猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 16 説経鎌田兵衛正清 ⑥ 終

2013年01月24日 10時17分07秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

かまだびょうえまさきよ ⑥

さて、長田が、義朝の首を持って六波羅にやってきました。清盛は、大変喜んで、

「よくぞ、やり遂げたな。見事である。これは、この度の褒美である。」

と言うと、巻き絹を千疋(せんびき:二反×1000)を給わり、靫部(ゆきべ:宮中警護)

の尉に任じました。驚いた長田は、

「靫部の尉とは、どういうことですか。それでは、私の骨折りが無駄になります。下さ

れた御教書(みぎょうしょ)の通りに恩賞を頂きたく思います。」

と、詰め寄りました。同席の侍達は、これを聞いて、

「やれやれ、よくも言いますな、長田殿。主君の首を取って、国を望むなどということが、

どこの世の中にあるのですか。変な話しとは思いませんか。」

と、どっと笑いました。景清は、

「如何に、長田殿。望みがあるならば、又別な機会に申しあげたらよかろう。今日は、

これまで、御退出あれ。」

と、言い渡しました。長田は、面色変わり、腹立ち紛れに、

「ええ、こんなことなら、無駄な骨折りなど、しなかったものを。」

と、言い捨てて御前を下がりました。

 そこへ、取り次ぎの者が現れ、

「渋谷の金王と申す者が参りまして、清盛公に対面したいと申しております。」

と、伝えました。清盛公は、景清に向かって、

「むむ、その金王とは、義朝の家来。一騎当千の若武者と聞く。直の対面は、危ないの

ではないか。景清、お前に任せるから、良きに計らえ。」

と、言いましたが、その時、重盛は、

「いえ、彼が、わざわざ敵地である六波羅へやってきたのには、何か望みがあるはず。

ご対面なされても、危険なことは無いと存知ます。それそれ、金王をこれへ。」

と、言いますので、やがて、金王は、清盛公の御前に招かれました。清盛公が、

「お前は、義朝の家来、金王か。何しにここまで来たのか。話しを聞いてやろう。」

と、言うと金王は、

「されば、主君の義朝が、仲間の長田に討ち取られ、無念の極み、骨髄に達します。こ

れまで、長田を追って参りました。どうか哀れに思し召し、長田をお渡し下さい。主君

の敵、長田を討ち取り、殿への手向けに致したく思います。その後、この金王を、八つ

裂きにしようと、どうしようと、ちっとも後悔はありません。是非に、長田をお渡し下さい。」

と、懇願しました。清盛公は、これを聞いて、重盛と内談しました。

「むむ、奴の言うことは、道理であるが、長田は、この清盛にとっては、忠義の者。

どうするか。」

重盛は、

「それも、尤もではありますが、金王が言うことは、主君に対する誠の忠義。しかし、

長田の忠義は、誠の忠義とは言えません。ただ、自分の貪欲を満たすために主君を討ち、

侍の道から外れております。このような者を、忠義の者と、助けるならば、世に正道を

示すことにはなりません。正しい侍の道を世に示す為にも、金王の望み通りに、長田を

金王に下すべきかと思います。」

と、理路整然と答えました。これを聞いた清盛は、尤もと考えて、長田を金王に渡すこ

とにしたのでした。

 さて、天罰は逃れることができないものです。そんなことになっているとも知らずに、

長田は、再度の訴訟に、のこのこと現れたのでした。しかし、金王が居るのを見と、

慌てて逃げ出しました。金王は、長田を引っつかむと、

「やあ、お久しぶりの長田殿。まあ、お待ちなさい。」

と言って、膝の下に、ねじ伏せました。清盛公は、これを見て、

「金王に長田を与える。さあ、そこで、長田を討て。」

と、言いました。金王は、

「畏まりました。」

と答えると、肩の骨踏みつけて、その首をばったりと切り落としました。金王は、清盛

公の前に畏まって、

「清盛公のお情けにより、かくも易々と、主君の仇を取ることができました。有り難い

ことです。さて、この上は、どうとでもご沙汰下さい。」

と、首を差し出しました。これを見た清盛公は、

「あっぱれ、お前は、剛の者。知行を与えるから、この清盛の家来となれ。」

と言いました。金王は、

「これは、清盛公のお言葉とも思えません。『賢人は、二君(じくん)に仕えず』と言

うではありませんか。源氏の末席で、厚いご恩を受けた身が、どうして今更、平家に仕

えることができましょうか。ただ、平家にできることは、この首を差し出すことだけです。」

と、顔を上げませんでした。これには、重盛を初め、居並ぶ平家の武士達も、あっぱれ

な武士であると感じ入りました。清盛公は、

「誠に、源氏の者は、聞きしにまさる武士である。命は助ける。すきにせよ。」

と、言い残すと、御座を立って下がられたのでした。喜んだ金王は、それから、甲斐源

氏を頼って下向しました。これもまた、源氏の世に繋がる御吉凶でありましょう。

千秋万歳(せんしゅうばんぜい)

