猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語 31 古浄瑠璃 大橋の中将 ③

2014年05月31日 17時09分37秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 ちゅうじょう ③ 

  母から、初めて父の話を聞いた摩尼王は、

 「私には、父上様は居ないと思っていたのに、朝敵として、鎌倉へ連れていかれたのですか。なんと、悲しいことか。」

 と、泣き崩れました。涙ながらに摩尼王は、更に母に抱きついて、

 「父の形見はありませんか。どうか見せて下さい。」

 と言うのでした。御台様は、法華経一部を取り出すと、

 「これこそ、父の形見です。父が鎌倉へ下られる時、生まれた子が、男子ならば見せよと言って、残していかれたお経です。このお経こそお前の父だと思い、お山に持って帰り、この経を良く読み習って、父の菩提を弔っておくれ。」

 と言って、お経を摩尼王に渡しました。摩尼王はお経を胸に当て、顔に当てて泣くのでした。お二人の嘆きは、何に例えようもありませんが、漸く摩尼王は、涙を押し留めて、松若と共に、再びお寺へと帰って行ったのでした。

  さて、摩尼王はそれからというもの、法華経を日々に勉強し、一部八巻二十八品の六万九千三百八十余字のすべてを諳んずるまでになったのでした。法華経についての質問なら、言下に答えることができたので、寺中の若い衆徒はもとより、老僧に至るまで、摩尼王に並ぶことのできる者はありませんでした。

  さて、或る雨の日に、摩尼王は、松若にこう話すのでした。

 「松若よ。人として生まれてきて、親の行方も探さないのでは、鬼畜木石にも劣るとは思いませんか。私は、何とかして、鎌倉へ下って、父の行方を尋ねようと思うのです。」

 これを、聞いた松若も、

 「君が、御下向されるならば、お供いたしまする。」

 と、答えます。そこで二人は、髪は剃りませんでしたが、縹帽子(はなだぼうし)で髪を隠して、墨染めの衣を着て、松若が背負う経箱を用意しました。準備が整うと摩尼王殿は、

 「松若よ。よく考えてみると、露の命には定めも無い。道中に於いて行き倒れることもあるだろう。母上に、お話したいとは思うが、鎌倉行きを知られれば、それは人の親の倣いとして、反対するに決まっておる。そうでなければ、自分も連れて行けと騒ぐであろう。だから、このことは、誰にも秘密であるぞ。」

 と、口止めをして、夜陰に寺を忍び出るのでした。

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 つづく

 


忘れ去られた物語 31 古浄瑠璃 大橋の中将 ②

2014年05月31日 11時47分47秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ちゅうじょう ②

  梶原源太景季は、中将殿を連れて、鎌倉へと向かうことに成功したのでした。

以下道行き》

 今ぞ、心を筑紫潟(有明海)

 名残の舟に取り乗り

 春風に帆を上げ

 浦々島々、打ち眺め

 波風に漂いて

 堺の浦に着き給う(大阪湾)

 堺、久しき、住吉の(住吉大社)

 松も昔と、打ち眺め

刧は経るとも尽きずまじ

亀井の水の流れ絶えぬぞ(天王寺七名水のひとつ)

尊っとかりけると、天王寺を伏し拝み

名所旧跡、里々を

打ち過ぎ行けば、これやこの

実に誠、世の中の

濁り無き身を石清水(石清水八幡宮)

神ものうじゅうしませと(?)

八幡の山を伏し拝み

時雨に染むる秋の山

急がせ給いける程に

 早や九重(京都)に入りぬれば

 はくしゅのちんしゅ(?)をふし拝み

 又、憂き事に粟田口(京都市東山区)

 大津の浦を早や過ぎて(滋賀県大津市)

 瀬田の唐橋、打ち渡り

 消ゆる思いは、草津の宿(滋賀県草津市)

 番場、醒ヶ井、柏原

 垂井、赤坂、打ち過ぎて(岐阜県大垣市)

 尾張の国に聞こえたる

 熱田の宮に祈誓を掛け(熱田神宮)

 憂き身は、何と鳴海潟(名古屋市緑区)

 三河の国や遠江(愛知県東部)

 尚、憂き旅を駿河なる(静岡県)

