猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記 ②

2011年11月30日 16時08分48秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

永平寺開山記 ②

 さて、神道丸は、亡くなった実の母ことを、片時も忘れぬ親孝行者で、毎日花を摘み、香を焚いて菩提の回向を欠かすことはありません。女人の成仏は成り難しと聞いてからは、法華経提婆品を読誦して、今日も母の仏果菩提のためと、継母の怖ろしい企てもしらぬまま、お祈りをされておりました。

 すると、そこに突然金若丸がやってきました。金若丸は、

「兄上、父上様がお呼びです。早くお出でください。」

と言うのです。神道丸は、先ほど、一家中を集めてお話をしたばかりなのに、いったい何の御用事ができたのだろうと怪訝に思いながらも、立ち上がると、突然、金若丸は、袖を取って、

「のう、兄上様、お願いがあります。兄上が召されている小袖の模様が、あまりにも美しく見事なので、私に譲っていただけないでしょうか。」

と、言いました。神道丸は、何を突然にと笑いながら、

「なんだ、そんなことか。」

と、小袖を脱ぐと、金若丸の後ろに回り、優しく袖を通させました。

「すぐに戻るから、待っていなさい。今宵は、ここで、これからの事などをゆっくりと語り合おう。」

と、金若丸に優しく声を掛けると、金若丸は、これが今生の見納めかと、耐えかねて涙が溢れてきました。神道丸は不審に思って、

「どうしたのだ、金若よ、さては、父上様のご機嫌でも損なったのか。安心せよ。私が行って父の機嫌を治してこよう。」

と、言いますと、金若丸は、

「いえいえ、そんことはありません。家督を継がれた兄上様の御姿が、大変ご立派で、父上様にそっくりですので、感激いたしました。父より後は、兄上様、心足らずのこの金若ではありますが、よろしくお見立てください。」

と、今生の別れを込めて泣き崩れました。神道丸は、

「何を今から、弱気なことを、母上もまだまだご健在、もし、父が亡くなったなら、この兄を父とも兄とも思えば良い。しょうがない弟だな。」

と、金若を慰めると、帰るまでまっていろと言い残して出かけて行きました。

 一人残った金若丸は、

「兄上様、兄弟、理無き(わりなき)別れも知らずに、最後まで私に力をお与え下され有り難う存じます。これが、今生の別れで御座います。」

と、泣き口説いていましたが、やがて、

「いやいや、こんなに泣いてばかりいては、今にも将監が忍び入り、せっかくの計画が台無しになってしまう。」

と、心強くも、父母へ、心ばかりの暇乞いをすると、神道丸の小袖を羽織って、そばにあった小机に寄り添って、最期の時を、今や遅しと待つのでした。その金若の心の内は、なんとも哀れなことです。

 そうこうするうちに、木下将監は、神道丸の首討ち取るために、夜陰に紛れてやってきました。

 庭の籬垣(ませがき)を押し分け、押し破り、つつっと忍び込むと、そこに神道丸ありと見て、金若丸の御首を、ズバッと打ち落としたのでした。首を小袖に包むと、即座にその婆から逃れました。将監は、

「心ならずの悪逆は主命なり。」

と、詰めていた息をほっとつきましたが、その心の葛藤の苦しみは、言う言葉もありません。かの木下将監の行く末は、なんとも危うし、危うし。

つづく


忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記 ①

2011年11月30日 13時53分18秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

永平寺開山記 ①

 

 いろいろと考えてみると、人の「道」に明るい者は、一家を成してその身を全うすることができるが、邪(よこしま)な者は、男女によらず身を失うものである。

 ここに、越前国(福井県)の吉祥山永平寺の御開山様であられる「道元禅師」の由来を詳しく尋ねてみると、後鳥羽院の頃のお話です。(鎌倉時代初期)

 村上天皇(平安時代中期)より九代の孫に当たる「源中納言道忠卿」(みなもとちゅうなごんみちただ)という貴族がおりました。道忠は、家には三宝仏陀をお祭りして、外では、「人、天、声聞、縁覚、菩薩」の五乗に則り、大変礼儀正しい方でした。

 中納言道忠卿には、三人の子供がありました。長男「神道丸」は十五歳。二歳の年に実母を失ってしまいますが、母のことを忘れず、明け暮れ母の菩提を祈り続けております。金道卿の姫を後妻として生まれた二男は、「金若丸」、十三歳。末の妹「松代姫」はまだ二歳でした。

 一門を守護し支えるのは、家の執権は、譜代の家臣「更級行家光虎」(さらしないえみつみつとら)。さてまた、御台の乳母(めのと)には、「木下将監行正」(きのしたしょうげんゆきまさ)。将監の一子、「梅王」は十四才と、頼もしい家臣に恵まれて、道忠の果報を羨ましく思わない人はありませんでした。

 ある時、道忠卿は、更級、木下両家臣にこう言いました。

「私も五十歳となり、明日の命も知れない。ここらで引退して、神道丸に官位を譲り、私は、仏道一筋に生きようと思う。幸い今日は吉日であるので、一門を集め、言い渡したい。用意いたせ。」

 ご兄弟、家臣一同が参集しますと、道忠卿は、こう言い渡しました。

「いかに皆の者、私はもう歳を取ったので、これよりは神道丸を参内させ、隠居することにする。これからは、私にしてくれたように、神道丸に忠孝を尽くしてもらいたい。

神道丸よ、おまえは、まだ幼少ではあるが、おとなしく帝に仕え、私無く五乗を守り、慈悲深く家を治めて身をたてるのだぞ。私が亡き後は、母に孝行を尽くして、更級、木下両人を、私と思って、何事につけても言われた通りにすればよい。」

「さて、金若丸よ。兄に礼儀正しく接し、更級、木下と共に、家の執政を執り行い、少しも兄に背いてはならない。よくよく心を尽くしなさい。」

「さてまた、ここに太刀が二振りある。大の太刀は、三條小鍛治(※三条宗近)が鍛えた「松風」という剣である。小の太刀は、「村雨」という「天国」(※あまくに)の名作である。大は総領神道丸に、小は金若丸に継がせることにる。」

 それからは大宴会となり、道忠卿が、御兄弟に盃を下されると、千代降るまで共に変わらることは無いと、数々の盃が交わされました。目出度い代替わりの儀式が滞りなく終わりました。

 しかし、世の中の習いとは言うものの、女心というものは、儚い(はかない)ものです。御台は、夫道忠の神道丸への代譲りの言葉を聞いて腹を立てていました。御台はむらむらと悪心を起こし、乳母(めのと)木下を、密かに呼びつけると、わざと、さめざめと泣いてみせてから、こう言いました。

