猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語シリーズ 8~15 について

2012年12月27日 11時41分12秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 平成24年壬辰もあとわずかとなりました。説経師の1年としては、これまででも、

最も充実した1年間であったことを、皆様方に感謝申し上げます。

さて、ここで、「説経正本集第二」の内、五説経として名高い、「苅萱」「小栗判官」

「愛護若」を除いた、他の古説経達を読み終えることができたので、まとめをする

ことにいたします。

横山重編角川書店「説経正本集第二」の内容は以下の通り、※印のついたものを

本ブログで、翻訳し紹介しました。但し、シリーズ9の「山椒太夫」と、シリーズ13

の「弘知法印御伝記」は、「説経正本集第二」の内容ではありません。

 「山椒太夫」は、国文学研究資料館にある複写本の山本角太夫正本を読みました。http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20120224

この原本は、舞鶴西図書館蔵とあります。また、「弘知法印御伝記」は、来年

取りかかる「説経正本集第三の43」に収録されているので、先読みになりました。http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20120714

いずれも、作曲の必要性があっての取り組みでした。山本角太夫の「山椒太夫」

は、今年、「鳴子曳き」の部分を公演しましたが、来年の秋には、人買いの場面の

「直井の浦」、安寿受難の場である「姉弟山別れ」を加えて、三段組みの浄瑠

璃として復活する予定ですので、ご期待下さい。

「説経正本集第二」目次

十七 せっきょうかるかや(寛永八年しょうるりや喜衛門板)

十八 かるかや道心(寛文初年江戸板木屋彦右衛門板)

十九 おぐり判官(延宝三年正本屋五兵衛板)

二十 をくりの判官(佐渡七太夫豊孝正本)

二十一 あいご若(万治四年山本久兵衛板)

二十二 あいこのわか(天満八太夫正本)

※二十三 目連記(万治頃八文字屋板)

シリーズ8http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20120131

二十四 目連記(天満八太夫正本)

※二十五 ほう蔵びく(天満八太夫正本)

シリーズ10http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20120229

二十六 ほうぞうびく(佐渡七太夫豊孝正本)

※二十七 ゆりわか大じん(日暮小太夫正本)

シリーズ11http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20120325

※二十八 わうしょうぐん(日暮小太夫正本)

シリーズ12http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20120503

※二十九 ひょうごのつき嶋(石見掾正本)

シリーズ14http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20121123

三十 兵庫の築嶋(寛永六年江戸井筒屋板)

※三十一 石山記(天下一石見掾藤原重信正本)

シリーズ15http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20121213

今年は、なにより、六十年に一度の「壬辰」の年に「阿弥陀胸割」を復活することができて

よかったです。今後とも猿八座へのご支援、ご指導のほど、宜しくお願い申し上げます。

皆様が良いお年をお迎えできることをお祈り申し上げます。


忘れ去られた物語たち 15 説経石山記(蓮花上人伝記) ⑥

2012年12月21日 17時14分15秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

れんげ上人伝記 ⑥

 それから、蓮花上人は諸国修行怠りなく、近江の国は御影山(三上山)の山麓、野洲

川にやってきました。(滋賀県野洲市)もう日も暮れかけていましたので、とある商家

に宿を乞いました。さて、夜半の頃のことでした。その屋の亭主を初め人々が、何だか

得体の知れぬ物を布に包んで持って来たのでした。

「お坊様。大変、恥ずかしいことですが、お教え下さい。只今、主の女房が出産したのですが、

なんと言うことか、人の形をしておらず、この様な物を産み落としたので、皆一同、驚

いております。きっと、お坊様は、このような不思議なこともご存じと思いまして。ど

うか、お助け下さい。」

と、涙を流して、訴えるのでした。上人が、どれどれと、布をはいで見てみると、毬の

ような卵でした。同行の僧も皆、不思議がっていると、蓮花上人は、

「このようなことは、良くあること。皆これ、報いの業である。この屋の亭主は、い

つも殺生ををして渡世をしておるな。さあ、懺悔しなさい。奇特を表してみせよう。」

そういわれて、驚いた亭主は、

「はい、実は私は、山川の鳥、獣を捕り、商売としております。」

蓮花上人は、これを聞いて、

「おお、懺悔するからは、この卵を開き、その証拠を顕してあげよう。衆生皆共成仏道。(しゅじょうかいぐじょうぶつどう)