 富士の煙と余所に見て

 月も雲間を伊豆の国

 足柄、箱根、早や過ぎて

 急ぐに程無く、鎌倉にこそ、着かれけれ
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 さて、源太は鎌倉に着くと直ぐに父景時に、報告しました。喜んだ景時は、急いで御前に飛んで出ると、中将捕縛の報告をしましたが、頼朝は、

 「対面するまでの事も無い。そちに任せる。」

 と、だけでした。梶原は、急遽、牢屋を造らせると、そこに中将を押し込めておくことにしました。中将の牢生活は、その後十二年にも及ぶのでした。

  さて、一方、哀れだったのは、筑紫に残された御台所です。御台所は、中将殿の近況を風の便りに聞いて、悲しみに暮れる毎日でしたが、いよいよ、十月十日を迎えて、ご出産なされました。生まれたのは玉の様な男の子でした。名前は、摩尼王(まにおう)殿と言います。

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 摩尼王が七歳になった時、御台様は、

 『中将殿はが、鎌倉へ行かれる時に、言い残したことは、生まれた子が、男子であるなら出家させて、菩提を弔わせよということで会った。』

、思い出して、摩尼王を寺入りさせることにしたのでした。御台様は、九州で一番の学者が居るとされた鹿児島の光雲寺を選ぶと、下人の子ではありましたが、同年の「松若」をお供として付けて、送り出したのでした。

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  そうして寺入りした摩尼王殿は、まじめに学問に励んでおりましたが、その寺に居る沢山の稚児達は、摩尼王のことを、「親無し子」と指差して、何かに付けていじめるのでした。可哀想に摩尼王殿は、とうとう堪りかねて、里に戻りました。摩尼王殿は、母上に、

 「天地は陰陽和合と習いました。父と母が無くては、私は生まれません。私の父は、どこにいらっしゃるのですか。」

 と、流涕焦がれて縋り付くのでした。御台様は、何とも言葉に窮して、只泣くばかりでしたが、やがてこう話すのでした。

 「おお、その不審は、もっともじゃ。お前の父親というのは、この国を治めていた大橋の中将という、それはそれは立派な武将なのですよ。しかし、中将殿は、鎌倉殿の御機嫌を損じて、鎌倉へ送られました。もう死んでしまったのか、未だ生きていらっしゃるのかすら分からないのです。お前を寺に上がらせたのも、良く良く学問を究めて、お経を覚えて、父の菩提を弔う為なのですよ。」

 御台様の心の哀れさは、申し上げる言葉もありません。

 つづく

 


忘れ去られた物語 31 古浄瑠璃 大橋の中将 ①

2014年05月31日 10時47分25秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 古浄瑠璃正本集第1の(10)は、「待賢門平治合戦」であるが、内容的には、説経「鎌田兵衛正清」とほとんど同じであった。次の(11)は、「阿弥陀御本地」であるが、後半の三段分しか無い。(24)にも別の「阿弥陀御本地」が収録されているので、これを読んだが、説経「法蔵比丘」と同じ内容であった。以上の様な次第で、これらは、訳出には至らなかった。

  古浄瑠璃正本集第1の(12)は、「大橋の中将」である。既に紹介した「はなや」や「むらまつ」「安口の判官」と同工異曲に、お家再興シリーズである。しかし、この刊期も版元も太夫も不明の作品は、「法華経」の法力をからめて、やや説経的なニュアンスが感じられる。この正本は、状態の悪い上巻三段分しか現存していないが、全体を奈良絵本によって補完することができる。なお、画像は、国文学研究資料館所蔵の奈良絵本(デジタル版)を利用した。

 ちゅうじょう 

 いまは、右大将、征夷大将軍頼朝公の御治世。鎌倉に御所を造営なされ、草木も靡くばかりです。元々平家方の武士であった「大橋の中将」は、平治の合戦で、頼朝を助けた恩賞によって、壱岐・対馬を給わっています。ところが、梶原景時(かげとき)は、この中将を陥れて、壱岐・対馬を手に入れようと、企んだのでした。景時は、御前に進み出でて、