末繁盛の御祝い

目出度しともなかなか

申すばかりは、なかりけり

おわり

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忘れ去られた物語たち 16 説経鎌田兵衛正清 ⑤

2013年01月23日 17時25分43秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

かまだびょうえまさきよ ⑤

 こうして、常磐御前は、祖父や姥御前の情けを受けて、様々に労られ、焚き火にあた

って、体を温めることができたのでした。やがて、袖の氷柱(つらら)も解けました。

祖父と姥は優しくも、常磐御前と若君達を引き留めたので、2月の下旬の頃まで、この

家に留まることになりました。祖父は、障子の隙間から、常磐の姿を、つくづくと打ち眺めて、

「のう如何に、姥御前よ。この御方は、どう見てもそんじょそこらの人には思えない。

何故かと言えば、あの粧いは、普通ではないからのう。ちょっと、お心の内をお聞きし

たいものじゃ。おい、姥御前よ。昔習った歌を忘れていないならば、一首、歌を詠じて

はくれぬか。」

と、言いました。姥は、

「それは、その昔、私も宮中に上がっていた時の事。今や、木幡の小屋がけに、落ちぶ

れて、歌なんぞというものは、とっくに忘れてしまいましたよ。あなたこそ、昔の事を

まだ覚えているのなら、一首の歌を掛けてごらんなさいよ。」

と、言うのでした。祖父は仕方なく、がたがたと、障子を開けると、こう詠みました。

「木幡山、降ろす嵐の激しくて、宿りかねたる、夜半(よわ)の月かな」

常磐御前は、これを聞いて、

「あらまあ、なんと恥ずかしいことでしょう。姿こそ、このように落ちぶれてしまいま

したが、心の中は、花の都が生きていますよ。それでは、私も腰折れ歌を、お返し

いたしましょう。」

と、言うと、次のような返歌を詠みました。

「木幡山、裾野の嵐激しくて、伏見(伏し身)と聞けど、寝らざりけり」

祖父と姥は、これを聞いて、

「さては、この方は、義朝方の落人に間違い無い。居間に居たのでは、人目にも付く。」

と、言って、奥の一間に匿ってくれたのでした。

 そうしている内に、近くに住む下女(しもおんな)達は、集まってこんな噂話を始めました。

「向こうの谷の祖父御(おおじご)の所に、それはそれは美しい女性が、子供を沢山

連れて泊まっているらしいですよ。みんな忙しくて、まだ誰も見たことがありませんが、

一度、見に行って、慰めてあげましょうか。」

そして、女達は、手に手に、細瓮(ささべ:壺)を持って、祖父の家を訪ねたのでした。

祖父の家にやって来た女達は、もってきた壺を、どかどかと置くと、常磐御前のお姿

の美しさに、呆然と眺め入るばかりです。常磐御前が、

「これは、皆々様。お優しくも、私を慰めに来てくれたと聞きました。さあさあ、これ

へお入り下さい。」

と言えば、女達は、常磐御前を取り巻いて、

「あなた様は、どこからお出でになり、どこに向かわれる方ですか。こんな雪の中を

お気の毒です。その話しを聞かせて下さい。」

と、やいやいの催促です。常磐御前は、困りましたが、本当の事を言うわけには行かず、

次のように話しを作りました。

「よくぞ、聞いて下さいました。春の日の暇つぶしに、私の先祖をお話いたしましょう。

私の本国は、大和の国は宇陀の郡(奈良県宇陀市とその周辺)です。私が14歳の春の

頃に、父母に捨てられて、都に上がりました。身分の高いも低いも、女の習いは同じ事。

やがて、あるお殿様に拾われて、この若達を生みました。割り無い仲であったのに、頼

りがいのは男の心です。一条室町(京都市上京区一条室町)に、女を囲ったのです。

三年の間、私は、妬み事も言わずに我慢しました。それは、こんな例えがあるからです。

伊勢物語に出て来る夫は、大和の者。この者が、河内の国の高安(大阪府八尾市東部)

という所に女を作って、三年の間通いましたが、後に残る女房は、ちっとも嫉妬しませんでした。

しかし、夫は、

「俺以外に、外の男に心があるから、嫉妬もしないのだな。」

と、かえって、女房を恨んだのです。ある、夕暮れのことでした。夫は、

「俺は、もう河内に行くからな。さらば。」

と言って、太刀をおっ取り飛び出して言ったのです。ところが、この夫は、河内には行

かないで、家の生け垣に隠れると、妻の様子を窺ったのです。それとは知らない女房は、

こんな歌を詠って、悲しんだのです。

『風吹けば、沖津白波立田山、夜半にや君が、一人行くらん』


忘れ去られた物語たち 16 説経鎌田兵衛正清 ④

2013年01月23日 14時20分53秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

かまだびょうえまさきよ ④

さて、都に上った金王丸は、常磐御前がいらっしゃる紫野(むらさきの:京都市北区南部)