「私ほど、果報のつたない者はありません。仏神に祈願をかけて、あの金若を懐胎し、誕生して成長すれば、器量優れて優しく、いかなる高家、殿上人にも劣らないと喜び、いつかは、家を継がせたいと思っていたのに、神道丸の家来となって、末の栄華も無いとは、口惜しい。」

と、ぎりぎりと歯がみをするのでした。

 何事かと駆けつけた将監は、呆れ果てて、

「これは、五條金道卿の御息女とも思えない仰せ。神道丸殿は先腹(せんぶく)の御総領であられます。金若丸様は御二男でありますから、家を継げないと恨む筋合いではありません。他人の聞こえも悪い事。」

と、苦々しく諭しますが、御台は、

「さては、お前も、最早私を見捨てて、神道丸を世に立てて、金若丸のことはどうでもいいと思っておるのだな。もう、お前には頼みません。出て行きなさい。」

と、騒ぎ立てました。将監は、手を焼いて、

「お腹立ちは分かりましたが、金若丸様がどのようにお考えなのかをお聞きなされて、相談され、金若丸様の仰せに従うのが良いかと存じます。」

と、取りなします。御台は、

「いやなに、金若は我が子ですよ。母が心に背くはずはありません。さあ、金若丸を呼んで、この事を話して喜ばせてあげましょう。」

と、金若丸に使いを出して、呼び寄せました。

金若丸がやってくると御台は、

「いかに、金若。今日の父の仰せを聞き、さぞや無念と思ったことでしょう。私の心もめらめらと炎を上げて、焦げ付きそうです。そこで、将監に頼んで、今宵、暗闇にまみれて神道丸を殺すことにしましたから、喜びなさい。お前を総領としてあげますよ。」

と、目をぎらぎらさせて言うのでした。金若は、驚いて、

「いや、何を仰いますか。私は、二男ですから、家を継ぐなどということはあり得ません。それに、私はまだ若年で、兄上を尊敬しておりますので、その様なことを考えたこともありません。」

と、笑いました。これを聞いた御台は、きっとなり、

「何を言っているのです。そんなことではありませんよ。継子の神道丸を世継ぎにして、毎日、朝夕憂き思いをして、いらいらと過ごすことなど耐えられるものではない。なんとか、お前を世継ぎとして、浮き世を楽々と過ごせるようにするのです。お前は、まだ幼いので、分からないだけです。いいから、母に任せておきなさい。ささ、将監、言われた通りやるのです。」

と、まくしたてました。将監は、慌てて、

「お待ちなされてくだされませ。只今の若君のお言葉を、何とお聞きになったのですか。御台様の御子ではありますが、仏様のお言葉とお聞きになり、思い止まってくださるようにお願いいたします。」

と、なんとか思い止まらせようとします。金若丸も、

「神代の昔より、継子継母(ままこままはは)の悪心は、枚挙に暇がございません。そのような悪逆は、末代まで人々の嘲り(あざけり)を受けますので、おやめください。」

と、詰め寄りました。御台は、二人の説得の道理に、返す言葉も無く黙ったままでしたが、やがて、わなわなと身体を震わせると、顔色も真っ赤になり、

「さては、お前達は、私の命令に背いて、私を悪人にして、人々に言いふらして笑いものにしようと言うのだな。よしよし、今より後は、母を持ったと思うな、金若。私も子を持ったとは思うまい。将監諸共、七生(しちせい:七代後まで)の勘当じゃ。」

と、わめき散らすと、守り刀を引き抜いて、

「生きていても仕方ない、死んで恨みを晴らしてやる」

っとばかりに、喉に自害の刃を突き立てました。驚き慌てた将監が飛びついて、

「これは、短慮なことを。お命には代え難し、ご命令は分かりました。若君様いかがいたしましょう。」

と、言いました。金若丸は母に取りすがり、

「いや、こうなっては、仕方がない。のう、母上様、錬士(れんし)の礼儀をもって、一旦はあの様に申しましたが、母上の仰せには背きません。自害はおやめになってください。」

と言いました。これを、聞くと御台は、にやりと笑い、

「おうおう、そうであろう、そうであろう。何に付けても、お前のため。悪い事は言いいませんぞよ。それそれ、急げ将監、金若は静かにしていなさい。」

と、言って一間に入られた御台の心の闇は、怖ろしいばかりです。

つづく


蛇と龍と弁財天 その水に関わる信仰

2011年11月20日 19時27分39秒 | 調査・研究・紀行

 蛇は古語に「カカ」「ヌカ」「ハハ」と言ったらしい。

 勝手な想像をすると、川「カワ」は、「カハ」であり、川はその形状から、蛇「カカ+ハハ=カハ」そのものであると解釈したくなる。確証はないが、当たらずとも遠からずか。また、これは説のある話だが、「鏡」は「カカメ」であって、「カカ+メ=蛇+目」とされる。ひっそりとした静かな池の水面は鏡の如くであり、夜陰に怪しく光る水面は、確かに蛇の眼を連想させて、背筋が寒くなる。蛇の信仰は水と密接な関係にある。

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</lock></lock></shapetype>京都 御菩薩池   小栗判官が契った大蛇が棲む

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<imagedata o:title="宇賀神" src="file:///C:/DOCUME~1/渡部 ~1/LOCALS~1/Temp/msoclip1/01/clip_image005.jpg"></imagedata><wrap type="square"></wrap>

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 そしてまた、鏡餅とは、蛇の蜷局(とぐろ)の形象であるという。段々に重ねた餅の上のミカンは蛇の頭を表しているという。そこで、はたと気が付いたことがある。先回訳出した「松浦長者」の最後のくだりで、出てきた人頭蛇身の「宇賀神」は、まさに鏡餅の形をしている。

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竹生島の弁財天の頭をようく見ると、宇賀神の顔が乗っているだけでなく、弁財天の頭全体が蜷局だったことにさらに気が付いた。そうやって、改めて弁財天をみると、弁財天の頭は鏡餅に見えてくる。いや、逆だ。これからは、鏡餅を弁財天の頭部としてお供えして、拝まなければならい。

 この弁財天と宇賀神はそれぞれ別の出自であり、方や仏教の神、方や土着の神であるのが合体した神仏習合であると言われ、ご丁寧にも鳥居まで設えてあり面白い。

 

いったい弁財天とは、古代インド、ヒンドゥー教の河の神「サラスヴァティ」のことであり、仏教の守護神の一人とされる。有名な弁財天(江ノ島・竹生島・宮島等)がすべて水辺にあるのも頷けることである。仏教と共に伝わった水に関わる神である弁財天を、日本人らしく、宇賀神とない交ぜにしてしまったものらしい。説経まつら長者の物語は、まさに、弁財天が宇賀神を頭の上に載せたという、そのことを説いた物語であったのだ。因みに、弁財天が水だけでなく音楽も司るとされるのは、河の音から来るものであると言われ、転じて芸道成就の祈願も受け付けてくれるので、我々説経の徒には大変有り難い神様である。

