続けて、

「やあ、経春よ。前世からの宿業で、お前の手に掛かって死ぬ命を、惜しい等とは露にも

思いません。親の不興を受けた者には、日の光も、月の光をも射さないとききますが、

私は、一体どういうわけで、父から捨てられたのでしょうか。いやいや、それを聞いたとし

ても、もうどうしようもありませんね。

 私は、七歳の時から、母上様の為に、毎日、お経を六巻づつ読誦して参りましたが、今日

はまだ読誦しておりません。これが、最期というのなら、今一度、母のために読経いたしま

すから、暫くの時間を与えて下さい。」

と、言うのでした。聞いて、経春は、

「ああ、なんと勿体ないことでしょうか。姫君様。御最期でありますので、何時もよりも、

お心静に読誦をして下さい。」

と涙ぐむのでした。中将姫も涙ながらに、敷き葉の上に座り直して、右の袂より浄土経を

取り出しました。中将姫は、さらさらと押し開くと、迦陵頻伽(かりょうびんが)のお声で、

読誦なされるのでした。殊勝なこと限り有りませんが、流石に姫君は、父の大臣への名残が

惜しいのでしょう。雨の様な涙が只々、落ちるばかりです。労しいことに姫君は、余りに

お心がやるせないので、ようやく三巻を読み終えて、

「一巻は、母の為、又一巻は父の為、現世来世の二世の為。さて、もう一巻は、自分自身の

正念です。どうか、九品の浄土にお迎え下さい。」

と、泣く泣く回向をされるのでした。中将姫は、思い切って、経春に向かうと、

「如何に、経春。私が死んだ後、絶対に後の恥を曝してはなりませんよ。私の首を、父上に

見せる時には、顔についた血飛沫を、よくよく洗い流してからにしてくださいね。そして、

命を惜しむようなことは無かった、素晴らしい最期であったと、伝えて下さいよ。さあ、

これから念仏を唱えます。十念が終わったならば、首を刎ねなさい。」

と言うと、背丈ほどもある黒髪を、きりきりと唐輪(からわ)に結い上げて、西に向かって

手を合わせました。

「南無西方の弥陀如来。例え、後生が三重に罪深くて、十方浄土に選ばれぬ女なりとも、

只今のお経、念仏の功力により、母上様諸共に、西方極楽浄土に、迎えて下さい。」

と、声高く、十念を唱えるのでした。南無阿弥陀仏を十度唱えて、姫君は、

「どうした経春。早、首を取れ。」

と迫ります。経春は、太刀を抜き放ち、お首を打ち落とそうとしました。しかし、姫のお姿

が目に入れば、余りにもお労しく、とうとう、太刀を投げ捨てて、地に倒れ伏して泣く外は

ありません。姫君は、経春をご覧になり、

「愚かであるぞ、経春。そのような不覚の者が、父の命を受け、私を殺すために、ここまで

連れて来たのですか。心弱くてはなりませんよ。善に強いのなら、悪にも退いてはなりませ

ん。さあさあ、如何に如何に。」

と、泣き崩れるのでした。経春は、漸く涙を押し留めて、

「しかし、姫君は、まだご幼少の事ですから、それほどの罪があるとは思われません。それ

なのに、やみやみと殺さなければならないとは、どうしても納得できません。」

と、言うのでした。姫君は、涙と共に、こう口説きました。

「親が憎む子は、その一門の者まで憎むと聞きますが、どうして経春は、そんなに優しくし

てくれるのですか。今のあなたのお志しは、草葉の陰に行っても決して忘れませんよ。草葉

の陰で私が見ていると思って、後世を問うて下さいな。さあさあ、そんなに思い悩まずに、

父の命に従って下さい。」

しかし、経春は、これを聞いて、

「ああ、なんと愛おしいことでしょうか。乳房の母がご健在であるならば、こんなことには

ならなかったのに。為さぬ仲の継母が浅ましい。」

と更に悶々と思い悩むのでした。しかし、やがて思い切り、

『ええ、姫君を殺して恩賞に預かったとしても、千年万年と生きられる訳では無いわ。我が

身の事はさて置き、一門眷属までも引き出され、ずたずたにされたとしても、姫君を助けな

いでどうするか。しかし、検使をどうするか。否というなら、奴らの首を掻くまでだ。』

と決心するのでした。経春が、検使に姫を助けると告げると、なんと検使の者も、

「私もそのように思います。いざ、お助けいたしましょう。」

と言うのでした。

それから姫のために、雲雀山に庵を建てると、経春は、都から女房や郎等を呼び寄せました。

経春は、

「私は、これから都へ戻り、姫君様の事を、どのようにでも、申し開きをして参る。皆の者

は、ここに留まって、姫君を守り助けるのだぞ。」

と言い残して、都へと帰って行ったのでした。かの経春の志は、頼もしいともなんとも、

なかなか言い表す言葉もみつかりません。

つづく

中将姫 ③ 

 さて、父の大臣豊成は、家来の侍を集めて、こう言いました。

「姫の処分を、経春に命じたが、その後、何の報告も無い。急いで、経春の所へ行き子細を

尋ねて参れ。」

侍達が、経春の所へ行き、事の子細を問うと、経春は、

「これはこれは、直ぐにでも、ご報告に上がろうとは思っていましたが、何しろ、姫君の

死骸が、火車によって運び去られてしまったので、報告もできないでいたのです。哀れと思

って、お許し下さるのなら、これより伺候して、姫君の最期のご様子をお話いたしましょう。」

と言うのでした。使いの侍が、館に戻って、経春の返答を伝えると、豊成は怒って、

「居ながらの返事とは、なんと生意気な。命令をし遂げなかったな。つべこべいわせずに、

経春を連れて来い。」

と命じたのでした。二十余人の強者達が、経春の館へと駆けつけました。侍達は、

「如何に経春殿。お殿様の申すには、中将姫の首を見せぬのは何故だ。検使の役の者共はど

こへ行ったのだ。詳しく尋ねることがあるから、急いで来る様に、とのことです。」

と言うのですが、経春は、

「おお、ご尤も。しかしなあ、なんだか今日は、気が進まぬ。又日を改めて、参ることに

いたしましょう。」

と、相手にしません。侍達もむっとして、

「憎っくき、今の物言い。このまま帰るならば、こちらが詰め腹切らされる。さあ、引っ立

てろ。」

と、左右に分かれて飛び掛かりました。本より大力の経春は、飛び掛かる侍どもを、取って

は投げ、取っては投げて応戦します。残りの奴原を、四方へ蹴散らかすと、経春は、郎等ど

もを集めて、言いました。

「きっと、これから追っ手が攻めてくるであろう。とても敵うものではないから、お前達

は、どこへでも落ち延びて、後世を問うてくれ。さあ、早く。」

と言うのでした。しかし、郎等共は、

「なんと、残念な仰せでしょうか。主君の先途を見届けずに、落ち延びることなどできるは

ずもありません。是非、お供させて下さい。」

と、譲りませんでした。経春が、

「おお、それは頼もしい。では、用意いたせ。」

と言うと、皆々勇んで、最期の出立ちを整えました。やがて、豊成方の軍勢が押し寄せて

鬨の声を上げました。経春は、大勢の中に飛んで入り、ここを先途と戦いました。しかし、

多勢に無勢。郎等達も皆悉く討ち殺されていまいました。経春は、もうこれまでと思い、

敵を、四方におっ散らすと、門内につっと入りました。鎧の上帯を切って捨てると、腹を

十文字に掻き切って、自らの首を掻き落としたのでした。この経春の振る舞いは、上下万民

押し並べて、感激しない者はありませんでした。

つづく
中将姫 ④

危うく命拾いをした中将姫は、物憂い山住まいの毎日を過ごしていました。その上、頼み

の綱の経春が討ち死にしたとの知らせもあり、心の内のやるかたない風情も哀れです。そん

な中でも、中井の三郎と経春の女房は、姫君をお守りして、落ち穂を拾い、物乞いをして

支えたのでした。

 しかし、ある時、中井の三郎は重い病に伏してしまいます。中将姫も、女房も、枕元で、

励ましますが、山中のこととて、癒やし様もありません。縋り付いて泣くばかりです。もう

これが最期という時に、中井の三郎は女房に介錯されて起き上がると、

「姫君様。娑婆でのご縁も終わりです。これより冥途の旅に出掛けます。私が生きている限

り、必ず父大臣に申し開き、再び御世に戻して差し上げようと、明け暮れ、このことだけ

を思い続けていたというのに、とても残念です。どうか、必ず姫君様は、お命を全うして

くだされませ。神は正しい者の頭に宿ります。きっと必ず、父上様に再び、お会いになるこ

とは鏡に掛けて明らかです。死する命は惜しくはありませんが、姫君のお心の内を推し量り

ますと、只それだけが、名残惜しく思われます。」

と、最期の言葉を残して、明日の露と消えたのでした。姫も女房もこれはこれはと、泣くよ

り外はありません。姫君は涙の暇より、口説き立て、

「ああ、何という浅ましいことでしょう。父上に捨てられて、経春は討ち死にし、この

寂しい山中で、お前だけを頼りにして暮らして来たのに、今度は、お前まで失って、これか

らどうやって暮らしていけばよいのですか。私も一緒に連れていって下さい。」

と、空しい死骸を押し動かし、押し動かして、慟哭するのでした。女房は、

「お嘆きはご尤もです。しかしながら、最早帰らぬ事です。さあ、どうにかして、この死骸

を葬りましょう。」

と、健気にも励まします。山中には外に頼める僧も無く、女房と姫君二人で、土を掘り死骸

を埋め、塚を築いて、印の松を植えたのでした。それから、姫君自ら、お経を唱え、回向

をするのでした。

 さて、その後も山中の寂しい日々が続いていましたが、姫君は、称賛浄土経を書き写して

暮らしておりました。ある日、姫君は女房に、こう話しました。

「このお経は、釈迦仏の弥陀の浄土を褒め称えたお経です。毎日唱えて、夫の経春の供養を

して下さい。」