 「我が君様に申し上げます。ご存知の通り、筑紫の国の大橋の中将は、元より敵の武将です。平治の合戦の時、君を討ち取る謀(はかりごと)は様々ありましたが、これを生き抜いてきたのも、君のご運の強さ故であります。しかし、この先、中将を生かしておくならば、再び謀反を起こすかもしれませんぞ。我が君様。」

 と、言うのでした。頼朝は、これを聞くと、

 「それでは、梶原に、三百余騎を与えるから、筑紫に下って、大橋を退治せよ。」

 と、命ずるのでした。景時は、急いで館に帰ると、嫡子の源太(梶原景季:かげすえ)に、こう言うのでした。

 「源太よ、よく聞け。お前は、これから、筑紫の国に下向せよ。大橋の中将を退治するのだ。」

 そうして、源太は与えられた三百余騎を率いて、筑紫へと向かったのでした。筑紫に着いた源太は、こう思いました。

 『有名な武将である中将殿と、直接にやりあっては、適う相手ではないぞ。』

 そこで、源太は、軍勢を村々に隠すと、郎等を四五人連れて、鎌倉の使者として、中将殿と対面するのでした。源太は、

 「中将殿、鎌倉へ御出仕下さい。頼朝公がお待ちです。」

 と、告げますと、中将は、

 「おお、かねてより、鎌倉へ出仕しなければと、考えていた所でした。源太殿のわざわざの御下向、誠にありがとうございます。それでは、早速に鎌倉に参りましょう。よろしくお願い致します。」

 と、言うのでした。源太は、

 「鎌倉での事は、何事も、某にお任せ下さい。」

 と、さも頼もしげに答えるのでした。

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 それから、中将は、一間所へお入りになり、御台所に、

 「よいか、御前。よく聞きなさい。鎌倉よりの使者源太が御下向になり、鎌倉に出仕せよとの命令だ。私は、元より平家方の者であるから、鎌倉において、殺されるであろう。お前の胎内には、七ヶ月の嬰児がいるが、もし男子で生まれたのなら、この法華経を、形見に渡してくれ。もし女子ならば、お前に任せる。名残惜しいことだ。」

 と、話すと涙に暮れました。これを聞いた御台所は、

 「なんという情け無いことでしょうか。あなたが十六、私が十四の春より、ずっと一緒に暮らして来たというのに、あなたが、鎌倉に行ってしまったら、私は、どうやって暮らしていけばよいのですか。」

 と泣き崩れる外はありませんでした。この夫婦の人の別れの哀れさは、言い様もありません。

 つづく

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御礼 等々力不動尊 青葉まつり公演

2014年05月28日 21時54分24秒 | 公演記録

まずは、茅の輪をくぐって、無病息災。霊験あらたか、等々力不動尊

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正しくは、この様に、くぐるのだということです。三回廻って、「三る8座」と言いたいところですが、今回は、川野名さんを中心とする舞台でしたので、「吉栄座」を名乗らせて戴きました。代表的な文弥節太夫である北村宗演のご子息、川野名孝雄氏は、御年八十三歳。片や当、八郎兵衛師匠は六十五歳。次の写真をご覧下さい。上手、御台を遣うのが川野名氏、下手、小八を遣うのが、八郎兵衛師匠です。安寿は既に事切れ、伏しておりますが、このお二人の巧者であるところは、出遣いであるににも関わらず、遣い手としての姿が、見えない事です。(山椒太夫鳴子曳き)

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満願寺、ご住職阿部龍樹様並びに、取り仕切り方の三浦雄弘様には、大変お世話になりました。有り難うございました。又、お目にかかれる機会を楽しみにしております。

新潟日報関連記事:http://www.niigata-nippo.co.jp/news/local/20140529114829.html

 


人形浄瑠璃を楽しむ会 8月 猿八座公演 

2014年05月27日 19時45分47秒 | お知らせ

山椒太夫三段組みです。越後に深い関係のあるこの物語に、一人でも多くの方々に触れて戴きたいと願っております。
 ところで、お客様の感想やご要望の中に、「山別れで、逃げた厨子王は、どうなるの?」とか、「厨子王がどうやって出世したのか?」というものが増えてきました。流石ですね。よく研究されていらっしゃいます。実は、現在の三段組みから落ちている話がありまして、まさにご指摘の通りです。厨子王が無事に逃げ延びる「国分寺の段」と都に上ってからの「出世の段」があるのですが、時間等の制約もあり、未だ実現の目処は立っていません。又、正本の選択も悩ましい課題となっています。しかし、いつかは・・と考えてはいます。
 村上公演では、今回も田村八汐さんに、お世話になります。宜しくお願いいたします。