に着きました。金王は、早速に常磐御前のお前に出て、

「さしも、剛の殿も、長田に討たれてしまいました。又、鎌田親子も残らず討たれ、某

も、討ち死にをしようと思いましたが、相手になる敵がおりません。長田の子供五人を

討ち取りましたが、残念ながら長田を取り逃がしました。長田を追って、これより六波

羅へ参るつもりです。ここに、居たいとは思いますが、少しでも早く、長田を討ち取っ

て、我が君のご供養に供えたいと思います。それでは、お暇申します。さらば。」

と、言い捨てると、行方をくらましてしまいました。

 可哀相に、常磐御前は、夢か現かと驚いて、

「やれ、金王よ。暫く留まって、殿の御最期の様子を詳しくお話下さい。ああ、恨めしい

世の中よ。」

と、声を上げて泣き崩れました。ようやく、涙を押しとどめると、常磐御前は、

「さては、長田は翻意して、殿を討ったのですね。さぞや、無念に思われたことでしょう。

この若達や、私は、これからどうしたらいいのでしょう。どうしようも無い身となって

しまいました。」

と、つぶやいて、又泣く外はありません。しかし、泣いてばかりいても仕方ありません。

常磐御前は、

「今となっては、嘆き悲しんでも仕方がない。ここに留まっていては、六波羅が追っ

手を差し向けて来るに違い無い。まだ、触れの出ない内に、どこかへ落ち延びなくては。」

と、思い直しました。そこで、先ず母上に、供を一人付けて、乳母の所へ送りました。

それから、三人の若、乙若、今若、牛若を連れて、密かに館を忍び出たのでした。行

き先も定めぬ心細い旅立ちです。常磐御前の胸の内が思いやられます。

 兄、今若の装束は、練り絹の肌着に白い綾地の直垂(ひたたれ)。弟の乙若の装束は、

紅の二つ衣(重ね着の着物)に帯を締めただけです。ご自身は、十二単の裾をたくし上

げ、二歳になる牛若を懐に抱いて、市女笠で顔を隠しました。五條の辺りの黒土で、初

めて足を汚すお姿は、哀れとしか言い様がありません。

 時は、永暦元年(1160年)正月17日の夜の事です。清水参りのこの夜は、多く

の人々が、行き交っています。常磐御前は、人々に紛れて清水寺に詣でました。左の格

子に入り、十の蓮花(手)をもみ合わせ、八寸の頭を地にすりつけると、常磐御前は、

「そもそも、清水寺は、田村丸(田村麻呂)が、大同二年(807年)にご建立されました。

誠に、霊験新たかの観世音。三人の若達の行く末を、お守り下さい。」

と、お祈りをし、その夜は、清水寺に隠れました。翌朝、常磐御前はご本尊の前から

立ち出で、西門に佇んで、遙かの西を眺めました。

「四条、五条の橋が見える。清き石川(?)の流れは、末の世まで続くのでしょう。あ

の西の境を過ぎ行けば、実りの花も咲くことでしょう。この道は、六道の辻とか、聞き

ますが、ほんとうに冥途へ続いているとは、恐ろしいことです。」

と、つぶやいて、歩き始めました。

(以下道行き)

下り居(おりい:馬や車に乗らないこと)の衣、播磨潟(兵庫県明石)

飾磨(しかま:兵庫県姫路市)の歩行路(かちじ)、苦しやの

その垂乳根(たらちね)を尋ねん

心細さは、鳥辺山(鳥野辺;火葬場)

煙の末も、浮き雲の

定め無き世の、露の身の

頼む命は、白玉の(※をに掛かる掛詞)

おたぎの寺や(愛宕念仏寺:京都市右京区嵯峨野)六波羅の観音堂を伏し拝み

「如何に、若達。ここは、敵(かたき)の館の前。こちらへ早く来なさい。兄弟よ。」

と、市女笠を傾けて、足を速めて急がるる

都にな高き大仏や

三十三間(三十三間堂:京都市東山区)伏し拝み、

阿弥陀が峰も見え渡る。(京都市東部の山:東山三十六峰)

一二の橋(一条・二条)や、法成寺(京都市上京区にかつてあった)