女房は、これは有り難いと、お経を給わったのです。それから女房は、髪を剃り落とし尼と

なって暮らしたのでした。

 さて一方、難波の大臣豊成は、ある年の春にこんなことを思い立ちました。

「そろそろ、山の雪も消え、谷の氷も解けたことであろう。雲雀山に登って狩りでもして、

心の憂さを晴らそう。」

豊成は、沢山の勢子を伴って、雲雀山にやって来ました。峰々、谷々を狩り巡りますが、

鹿の子一匹、捕まりません。豊成は腹立ち紛れに、峨々たる峰に駆け上がりました。得物は

居ないかと、谷を見下ろすと、とある尾根に庵が有り、仄かな煙が上がっているのが目に入

りました。豊成は、

「昔より、この山に、人の住んだ例しは無い。なにやら怪しい。」

と思い、馬から飛んで降りると、庵に近付き様子を窺いました。庵の中を覗いて見ると、年

の頃、十四五の覆面をした女が、写経をしており、傍に五十ばかりの尼が付き添っています。

豊成は、これを見て、

「これは、私を騙すために、野干化けているのだな。ひとつ、懲らしめてやろう。」

と思い、蟇目(ひきめ)の矢を番えると、ひょうとばかりに、射放ちました。しかし、姫君

は、そもそも仏の化身でありますから、お体には別状無く、矢は経机に、突き立ったのでした。

驚いた姫君が、

「これは、何者の仕業ですか。」

と、走り出ようとするところを、尼公(にこう)は姫君の矢面に立って、引き留めました。

姫君は尼公の袂に縋り付きました。

「矢に当たってはなりませんよ。お前が死んでしまったら、私はどうして良いか分かりません。」

この様子を見た豊成は、これは人間に違い無いと思い、

「これ、そこの女。このような人里遠い深山に住んでいるとは、何者か。名を名乗れ。」

と言いました。姫君は立ち出でて、

「ご不審はご尤もです。私は十三歳の時に、継母の計略に掛かって、この山で殺されそうに

なりましたが、ある郎等の働きにより、命を助けられ、これまで長らえております。私は殺

されても構いませんが、この尼御前だけは助けてあげて下さい。」

と頼むのでした。これを聞いた豊成は、はっとして、

「お前の父の名は何と言うのか。」

と尋ねました。姫君が、

「難波の大臣と申します。」

と答えると、言い終わらぬ内から豊成は、

「やあ、我が子であるか。我こそ父、豊成であるぞ。」

と、飛びつきました。互いにひっしと抱き合って、涙々の対面です。暫くして、姫君は、涙

の顔を上げて、

「父上様。私は、経春の情けによって、命を長らえましたが、親に不孝をする者は、三世の

諸佛からも憎まれると聞きます。私は、父上の不興を受けた身の上ですから、もう生きる

甲斐も無いのです。」

と口説くのでした。豊成が、

「もう、恨みなど無い。継母の嘘と気付かずに、お前を殺せと命じたが、お前の年頃の娘

を見る度に、お前がこの世に生きていたなら、こんふうに育ったに違い無いと思い忍び、

念仏をして経を読み、回向をしてきたのじゃ。その甲斐あって、今ここで、再び巡り逢った。

なんという喜びであろうか。さあ、一緒に都へ帰るぞ。」

と言うと、姫君は、

「有り難う御座います。都へお供したくは思いますが、継母がいらっしゃいます。後の親を

親とせよとの例え通りですが、私に一度は辛く当たった母上様が穏便であるならば、都に

かえりましょうが、そうでなければ、この山で朽ち果てるつもりです。」

と、嘆くのでした。豊成は、尤もと思い、

「おお、お前は、大変心が正しいのう。よく分かった。何事もお前の思うに任せよう。」

と答えました。姫君は喜んで、

「そうであるならば、都にお供いたします。さあ、女房。中井の三郎殿に暇乞いをいたしましょう。」

と言うと、三郎の塚に立ち寄って、

「やあ、三郎殿。お前が、言った通りに、父上に会うことができましたよ。私は、これから、

都に戻ります。草葉の陰で、きっと喜んでくれていることでしょう。こんな物憂い山中も

お前に名残が惜しまれて、後ろ髪が引かれます。三郎信綱よ。名残惜しや。」

と言い残すと、御輿に乗り込み、都を目指して帰って行ったのでした。

 ところで、この事態を聞いた都の継母は、

「今更、中将姫と会うことなどできない。」

と思い、夜半に紛れて、館を去って行ったのでした。知人を尋ねて、頼もうと思いましたが、

この者は、内々に事情を知っていたので、継母を家に入れようとはしませんでした。そこで、

親戚筋なら大丈夫だろうと、親しくしてきた親戚を訪ねましたが、

「お前の様に、非情の者は、一門の者では無い。」

と言われ、荒々しく追い出されてしまいました。もうこうなっては、何処にも行く当てもありません。

継母は、

「浮き世に命長らえて、他人から後ろ指を指されて生きるぐらいなら、どこかの川に身を沈

めてしまえ。」

と思い切り、ある淵に走り行き、そのまま身を投げて死んでしまったのでした。この継母の

最期の有様を、憎まない者はおりません。

つづく

中将姫 ⑤

 さて、中将姫が雲雀山から都にお帰りになられて、暫くした頃のことです。姫君は十六歳

になられました。そして、后の位に就く話が再び持ち上がったのでした。しかし、姫君は、

「例え私が十全万葉の位に就いたとしても、無間八難の底に沈むことから、救われる訳では

無い。出家をして、母も継母も回向しよう。」

と、菩提の心がむくむくと湧いて来たのでした。

「私が、無断で忍び出ることは、親不孝なことかもしれませんが、私が先に浄土へ行き、

父を迎えることこそ、真実の報恩であると信じます。」

と、姫君は誓うと、その夜の内に、奈良の都を出て、七里の道を急いで、当麻の寺へと向か

ったのでした。姫君は、寺に着くと、とある僧坊に立ち寄って、出家の望みを伝えましたが、

上人は、

「まだ、幼いあなた様が、どうして出家などなされるのですか。思い留まりなさい。」

と、諭しました。しかし、姫君は重ねて、

「私は、無縁の者で、頼りにする所もありません。殊に、親のご恩に報いる為に思い立った

出家ですから、どうか平にお願い申し上げます。」

と涙ながらに頼むのでした。さすがに、上人も哀れと思われて、

「それでは、結縁申しましょう。」

と、背丈ほどある黒髪を下ろし、戒を授け、その名を、善尼比丘尼(※実際は法如)と付け

たのでした。

 ある時、善尼比丘尼は、本堂に七日間、籠もられて、

「私は、生身(しょうじん)の弥陀如来を拝むまでは、ここから一歩も出ません。」

と大願を立てられて、一食調菜(いちじきちょうさい)にて、一年間の不断念仏行に入られ

たのでした。

 仏も哀れに思し召したのでしょうか。第六日目の天平宝字七年六月十六日(763年)の

酉の刻頃(午後6時頃)に、五十歳ぐらいの尼が現れ、中将姫の傍にやって来たのでした。

すると、その尼は、

「汝、生身の弥陀を拝みたいのであるならば、蓮の茎を百駄分(馬一頭分の荷駄:135Kg)

を調えなさい。そうすれば、極楽の変相を織り表してお目にかけましょう。」

と言うと、掻き消すように消えたのでした。善尼比丘尼は、

「あら、有り難や」

と、西に向かって手を合わせると、

「願いが叶った。」

と御堂を飛んで出るのでした。そして、父の所へ真っ先に行き、事の次第を話すのでした。

不思議に思った父大臣は、この奇跡について、さっそく御門に奏聞しました。すると、御門

は只ならぬお告げであると感じて、蓮の茎を集めよとの宣旨を下されたのでした。近国の者

達は、この勅命に応じて、我も我もと、蓮の茎を当麻寺へ運んだので、あっと言う間に百駄

の蓮の茎が集まったのでした。山の様に集まった蓮の茎を見て、禅尼比丘尼が喜んでいると、

いつかの尼御前がいつの間にかやって来て、蓮の茎から糸を引き出すのでした。有り難い

限りです。それから、お寺の北側から突然、池が湧き上がりました。その水は五色の色を

していて、その水で糸を染め上げるのでした。この池は、今に至るまで、染殿の池と呼ばれ

ています。(染殿の井:石光寺:奈良県葛城市)

 それから、尼御前が、虚空を招くと、十七八の天人が天より降りて来て、乾の隅(北側)

に機織機を立てました。三世の諸佛までもが御来迎して、やがて、曼荼羅を織り始めたのでした。

やがて、浄土三部経の中巻、無量寿経の一部始終が、曼荼羅として織り上がりました。天女

達は、中将姫の前に曼荼羅を広げると、再び虚空に消えて行ったのです。

 それから、尼御前は、その曼荼羅をお寺の正面に掛けると、中将姫を招いて、曼荼羅の

表す所を説き始めたのでした。大変有り難いことです。

「これは、弥陀の三尊。あれは三十七尊。これは、青(しょう)黄(おう)赤(せき)白(びゃく)

黒(こく)の華が咲き乱れている所です。あそこで拝まれていらっしゃるのは、宝珠の本体

である弥陀の三尊です。説法をされているので、多くの聖衆(しょうじゅ)が集まって来て、

弥陀を供養している所です。」

と、尼御前は、それぞれの菩薩達をひとつひとつ説明するのでした。中将姫は、喜びの余り

尼御前に縋り付いて、

「これほどに、尼御前の大恩を受けながら、ご恩を返さなければ、木石にも劣ります。お名

前は何と仰るのですか。又、どちらにお住まいなのですか。」

と、叫びました。尼公は、中将姫の額を三度撫でて、

「私こそ、西方極楽浄土の主、阿弥陀如来である。汝の心を汲み取って、ここに現じて来たのだ。

又、曼荼羅を織ったのは、私の左の脇立、観世音菩薩である。」

と言うなり、雲に乗ると、空高くに飛び上がって行ったのでした。禅尼比丘尼は、有り難し

有り難しと、三度礼拝なされるのでした。ですから今でも、当麻寺の北に観音堂(中之坊十一面観音)