 さて、一方、水のあるところに必ず龍もいる。例えば、神社の御手洗に龍が居る。竹生島の御手洗

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</shape>四天王寺の龍の井戸は、覗くと天井の龍が水面に映る趣向で面白い。

Dscn8971_2 大阪四天王寺 龍の井戸

 龍は、中国の神話における想像上の生物であり、仏教的には仏教を守護する八大龍王として登場する。説経では蛇はだいたい大蛇であり、しかも大蛇と龍は区別されていないことに気が付く。大蛇と言う場合に、描かれている挿絵の姿はすべて龍であると言ってもおそらく間違いない。この大蛇はだいたい十丈、約30mぐらいあるようである。

Dscn9239_6 壺阪寺奉納絵馬部分(小夜姫と大蛇)

 説経や浄瑠璃に出てくる「大蛇」の代表選手は、説経では小栗判官が契った御菩薩池の大蛇、まつら長者の安積池の大蛇、浄瑠璃では、「日高川入相桜」で清姫が化身する大蛇等が上げられる。

 「龍」と蛇は同一視され、どちらも「水」に関係しているが、実は大きな違いがある。仏教では、釈迦が誕生した時に降った甘雨は、二匹の龍が降らせたと言われる。つまり、龍は水のうちでも、天に関わる水、則ち雨を、ひいては天候を司る神ということになる。雨乞いには蛇ではなく龍が必要なのである。龍に関する説経の記述で共通しているのは、

「震動、雷電、はたたがみ(霹靂神)台風民家を吹き潰し雨は車軸を流しける」

                      (小栗判官一代記 御菩薩池の段)

といった描写である。これは、ちょっとやりすぎかもしれないが、多くの神社が龍のモチーフを用いているのは、こうした農事暦に関わる祈願を込めているからだろう。

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 弁財天と八大龍王は仏法の守護者としては同格で、八部衆に含まれている。弁財天の頭に龍が乗らなくて良かった。そんなことになったら、暴れる龍に、弁財天は落ち着いて座っていることもできない。いや、そもそも、龍が弁財天の頭に静かに鎮座する訳がない。龍は天空を駆けめぐって広く大気を支配しなければならない。そして、湖沼深くに休むのである。龍は常に循環しているのだ。そして、大地とその上の水のうち、動く水、則ち川は弁財天が、動かぬ水、則ち湖沼は宇賀神がそれぞれ協働して司ると考えると、どうして弁財天の頭の上に宇賀神が載ったのかが分かる気がする。

 ところで、龍は唯一、十二支の中で架空の動物である。「辰」と「己」、龍と蛇が並んでいるのも面白いが、説経は、この「辰年」にもある重要な呪術的な意味を含ませる。先に紹介した「阿弥陀胸割」では、「壬(みずのえ)辰の年の辰の月の辰の日の辰の刻」が重んじられている。それはおそらく、「信太妻」の主人公である陰陽師「安倍晴明」の誕生日と言い伝えられている「天慶7年(西暦944)辰の月辰の日辰の刻生まれ」という伝説に関係していると思われる。(歴史上は西暦921年(延喜21年)辛己とされる・・・また蛇が出てきた。)残念ながら伝説の天慶7年は、甲辰(きのえたつ)の年で、壬(みずのえ)とは一回りだけずれている。このずれが誤りなのか、意図的なのかは分からないが、「辰」づくしにするというモチーフが戯作的に用いられたのだろうと考える。また、陰陽道では、北辰(北極星)を重要視するので、「辰」をからませると考えることもできる。因みに、「壬」はまさに五行の内の「水の兄」であり、水の信仰に大きく関わっている。「癸」(みずのと:水の弟)が「陰」であるの対し、「壬」は「陽」であり、「妊」に通じて、生み出すという意味がある。どうして説経が「壬辰」にこだわるのかが、分かってきたような気がする。

 さて、手元の有り難い「御祭神安倍晴明公秘伝 平成二十四年壬辰年本暦 京都堀川一條 晴明神社」によると、来年は、まさに「壬辰(みずのえたつ)」の年である。「阿弥陀胸割」で言うところの「壬辰の年の辰の月の辰の日の辰の刻生まれの姫」のその瞬間が60年ぶりにやってくるのかと思うと、なんだかわくわくするのは、きっと私と猿八座の面々だけであるとは思うが、一応その60年に一度の、説経的瞬間を記しておこう。それは平成24年4月1日(日)午前8時頃である。(旧暦3月11日壬辰)来年は、説経「阿弥陀胸割」にとって特別な年である。いや、壬辰の年は、私が生きている間におそらくは、ただ一度しか過ごせない貴重な1年なのだ。


忘れ去られた物語たち 3 説経松浦長者⑥おわり

2011年11月19日 20時50分13秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

まつら長者(小夜姫)⑥ おわり

 懐かしい我が家も朽ち果て、母の行方も知れず、小夜姫は途方に暮れていましたが、

母を尋ね歩いている小夜姫に、里の人がこう教えました。

「いかに姫君、母上様は、あなたが居なくなってからというもの、明け暮れ、姫が恋しいと泣き暮らし、程なく両眼を泣き潰しました。それから、母上様の行方はとんと知れません。」

 これを聞いて小夜姫は、驚き悲しみましたが、諦めることなく、母親を探し続けました。あちらこちらと探し回っているうちに、小夜姫は、再び奈良の都まで戻って来ましたが、ふと道端で子供たちの囃し声を耳にしました。

「松浦物狂い、こなたへきたれ、あなたへまいれ。」

 一人の物乞いらしい老女が、子供たちに嬲(なぶ)られていたのでした。はっとばかりに小夜姫が駆け寄ると、紛れもなく、探し求めた母上様です。小夜姫は思わず、

「母上様、小夜姫です。」

と涙と共に抱きつきました。しかし、御台は、

「小夜姫とは誰がことぞ、確かに昔、小夜姫という娘がいたが、人商人が謀って行方も知れぬ、今はもうこの世に無き者なり。盲目の杖に打たれて、我を憎むなよ。」

と、杖を振り上げて、むちゃくちゃに振り回します。小夜姫は、懐から大蛇にもらった玉を取り出すと、杖に打たれながらも再び母に抱きつきました。その玉を両眼に押しつけて、なで回し、

「善哉なれや、明らかに、平癒なれ。」

と、必死に唱えると、なんと、母の両眼はぱっと見開いたのでした。類まれなる親子の対面、喜び合うことも限りなく、親子抱き合って再会を確かめ合うのでした。

 それから、松谷に戻った二人でしたが、やがて昔の奉公人達も戻ってきて、再び富貴の家を興し、奥州の権下の太夫夫婦も召し抱えて、さらに繁盛させ、松浦長者の跡を継がせたということです。これも一重に、親孝行の心の優しさを、天が哀れんでくれたためです。