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古浄瑠璃 信太妻 あらすじ 

2014年05月27日 19時25分13秒 | 調査・研究・紀行

「信太妻」は猿八座の演目の中でも公演回数が一番多い演目です。歌舞伎(芦屋道満大内鑑)でも演じられあまりにも有名なので、「忘れ去られた物語シリーズ」には入れていません。しかし、長い物語の内、演じられているのは、ほとんどが第3場の「信太の森」の場面だと思いますので、全体を簡単な粗筋に要約しておきますので、ご参考にして下さい。

 
「しのだづまつりきつね 付 あべノ清明出生」延宝2年(1674)靏屋喜右衛門板

第1: 
書き出しに「ここに中頃、天文地理の妙術を悟りて、神通人と呼ばれし、安部の清明の由来を詳しく尋ぬるに」とあります。そして、清明からすると、祖父の「保明」とその子「保名」、つまり「清明」の父の話から、始まります。「保名」は、宿願があって、毎月、信太明神に参詣します。一方の登場人物は、歌舞伎の外題にもなった占方「芦屋道満」とその弟、石川悪右衛門です。
 悪右衛門の妻が、死の病に倒れたことが、そもそもの始まりです。兄の道満は、こう占いました。「若き女狐の生き肝」を薬として与えれば、平癒するというのです。悪右衛門は、数百人の勢子を連れて、狐が多く住むという信太の森へと急ぐのでした。
 信太の森では、「保名」一行が、参詣し、陣幕を張って休んでおりました。そこで突然、悪右衛門の勢子達が、おめき叫んで、狐狩りを始めたのです。子連れの狐夫婦が、追い回されて、逃げて行きますが、子狐は、保名の陣幕の中へ逃げ込んでしまったのです。狐を出せ、出さぬで、とうとう戦になってしまいましたが、多勢に無勢。無念にも「保名」は捕縛されてしまうのでした。
 そうしているところに、悪右衛門の檀那寺の「らいばん和尚」が現れて、「この囚人の命を助けて出家させ、私の弟子にさせてくれ」と頼むものですから、悪右衛門も仕方無く、「保名」を和尚に渡すのでした。しかし、この和尚は、先ほど、「保名」に助けられた子狐の親狐だったのでした。

第2:
「保名」は、危うい所を、狐に助けられました。受けた刀傷を洗う為に、沢に降りて行くと、水汲に来た、若い女と出合います。そして、「保名」は、この女の埴生の小屋で戦いの傷を癒やすのでした。
 さて一方、父の「保明」は、信太での次第を聞くと激怒して、数万の軍勢で、信太の森に突撃します。悪右衛門は、漸く狐を仕留めて、山を下りる所でしたが、今度は「保明」の軍勢との戦いとなったのでした。残念なことに、父「保明」は悪右衛門に斬り殺されてしまいます。主君の敵と、三谷の前司が、悪右衛門を追いかけますが、悪右衛門は、なんとか逃げ延びました。しかし、もう日も暮れました。道に迷っていると、微かな灯火が、見えます。急いで立ち寄って、隠して欲しいと頼みますが、断られます。それもそのはず、その小屋は、「保名」が居る小屋だったのです。やがて、三谷が追いついて斬り合いになりましたが、どうした訳か、刀がポキンと折れてしまったのでした。そこで三谷は、力で悪右衛門をねじ伏せますが、首の掻きようもありません。悪右衛門は、「俺は石川悪右衛門だ。山賊に襲われているから助けてくれ。」叫ぶのでした。これを聞いた、「保名」は飛んで出でて、親の敵を討つのでした。