が建っているのです。

 こうして中将姫は、当麻寺に十四年間お勤めし、弥陀如来の誓いを顕して、遍く衆生を導

いたのでした。禅尼比丘尼の御法力の尊さには、貴賤上下を問わず、感心しない者はありま

せんでした。

つづく


中将姫⑥終

宝亀六年四月十三日(775年)のことでした。善尼比丘尼の法談があるということで、

近国の人々が、我も我もと当麻寺に集まって来ました。貴賤の群集夥しい中で、善尼比丘尼は、

「さあ、聴衆の皆様。私は、生年二十九歳。明日十四日には、大往生を遂げるのです。今宵、

ここに集まった皆々様は、ここで通夜をなされ、私の最期の説法を聞きなさい。

 私は女ではありますが、どなたも、疑う事無く、ようく聞いて悟りなさい。忝くも、御釈

迦様の御本心は、この世界の一切の人々を、西方極楽浄土へと救うことなのです。阿弥陀如

来が、まだ法蔵比丘でいらっしゃった時にも、必ず安養世界へ救い取ろうと、固く誓約され

ました。このような有り難い二尊の御慈悲を知らないで、浮き世の栄華を望み、あちらこち

らと迷うことを、妄執と言うのです。また因果とも言い、そのまま、三途の大河に飲み込ま

れて、紅蓮地獄の氷に閉じ込められてしまうのです。そして、餓鬼、畜生、修羅、人天、天

道を流転して、ここで生まれ、あそこで死に、生々世々(しょうじょうぜぜ)のその間に、

浮かばれる事も無いのです。まったく浅ましいことではありませんか。

 しかしながら、弥陀の本願の有り難さは、例え、そのような大罪人であっても、只、一心

不乱に、『南無阿弥陀仏、助け給え』と唱えれば、必ず弥陀は来迎なされて、極楽浄土の上

品上生にお導き下さるのです。何の疑いが有りましょうか。よくよく、ここを聞き分けて、

念仏を唱えなさい。」

と、声高らかに、御説法されるのでした。

 その時のことです。継母の母は、二十丈(約60m)あまりの大蛇となって、中将姫の説

法を妨げてやろうと、現れたのでした。大蛇は、声荒らげて、

「やあ、中将姫、我を誰と思うか。恥ずかしながら、お前の継母であるぞ。浮き世で思い詰

めた怨念は、消えることは無いぞよ。」

と言うと、鱗を奮わせ、角を振り上げ、舌をべろべろと伸ばして、迫って来ます。まったく

恐ろしい有様です。中将姫は、

「なんと、浅ましいお姿でしょうか。その様なお心だからこそ、蛇道に落ちてしまうのです。

しかし、だからといって、あなたを無下にすることはありませんよ。幼くして母を失い、

あなたを、本当の母と思ってお慕い申し上げたのに、為さぬ仲と思いになって、私をお疎み

になられたことは、浅ましい限りです。これからは、その悪念を捨て去って、仏果を受け取

りなさい。」

と、御手を合わせて祈られるのでした。

「諸々の仏の中に、菩薩の御慈悲は、大乗のお慈悲。罪深き、女人悪人であろうとも、有情

無常の草木に至るまで、漏らさず救わんとの御誓願。私の継母もお救い下さい。」

そうして、中将姫は大蛇に向かい、

「さあ、母上。今より、悪心を振り捨てて、念仏を唱えなさい。そもそもこの名号には、

釈迦一代でお説きになった諸経の功徳の全てが、収まっているのですから、名号を唱えれば、

極楽往生は間違い無いのです。だからこそ、八万諸聖経皆是阿弥陀仏(浄土教古徳之偈)と

言うのです。この心をよくよく聞き分けて、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えなさい。」

と迫るのでした。すると、大蛇は、忽ちに苦しみを逃れ、黄色の涙を流すのでした。

「あら、有り難や。このようなこととは知らないで、悪念を抱いた事は浅ましいかぎりです。

今より後は、あなたを偏に頼みます。どうかお導き下さい。」

大蛇はそう言うと、仏果を得て、虚空に舞い上がって行ったのでした。当麻寺、四月十四日

の練り供養の時、染殿の池から蛇の形をした物が飛び出てくるのが、この蛇であることは

隠れも無い事実です。

 さて、そうしてその日が暮れました。お寺に詰め掛けた人々は、明日は善尼比丘尼の御入

滅と聞き、その夜の明けるのをじっとまちました。五更の天が明けると、善尼比丘尼は、高

座より、四方をきっと見渡して、

「さあ、皆さん。後世を願うのには、弥陀の御名を唱えるのが一番です。名僧知識の念仏も

皆さんの様な愚痴無知の人々、悪人でも女人でも、唱えた念仏に区別も差別も御座りません。

さて、悟りを目前にして、己心の弥陀(こしんのみだ)を拝むことがあります。己心の弥陀

を信じて、西方の弥陀を願わなくては、悟りの目を開くことにはなりません。浄土宗で見る

己心の弥陀というのは、弥陀の悟りそのものなのです。その悟りがあるからこそ、光明赫奕

とお姿を顕して、念仏を唱える者を、浄土へと導くことができるのです。

 このように、浄土宗の心は、弥陀浄土正覚の内証を、忽然と実現して、迷う者も悟る者

も、一人残らず救うから、超世の願(ちょうせのがん)と言うのです。そして、また、無量

寿経の文言には、『光明返照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨』とある。つまり、光明とは、

仏の身体より発する光が、遍く世界を照らすということである。また、十方とは、東西四維

(しゆい)上下を合わせて十方と言うのです。世界とはその十方の国土です。十方の国土に

あらゆる念仏の行者を、その身光で照らしているのです。摂取とは、収める心、不捨とは、

念仏行者を守り、御心を失わないので、不捨なのです。さあ、皆さん。ひとつひとつ、我が

心をよっく聞き分けて、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、唱えなさい。」

と、声高らかに、お話になるのでした。そして、

「さて、四月十四日になりました。大往生を遂げましょう。」

と言うと、突然、弱弱となされ、最期に

「南無阿弥陀仏。」

と唱えると、二十九歳で、大往生をなされたのでした。

 大勢の人々に見守られ、沢山の僧が供養して、野辺送りが行われましたが、その時、突然

紫雲が棚引き、虚空に妙音がこだまして、異香が薫じて、花が降ってきました。すると、

弥陀の三尊がご来迎なされて、菩薩達が、中将姫を救い取って行ったのでした。なんとも

有り難い限りです。

おわり


忘れ去られた物語たち 40 古浄瑠璃 清水の御本地⑥ 終

2015年11月17日 18時49分35秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
清水の御本地⑥ 終

 内裏での奇蹟の後、御門は、公卿大臣にこう命じました。
「東山の音羽の滝に住んでいる真如夫婦こそ、生き仏であるぞ。彼らの住家こそ、極楽浄土と呼ばれるものである。流れ清き滝の水に因んで、清水寺(せいすいじ)と名付けて、未来の罪を逃れようではないか。」
そうして、数々の宝を寄進して、清水寺を信仰なさったので、公家大臣に止まらず、人々は皆、清水寺を篤く信心したのでした。
 さてある時、姫君は、真如に向かい、こう仰りました。
「我が君様。よくお聞き下さい。私たちは、今生においてこの様に楽しく暮らせたとしても、三悪道に沈み行けば、紅蓮の炎に包まれたり、氷に閉ざされたりして、再び浮き上がるなどと言う事は、至難のことなのです。ですから、願うべきことは、菩提なのです。この世は仮りの宿ですが、来世は、永遠の住家です。後世の道こそ、大事なのです。さあ、ご一緒に修行して、補陀落世界に生まれ変わりましょう。」
真如も、既に正覚しておりましたので、
「おお、それは全く道理なことである。」
と答えると、夫婦連れだって、音羽の滝へと出向きました。それからというもの、三百三十三度の水垢離を行い、三十三巻のお経を、毎日、転読する修行に入ったのでした。修行の生活が、三年と三月が経った時、いよいよ所願が成就されて、お体が光明で輝き始めました。その光は、三十三観音菩薩の光です。そして、衆生済度の御利益の為に、一首の歌を詠じなされるのでした。
『ただ頼め しめぢが原の さしも草 我世の中に あらん限りは』(古今集)
 その後、真如殿は、丹波の国にいらっしゃる父上様を、穴太(あのう)の観音としてお祀りになると、真如殿を貶めた為に地獄に落ちていた兄兄弟を救い上げて、不動尊、毘沙門天として祀ったのでした。さて一方、姫君は、大和の国の長谷観音となられました。
 真如殿は、清水寺に留まって貫主となり、更に衆生済度利益の為に、祈願を続けました。今日まで、十八日を観音様の縁日としているのは、その日が、真如夫婦の正覚した日だからです。
さてさて、この本を買って、三遍読むならば、必ず悪病災難から免れて、富貴の身分になることは疑い無し。これを疑って、危ない目に遭っても知りませんぞ。清水寺には、今でも、身分の上下を問わず、お参りをしない人はありません。

おわり

忘れ去られた物語たち 40 古浄瑠璃 清水の御本地⑤

2015年11月17日 17時21分34秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
清水の御本地⑤