 年月重なり、小夜姫は八十五歳で大往生をされました。その時、花が降り、音楽が聞こえ、異香(いきょう)が薫じ、三世の諸仏を共として、西に紫雲がたなびいたと言われます。こうして、小夜姫は、近江の国竹生島の弁財天とおなりになり、大蛇との縁から、その頭には大蛇を乗せられておられるのです。

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</shape>※写真のように竹生島宝厳寺の弁財天の頭部には顔が乗っていて、蛇には見えないが、これは、宇賀神という人頭蛇身の神である。竹生島にはさらに宝珠をくわえた蛇が河川沼湖を守る八大龍王として祀られている。

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<imagedata o:title="401px-Hogonji13s3200" src="file:///C:/DOCUME~1/渡部 ~1/LOCALS~1/Temp/msoclip1/01/clip_image003.jpg"></imagedata><wrap type="square"></wrap>

</shape>

 昔も今も、親に孝行ある人は、この事、努々(ゆめゆめ)疑うべき

 不孝の輩は、諸天までも加護なし

 生きたる親には申すに及ばず

 無き後までも孝行尽くすべし

 また、女人を守らせ給う故

 我も我もと、竹生島へ参らん人はなかりけれ

 身を売り姫の物語

 証拠も今も末代も

 例(ためし)少なき次第とて

 感ぜぬ人はなかりけれ

 寛文元年五月吉日 山本久兵衛板

 おわり

 


忘れ去られた物語たち 3 説経松浦長者⑤

2011年11月19日 18時00分05秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

まつら長者(小夜姫)⑤

 祭壇の三階に取り残された小夜姫は念仏を唱えて続けています。群衆は、今か、今かと大蛇の出現を待ちながら、ざわめいておりましたが、待てど暮らせど、何も起こりません。やがて、人々は、神主がいらざる唱え事をしたから、大蛇が機嫌を損ねたと言い出しました。大騒ぎになった群衆は、恐ろしいことになったと浮き足立つと、我先にと逃げ帰り、家の木戸を閉じて屋内に閉じこもり、物音ひとつしなくなりました。

 誰もいなくなった池の祭壇で、なおも小夜姫は、一人ぽつねんと念仏を唱えていましたが、やがて、俄に空がかき曇り、激しい風雨となりました。雷が鳴り響き、突風が吹き、池が波立つと、その丈、十丈あまりの大蛇が水を蹴立てて、忽然と姿を現しました。

 大蛇は、小夜姫をひと飲みにしようと、口より火炎を吹き出して襲いかかろうとします。大蛇が首をもたげて祭壇の三階に顎を乗せましたが、小夜姫は凛として騒がず、父の形見の法華経を掲げると

「いかに大蛇、汝も生ある者ならば、少しの暇を得させよ。汝もそれにて聴聞せよ。」

と言うと、法華経を声高らかに読み上げました。

「一者梵天、二者帝釈、三者魔王、四者転輪聖王、五者仏神、

 うんが女身、即身成仏、そもこの提婆品と申せしは、

 八歳の龍女、即身成仏の御理(ことわり)なれば

 汝も蛇身の苦患(くげん)を逃れよ。」

そして、小夜姫が、経をくるくると巻き上げて、大蛇の頭を打つと、十二の角がはらと落ち、さらに、この経を戴けと、上から下へと撫でまわすと、一万四千の鱗が、一度にざざっと落ちました。その有様は、三月の頃に門桜が散り行くようです。すると大蛇は、そのまま池に入ったかと思う間もなく、十七八の女の姿となって、現れました。

「いかに、姫君。私は、子細あってこの池に棲むこと九百九十九年。その年月の間に九百九十九人の人身御供を取りました。今ひとり服すれば千人というところで、あなたのような尊き人に出会うとは、誠に有り難き幸せです。お経の功力(くりき)によって、たちまちに大蛇の苦しみから逃れ、成仏得脱いたしました。お礼に、この竜宮世界の如意宝珠を差し上げます。この玉は、思う宿願の叶う玉。目が悪ければ目に、腹が悪ければ腹に当ててなでれば、たちまちに治ってしまいます。」

龍女の話を、呆然と聞いていた小夜姫でしたが、玉を受け取ると、ようやく安心をして、ほっと溜息をつきました。龍女はなおも続けて、

「私の生国は、伊勢の国の二見浦(三重県伊勢市二見町)ですが、継母の母に憎まれて、

家出をいたしましたが、人商人にだまされて、あちらこちらと売られて、ここの十郎左右衛門に買い取られました。その昔、ここには川が流れておりましたが、橋を架けても毎年流されてしまいます。そこで、陰陽の博士に占ってもらった所、見目良き女房を人柱にすれば、橋は流されなくなるという占いが出ました。まったく、恐ろしい占いです。

村の人々は、そんなら神籤(みくじ)を作ろうということになって、身御供の役を引いたのが主人の十郎左右衛門でした。そうして、私が、人柱に沈められることになったのです。私は、あまりの悲しさに、こう言いました。『八郷八村の里に人多いその中で、私だけを沈めるなら、丈、十丈の大蛇となって、村の者達を取っては服し悩ましてやる』

私は、そうわめきながら、沈められ、とうとう大蛇になってしまったのです。九百九十九年に一人ずつの人を取り、その報いには、鱗の下に九万九千の虫が棲み、この身を攻める苦しみは、例えようもありません。このような時に、あなたと出会えたことは、一重に仏様の引き合いです。」

と、喜ぶのでした。食べられても構わないと覚悟していた小夜姫でしたが、ようやく得心して、龍女に向い、

「いかに大蛇、私は、大和の国の者であるが、奈良の都に、母一人を残してきました。母が、どうしておられるかが、一番の気がかりなのです。」

と言いました。すると、龍女は、

「それでは、私が送ってあげますので、ご安心なさい。」

と言いました。

 小夜姫が、太夫の館に戻ると、太夫夫婦は飛び上がって驚きました。小夜姫が、事の次第を語って聞かせると、太夫夫婦は大層喜んで、都に帰らずにここに留まるように勧めました。しかし、小夜姫は、その申し出を断って、早々に館を出ると、こんなところにいつまでも居られないと、再び池へと急ぎました。

 池で待っていた大蛇は、小夜姫を龍頭に乗せると、そのまま池の中へどぶんと入りましたが、瞬きもしない間に、大和の国は奈良の都、猿沢の池(奈良公園)のほとりに小夜姫を担ぎ上げたのでした。

 さて、この大蛇は、姫を降ろした途端に龍となって天に昇り、再びこの池に戻りませんでした。この池を「去る沢」の池と言うようになったのはこの時からです。そしてこの大蛇は、衆生済度を行うため、壺阪の観音様となったのでした。