山崎千軒(京都府乙訓郡大山崎町)、宝寺(宝積寺)、松ヶ崎(京都市左京区松ヶ崎)をも打ち眺め

木幡(こばた:宇治市木幡)の山に着き給う

時は、正月十八日のことです。宇治は、春雨が降りますが、木幡の山は、まだ雪深い

頃です。降る白雪を払いながら、急ぐ姿は、哀れなかぎりです。若君達は、たまりかね

て、声を上げ、

「どうして、お乳や乳母はいないのですか。どうして母上には、付き人が居ないのですか。


忘れ去られた物語たち 16 説経鎌田兵衛正清 ③

2013年01月21日 18時24分15秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

かまだびょうえまさきよ ③

 明けて正月三日の朝、長田は、鎌田の首と取ろうと、やってきました。ところが、

四間には、なんと鎌田だけでなく、女房、廊の方と孫達までが、ひとつ枕に死んでいる

ではありませんか。これには、さすが不道の長田も、言葉も無く呆れ果てて立ち尽くし

てしまいました。しかし、今更どうしようも無く、無情にも鎌田の首を切り落としたの

でした。この長田を、憎まない者はありません。

 さて、それから長田は、なにくわぬ顔で、義朝公の御前に上がりました。長田は、

「今日は、三箇日の御嘉礼の日です。八幡宮(尾張八幡神社:愛知県知多市八幡)に御

社参なされて下さい。田上の湯(愛知県知多郡御浜町野間田上)と申すところがありますので、

そこで、まずは、行水をなさって下さい。」

と、騙したのでした。義朝は、

「これは、有り難い。先祖よりの郎等でなければ、このような便宜はいただけません。

必ず、長田に弓矢の冥加があり、七代まで安穏でありますように。」

と、祈るのでした。湯殿に着くと、義朝は、重代の刀を長田に預け、湯に入りました。

長田は、時分を見計らうと、

「誰かある。君のお垢をこすって参れ。」

と、言いました。企んだように、吉七五郎、弥七郎、浜田の三郎という、比類無き

大力の強者三人が、湯殿の中に乱れ入りました。中でも、五郎が、義朝にむんずと取り

組みかかると、義朝は、

「ええ、物々しや。」

と、掻き掴むと、えいっとばかりに、七八間、投げ付けました。すかざず、弥七郎と

三郎の二人が、左右から差し通しましたが、義朝は、二人を取って伏せ、浜田の刀を奪

い取りました。あっという間に二人の首を掻き落とすと、義朝は、長田の首も切ってくれんと