 御所にお帰りになられても、御門の心は、真如の妻女に、恋焦がれるばかりです。御門は、公卿大臣を集めると、
「皆の者、何とか知略を巡らせて、真如の妻女を奪い取るぞ。」
と、息巻いています。早速に、真如が、内裏に呼ばれました。御門は、こんな事を言いました。
「真如よ。お前の妻は、天より降る者と聞く。天の者であれば、出来ないことは無いであろう。そこで、お前に命ずる。手が一本の者、足が一本の者、一つ目の者、又、八大竜王を、内裏に連れて参れ。もし、それが出来ない時は、お前の妻を、内裏へ参内させよ。」
宣旨を受けた真如は、そんな者は居るはずが無いと、途方に暮れて、家に帰りました。姫君に、事の次第を語りますと、姫君は、
「そんな事は、なんでもありませんよ。」
と南面に立たれました。虚空に向かって、何者かを招きますと、やがて、姫の前には、それぞれの者達が飛んで来ました。姫君は、
「お前達、真如殿のお供をして、内裏へ行きなさい。何事も真如殿に従うのですよ。」
と命じるのでした。やがて、真如は、お供を連れて参内しました。内裏では、御門を始めとして、卿相雲客がずらりと並んで、見物です。
 先ずは、一本足の者が出ました。田楽の真似をして、一本足で見事な踊りを披露しました。次に、手が一本の者が、猿猴(テナガザル)の真似をして笑わせました。三番目に、一つ目が口をすぼめて口笛を吹くと、百二十もの楽の音が聞こえ、聞く者をうっとりとさせたのでした。最後に、八大竜王が御前に現れました。竜王の仕業と言えば、決まっています。それまで輝いていた日月は、あっと言う間に陰り、車軸の雨が降り出して、大洪水となり、内裏の内も水浸しです。これには、御門も驚いて、
「もうよい、もうよい、真如よ、早く連れて帰れ。」
と言う始末です。真如は、得意顔で帰りました。しかし、御門は、これでも懲りませんでした。又、真如を参内させると、
「この間は、ご苦労であった。注文の者共を、全部見せてもらって、嬉しかったぞ。今度は、吹いても鳴らず、吹かなくても鳴る笛を探して参れ。」
と又、無理難題を突きつけるのでした。真如は又、困った顔をして、家に帰ると、又、姫に相談するのでした。真如は、
「ああ、今度ばかりは、もうだめだ。お前が、内裏に上がってしまったら、私は、その後、どうしたら良いのだろう。」
と、嘆き悲しむのでした。これを聞いた姫君は、
「大丈夫です。御安心下さい。探して参りましょう。」
と答えると、南面へお出でなり、虚空に向かって手招きをしました。すると、笛と鼓が現われました。真如は、笛と鼓を、姫から受け取ると、早速に内裏へ参内するのでした。
 御門を始め、多くの公卿大臣が見詰める中で、真如は、庭先に、笛と鼓を置きました。すると、吹きもしないのに、百二十丁分の音を出して笛が鳴り始め、鼓も独りでに拍子を合わせ始めます。御門が、
「強くなれ。」
と命じますと、宣旨に従って、天地も響けととばかりに鳴り響きます。やがて、五畿内の鳴り物という鳴り物が、鳴り始めました。この音で、空飛ぶ鳥はびっくりして地に落ち、愛宕山も比叡山も崩れ始めました。あまりの音の大きさに、慌てた御門は、
「やあ、真如。もうよい、早く止めてくれ。」
と仰いましたが、真如は、
「今少し、どうなるかご覧下さい。」
と、とぼけました。御門は、とうとう、
「分かった。お前の妻のことは、もう忘れよう。」
と観念したのでした。真如は、にやりとして、
「笛、鼓、止まれ。」
と命じますと、ぴたりと、その音は止みました。様々の奇蹟に感動した御門は、
「真如よ。お前は、いったいどんな善根によって、このような奇特に預かる様になったのだ。お前達夫婦は、本当に仏様の化身であるな。」
と詠嘆すると、勿体無いことに、その冠を地に付けて、真如に向かって礼拝されるのでした。
そうして、真如はその面目を施して、姫の待つ我が家へと帰って行ったのでした。お二人のお喜びは、限りもありません。こうして、月日が経って、お子様も沢山出来ました。真如殿の心の内の満足は、言葉に尽くせるものではありません。

つづく

忘れ去られた物語たち 40 古浄瑠璃 清水の御本地④

2015年11月11日 22時23分48秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
清水の御本地④

 さて、真如殿の部屋に、極楽浄土が出現したことは、忽ちに知れ渡りました。洞院殿は、沢山の供人を連れて、真如の寝屋の見物にやって来ました。真如殿の戸を開いた途端に飛び込んできたのは、光明に輝き、音楽が鳴り響く極楽世界です。余りの眩しさに閉じた目を、ようく見開いて見て見ると、黄金の門や白銀の築地が見え、庭は瑠璃の砂が敷き詰められています。七間(けん)の添え殿、八間の張り殿、九間の主殿が作られ、回廊は二十四間もあります。南面の松の枝に、黄金の鶴が舞い遊び、池には、白銀の亀が甲羅干しをしているではありませんか。余りの美しさに、洞院殿が、言葉を失っていると、真如殿が、こちらへと招きました。姫君も、
「あれは、真如殿が頼り為されている洞院殿ですか。さあさあ、どうぞ。」
とお声掛けをしたので、お供の上達が、手を引いて、洞院殿を宝石で燦めく台(うてな)へと案内しました。流石の洞院殿も、呆れ果てるばかりです。それから、洞院殿は、甘露の様な百味の飲食(おんじき)を味わい、気が付いたら、もう三七日(21日間)が経ってしまったので、慌てて自分の家へと帰って行きました。
 洞院殿は、この事を、直ぐに御門へと奏聞しました。大変、興味を持たれた御門は、早速に洞院殿の館に行幸される事になりました。御門のお乗りになった御車と、数多のお供の行列が出発すると、五畿内の人々が、その行幸を見物しようと、我も我もと集まって来る程の騒ぎとなりました。さて、いよいよ御門のご一行が、真如の寝屋にお着きなり、戸を開きますと、例の様に、宮殿楼閣が甍(いらか)を並べる景色が広がります。地面の砂は金や瑠璃が敷き詰められ、金銀の花が咲き乱れます。そこに、六観音、六地蔵、八大金剛童子が顕れて、光を放ちましたので、この光に照らされて、御門を始め、卿相雲客、大臣に至るまで、皆、金色の姿と輝くのでした。
 奥の宮殿を見て見ますと、十六七歳ぐらいの女性が見えます。十二単に三重の袴、翡翠の簪に寝乱れ髪といった艶やかさです。そして、多くの天女達が、仕えている様子です。御門は、このお姿をご覧になると、
「おお、あれは、真如が妻であるか。なんと美しい女性であることか。」
と、もう一目惚れです。御門は、真如の妻を心に刻んで、やがて、ご帰還なされたのでした。
 ところで、洞院殿は、霊符菩薩(北辰妙見菩薩)を信心なされていたので、この時から、霊符を行う家には、禁中の行幸があると、言われる様になったのです。まったく有り難いお話ですから、今にいたるまで、霊符菩薩信仰は、盛んなのだということです。

つづく

忘れ去られた物語たち 40 古浄瑠璃 清水の御本地③

2015年11月10日 16時05分32秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
清水の御本地③

 時成と別れた国春殿は、夢の様な心地で、どことも知らない山中を落ち延びました。

《以下道行き:山陰道(国道9号)》

不思議に命、助かりて
今は、齢(よわい)も亀山(亀山城:京都府亀岡市荒塚町)の
万年も経ぬらんと
老の山(大枝山:大江山:大井山・・・亀岡市)を打ち越えて
駒を早めて、沓掛(左京区)
樫の木腹(樫原(かたぎはら)左京区)はこれとかや
月の桂の男山
向陽も照り添いて
日も陽炎の石清水
正八幡を伏し拝み
東寺、西寺、打ち過ぎて
七条朱雀権現堂
涙と共に行く程に
早、九重(都)に着き給う

 ちょうど、旧暦3月の半ばの頃です。特に清水寺の辺りは桜の花が咲き乱れています。四条や五条の橋の上は、花見に行く浮かれた人々で、ごった返していますが、国春殿は、昔を思い出して、涙ぐむばかりです。とある大きな館の棟門の前で、国春殿は、腰をおろしてひと休みをすることにしました。すると、一人の男が近付いて来ました。国春殿をつくづくと眺めていた男は、『どうもこの人は、ただ者ではないようだ。』と思い、声を掛けてみることにしました。
「もしもし、そこの御方。あなた様は、どちらの御方ですか。お見受け致します所、由緒おありの方のようですが・・・。」
国春は、これを聞くと、
「はい、私は、遠国の者ですが、奉公先で、嫉みを受けて、流浪の身となりました。都へ流れて来ましたが、知る人も無く、頼る先もありません。一樹の陰に寄り、一河の流れを汲むのも、多生の縁と申します。どうか、憐れみ下さい。」
と訴えるのでした。その男は、これを聞くと
「おお、それは、お気の毒な事です。この館は、洞院殿のお屋敷ですが、大変、慈悲深い御方です。私が、取り次いであげましょう。どうぞ、ご安心して、そこで暫くお待ち下さい。」
と言い残すと、門内へと入って行きました。やがて、男は、洞院殿に、門外に佇む男の事を取り次ぎました。すると洞院殿は、その話に興味を持ち、国春殿を招き入れたのでした。国春殿の話しを聞いた洞院殿は、国春殿を召し抱えることにしました。洞院殿は、
「今日より、お前の名前を、真如(しんにょ)と名付ける。明朝からは、蔀(しとみ)、遣戸(やりど)の開け閉て、昼には物の具の掃除、夕べになれば、馬たちの湯洗いをせよ。よいか真如。」
と、命じました。それからというもの洞院殿は、片時も真如を離さず、
「真如、真如。」
と可愛がりました。真如は、大変忙しい毎日を過ごすことになりましたが、少しの暇を見つけては、観音経を転読するのでした。やがて、不思議な事に、五百人で行うような沢山の仕事を、たった一人でこなすことができるようになり、聞く人見る人を、驚かすようになったのでした。
 そんな或る日のことでした。一日の仕事を終えて、いつもの寝室に戻って来た真如は、その部屋の戸を開いて、びっくりしました。そこには、黄金の門があり、白銀の築地や黄金の築地が連なり、庭には、黄金の砂が敷き詰められているのでした。辺りを見回すと、三十六の宮殿が建っており、水晶の柱や五条の旗鉾、七宝を巻いた柱などが見えました。あんまり見事なので、言葉も出ません。それから、真如は、宝石が散りばめられた階段を上がってみました。そこには、十六七の姫君が座っておられました。姫君は、『翡翠の簪(かんざし)乱れ髪、丹花の唇、柔和の姿』と、まあ、辺りも輝くばかりの美しさです。さらに、その姫君の声は、迦陵頻伽(かりょうびんが)の如く華麗でした。
「そこに、いらっしゃったのは、真如殿ですか。私は、あなた様が日頃、祈願されている補陀落世界より参った者です。あなたの妻となるために、ここまでやって来ました。さあ、こちらへお入り下さい。」
姫君は、そう言うと、真如の手を取って、玉の台(うてな)へと誘うと、これまた宝玉で飾られた瓔珞(ようらく)をさげるのでした。すると、沢山の天人達が現われて、真如殿の前に畏まり、額づくのでした。真如は、余りの事に、ただ呆然とするばかりです。しかし、やがて、姫君と真如殿は、比翼連理の語らいをされ、深く結ばれるのでした。
 或る日の夕暮れの事でした。真如は、南面の縁側に出て、四方の景色を眺めました。峰の白雪は、斑消えて、谷の早蕨(さわらび)が萌え出ずる春の景色です。松の枝には、孔雀や鳳凰が囀り、妙法蓮花の花が、美しく咲いています。ここでは、四季の折々を、目の前で愛でることができました。万木千草の四季を、一日で見ることができたのです。その上、百味の飲食(おんきき)が空から降ってきます。それを食べてみれば、甘露のように美味で、心が和らぎます。そうして、自分の姿も、輝くばかりになります。これこそ、極楽浄土というべきでしょう。今や、真如殿のお姿は、光明赫奕と輝くばかりです。頼もしいとも中々、申し様もありません。