 大蛇と別れた小夜姫は、急いで松谷の館に帰りますが、館の荒廃は著しく、人の住む気配もなく、母の姿はありませんでした。

つづく


忘れ去られた物語たち 3 説経松浦長者④

2011年11月19日 15時59分03秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

まつら長者(小夜姫)④

 長い旅の末にようやく館に着いた権下の太夫は、休む間も無く、奥の座敷を祓い清めると小夜姫を奥の座敷に招き入れると、そぐり藁の荒ムシロを敷き、その上に小夜姫を座らせました。見も知らぬ異国に連れて来られ、只でも心細い小夜姫は、何が始まるのかと涙ぐんでいますと、太夫は、〆を七重に張り回して、十二幣を切り、七十二の幣を立てました。それから、姫を湯殿に下ろすと、湯垢離(ゆごり)を七回、水垢離を七回、塩垢離を七回させて、二十一度の垢離をさせてその身を清めさせました。

 何のことか分からない小夜姫はたまりかねて、女房達に聞きました。

「いかに、女房達、奥州では、家に上がるのにこのようにしなければならないのですか。」

すると女房達は、こう答えました。

「あら、いたわしい姫様、知らないのであれば、教えてあげましょう。館より北十八丁ほどの所に「さくらの渕」という周囲三里ほどの池があります。その池に築島があり、その島に三階の祭壇を飾って、しめ縄を張り、あなたを大蛇の餌として供えるために、このようにお清めをしているのです。」

 今まで何にも聞かされてなかった小夜姫の驚き様は例え様もありません。倒れ伏して泣きながら、

「そもそも、私を買って末の養子とするとは聞きましたが、人身御供になると約束した憶えはありません。」

と、口説く姿があまりにも哀れだったので、御台が近づいていたわりの声を掛けました。

「いかに、姫、あなたの嘆きはもっともです。都の方とは聞いていますが、お国はどちらですか。私も、来年の春には、京の都に参りますので、父母への便りの文を届けてあげますから、文をお書きなさい。」

あまりのことに、小夜姫は、返事をすることもできませんでした。小夜姫は、故郷への形見の文を書こうと筆を持ちましたが、次々と涙が溢れてきて、とうとう文を書くことができませんでした。

 

 さて、小夜姫のお清めを済ませた太夫は、三階の祭壇を調えると、葦毛の馬にまたがって、八郷八村に触れて回りました。

「今度、権下の太夫こそ、生け贄の当番に当たりて候。都より姫一人買い取りて下るなり。皆々、お出でましまし、見物なされ候え。」

 近隣の人々は、池のほとりに桟敷を作り、小屋がけして、上下貴賤を問わず、ぞくぞくと池の周りに集まって、今や遅しとその時を待つのでした。

 太夫は館に戻ると、小夜姫の装束を改めさせて、

「いかに姫、おん身を、これまで連れて来たのは外でもない。あの山の奥に大きなる池があり、年に一度、身御供を供えなければならない。今年の当番が、それがしである。

おん身を供え申す。お覚悟あれ。」

と言いました。小夜姫は、涙を流しながらも、

「かねてより、いかなる憂き目も覚悟の上、かかることとは夢とも知りませんでしたが、父の菩提のそのためと思えば、恨みもありません。ただ、都の母上様だけが気がかりです。」

と言うと、網代の輿に乗り込みました。やがて輿が、池へと到着すると、池の周りに所狭しと詰めかけた群衆がどよめきました。輿を降りた小夜姫は、舟に乗せられ、築島の祭壇へと向いました。三段の祭壇の一番上には小夜姫が、中段には神主が、下段には当番の太夫が上がりました。やがて、神主が、

「あら有り難の次第やな、これは、権下の太夫の所、繁盛のそのために、お守り有りてたび給え。」

と、肝胆砕いて礼拝しました。それから太夫も礼拝し、さらに様々な祈誓をかけて、唱え事をすると、神主と太夫は、また舟に乗って岸に戻りました。

 祭壇の三階に小夜姫は一人残され、池の周りの群衆は、いよいよ姫の最期と、固唾をのんで見つめておりました。

Photo_2 坪坂観音縁起絵巻より(太夫の館と思われる場面)

つづく


忘れ去られた物語たち 3 説経松浦長者③

2011年11月19日 10時24分37秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

まつら長者(小夜姫)③

 小夜姫だけを心のより所として生きてきた御台様は、一人打ち捨てられて、泣き明かしておりましたが、やがてもの狂いとなり、両眼を泣き潰してしまいました。小夜姫を捜し求めるように奈良の都を徘徊して、松浦の狂女と呼ばれるようになってしまいます。かつての栄華を考えれば、御台所のなれの果てを、哀れと思わない人はいませんでした。

 さて、そうとも知らず小夜姫は、権下の太夫に連れられて、どこまで行くとも知らないまま、やがて木津川を渡ると山城の国に差し掛かりました。故郷の大和の国ともお別れです。

「後を問う その垂乳根の憂き身とて 我が身売り買う 泪なりけり」

と歌うと、泪に潤む目に故郷の景色をしっかりと焼き付けました。

【ここから、いわゆる、「東下り」の「道行き」と言う記述になります。現在も残る旧東海道の宿や地名を辿りながら、旅慣れぬ姫の苦労が語られます。四百年前の旅路を、記述に従って辿ることにします。】

①命めでたき長池や(京都府城陽市)

②小倉つつみの野辺過ぎて(京都府宇治市小倉)

③四条河原

④祇園林の群烏(むらがらす)

⑤経書堂(きょうかくどう:石に一字づつ経を書く)

⑥清水寺

⑦秋風吹けば白川や(京都市左京区)

⑧粟田口とよ悲しやな(京都市東山区)

⑨日の岡峠を早過ぎて(京都市山科区)

⑩人に会わねと追分けや山科に聞こえたる四ノ宮河原を辿り(京都市山科区四ノ宮)

⑪行くも帰るも逢坂の この明神のいにしえは蝉丸殿にて御座ある(滋賀県大津市)

 ※ここで説経らしく、小夜姫は蝉丸宮に詣でています。

⑫大津、打出の浜(琵琶湖畔)より志賀、唐崎の一つ松(近江八景唐崎夜雨)

⑬石山寺の鐘の声(近江八景石山秋月【三井寺の三井晩鐘が混じっているようです】)

⑭なおも思いは瀬田の橋(近江八景瀬田夕照)

⑮時雨も抱く守山や(滋賀県守山市)

⑯風に露散る篠原や(滋賀県野洲市 小篠原・大篠原)

⑰くもりもやらで鏡山(野洲市と竜王町の境:標高384m)

⑱馬淵、縄手を早過ぎて(滋賀県近江八幡市)