勇み立ちました。しかし、ここまで、追いつめられては、最早いかんともし難いと、思

い直して、湯船にどっかと腰を掛けました。

「如何に長田。義朝ほどの大将を、よくも卑怯にも騙したな。おそらくは、鎌田も既に

討たれたのであろう。やがて、思い知ることになるぞ。」

と、言い放ち、刀を取り直すと、右の腹に突き立て、えいとばかりに、左へきりりと引

き回しました。返す刀を取り直すと、袴の端に突き立てて、胸元を支えると、

「早や、首、取れ。」

と、長田を睨みました。長田は、ぶるぶる震えながら、薙刀を差し延べると、義朝の首

を討ち落としたのでした。それから、長田は、二つの首を並べて、金王の首が届くのを、

今や遅しと待ちました。

 

 これはさておき、内海では、金王を討ち取るために、綿密な作戦を立てていました。

先ず、第一班は、岸の岡の十郎。二班は、小栗の藤内、三番には、小久見の平太をそれぞれ

先に立てて、屈強の兵(つわもの)三十八人が、大船八艘を繰り出しました。遙かの沖

に漕ぎ出して、大網七丁を、おろしながら、ここには魚が居ない、ここにも魚が居ないと、

あっちこっちを移動して、金王の隙を狙って討ち取る計画でした。

 金王は、最初から覚悟の上でしたから、微塵も騒ぐ様子がありません。大薙刀で、歩

み板をどんどんと突き鳴らすと、

「やあやあ、方々。夕日が西に傾いてきたが、綱手を取らすに、先ほどから、俺をちら

ちらと見るのは、不審千万。おお、そうかそうか。お前達の主人長田が、翻意して、こ

の俺様を、討ち取る手立てと見えるわい。心の内に思いがあれば、その気配は、外に現

れる。天知る、地知る、我知る、人知る。いいか、近くに寄って怪我するな。ようく聞け。

先ず、薙刀の使い手には、「込む手」「薙ぐ手」「開く手」、磯打つ浪の「捲り(まくり)切り」

散々に薙ぎ倒して、薙刀が折れて砕け散れば、二振りの刀を、抜き変え抜き変え戦うぞ。

太刀も刀も折れ砕ければ、五人も十人も、左右の脇に掻き込んで、海の底にぶっ込んで、

五日も十日も塩水に浸し、魚の餌食にしてくれる。」

と、言うなり辺りを払って駆け回り始めました。人々は、この勢いに恐れをなして、震

え、戦慄き、船底にひれ伏してしまいました。まったく笑止千万な有様です。

 その時、金王は、俄に胸騒ぎを感じました。急ぎ船を陸に戻せと命じますが、水主(すいしゅ)