つづく

忘れ去られた物語たち 40 古浄瑠璃 清水の御本地②

2015年11月07日 21時02分06秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

清水の御本地②

 国春を捕らえた兄弟の人々は、やがて、郎等の佐々山二郎時成を近づけると、
「時成。あの国春を、山中に連れて行き、殺害せよ。」
と、命じました。しかし、時成は、
「ご命令ではありますが、三代相恩の主君のお首を、この時成は、討ちかねます。どうか、他の者にご命令下さい。」
と、答えたのでした。兄弟の人々は、
「さては、お前は、心変わりをしたな。」
と、大いに立腹し、時成を斬り殺そうとしました。その時、時成は、
『いやいや、私が辞退しても、誰かが国春殿を討つのに違い無い。そうであるならば、私の手でお討ちして、御跡を弔って差し上げよう。』
と、考え直しました。時成は、兄弟の人々に向かい、
「あ、いや、只今の仰せは、私の心を試す為と思いまして、お断りいたしましたが、本当に討てと御命じであれば、討ちましょう。」
と、答えるのでした。
 やがて、日も傾き、黄昏時になると、時成は、国春殿を、とある山陰へと連れて行きました。時成は、
「国春殿、兄弟に方々は、ここにて誅せよとの仰せです。誠に残念ではありますが、御最期のご用意、願います。」
と、涙するのでした。国春が、
「おお、そうか、ここで切るか。時成よ、松樹千年も遂には滅するが習い。まして、老少不定の我が身であるのだから、歎いても仕方無い。とは、言うものの、今こそ、多年に渡り読んできたお経を、読誦するその時ぞ。」
と言うと、時成は、
「お心静に、読誦して下さい。」
と答えるのでした。国春は、声をあげて、
「有り難や。大慈大悲は薩埵の悲願。願わくば、無縁の慈悲を垂れ、補陀落世界へ、救い取らせ下さい。臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊(りんぎょうよくじゅじゅう ねんぴーかんのんりき とうじんだんだんね)。」
と唱えると、
「さあ、早く首、切れ。」
と、言うのでした。時成は、道理に詰められ、心の内で
『この君を、殺したからと言って、千年も万年も生きられるわけでも無し。この国春殿を物に例えてみるならば、深山の奥に咲く遅桜。梢の花は散り失せて、枝にひとつ残った花が、嵐を来のを待つ様なものだ。ええ、明日は、どうとでもなれ、命をお助けいたそう。』
と思い切るのでした。時成は、国春殿を引き立てて、
「国春殿。どうぞお聞き下さい。私の独断で、お命、お助け致します。さあ、早く、何処へなりとも、落ち延びて下さい。」
と告げると、十町ばかり(約1キロ)の道を送り出したのでした。やがて、元の所に戻った時成は、
『この事は、いくら隠しても、隠し通せるものでは無い。兄弟に耳には入れば、憂き目に遭う事は目に見えている。最早、これまで.』
と、心を決めると、西に向かって、心静に十念して、腹十文字に掻き切って、明日の露と消えたのでした。彼の時成が心中、頼もしきとも中々、申すばかりはなかりけり

つづく

忘れ去られた物語たち 40 古浄瑠璃 清水の御本地①

2015年11月07日 19時05分50秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
 慶安四年(1651年)刊行のこの正本は、江戸七郎左衛門(杉山丹後掾)の作品である。この太夫は、薩摩太夫と並んで、江戸浄瑠璃の開祖と伝わっている。この正本を読んでみて
一番面白かったのは、一番最後の宣伝文句である。『この草紙、三遍読み奉れば、悪病、災難、免れ、富貴の身となる事、疑い無し』ここまで、言うのは、説経でも無かった様に思う。古浄瑠璃正本集第2(30)(安田文庫)より。
 ところで、ひとつ前の(29)は坂上田村麻呂を扱った「たむら」であった。(40)の「田村」と合わせて、期待して読み進めたが、残念なことに欠落が多く、話しを完結できないので、ここでの紹介は諦めた。尚、清水寺の縁起によると、この浄瑠璃のような話しは出ては来ないが、坂上田村麻呂が関わった話しがあるようである。

 清水の御本地①

 さて、清水寺の観音様の由来を、詳しく尋ねてみましょう。
 丹波の国の中里(京都府船井郡京丹波町中里)という所に、国広太夫という長者がおりました。宝が家中に満ちあふれて、何も不足な物はありませんでした。お子様は、48人いましたが、特に四男の国春が、菩提の道に入られたので、長者夫婦は、
「あの四郎は、親に孝行なだけでなく、菩提の道に入ったので、四郎に家督を譲って、後世を弔ってもらう。」
と、話し合うのでした。やがて、家の宝を全て、四郎国春に譲ってしまったので、兄弟は、不満百出です。兄弟の人々は、集まって、
「我等の親の宝物を、あの四郎が、全て取ってしまったぞ。きっと、親に讒奏をしたに違い無い。四郎国春を討ち殺してしまえ。」
と、罵り合うのでした。欲深い兄弟達は、
「では、早速、今夜、夜討ちを掛けよう。」
と、軍兵を繰り出して、国春の館を、取り囲むと、鬨の声を上げました。
 館の中は、突然のことに大混乱です。その中で、並河(なびか)の八郎秀直は、名乗り出でて、
「一体、何者だ。名の名乗れ。」
と呼ばわりました。兄弟の人々は、
「如何に、四郎。ようく聞け。よくも、親の前で、我々兄弟のことを讒奏したな。その遺恨を晴らす為に、攻めて来たが、兄弟のよしみによって、命だけは助けるぞ。降参して、何処へでも落ちて行け。」
と、言うのでした。国春は、これを聞いて、
「それでは、攻めて来たのは、兄弟の方々ですか。父国広殿が、私に、宝をお譲りになったのは、天の思し召しです。私が、讒奏したのではありません。なんという恐ろしい事でしょう。」
と、涙を流して訴えましたが、兄弟の人々は、容赦も無く攻め込んで来ました。なんと無残なことでしょう。国春殿の軍勢はあっという間に、壊滅してしまいました。敵わないと思った国春は、自害をしようとしましたが、踏み込んで来た敵兵に捕らえられてしまったのでした。国春殿の心の内の無念さは、申し上げようもありません。

つづく

忘れ去られた物語たち 39 古浄瑠璃 かばの御ぞうし⑥ 終

2015年09月25日 19時02分55秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
蒲の御曹司 ⑥ 終

 さて、梶原平蔵景時はというと、嫡子の源太景季(かげすえ)を近づけて、
「おい、景季よ。聞くところによると、範頼の子供達が、大島に落ち延びたとのことだ。敵の子供であるから、密かに討ち捨てるのだ。」
と、密談をしていました。
 とこがここに、土肥の二郎実平(どひのじろうさねひら)は、梶原親子が密談しているとも知らずに、憂き世を歎いて、大きい声で独り言を言いました。
「ああ、人間の果報というものは、分からない物だ。なんという憂き世であろうか。あの梶原と言う奴は、栄える者を嫉み(そねみ)、没落する者を笑い、ご兄弟の御仲の事さえ、讒奏して、蒲殿や義経様を失脚させ討ち果たし、自分だけが栄華を手にして驕り高ぶっておるわい。神や仏も無い憂き世だなあ。」
梶原は物越しにこれを聞いて、大いに腹を立てて、
「何だと、憎っくき、土肥の物言いや。」
と、太刀に手を掛け、斬り殺そうとしましたが、漸く心を取り戻し、
「いや、待て。ここで奴と死んで何になる。ひとつ御所に讒奏をして、ひどい目に遭わせてやるぞ。」
と、澄まして御前へと出仕するのでした。まったく、梶原の心中を憎まない者はありません。土肥は、こうした梶原の様子を見ていて、嫌な予感がしました。土肥は、
「どうやら、奴め、次は、このわしを塡める為に、讒奏をする気だな。よし、俺も御所に出仕して、先に申し開きをしておくか。」
とも、思いましたが、その前に、和田や秩父等へ話しをしておいた方がいいだろうと思い直して、和田や秩父の所を訪れました。和田や秩父は、話しを聞くと、
「おお、まったく。あの梶原を、このまま放置しておくならば、後々、我等が身の上の災いとなるのは必定。これは、土肥殿一人の訴訟では無い。皆々の連名で、申し上げようではないか。」
ということになったのでした。こうして連名で、御前に出仕した面々は、北条殿、秩父殿、和田殿、土肥殿、馬場、小山、土屋、川越、三浦介、上総介、その外六十六カ国の武将達でした。この様子をご覧になって頼朝公は、
「いったい、この訴訟事は、何事だ。」
と、驚かれました。人々は、平伏して、同音に、
「申し上げます。御前におります梶原親子の者共は、自分に都合の悪いことを、御前のお耳に入れようとする者がありますと、君に対して讒言をして、その者を陥れてきました。一年前の平家追討の折、御舎弟の義経様の事を猪武者と罵りました。その仕返しを恐れて、義経様に野心があるように讒言をし、追討することになりました。又、梶原の嫉みによって、蒲殿も失ったのです。今迄は、君の御意に畏れて、進言する者もありませんでしたが、我々もいつそのような讒奏をされるか分かりません。そこで、このように皆一堂に申し上げるのです。どうかお願いです。梶原親子の者共を由比が浜で捻首にさせて下さい。もし、これをご承引いただけない時は、奴らに捕らえられぬ内に、お暇をいただき、出家をして憂き世の憂さを晴らそうと思います。」
と、必死の進言をしたのでした。頼朝公は、
「分かった、そのようにせよ。」
と、お答えになりました。これを聞いた梶原は、肌背馬(はだせうま)に跨がって、脱兎の如くに逃げ出しました。
 梶原は行方知れずに逃げて行きましたが、余りに慌てていたので、道々、宇都宮の弥三郎が、弓の稽古をしている所を横切ってしまったのでした。弥三郎は、怒って、
「例え、梶原であろうとも、侍の的矢を射る目の前を、礼儀会釈も無しに、乗り打ちするとは何事か。ええ、閻浮の塵になるならなれ。逃してなるものか。」
と言うと、弓を満々と引き絞りました。はったと射れば、梶原は、背中首(せなくび)に矢を受けてバッタリと馬から落ちて、息絶えました。その後から、人々が駆けつけて来ましたが、この有様を見て、
「天晴れ、よくぞ射たり。」
と喜んで、首を掻き落としたのでした。
 さて、その後、蒲殿の子供達は助けられて、頼朝公の御前に上がることが許されました。頼朝公は、
「咎も無い範頼を亡くしてしまったことは、何よりも口惜しい事である。兄弟の者達に、三河の本領を安堵する。」
と仰せになるのでした。こうして、兄弟は、蒲殿の跡を継いで、三河の国を治めたのでした。目出度し、目出度し。