⑲多賀の浮き世の中厭いつつ(滋賀県近江八幡市)

⑳無常寺よと伏拝み(不明)

21  入て久しき五じょう宿(不明)

22 年を積もるが老蘇の森(滋賀県近江八幡市)

23 愛知川渡れば千鳥立つ(滋賀県東近江市・愛壮町)

24 小野の細道摺針峠(滋賀県彦根市)

25 番場、醒ヶ井、柏原(滋賀県米原市)

26 寝物語を打ちすぎて(美濃と近江の国境)

27 お急ぎあれば程もなく山中宿へお着きある(岐阜県関ヶ原町、今須付近)

  先を急ぐ太夫の足についていけない小夜姫は、疲れ果てて遂に、山中の宿で足の痛みに耐えかねて、

「いかに太夫殿、憂き長旅のことなれば、急ぐとすれど歩まれず。この所に二三日逗留してくださるようにお願いします。」

と、言います。太夫は、大きに腹を立てて、

「奈良の都より奥州までは、百二十日もかかる旅であるぞ。どんなに嘆いても逗留はならん。」

と、手に持つ杖でさんざんに打ちつけるのでした。小夜姫は、打たれる杖のその下よりも、

「情けも無い太夫殿。打つとも、叩くとも、太夫の杖と思えば、真に恨むことはありません。冥途にまします父上様の教えの杖であると知っていますから。」

と、手を合わせて言うのでした。これには、さすがの太夫も参りました。ここまで歩き詰めに歩かされてきましたが、三日間の休養を許されたのでした。

28 嵐、木枯らし不破の関(岐阜県関ヶ原町)

29 露の垂井と聞くなれば(岐阜県垂井町)

30 夜はほのぼの赤坂や(岐阜県大垣市)

31 杭瀬川にぞお着きある(岐阜県大垣市)

32 大熊河原の松風(不明)

33 尾張なる熱田の宮を伏し拝み(愛知県名古屋市熱田区)

34 三河の国に入りぬれば、足助の山も近くなり(愛知県豊田市)

35  矢作の宿を打ち過ぎて(愛知県岡崎市)

36 かの、八つ橋にお着きある(国道1号線矢作橋付近)

37 先をいづくと遠江、浜名の橋の入り潮に(静岡県 浜名湖大橋付近)

38 明日の命は知らねども池田と聞けば頼もしや(静岡県浜松市 天竜川)

39 袋井縄手遙々と(静岡県袋井市)

40 日坂過ぐれば音に聞く、小夜の中山これとかや(静岡県掛川市)

41 いかだ流るる大井川

42 岡部の松は少しあれ(不明)

43 神に祈りの金谷とや(静岡県島田市)

44 四方に神はなけれども島田と聞くは袖寒や(静岡県島田市)

45 聞いて優しき宇津の山辺(静岡県藤枝市:静岡市 宇津ノ谷峠)

46 丸子川、賤機山を馬手に見て(静岡県静岡市駿河区)

47 いかなる人か由比の宿(静岡県静岡市清水区)

48 蒲原と打ち眺め(静岡県静岡市清水区)

49 富士のお山を見上げれば・・・略・・・南は海上、田子の浦(静岡県富士市)

50 原には塩屋の夕煙(静岡県沼津市)

51 伊豆三島を打ち過ぎて(静岡県三島市)

52 足柄、箱根にお着きあり(神奈川県箱根町)

53 相模の国に入りぬれば、大磯小磯は早過ぎて(神奈川県平塚市)

54 めでたきことを菊川や(不明)

55 鎌倉山はあれとかや(神奈川県鎌倉市)

56 行方も知れぬ武蔵野や(横浜・川崎付近カ)

57 隅田川にお着きある

  げにや誠、音に聞く、梅若丸の墓印

  (木母寺(謡曲「隅田川」の寺)東京都墨田区堤通2丁目161号)

58 東雲早く白河や、二所の関とも申すらん(福島県白河市)

59 恋しき人にあいずの宿(不明)

60 お急ぎあれば程も無く、遙か奥州日の本や、陸奥の国、安達の郡に着き給う。

以上の道行きは上方版による記述ですが、江戸版では、関東近辺の記述がやや詳しくなっています。さながら、四百年前の旅行ガイドといったところでしょうか。小夜姫と共に百二十日に及ぶ東海道と奥州街道の旅にお付き合いいただきました。

つづく


忘れ去られた物語たち 3 説経松浦長者②

2011年11月17日 17時11分14秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

まつら長者(小夜姫)②

 さて、小夜姫の発心の話はひとまず置いて、奥州陸奥の国の安達の郡(ごおり)というと、現在の福島県郡山市付近のことです。現在、安積山(あさかやま)の山麓に日和田町がありますが、この付近は盆地となっていて、その昔は、大きな沼であったと言われています。この沼のことを安積沼と呼んだそうです。その沼には、大蛇が棲んでおり、年に一人づつ、美しい姫を身御供(みごく)に供えなければ、大蛇の祟りがあるというのでした。

【現在も福島県郡山市日和田町日和田にある蛇骨地蔵には「佐世姫物語」が伝わっているという話です。】

 その年、身御供の当番に当たったのは、裕福な商人であった「権下の太夫」でした。この身御供に供える姫を買うために、権下の太夫は約一ヶ月をかけて、ようやく都へ辿り着きました。初めに京都の一條小川(こがわ)で高札を出してみましたが、誰も身を売る者は無く、丁度、小夜姫が発心をした頃には、奈良にやってきて「つるや五郎太夫」に宿を取っていたのでした。

 人買いの高札を見た小夜姫は、

「おお、これは嬉しい高札じゃ、これよりすぐに身を売ろう。」

とも思いましたが、このまま身を売ってしまっては、母上様とも生き別れになってしまうと思い直して、母に別れをしようと一度壺阪の館に戻ることにしました。

 一方、既に日時を費やしていた権下の太夫は、ここでも姫を見つけることが出来ずに、いらいらと無駄に日を送っていましたが、ある夜の夢想に春日の明神のお告げがありました。

「これより南の方の松谷という所に、まつら長者という富豪が居たが、今は宝も消え果て貧者の家となり、館には御台と娘が只二人おるのみ。この娘なら売るということがあるかもしれないぞ、太夫殿。」

 権下の太夫は、はっと飛び起きると、早速に松谷に急ぎました。松谷にやってくると、長者の館らしい大きな門が見えましたが、瓦も軒も崩れ落ちて、みすぼらしいばかりです。権下の太夫は、恐る恐るに大広庭に入ると、物申さんと呼ばわってみました。

 既に人の出入りも絶えて久しかったので、小夜姫は、誰が来たのかと、いぶかしげに顔を出しました。廃屋同然の館から出てきた美しい小夜姫の怪しさに、太夫は少したじろぎながらも