も舵取りも、じっとして動きません。金王は、怒り狂うと、

「ええ、憎っくき野郎ども、物見せてくれん。」

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忘れ去られた物語たち 16 説経鎌田兵衛正清 ②

2013年01月21日 15時34分25秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

かまだびょうえまさきよ ②

 金王を騙すことができず、さんざんに脅された長田は、ぶるぶると震えて、座敷から

逃げ出ると、義朝の御前に行き、先ず、空泣きをして見せました。義朝公は、ご覧になり、

「おや、どうした荘司。何を泣いているのか。」

と、言いました。長田は、

「さればです、君のご馳走のための蓬莱の仕度に、魚と鹿を調達させておりますが、五人

の子供を鹿狩りにやりました所、内海に仕掛けた網の奉行になる者がおりません。そこで、

渋谷殿に、奉行をお頼み申したのですが、この年寄りの荘司に、散々の悪口雑言。

今、危うく命長らえて、これまで来たという訳です。」

と、さめざめと泣き真似をするのでした。義朝は、これを聞いて、

「あの金王は、物狂いの所があるからのう。私が、なだめすかして、奉行に出るように言っておこう。」

と、答えました。長田は、しめしめと、一礼して、下がりました。やがて、金王が呼ばれました。

金王は、

「さては、長田の荘司め、君に訴訟したな。ええ、殿に万一のことあらば、奴めの

そっ首、ねじ切って捨ててやる。」

と、思い切って、御前に出ました。義朝は、金王の様子をご覧になり、静かに言いました。

「如何に金王。都より、長田を頼んで下る我々は、長田を、山ならば、須弥山よりも、

尚、頼もしく思う身であるぞ。ちょっとぐらい、気に食わぬことがあっても、何で、奉

行を引き受けないのだ。その上、漁猟は、若者の仕事ではないか。お前の様な若い剛の者には、

たいした仕事でもあるまい。奉行に立って、年老いた長田に協力してあげなさい。金王丸よ。」

と、言いました。金王は、これを聞いて、

「それがし、奉行が厭で断ったという訳ではありません。長田の様子を良く、観察しますに、

心変わりがあると思われます。今回の事は、君を騙して、討ち滅ぼそうとする計略に違いありません。

ここは、この金王にお任せ下さい。」

と言いました、金王は、奉行に立つ気は、さらさらありません。義朝は、これを聞いて、

「もし、そうだとしても、どうしようも無い。長田が翻意したとしても、外に頼る所があるのか。

また、もし、翻意していなかったら、後々の恨みを何とする。只々、黙って奉行に行くのだ。」

と、重ねて諭しました。金王は、涙を流して、

「ええ、埒の明かない君のお言葉です。東岱前後の夕煙(とうたいぜんごのゆうけむり:火葬の煙)

遅れて行くも先立つも、世の習い。もし、内海において、私が討ち殺されなかったなら、

再びお目に掛かりましょう。」

と言うのでした。義朝は、

「不吉なことを言うでは無い。金王よ。門出の祝いじゃ。」

と、お手ずから、酒を注ぎ下されるのでした。金王は、これを三度、押し頂きました。

 

 それから、金王は、奉行に出る仕度をしました。先ず肌には、唐紅の小袖を引き違え

に着ると、滋目結(しげめゆい)の直垂に、四つのくくり紐をゆるゆると垂らします。

黒糸緋縅(くろいとひおどし)の胴丸(鎧)に、肩上(わたがみ:肩の部分)を付けると、

草摺長(くさずりなが:大腿部の垂れ)を下げました。まさに、巳の時(みのとき:物の盛り)

の輝きというばかりの出で立ちです。結い上げた帯を、力一杯締めると、全部で、三腰

の刀を差しました。箙刀(えびらがたな:短刀)、四尺三寸の首掻き刀、三尺五寸の角

鍔(かくつば)の厳物造り(いかものづくり)を、重ね履きに履いて、四尺八寸の大薙刀

を、ぶーんと振り担げる(かたげる)と、ゆらりゆらりと、外に出ました。金王は、

「君の運命が、尽きることがあれば、長田の謀略をご存じないことが口惜しい。もし、

内海において、手向かいする奴輩が居るのなら、何百もやって来い。この薙刀で、片っ

端からなぎ倒し、内海の大海を、死人で埋め尽くしてくれるわ。」

と、歯がみをすると、ずんずんと、内海に向かったのでした。

 さて、金王の話しは、ひとまず置いて、鎌田兵衛正清は、その夜も更けたので、御前

を退出し、廊の館へと帰りました。(※廊の方:長田の娘=鎌田の妻)