第3:
父を討たれた「保名」は、敵も取りましたが、世間の噂を避ける様に、信太の森近くの女の家に住み続けていました。安部の童子は、もう七歳です。この子が、後の安部の清明になるのです。さて、安部家の毎日は、保名は畑仕事をし、女房は機織りをして、貧しいなりにも幸せな暮らしでした。ところが、ある日、籬の菊に見惚れていた女房は、ふっと油断したのでしょう。狐の本性を現してしまったのでした。狐の顔になった姿を童子に見られてしまったのです。有名な歌「恋しくば、尋ね来てみよ、和泉なる、信太の森の、恨み葛の葉」を、障子に残して信太の森に帰る名場面はここです。
 その後、「保名」と童子は、母を捜しに、信太の森にやって来ます。漸く姿を見せた狐は、又、母の姿に戻ってくれますが、形見の品「龍宮世界の秘符」という「黄金の箱」と「水晶玉」を童子に与えて、永遠の別れを告げるのでした。この形見の品は、後に、陰陽師としての活躍に大きく寄与するのです。

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2013年9月9日(於てぃーだかんかん)

第4:
安部の童子は、八歳から勉学を初め、天才ぶりを発揮します。今は十歳となり、名を「晴明」(はるあきら)と改めました。ある時、伯道上人が現れてお告げがありました。「金烏玉兎」(きんうぎょくと)という巻物を与えると言うのです。この巻物があれば、死んだ者でも、一度は生き返らせることができるのでした。晴明は、益々、神通の力を高めて行ったのでした。
 或る日、烏が二羽飛んで来て、鳴いています。不審に思って、水晶玉を取り出すと、耳に当てて聞いてみました。二羽の烏は、「御門のご病気の原因は、内裏造営の際に、生きたままの蛙と蛇が、柱の下敷きになったからだ。」と話しているのでした。金烏玉兎で占ってみると、間違いありません。喜んだ「保名」は、「晴明」を連れて急いで、参内するのでした。折から、御門は、伏せっておりましたが、親子の占いに従って、柱を調べると、占い通りに、蛇と蛙が出てきたのでした。これを掘り出した所、御門の病気は忽ちに平癒したのでした。この功績によって、「晴明」は「清明」(せいめい)と改め、陰陽の頭(かみ)になったのでした。
 これが、面白く無いのは、元々の陰陽師である「芦屋道満」です。ましてや、弟の敵でもあります。「蛇や蛙も、奴らが仕組んだことだろう。偽物を暴いてやるから、占い競べをさせろ。」と言うのでした。御門は、これを許しました。負けた方が、勝った者の弟子になるという約束です。さて、その占い競べというのは、箱の中身を当てるものでしたが、「清明」にも「道満」にも、その程度のことは朝飯前のことです。「道満」は「ミカン十五個」と答えました。しかし「清明」は、「ネズミ十五匹」と答えたのでした。道満はせせら笑い、「保名」は慌てました。清明は少しも騒ぎません。既に箱の中身を念じ変えていたのでした。箱を開けたら、ネズミが走り出て大騒ぎになったのは言うまでもありません。「清明」の名声は益々高まるばかりです。

第5:
負けた「道満」の怒りと恨みは浅くはありませんでした。道満は、先ず敵の「保名」を、一条戻り橋で暗殺する計画を立てました。清明が夕方に参内した後、偽の勅使を送って、「保名」を誘い出すのでした。「道満」の手下どもは、橋の下に隠れ待ち、橋の板を引っ外したので、「保名」はもんどり打って転落しました。あとは、よってたかって、ずたずたに切り裂いたのでした。
 明け方に、何も知らない「清明」が帰って来ました。橋板が無いので、下を見ると、なんと父「保名」の惨殺死体です。「清明」は、「道満」の仕業と直感しましたが、証拠もありません。そこで、「清明」は、今こそ、「生活続命」(しょかつぞくめい)の法を行い、父を蘇生させようと決心するのでした。
 「清明」は、一条戻り橋に祭壇を設け、鳥や獣が引き回した死体を取り集めました。「金烏玉兎」の巻物によって、肝胆砕く大祈祷が始まったのでした。やがて、イノシシが、持ち去った腕を返しに来ました。だんだんに、手や足や、肉が寄り集まって、元の「保名」へ復活するのでした。
 その頃、「道満」は、参内して、「清明は、父親が亡くなったので物忌みです」と奏聞しておりましたが、遅れて、「清明」も参内して来たので、「保名が死んで、物忌みであるのに、参内するとは何事か。」と血相を変えて怒鳴りました。
 「清明」は涼しい顔で、「父が死んだとは、いったいどういうことですか。今ここに、父が出てきたら、どうしますか。」と言うのでした。「道満」は、「死んだ者が再び現れるというのなら、この首をくれてやる。もし出なければ、お前の首をもらうぞ。」と言ってしまうのでした。さて、それから、蘇った「保名」が「道満」の罪状を暴き、とうとう、「道満」は打ち首となってしまうのでした。