「いや、怪しい者ではござらん。私は都の者であるが、身を売る姫があるなら、高値で買うためにこれまでやってきた。」

と、嘘混じりに告げました。小夜姫は、春日明神のお引き合いと嬉しく思い、即座に、

「それは、それは、商人様、私を買ってください。値は太夫殿にお任せいたします。親の菩提を弔うために、ようやく身を売ることが出来ます。」

と、答えました。太夫は、

「親の菩提を弔うためというからは、高値で買ってあげましょう。」

と、五十両を懐から取り出すと、その場で小夜姫に渡しました。喜んだ小夜姫は、

「有り難い、有り難い、商人様、これより五日の暇を下さい。その間に父の菩提を弔いたいと思います。五日目の八の刻頃に、再びお迎えください。」

と、固く契約を交わすと、太夫はすっかり安心してひとまず宿に帰りました。館の中へ取って返した小夜姫は、急いで母の元に戻ると、嬉々として言いました。

「母上様、これをご覧下さい。この黄金(こがね)を、表の門外で拾いました。この黄金で、父上様の菩提を懇ろに弔ってください。」

 小夜姫が身を売ったとも知らない母は、小夜姫の志が深いので、天がお与えくださったかと思い、小夜姫の言うままに、多くのお坊さんを呼んで、出来る限りの盛大な供養を行ったのでした。

 さて、念願の父の菩提を無事に弔うことができた小夜姫は、約束の五日目に、母親の前に居ずまいを正すと、

「母上様、父の供養が無事に済んだ今は、もう何も隠すことはございません。実は、私は人商人に身を売りました。これより、いづくとも知らない国に参りますが、どこの国に行こうとも、必ず便りを出しますから、どうぞ嘆かないでください。」

と、言いました。突然のことにびっくりした母親は、小夜姫に抱きついて、情けない、情けないと泣き崩れました。しかし、最早太夫が迎えに来る時分です。気丈にも小夜姫は、涙ながらに母親を振り切って表を指して立ち上がりました。なおも、母は小夜姫に取りすがって

「小夜姫、しばらく、お待ちなさい。今しばらく。」

と、持仏堂に入ると別れを惜しんで、二人で読経を始めました。そこに権下の太夫が、小夜姫を迎えに来ますが、約束の時刻が過ぎても一向に現れません。業を煮やした太夫が、大声で呼ばわりますが、人の気配すらしません。大きに腹を立てた太夫は、ずかずかと館の中を探しまわって、持仏堂で一心不乱に読経している二人を見つけました。

「いかに、姫、こんなところで何をしておる。時刻は過ぎた。早くしろ。」

と、太夫は小夜姫の腕をひっつかむと、門の外へと引きずり出しました。母は、取りすがって、

「情けも無い、太夫殿、まだ幼き者、乱暴せず、許してくだされ。」

と、泣きわめいて離れません。とうとう太夫も仕方なく、

「分かった、分かった。上﨟殿よ。この姫を我が末の養子にして、いずれかの大名へ奉公に出したなら、お前様へ、迎えの輿(こし)を差し向けましょう。」

と、その場限りの取りなしをすると、母親を無理矢理に引き離しました。母親は、道端に一人打ち捨てられ、小夜姫はこぼれる涙もそのままに、太夫に引きずられて館を後にしました。涙、涙の別れは、哀れとも、なかなかに申すばかりはありません。

つづく 坪坂観音縁起絵巻よりPhoto_2


忘れ去られた物語たち 3 説経松浦長者①

2011年11月17日 11時48分35秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 古い伝説を持つ松浦佐用姫の説話は、日本各地に残っているが、説経としての小夜姫の存在は忘れられてしまったようだ。説経の小夜姫は、説経らしく、芸道を司る竹生島弁財天の本地として語られる。また、小夜姫の生地とされる奈良県壺阪にある壺阪寺の縁起も含めて語られている。壺阪寺に所蔵されている「坪坂観音縁起絵巻」(寛文二年)は当時の説経「まつら長者」の筋をかなり忠実に写している。しかし、竹生島でも壺阪寺でも既に「小夜姫」を見いだすことはできなかった。

まつら長者(小夜姫)①

 近江の国、竹生島の弁財天の由来を詳しく尋ねてみますと、これもかつては普通の人でありました。奈良県壺阪に松浦長者という大変富貴の家があり、何一つ不自由もありませんでしたが、ただ一つ、世継ぎに恵まれませんでした。そこで、長者夫婦は、奈良県桜井市初瀬にある長谷観音にお参りして、子を授けてもらうことにしました。長谷観音は、西国三十三所第八番の札所です。

 

 長者夫婦は、鰐口をちょうどと打ち鳴らして、三十三度礼拝して、

「男子にても女子にても、子だねを授けてください。この願いが成就するならば、仏壇にかける斗帳(とちょう)を金襴緞子(きんらんどんす)で織り、月に三十三枚づつ三年間奉納させていただきます。それでも不足とあれば、金襴緞子に加えて、錦の斗帳も併せて奉納いたします。さらに、千部の経を毎日、三年間読誦しますので、どうかよろしくお願いします。」

 と祈願しました。観音堂に籠もったその夜半のこと、有り難いことに観音様は、長者夫婦の枕元に立たれました。

「いかに夫婦、あまりに嘆く不憫さに、子だねを一人取らする。」

と、おっしゃられると、黄金の采(さい)を授けられたのでした。

【伝説の佐用姫が頭巾を振ることを踏まえているようです(万葉集)】

 さて、この夢のお告げの後、壺阪に戻りますと、お告げの通り御台はご懐妊され、やがて玉のような姫君がお生まれになりました。夢のお告げによって授けられた子であるので、小夜姫と名付けられたのでした。

 満ち足りた幸せな生活を送っておりましたが、小夜姫が四歳の年、長者は病となり、

「この法華経を形見の品として姫に渡すように。」

と、法華経一巻を託して三十六歳の若さで亡くなってしまいます。

 長者の突然の死によって、一族が深い悲しみに包まれたのは言うまでもありませんが、大黒柱を失った家の凋落もあっという間のことでした。数の宝も消え失せ、仕えていた人々もやがて散り散りとなって、今はもう、広い館に御台と姫の二人だけが、身を寄せ合っているだけになってしましました。まったく、あの栄華が夢のようです。

 それでも御台は、小夜姫だけを心の頼りとして、春には沢辺の根芹を摘み、秋には落ち穂を拾って、懸命に小夜姫を育てました。そんな貧しい生活の中でも、小夜姫はまるで菩薩が天下ったかと思われる程美しく成長したのでした。小夜姫が十六歳になった時、御台は、