おわり

忘れ去られた物語たち 39 古浄瑠璃 かばの御ぞうし⑤

2015年09月25日 17時06分52秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

蒲の御曹司 ⑤

 それから、御台様と、三郎義清殿は、範頼のご供養をしましたが、あまりの疲れと、思い煩いの為、其の場で寝入ってしまうのでした。その時、草葉の陰の範頼殿は、枕元に立ってこう告げるのでした。
「私は、娑婆の縁も尽き果てて、この様な姿に成り果てましたが、決して悲しみ歎いてはなりません。落ち延びた他の兄弟達に会いたいのであれば、私の名と、ここで北の方と三郎が菩提を弔っていることを、木の葉に書き記して、明け暮れ、海に流しなさい。そうすれば、必ず巡り逢うことだろう。さあ、早く起きなさい。」
起こされた、二人は、驚いてかっぱと起き上がると、さめざめとお泣きになりましたが、やがて三郎は、
「草葉の陰の父上様が、私たちを憐れんで、夢枕にお立ちになった。教えに任せて、書きましょう。」
と、木の葉を沢山集めてくると、書き付けをしては、海へと流すのでした。
 さて、一方の為頼、頼氏兄弟は、同じく城から無事に逃げ延び、伊豆の浦で月日を送っておりました。しかし、毎日は物憂いばかりです。そんな或る日、二人は憂さを晴らそうと、浜辺に出ました。すると、浪間に漂う木の葉の中に、書き付けの有る物が目に入りました。いったいなんであろうかと、見て見れば、父の名字が書き付けてあり、更に、
『伊豆の国大島 範頼の菩提なり 義清 父の為』
とあるではありませんか。二人は、飛び上がって驚きました。
「おお、さては、母上様は、三郎を連れて、大島へと落ちられたのか。父上は、お亡くなりになられので、菩提を問うこの木の葉。ここまで波に揺られて届いたか。ああ、これは誠かあ。なんという悲しい事か。」
と、泣くより外はありません。しかし、涙を払うと、兄の為頼は、
「ここから、大島はそれ程遠くはない。どうだ頼氏。これより、漁船を探して大島へ行こうではないか。」
と言うのでした。二人は、早速に漁船を捜すと、丁度、誰の舟とも分からない舟をみつけたのでした。兄弟は、これはおあつらえ向きだと、急いで舟に乗り込むと、幸い風は追い風でした。天も味方してくれたと漕ぎに漕いで、一日一夜で、大島へと漕ぎ付けたのでした。兄弟の人々が、舟から飛んで降りて、見て見ると、丁度、御台様と三郎殿が墓参りの為に歩いて来たのと出くわしました。親子四人の人々は、顔と顔とを見合わせて、これはこれはとばかりです。久しぶりの再会を喜び合いましたが、やがて、兄の為頼は、
「父上はどちらですか。」
と尋ねました。そうして、御台様は、事の次第を語り聞かせながらお墓へと向かうのでした。
「これこそ、御父上様の御墓所ですよ。」
と、言うも果てずに、兄弟は、塚に倒れ伏して、泣き崩れました。為頼と為氏は、父が恋しい余りに、墓守に向かい、
「娑婆でのお姿を、もう一度、見たい。墓を掘り返して父の姿を見せて下さい。」
と訴えるのでした。墓守は驚いて、
「いやあ、大変、お労しい事ではありますが、もう既に一年近くも経つ死骸を、掘り返すなどということは、あり得ません。」
と答えました。兄弟の人々は、
「それは、そうかもしれないが、長らく物憂い牢のお住まい。きっと最期の御時には、我々兄弟のことを、恋しく思い出されたに、違いありません。お願いですから、もう一度、お姿を見させて下さい。ああ、恋しい父上様。」
と、伏し拝んで泣くばかりです。とうとう墓守は負けて、仕方無く、死骸を堀り起こすことにしました。人々は、父の死骸の枕の元に集まると、
「のう、のう、父上様。私たち兄弟は、父上を探して、ここまでやって来ました。今一度、お声をお聞かせ下さい。」
と、死骸に抱き付いて、さらに涙に暮れるのでした。見るに見兼ねた墓守は、
「仏になった死人に、そのように涙がかかっては、勿体ない。」
と、頓て、死骸を元の様に埋め戻しました。この人々の心の内の哀れさは、何に例えて良いか分からない程です。

つづく

忘れ去られた物語たち 39 古浄瑠璃 かばの御ぞうし④

2015年09月25日 11時36分27秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

蒲の御曹司 ④

 更に哀れでありましたのは、大島に流されて、土の牢の中に居る、蒲の冠者範頼様でした。流されたのは、つい昨日の様に思えますが、既に三年の月日が流れました。日の光も月の光も見ない生活にやつれ果てて、見るからに無残なお姿です。範頼は、自分の命がもう長くは無いことを覚りました。
「牢守り殿、聞いてくだされ。私の命は、最早、消え消えと失せる寸前です。今生の結縁に情けを掛けて、牢の外で死なせて下さい。」
範頼は、こう訴えて、涙するのでした。牢守りは、これを聞いて、
「ああ、なんと労しい有様でしょうか。しかし、主命ですからご勘弁下さい。もし、牢からお出ししたことがバレたなら、死罪は免れません。とは、言うものの、あまりにお気の毒に過ぎます。仕方ありません。今生にて、言いたいことがあるのなら、どうぞ、仰って下さい。」
と言うと、範頼を牢から出すのでした。範頼は、
「おお、なんと有り難い事か。今は早、憂き世の妄執は晴れました。牢守り殿のお情けは決して忘れません。お願いがあります。もし、私を訪ねる者があれば、これを形見として渡して戴きたいのです。」
と言いながら、肌の守りを取り出し、牢守りに渡すと、安心したのでしょか、バッタリと倒れ込みました。ややあって、蒲殿は、意識も遠くなる中、西に向かって手を合わせると、念仏を十遍ばかり唱え、遂に息絶えたのでした。牢守りが、いろいろと介抱しましたが、もう手遅れでした。牢守りは、道の辺に塚を築いて蒲殿を葬りました。哀れともなんとも言い様もありません。
 一方、御台様と三郎殿が乗ったまま漂流していた舟は、嵐に吹き流されてから、大島に漂着したのでした。二人は、急いで島に上がりましたが、夢がさめたように、ただただ、唖然とするばかりです。やがて、御台様は、気を取り直しました。辺りを見回すと、そばに、新しい卒塔婆が立っており、こう書き付けてあったのでした。
「蒲の冠者範頼の廟所なり。所縁の者があるならば、形見の物を渡すべし。牢守二郎太夫。」
これを見るや、御台様は、驚いて、
「ええ、それでは、ここは、大島か。これは夢か現か。我が君様。」
と、消え入る様に泣くばかりです。やがて御台様は、落ちる涙を払って、牢守りを尋ねました。事の次第を聞いた牢守りは、
「おお、そうでありましたか。私は、蒲殿をお預かりしていた者です。」
と、丁寧に持てなし、蒲殿の最期を語るのでした。牢守りが、範頼の形見を手渡しました。御台様は、
「これが最期の形見か。」
と、胸に当て、顔に当てて、流涕焦がれて泣くばかりです。牢守りは見兼ねて、
「お嘆きは、ご尤もではありますが、前世からの定めと諦めて、深く菩提をお弔い下さい。」
と慰めるのでした。この牢守りの心の優しさを、褒めない者はありません。

つづく

忘れ去られた物語たち 39 古浄瑠璃 かばの御ぞうし③

2015年09月20日 22時41分52秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

蒲の御曹司 ③

 それから、哀れであったのは、範頼公の御台様と公達でした。御台様は三郎殿を連れて、城外へと落ち延びましたが、東西も知れぬ山の中を、さまよい歩くことになりました。城の騒ぎも聞こえぬ程に、遠く逃げて来ると、御台様は、三郎に向かい、
「三郎や、為頼や頼氏(長男・次男)はどうしたかねえ。無事ににげのびたかねえ。」
と、つぶやきました。暫く、来た方を眺めては、泣き崩れて動きません。この様子を見た三郎は、健気にも、
「私も心配ですが、今となっては、確かめ様もありません。しかしながら、こうしている間にも、敵の追っ手は、きっと迫っていることでしょう。さあ、一歩でも先に落ちのびましょう。」
と、励ますのでした。親子共々に手を取り合って、山の中を進みましたが、日暮れ頃になって、ようやくある尼寺に辿り着きました。一夜の宿を乞うと、一人の尼公(にこう)が出て来ました。御台様と公達のお姿を見て驚いたのは、尼公の方でした。
「これはこれは、三郎義清様。私は御乳母で御座います。」
と、名乗るのでした。御台様は、名乗りもあえずそのまま倒れ伏し、消え入る様に泣き崩れましたが、やがてこれまでの経緯を詳しくお話になるのでした。
「万事宜しく頼む。」
と、言われて尼公は、
「なんと、労しい事でしょうか。どうかこれよりは、お心安くなさって下さい。ここは、人知れぬ草深き山中です。必ず深くお隠し申し上げます。」
と答えて、人々を奥の部屋へとお隠しになり、様々心を尽くして仕えるのでした。
 さて一方、梶原は、炎上する城の中を捜索し、御台所や公達の首を探しましたが、見つかりません。
「ええ、さては、落ちのびたか。まだそれ程、遠くへは行ってはおるまい。早く追っ手を向かわせよ。」
と命じて、軍勢を山狩りへと向かわせました。梶原は、小高い山に上がって、遠目をして目を光らせるのでした。
 尼寺では、尼公の情けによって、御台様はようやく一息つくことができました。ところで、この尼寺には、尼公が寵愛する手飼いの虎がおります。今は三月も末、木々の梢は新緑に覆われ、庭には草花、牡丹、芍薬が咲き乱れています。花に戯れる胡蝶が飛び廻れば、これを狙って、引き綱を引き摺り飛び出すのは例の虎でした。その戯れ遊ぶ姿は、何とも例え様も無く面白く、幼い三郎には、黙って見ていることなど出来ません。
「あら、面白の風情や。」
と喜んで、広縁に走り出るのでした。驚いた御台様は、
「これ、だめですよ。山の上では、梶原が遠目をして見張っていると聞きます。早く中へ入りなさい。」
と、たしなめました。御台所は三郎を抱えて、奥の部屋へと籠もりましたが、時、既に遅し。目速い梶原は、この様子を見つけて、にやりと笑いました。
「こんな所に隠れておったか。」
と、つぶやいて、早速に尼寺へ駆けつけると、大音をあげました。
「範頼の北の方、公達が隠れておるだろう。関東へお供致す。早く出せ。」
驚いた尼公でしたが、
「これは、何事ですか。ここは尼公の住み処です。そのような人々は居りませぬ。お門違いではありませんか。」
と、とぼけましたが、梶原は聞いて、
「何だと、いくら隠し立てをしても、居ることは分かっておる。出さぬと言うのなら、踏み込むまでのことだ。」
と、情けも無い言い様です。物越しに聞いていた御台様は、
「ああ、もう見つかってしまったのか、露の身は、置き所も無く、悲しい事だ。」
と、忍び泣くのでした。尼公は、これを聞くともう観念して、
「こうなっては、隠しようも有りません。どうでしょうか梶原様。御台様は、この寺へお出でになって、出家をなされたいとお申しなされるので、滞留していただいております。血走る獣、空を駆ける鳥類までも情けの道は知ると言います。命を助けて、出家をする時間をお与え下さい。」
と、泣きながら訴えるのでした。梶原はこれを聞いて、
「鎌倉殿へお供をしてから、良き様にお取りなしをして、其の後又、ここへお連れいたしましょう。」
と、うまいことを言って、御台所と三郎を捕まえるのでした。やがてその日も暮れ方になると、梶原は、家来にこう命じました。
「沈めに掛けよ。」
家来達は、漁船を取り寄せて、御台所と三郎は乗せると、沖へと漕ぎ出します。ところが不思議な事に、突然嵐となり、突風が吹き荒れ、舟を上へ下へと揺らします。これには、家来共も堪らず、
「咎も無い人を、沈めようとするから、こんなことになるんだ。南無三宝。龍神様。この人々を助けるので、磯へと舟を寄せて下さい。」
と、喚いて祈るのでした。やがて、水際に近付くと、家来達は、舟より飛んで降り、命からがら逃げて行きました。それから、人々を乗せた舟は、行方も知らずに海を漂っていくのでした。哀れとも中々、申すばかりはありません。