 鎌田は、弥陀石と弥陀若の二人の子供を、膝に乗せると、後れの髪を掻き撫でてながら、

涙を流して、こう言うのでした。

「この正清が、都での多くの合戦を戦いながらも、不本意に、生き長らえてきたのは、

只、お前達がいるからだ。何時か、お前達が成人したなら、父の共をさせて、恥ずかし

ながら、小弓に小矢でも一筋でも射させ、殿のお役に立たせようと考えていたからだ。


三味線教室薩摩会 新年お弾き初め会

2013年01月20日 19時13分19秒 | 三味線教室八太夫会

いわゆる、街の稽古場を始めてから、3年目の薩摩会ですが、6名程のこぢんまりした所帯で、のんびりとやっています。うちの教室は、民謡以外は唄も語りもやる五目屋です。みんなそれぞれの目標を持って稽古に励んでいます。相対稽古ですから、これまで、顔を合わせたことの無い方々もいるわけで、今回初めて、門下が一同に会しました。

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義太夫「絵本太功記十段目」野口令太夫 : 長唄「吾妻八景」前川千代美
   

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長唄「松の緑」石橋迪子 : 薩摩派説経祭文「東海道中膝栗毛赤坂並木」中村万里Dscf2645Dscf2650_2















端唄「梅は咲いたか」中田惹八 : 猿八節「山椒太夫直井の浦」渡部八太夫

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と言った具合の五目です。一般に邦楽の世界では、五目を極端に嫌がります。

それぞれの流派の中で、その芸を究めるためには、至極当然のことだと思います。

しかし、一方で、そういう世界には、相当の覚悟がないと入ってはいけませんし、

始めても、やめてしまう方が多いのも現実です。やりたいことが、できないからでしょうね。

純日本の音楽である三味線音楽の敷居が高いことは、残念です。もっと気軽に、

三味線に触りたい方は薩摩会までお越し下さい。

http://www6.ocn.ne.jp/~sekkyo/keikojyo/keikojyo.htm


新春 新潟公演 阿弥陀胸割 ご案内

2013年01月18日 09時50分18秒 | お知らせ

既に昨年、お知らせだけしておりましたが、新潟大学主催の「阿弥陀胸割」公演

のチラシができてきましたので、重ねてお知らせいたします。

上越公演では、初演ということもあり、うまく行かなかった点も多々あり、その後

稽古を重ねております。入場無料ですので、この機会に是非、古説経の世界を

ご堪能していただきたいと思います。

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忘れ去られた物語たち 16 説経鎌田兵衛正清 ①

2013年01月16日 17時35分17秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

鎌田兵衛正清 伏見ときは 小幡物語(説経正本集第三(32))

天満八太夫 元禄三年

古説経後期の作品であるこの正本は、幸若の「鎌田」「伏見常磐」を下敷きとし、両本

を関連付けて、ひとつの物語に仕上げているように見えるが、まったく本地を語らない

この作品は、おそらく先行した古浄瑠璃、例えば、「待賢門平氏合戦」四段目以降(寛永)などの説経への焼き直しと考えた方が良い作品である。

かまだびょうえまさきよ ①

さてもその後、つらつら思んみるに

盛んなる者は、必ず衰え

奢れる者は、終に滅ぶ

一度栄え、一度衰う、世のためし

古今、その例、間を無し

人皇七十八代二条天皇院の頃のことです。(1158年~1165年)

源氏の大将である左馬の守義朝は、待賢門の戦いに敗れ、鎌田兵衛正清、渋谷の金王(こんおう)

と伴に、東国に向けて、落ち延びました。数々の関所を、突破して、尾張の国、内海の庄(愛知県知多郡)

へと、向かったのです。ここには、鎌田の舅である長田荘司(おさだしょうじ)(長田忠致)