「今年は、早、父の十三年となりましたが、菩提を弔うこともできません。小夜姫や、

せめて、この父の形見を拝みなさい。」

と言って、形見の法華経を小夜姫に手渡しました。小夜姫は、

「これが、父の形見ですか。」

と、飛びつくと、法華経を抱きしめてさめざめと泣き崩れました。法華経を抱きしめながら小夜姫は、ひとつの決意をしました。

「親の菩提というものは、身を売り、代替えても、弔うものであると言う。私も身を売って、父の菩提を弔わなければ。」

 その夜、密かに館を抜け出した小夜姫は、春日大社に詣でると、

「南無や春日の大明神、私を買うべき人があるならば、是非引き合わせてください。」

と深く祈願しました。帰ろうとする時、興福寺で高僧の説法があると聞き聴聞してみると、その高僧もまた、

「それ、親の菩提を問うと言うは、身を売りてなりとも弔うこと大善。」

と、説いておられます。

 いよいよ志を強くした小夜姫が歩いていると、ふと、山門の脇に高札があるのに気が付きました。近づいて見てみると、

『見目良き姫のあるならば、値を良く買うべき。所は、つるや五郎太夫』

と書いてあるのでした。

つづく

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坪坂観音縁起絵巻より(興福寺での聴聞と思われる場面)

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美濃国安八郡墨俣正八幡の謎

2011年11月15日 11時35分39秒 | 調査・研究・紀行

   説経小栗判官の御本地に関しては、「美濃の国安八の郡墨俣垂井」の「正八幡」という「をくり(宮内庁御物絵巻)」の記述と、「常陸の国鳥羽田村」の「正八幡むすぶの神」(竜含寺〔現円福寺〕小栗堂)という「をくりの判官(佐渡七太夫豊孝)」の2種類の記述が見られる。

 大垣市墨俣の正八幡を尋ねる度に、その彫刻の不思議さに魅せられる。東を正面とする奥の社殿の南北の壁面には、それぞれ「麒麟」と思われる彫刻が設えられている。

Dscn0148 Dscn0138

 北面の麒麟                        南面の麒麟

 この彫刻に関して、「をくりフォーラム」の堤正樹氏は、龍の頭は「女性」を、脚である馬の蹄は「男性」を表し、「小栗は龍馬、照手は龍女」と説明されている。(美濃民俗H9.10.15西美濃における”をくり”伝承(1)正八幡)つまり、この「麒麟」は、小栗と照手が合体したものだということらしい。

 この麒麟をよく観察してみると、北面の麒麟は天を仰ぎ、雄叫びを上げ、力を込めた後ろ足を蹴り立てて、今にも飛び上がろうとしているように見える。それに対して南面の麒麟は、頭を垂れて跪き、従順な鼻息を感じる。また、どちらも、その頭に見えるのは、一方は角であるが、一方は耳のように見えるのも不思議である。何か意味がありそうだがどういうことだろう?

偶然、醒ヶ井宿(滋賀県)の「賀茂神社」で見つけた「麒麟」と比べると、その違いが良く分かる。こういっちゃあなんだが、風格もちょっと違う感じだ。

Dscn9910 醒ヶ井宿賀茂神社の扉(滋賀県米原市)

 さて、不思議というのは、只「麒麟」が不思議なだけでは無い。実は、この一対の「麒麟」の上に、干支の動物達が並んでいるのだが、これが、おかしい。北面の「麒麟」の上をよく見て欲しい。

正八幡の北面Dscn0149

一番目の子(ねずみ)がおらず、丑(うし)と、一番最後の亥(いのしし)が見える。東に回り正面には三体、寅(とら)卯(うさぎ)龍(たつ)これは順番通りである。

Dscn0141 正八幡の正面(東面)

そして、南面の「麒麟」の上には、午(うま)がおらず、己(へび)と未(ひつじ)だけがいる。

正八幡の南面Dscn0140   

さらに、社殿の裏側である西面には、残りの申(さる)酉(とり)戌(いぬ)の三体が刻まれている。つまり、十二支のうち十体までの干支は刻まれているが、その本来あるべき、北面の中心の「子」と南面の中心の「午」が、無いのである。

 その無いところに、一対の「麒麟」が居るのだとすれば、どう考えても、一対の「麒麟」がそれぞれの干支を表しているとしか思えない。第一番目の「子」(北)は、今にも天に駆け上がらんばかりの「小栗判官」を象徴する「麒麟」であり、その裏面に、第七番目の「午」(南)は、まさしく、小栗判官に従順に従った駿馬「鬼鹿毛」そのものであるに違い無いと、落日に照らされる正八幡を眺めながら、その勇姿を思った。

            

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信太の森芸能祭り 平成23年11月6日

2011年11月14日 09時45分50秒 | 公演記録

 説経節信太妻の聖地とも言える、大阪和泉市の「信太山」で第7回信太の森芸能祭が行われました。葛の葉社と聖神社に詣でた後の、聖地での信太妻公演は、久しぶりに神懸かった感覚が降りてきました。

Sinoda4 信太妻 猿八座

(和泉市 一井正好様撮影 写真をお送りいただきありがとうごいざいました。)

興味深かった出し物を、紹介します。楽しみにしていた江州音頭「葛の葉白狐伝」はエレキとシンセサイザーのノリノリの民謡で驚きました。江州音頭といえば、「でんでろれん」と思いこんでいたので、ちょっと期待はずれではありましたが、葛の葉の伝説が、こういう新しい形で残されていくことも面白いと思いました。

Dscn9161 志賀国天寿一門会(滋賀県大津)

信太の森歌舞伎は、昨年亡くなった「市川箱登羅」師匠が創作された「葛の葉物語」を演じる市民歌舞伎です。地元の子供達が演じる歌舞伎は、「歌舞伎調でなく、普通の言葉で台詞を言いますし、地方の三味線も津軽ですので、歌舞伎らしくないかもしれません。」と花田氏がお話されていましたが、驚いたことに、その普通の「大阪弁」がなんともいい芝居の調子になっています。浄瑠璃というものが大阪弁なのだということを、台本からはなかなか感じとれませんが、この子供達の歌舞伎を見ていて、大阪の子達は、そのままで浄瑠璃になるんだなあと大変羨ましく思いました。東京育ちの私にとって、大阪弁のイントネーションは最大の難関です。説経祭文は江戸育ちですから、違和感は出ませんが、浄瑠璃調にしようとすると、この大阪弁のイントネーションが、未だ乗り越えられない問題として、違和感を生じさせてしまいます。子供達の熱演を観ながら、思わず「う----ん」と唸ってしまいました。大阪弁マスターのスピードラーニングはないものでしょうか?

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今回の公演では、花田氏をはじめ実行委員会、和泉市教育委員会の皆様に大変お世話になりました。今後とも、説経の聖地とも言える信太と繋がっていたいと願います。