つづく

忘れ去られた物語たち 39 古浄瑠璃 かばの御ぞうし②

2015年09月18日 18時35分38秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

蒲の御曹司 ②

梶原景時は、まんまと蒲殿を大島に流してから、頼朝公の御前に上がり、事の次第を報告しました。聞いた頼朝は、
「蒲の妻子は如何いたした。生かしておいてはならん。」
と言うのでした。梶原は、早速に三百余騎を引き具して三河へと向かいました。蒲殿の居城を二重三重に取り囲むと、鬨の声を上げました。城内は、予期せぬ事に大混乱です。そこに当麻の太郎が憶せず、名乗って出ました。
「現在、我が君蒲殿は、頼朝公の名代として、都へ上がられた。いったいこの狼藉は、なんのつもりか。名を名乗れ。」
その時、梶原が言う様は、
「蒲殿は、義経と内通し、御謀反の心があることは、関東中の知るところだ。頼朝公の命令により、蒲殿は、最早既に、流人となられた。さあさあ、早く御台殿と公達を渡されよ。鎌倉まで連行するのが、この梶原の仕事じゃわい。」
しかし、そんな事に騙される当麻ではありません。
「何。さては、お前が讒言をして、蒲殿を討ったのだなあ。くそ、なんと口惜しい事か。ええ、そこで、暫く待っておれ、我等が手並みを見せてやるわい。」
と言うと、城内に駆け戻り、御台様と公達に事の次第を伝えるのでした。人々は、余りの事にわっとばかりに泣くばかりですが、当麻は、
「さあ、こうなっては、泣いても仕方ありません。皆様は、ここを落ち延びて、必ず未来でお家をご再興して下さい。」
と励まして、二人の兄に当麻の太郎が、御台様と三郎殿につげの刑部が、お供をして、裏門より、逃がすのでした。人々を落とした後、二人の武者は立ち帰って、大勢の中へと切り込んで行きました。戦は花を散らし、当麻の太郎重義の手に掛かって八十余騎。つげの刑部の手に掛かったのが、五十騎余り、やがて、二人は、城内に戻って、しばしの休息を取りました。当麻の太郎が、
「さあ、そろそろ、腹を切るか。」
と、言えば、つげの刑部は、
「いやいや、もうひと合戦。」
と言うのでした。「ようし。」と言うと、二人は再び切って出て、向かって来る者は、取って伏せ、生き首を引っこ抜いては、人礫(つぶて)に投げ散らすのでした。目を驚かせるばかりの活躍です。二人は、残党を四方に追い散らすと、今はもう、本望遂げたとばかりに、城内に戻りました。やがて、城郭に火を掛けると、二人は差し違えて、死んだのでした。この二人の活躍は、彼の樊噲もこうであっただろうと、褒めない者はありません。


つづく



忘れ去られた物語たち 39 古浄瑠璃 かばの御ぞうし①

2015年09月17日 18時49分48秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

慶安3年(1651年)の山本久兵衛板。太夫は、江戸伊勢嶋宮内である。
「宮内」は、寛永期の代表的太夫のひとりであると言われている。『閑際随筆』に,「間の山両町芝居之事 寛永十二年浄瑠璃芝居 太夫本/勧進本 伊勢嶋宮内」とあり,寛永十二年には伊勢間の山で勧進本をしていたことが知られる。又、吉田城主水野忠清に仕えた大野治右衛門定寛の日記「定寛日記」の寛永十八年に,「伊勢より参宮内太夫,上留リかたる」という記載があり、伊勢出身者であることが分かる。この宮内はその後、江戸に行き,そこから京都に上ったらしい。『東海道名所記』に「ちかきころに,江戸より,宮内といふもの上りて,左内とせり合,いろいろ,めずらしき操をいたしける。」とある。また『隔冥記』には寛永二十一年正月に、四条河原で宮内が興行している記録もあり,宮内の上洛によって、同時期の山城左内と共に、京都の浄瑠璃界を大いに盛り上げたということである。
蒲の御曹司とは、源頼朝の異母弟である源範頼である。頼朝から、義経と同様に、謀反の疑いを掛けられ誅殺された。

蒲の御曹司 ①

 後鳥羽の院の御代の事です。三河の国に、蒲の御曹司範頼(遠江国蒲御厨:静岡県浜松市)という武士がおりました。武勇の誉れが高く、並ぶ者もありません。子供は三人おりました。嫡男は、吉見の冠者為頼(ためより)、二男は、頼氏(よりうじ)、三男は義清(よしきよ)といい、大変優れた子供達でしたので、範頼や御台様のお喜びは、何にも例え様もありません。(※史実では、子は二人、範圓と源昭。為頼は範頼の孫。頼氏・義清は不明である)信頼は、郎等の当麻の太郎重義、つげの刑部恒世(不明)に守られて、心頼もしく暮らしていたのでした。
 さて一方、鎌倉では、逆櫓論争で恥をかいた梶原平蔵景時(かじわらへいぞうかげとき)が、義経への遺恨を晴らす為に、頼朝に讒奏をしたのでした。頼朝は、和田や秩父を近づけると、
「各々方、今度の義経の謀反は、疑う所が無い。急ぎ上洛して追討せよ。」
と命じましたが、秩父、和田は、
「これは又、勿体ないお言葉ではありますが、ご兄弟同士の事でありますから、私どもでは引き受けかねます。」
と、断るのでした。頼朝は、これを聞くと、
「では、範頼を上洛させよう。」
と、すぐに使いを立てました。知らせを聞いた範頼は、早速に鎌倉に上がりました。頼朝は、範頼に、
「如何に範頼。都を任せた義経であるが、院に取り入って、我が儘顔に振る舞い、それどころがこの頃は、我に敵対し、天下の主になろうとする動きがある。御前は、急ぎ上洛して、義経を追討せよ。」
と命じました。蒲殿はこれを聞くとお引き受けになり、鎌倉勢八万余騎を率いて、上洛することになったのでした。これを見ていた梶原は、
「蒲殿が、都へ行くとなると、俺が讒奏した事がばれてしまい、この首が危ないぞ。」
と思って、更に讒奏を重ねるのでした。梶原は、頼朝公の御前に出ると、小声になって、
「お殿様は、ご存知ありませんか。此の度の義経の御謀反ですが、蒲殿も内通しておりますぞ。今、上洛させれば、日本が動くことはあっても、追討はあり得ないでしょう。この儘では大事に至りますぞ。」
と、有りそうな嘘を囁くのでした。聞いた頼朝は、
「なに、そういう事であるなら、お前に任せるから、良きに計らえ。」
と、言うのでした。梶原は、急いで御前を立つと、多くの郎等を引き連れて、蒲殿を追いかけました。駆け通しに駆けたので、やがて、駿河の国の辺りで追い付きました。早速に蒲殿に対面すると、梶原は、又、出鱈目な事を並べるのでした。
「我が君様、お聞き下さい。頼朝公からのご命令です。此の度の討っ手には、和田、秩父を向かわせる事になりました。和田秩父では手に負えない時には、蒲殿を上洛させるという事ですので、一先ずは、鎌倉へお戻り下さい。大勢の軍兵は、和田秩父が引き継ぎますので、そのまま、ここに待たせて下さい。帰路は私がお供致します。」
と梶原が、頭を地に付け言上するので、範頼は、
「兎にも角にも、頼朝公のお心次第。」
と、大軍を残して、鎌倉へと駒を返しました。ところが、軍勢から遥かに遠ざかった所で、梶原は、突然、
「蒲殿、頼朝殿のご命令により、伊豆の国大島に、御流し申す。」
と言って、蒲殿を取り押さえてしまったのでした。無念にも無実の範頼は、梶原の計略に嵌められ、大島に島流しとされてしまったのです。大島では、牢守りの二郎太夫が、親身にお仕えしましたが、範頼の心中の無念さは、言い様もありません。