が、居たので、ここに密かに潜伏することにしたのでした。長田は、主君、義朝一行の為に、

新たに御所を建てて、迎えたのでした。

 しかし、義朝が、内海に潜伏したことは、すぐに六波羅にいる清盛に、漏れ聞こえました。

清盛は、一門を集めて評定を行い、こう言いました。

「ぐずぐずしてはいられない。急ぎ、追っ手を差し向けよ。」

清盛は、平宗清に、兵三百を与えましたが、その時、嫡子重盛が、進み出て進言しました。

「これは、良くないご判断です。東国は、代々、源氏の味方が多い土地。追っ手を差し向ける

ことが知れれば、源氏の郎等が集まって、手強い戦となりましょう。ここは先ず、謀り

状を拵えて、送ってはいかがでしょうか。長田に、過分の所領を与えて、一旦味方とし、

義朝を討たせるのです。その後、長田をどう懲罰しようと、問題にはならないでしょう。

如何でしょうか。」

これを聞いた清盛は、もっともと思い、早速、謀り状を書かせると、長田の館へ送った

のでした。

 密書を受け取った長田は、子ども達を集めました。その文面は、次のようなものでした。

『下す状。

 左馬の守義朝は、親の首を切るのみならず

 親類兄弟、討ち滅ぼし

 六身不和にして、三宝の加護無し(※仁王経)

 去年の罪、今年に来し

 逆乱を起こし、待賢門の夜戦(よいくさ)に、駆け負け

 帝都を去って、遠島(えんとう)に彷徨うとても

 自滅すべき事、草場の露に異ならず

 この者に組みせん輩は

 深淵に臨んで、薄氷を踏むに異ならず(※詩経)

 早、義朝が首(こうべ)を刎ね

 天下に献げ申すべし

 勧賞(げじょう)には、美濃、尾張、三河、三が国を当て行うべし

 よって、状、件(くだん)の如し

 平治二年正月朔日(さくじつ)

 長田が館へ      清盛 判 』

 長田は、これを読むなり、むらむらと欲心を起こしました。子ども達に向かって、

「これ、これを、拝み申し上げなさい。御教書(みぎょうしょ)は、道理至極である。

そもそも、義朝は、親の首を切るような五逆罪(父母等を殺すこと)の悪人である。そ

の様な者を、主君と頼んでも仕方ない。いざ、この君を討ち取って、美濃、尾張、三河

の三カ国を給わって、上見ぬ鷲と、栄えようではないか。どうじゃ、どうじゃ。」

と、言いました。これを聞いた太郎は、

「しかし、これは、由々しき一大事。この人々を討つには、尾張八郡に動員しても、そ

う簡単には行かないと思います。よくよく御思案下さい。」

と、答えました。そこで、長田は、

「何も、勢を揃えて討つまでも無い。騙し討ちにすれば良いまでのこと。」

と、手に取るように、暗殺の計画を話すのでした。その時、三男は、進み出ると、烏帽

子の招き(烏帽子の先)を地にすりつけて、こう言いました。

「仰せのように、この君は、親の首を切り、五逆の罪が深いことは明白ですが、もし

我々が、三代相恩の主君の首を切るならば、八逆罪の罪(謀叛の罪)を被ることになりますぞ。

 ここに、こういう例えがあります。天竺のいるという命命鳥(めいめいちょう:具命鳥)

は、胴はひとつで、頭が二つあります。左右に並んだ二つの嘴が、餌をついばんでおり

ました所、左の嘴が食べようとした餌を、右の嘴がうらやんで、これを奪い取ったのです。

右の嘴は、腹を立てて、退治してやると思い立ち、ある時、毒虫を探して、それを、食

べようとして見せました。案の定、右の嘴は、勇んで奪い取ると、毒虫を食べてしまいました。


謹賀新年 癸巳 平成25年

2013年01月01日 11時03分09秒 | 日記

皆様、明けましておめでとうございます。

東京は快晴の新年を迎えました。

本年も猿八座人形浄瑠璃、並びに薩摩派説経浄瑠璃を、よろしくお願い申し上げます。

早起きをして、八王子の初日の出を拝み、戸吹四社に初詣をして参りました。

戸吹四社というのは、熊野神社、八幡神社、大岳神社、住吉神社です。どれも

山の中にありますので、早朝ハイキングになりました。

平成25年1月1日(火)午前7時15分 東京八王子

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巳年なので、「宇賀神」をお供えしました。

http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20111120

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