 
 重ねて清明 四位の主計頭(かずえのかみ)、天文博士と召されて、栄華に栄え

 末代まで、その知恵をあらわす。これ、偏に、文殊菩薩の再誕なり。

 上古も今も末代も、例し少なき次第やと、皆、感ぜぬ者こそなかりけれ

おしまい


柏崎古浄瑠璃を楽しむ会 7月 猿八座公演 お知らせ

2014年05月27日 14時41分06秒 | お知らせ

7月、柏崎公演のチラシができました。演目は、信太妻です。
この「信太妻」は古説経の中心的な外題でありながら、残念なことに、説経正本が残りませんでした。猿八座が使っている正本は、延宝二年(1674年)靏屋喜右衛門板の「しのだつまつりぎつね付あべノ清明出生」という長い題名がついています。この正本は、古浄瑠璃正本集第四の(90)に収録されている外、説経節(平凡社東洋文庫243)にも収録されているので、比較的入手が容易です。太夫は不明ですが、伊藤出羽掾であろうと推測されています。

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猿八座 公演予定 速報 

2014年05月25日 08時55分01秒 | お知らせ

新緑が気持ち良い季節になりました。公演々の間に、古浄瑠璃集を読み進めてはいますが、中々スラスラとは行きません。又、古説経と同じ内容の外題が続いたので、訳出には至りませんでした。その間、コメントメールも戴き、拙い物語集にも読者がおられるんだと、驚いたり喜んだり。次の物語まで暫く、お待ち下さい。

さて、猿八座の近々の公演予定が漸く定まってきましたので、日程等をお知らせいたします。詳細はチラシ等ができ次第、追ってお知らせいたします。演目等は変更される場合があります。

7月 6日(日)信太妻 柏崎市 金泉寺 

8月 3日(日)山椒太夫 村上市 村上市教育情報センター 視聴覚ホール

   30(土)新作:貉(予定)源氏烏帽子折(予定) 豊田市 てぃーだかんかん

9月 26 27 28日 信太妻 山椒太夫 白山市人形浄瑠璃まつり

      (猿八座・真明座・東二口文弥人形・深瀬でくまわしが参加予定)

10月 4 5日 未定 上越市高田 世界館

   19日(日)阿弥陀胸割 村上市塩谷 円福寺

尚、恒例の新潟県立博物館での文弥人形公演は、6月です。 

6月 (真明座)22日(日)長岡市新潟県立博物館 源氏烏帽子折り 嫗山姥


公演のお知らせ 等々力不動尊 青葉まつり  

2014年05月10日 20時25分15秒 | お知らせ

東京都世田谷区の満願寺別院・等々力不動尊http://www.manganji.or.jp/map.htmlの五月大祭に出演します。

 *5月28日(水)午後1時30分から

 *演目 「山椒太夫」鳴子曳きの場

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 今回は佐渡「吉栄座」座長の川野名孝雄さん(主役御台)に、猿八座の西橋八郎兵衛師匠、掘八島の2名が加わる混成部隊です。川野名さんは,私の尊敬する文弥浄瑠璃師北村宗演のお子さんで、真明座の座長もなされています。短い時間ですが、私の浄瑠璃(三味線:中田惹八)で、佐渡文弥の最高の遣い手に踊っていただくと言うことは、望外の幸運といえるでしょう。

お参りがてら、現場の下見をさせて戴きました。

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迫力ある真言密教の護摩供

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流石は、等々力「渓谷」というだけあって、ちゃんと弁天様も、いらっしゃいました。芸道成就を祈願して参りました。

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