つづく

忘れ去られた物語たち 38 古浄瑠璃 とうだいき⑤

2015年08月16日 21時25分48秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
燈台鬼⑤

 はっと、気が付いた若君は、まるで夢が覚めた様な気分でした。夢のお告げに、全ての事が告知されたことを有り難く思い、夜明けと共に朽ち木の元を後にしたのでした。やがて、恋坊は、南海国に辿り着きました。南海国の王宮は、東西南北四十町(4Km四方)に白銀の築地を築き、黄金の門を建てる豪華さです。その中を見てみると、金銀珠玉を磨き立てて、玉の簾を掛け、瓔珞(ようらく)の宝石が光り輝いています。金幣が軒から鈴生りに下がって、風に揺れて、鳴り響いているのです。恋坊は、門の衛士に向かって案内を乞いました。
「仏という有り難い物を売りに来ました。」
しかし、門番には、言葉が通じませんでしたので、やがて、通訳がやってきて、王様へと取り次ぎをしたのでした。南海国の王様は、これを聞くと、
「麿は、大国の主であるが、仏というものは、未だに聞いたことが無い。どのような物であろうか。その商人を連れて参れ。」
と命じました。こうして、恋坊は、南海国王の前に、出る機会を得ました。恋坊が黄金の阿弥陀仏を差し上げると、人々は、紫磨黄金の慈しい御影に心を奪われました。その上、眉間の白毫から、七百倶胝(ぐてい)六百万の強烈な光(往生要集)が十方世界を照らしたので、その場に居た人々は、はっとばかりに拝む外はありません。王様は余りの尊さに、壇の上に紅紗(こうさ)を敷かせて、この仏を安置し、礼拝すると、こう言いました。
「この世の一生は、限り有り、夢、幻の如し。しかし、後世は永遠の住み処である。早く、菩提を願いなさいと、夢に見たのは、この仏の事であろう。さあ、金に糸目を付けずに、買い取れよ。」
この宣旨に、恋坊が、仏の代金は、父と引き替えで有る事を言おうとした時の事です。顔面の皮を剥がされ、髪の毛は天に向かって生い立ち、額に燈台を打ち付けられて、火を灯した男が、まるで鬼のように現れたのでした。まだ子供の恋坊は、我が父とは、夢にも思わず、余りの恐ろしさに、飛び上がって逃げました。
恋子は、この仏をご覧になると
「おお、我が形見の持仏が、どうして、売り買いされる仏となったのか。」
と口惜しがって、唯々、睨みつけるばかりです。恋坊は、恐る恐る、
「この人は、何者ですか。」
と尋ねると、王様は、
「おお、怖がるのは尤もである。この者は、西上国から攻めてきた大将で、恋子と言う者であるが、何時までも、恭順しないので、顔の皮を剥いで、燈台を打ち付けて、燭鬼(しょくき)と名付けたのじゃ。」
と、話すのでした。恋坊は、これを聞くなり吃驚し、腰をぬかして、しおしおとなり、
「ええ、この方が、父上さまでありましたか。なんという恐ろしいお姿でしょうか。ああ、情け無い。」
と、名乗りたい気持ちでいっぱいでしたが、気を取り直しました。敵の前では、身分を明かす事も出来ないので、さあらぬ体を装って、
「その燭鬼とやらは、大変罪深い者です。この御仏は、慈悲第一の仏でありますから、一切衆生が罪に陥ることを悲しんで、この末世に、六字の名号「南無阿弥陀仏」を唱える人を、必ず往生させてくれるのです。只、念仏を唱えれば良いのです。臨終の時には、必ず迎えに来る、そうできないなら、正覚を遂げたことにはならないとお誓いをなされたのです。諸仏は皆、このように誓願をされていらっしゃいます。念仏の親、諸仏菩薩は、この慈悲の心をもって、あらゆる願いを成就されるのです。
 さて、この燈台鬼を見ます所、まるで無間阿鼻地獄そのものです。しかし、阿弥陀仏の御誓願とは、百三十六種の地獄にも、諸共に落ちられます。六道能化の地蔵菩薩は、衆生の国に現れて、罪の炎に身を焦がし、罪人をも救うのです。「南無阿弥陀仏」と唱えるのなら、極楽往生に、何の疑いがあるものか。まして、この燈台鬼は、只、王命に従って、この国に攻めては来たが、それが私事の咎では無い。どうか、この燈台鬼をお許しになる御慈悲の心で、南海国の人々と共に、極楽往生の宝を手に入れなさい。」
と、説法をしたのでした。王様も臣も諸共に、これこそ、富楼那(ふるな)の弁舌、目連の神通力だと、喜びの涙を流されるのでした。しばらくあって、王様は、
「さても、大変優しい心であることかな。只許して、燈台を外させよ。」
と命じました。やがて、恋子の額に、十五年もの間、取り付けられていた燈台が取り外されました。そして、物を言える様になる薬を飲まされたのでした。牢番に、
「さあ、恋子よ。仏様が助けてくれたぞ。早く出ろ。」
と言われた恋子は、突然のことで、俄に現実とも思えず、唯々、呆れ果てているばかでした。その恋子の心の内の哀れさは、何にも喩えようがありません。

つづく

忘れ去られた物語たち 38 古浄瑠璃 とうだいき④

2015年08月16日 18時06分52秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
燈台鬼④

 「恋しい人を尋ね、必ずお迎え致します。」という恋坊の言葉に負けて、母上は、とうとう父の捜索をゆるしました。恋坊は、喜び勇んで、高さ三寸の黄金阿弥陀を肌の守りに入れるのでした。その時、母上は、恋坊に、
「この仏様というのは、四十八願を持つ阿弥陀様です。念仏を唱える人あれば、常に二十五菩薩が現れて、お守り下さるはずです。道中に難儀がある時は、南無阿弥陀仏を唱えなさい。必ず阿弥陀様がお守り下さいます。」
と、切々と阿弥陀の教えを説くのでした。いよいよ、恋坊が門の表に出た時、門送りに立った母上は、また涙ながらに、口説くのでした。
「恋坊よ、よくお聞きなさい。もし、父に逢えたとしても、逢えなかったとしても、できるだけ早く戻ってくるのですよ。南海国に長居をして、母を悲しませないでおくれ。夫に離れて寄りこの方、頼る者は、お前しか居ないのに、そのお前とも、今が別れなのですよ。なんと心細いことでしょう。遥か遠い、南海国。いつ逢えるとも分からないというのに、父を探しに行くお前が、恨めしい。」
 さて、いよいよ恋坊は、南海国に向けて旅立ちました。なにしろ、初めの道のことですから、朝夕のお勤めで、
「南無や、霊鷲山(りょうじゅせん)の釈迦如来。無量寿の阿弥陀様。哀憫納受たれ給え。」
と、祈るのでした。その祈りが通じたのでしょう、月日の光が、常に道を明らかに導き、虎狼野干も共をしてくれる有りがたさです。峨々たる山に登る時も、深い森を行く時も、灯火が導き、滔々たる大河を渡る時には、竹の橋が現れたり、舟や筏が用意されているので、難なく進むことができたのでした。
西上国を出た時は、山脈に雪が降り積む冬でしたが、いつの間にか、若葉の繁る景色となっています。このままでは、道中で一年が経ってしまうのではないかと、心細さがつのります。谷の小川が雪解け水を流し、古巣を離れる鶯の初音が心に響くので、思い出すのは、遠い古里のことばかりです。家の垣根の梅の花が美しい如月頃です。霞みに見え隠れする雁達は、何処へ帰るのだろうかと、羨ましくなり、何時かは、自分も、古里へ帰るぞと、母を懐かしく思い出すのでした。やがて、岸には、山吹や岩躑躅(つつじ)が咲きました。深山に隠れている遅咲きの桜は、残雪かと、目が疑われます。松の木に懸かる藤の花や、草に紛れて咲く卯の花や橘に五月雨が降りかかり、昔ながらのホトトギスが鳴いています。やがて、牡丹、菖蒲、杜若、菫が咲き、晴れ上がった空の下で、朝露に濡れている夏になったのでした。やがて、すっかり辺りは秋の気配となりました。女郎花、桔梗、刈萱、ワレモコウ、紫苑、竜胆(りんどう)、萩の花。鈴虫、松虫、轡虫。枕の下には、蟋蟀。その声々も段々に枯れ枯れて、まるで浮き世を悲しむ声のように聞こえます。とうとう、冬がやってきました。来る日も来る日も、嵐、木枯らし、山颪が吹き荒れます。降り積もる雪に、身も凍え、どうにもなりません。せめて行き来の人でもあれば、古里に言伝をしようとは思いつつ、やがて手足は雪焼け(凍傷)となり、疲れ果て、とある朽ち木の根元に倒れ伏しました。意識が遠退く中で、恋坊は、
「母が止めるのを振り切ってここまで来て、父にも逢われず、親不孝のままで、道端で野垂れ死ぬとは、何よりもって口惜しい。母上は、こんな所で私が死んだとも知らずに、何年も待ち続けるのだろうなあ。なんとも申し訳も無い事になった。ああ、頼るのは只、弥陀の名号のみ。父がこの世にあるならば、巡り逢わせて下さい。もしもう、お亡くなりならば、ひとつ蓮の蓮台に乗せて下さい。南無阿弥陀仏。」
とひたすらに、西に向かって、十遍繰り返して唱えましたが、段々に意識が遠退き、やがて息が絶えてしまったのでした。
 どれだけの時間が経ったのでしょうか。一人の僧が、恋坊の枕元に立っています。僧は、
「お前は、大変に親孝行である。」
と、微笑むと、香ばしい薬を、口の中に入れたのでした。すると、恋坊の意識が戻り、目を開きました。その時、僧は、
「我を誰と思うか。お前が肌身離さず信心する阿弥陀仏であるぞ。お前の父は、未だ生きておる。私の神通力によって逢わせようと思うが、お前の父は南海国の王宮の中に居り、そう簡単には入ることができない。そこで、策を授ける。王宮で『仏売ります。』と言って廻るのだ。この国には、まだ仏を知らない国である。何処から来たのかと聞かれたら、『西方浄土にある極楽という巨大な世界から来た者だ』と答え、『この仏を信じ、一声、名号を唱えれば八十億刧の罪を滅ぼし、後世の願いが叶い、往生できるのだから、値切らないで買いなさい』と説きなさい。そうして、王宮に入ったなら、父と交換するように交渉しなさい。この仏が、例え敵王に渡ったとしても、お前の身から離れることは絶対に無いから安心しなさい。」
と告げると、消え去りました。

つづく