頼もしき弥陀の御誓願。南無阿弥陀仏。」

と、回向なされると不思議にも、卵が二つにぱっかりと割れました。中から出てきたのは、

頭は人間、胴体手足は動物の形をした畜生でした。亭主も人々も、飛び上がって驚き、

「ああ、このような報いがあるとも知らなかったとは、浅はかだった。」

と、涙を流して悲しみました。蓮花上人が、

「報いの業の恐ろしさが、このように歴然であるからは、これより、殺生をぷっつりと

止め、仏道の信仰を持ちなさい。そうすれば、この異形の物も人間となり、仏果の縁が

訪れることは疑い無いでしょう。」

と言うと、亭主達は、

「このような浅ましい事態を見た以上は、今後、殺生はいたしません。さて、仏道信仰

というのは、どういうものですか。」

と、問いました。蓮花上人は重ねて、

「それは、簡単なことです。まず、殺生をしないことが、仏道の入り口です。これを、

殺生戒と言い、仏道修行の段階は沢山ありますが、これが、第一の誡めなのです。さて、

万法の中で、最も優れて尊いのは、阿弥陀の本願です。下根(劣る)下地(下界)の衆

生、無知無行であっても、極楽往生は間違いありません。只、一心に、助け給え南無阿

弥陀仏と唱えなさい。今、このように浅ましい姿の物も、完全な人間に生まれ変わる

だろう。」

と言うと、あの「身代わり名号」を、生まれたばかりの異形の上に載せました。

そして、南無阿弥陀仏
と唱え始めました。亭主を初め人々も、一心

に念仏を唱えました。

 誠に、三種病人(らい病)ですら助かるという、大乗の冥加を説き、不可思議の力

を持つ如来の誓願は、なんと有り難いことでしょう。異形の物は、動物の姿をはらりと

脱ぎ捨てて、誠の人間の形となったのでした。まったく、仏果の実りの有り難いことです。

亭主は、余りの嬉しさに、

「大変ありがとうございます。まったく、あなた様は生き仏でいらっしゃいます。お名

前は、なんと申すのですか。いよいよ仏法を広めてください。」

と、ひれ伏すのでした。蓮花上人は、

「いやいや、これは、まったく愚僧の力ではないのだよ。阿弥陀如来のお助けなのだ。

このご恩をよっく胸に刻んで、殺生の道を止め、只、南無阿弥陀仏、助け給えと唱えなさい。

きっと、目出度く往生できること、間違いありません。我々は、これから、石山寺に参

詣いたします。互いに、命があるならば、又お会いいたしましょう。さらば。」

というと、もう既に夜も明けたので、石山寺を目指して、出発して行きました。まった

く、有り難い次第です。

 

 石山寺に到着した、蓮花上人は、

「これは、大変殊勝な御山ですね。そもそもこの寺の始まりは、聖武天皇の頃、奈良の

都の東大寺大仏供養の折の事。良弁僧正(ろうべんそうじょう)が勅命を受けて、陸奥

(みちのく)より黄金を見つけ出した時に、建立されたと聞く。ここは、慈悲観音の霊

験あらたかな寺であるぞ。」

と、信心深く仰るのでした。

 さて奇遇にも、そこに、諸国修行をしていた蓮花上人の父、豊春が、参詣してきました。

蓮花上人は、

「のう、父上、蓮浄坊殿ではありませんか。私は、蓮花坊ですよ。」

と、衣にすがりつきました。久々の対面に、互いに諸国修行の旅の出来事を語り合いました。

人々を利益した、様々な物語。この親子の殊勝な心の内は、誠に有り難い限りです。

やがて蓮浄は、

「そこに居られる皆さんは、愛弟子達ですか。」

と、聞きました。蓮花上人は、

「はい、こちらからお話しようと思っていた所ですが、先にお尋ねいただきました。

これは、弾正左衛門国光の一子、形部の介国長です。我々親子を敵と狙っているところ、

私と巡り会いました。母の教えを守り、首を差し出した所、「身代わり名号」の奇瑞が

顕れ、そのまま発心して、今は、蓮切と申します。また、残りの六人も、蓮切の従者で

したが、残らず発心して、皆、私の弟子となりました。」

と、事の子細を語りました。蓮浄は、これを聞いて、

「そうであったか。今より後は、互いの悪心を滅して、共に成仏いたしましょう。さあ、

仏前にお参りいたしましょう。」

と、言うと、一同、内陣にひざまつき、

「南無や大悲の観世音。一切衆生、ことごとく、西方極楽往生の誓願、助け給え、南無阿弥陀仏。」

と、しばしの間、回向なされたのでした。

 そうしていると、不思議なことに、どこからとも無く、赤ん坊の着物がひとつ現れて、

厨子の扉に打ち掛かったのでした。人々が、おやっと思って眺めていると、父蓮浄は、

「おお、蓮花坊よ。この薄衣は、お前が幼かった時に、お前の母親がしつらえて、着せ

てくれた着物に間違い無い。これは、いったいどういうことか。この寺の住職に尋ねて

みよう。」

と、住職に尋ねましたが、心当たりが無いと言うばかりです。親子が、不思議がっていると、

突然、厨子の扉が、さっと開いたのでした。人々が驚いていると、厨子の中から、異香

が漂い、有り難いことに、自然と御帳を開いたのでした。なんという不思議なことでし

ょうか。そこには、在りし日の蓮花上人の母上が、いらっしゃいました。人々は、いよ

いよ感歎して、拝みました。その時、蓮花上人の母上は、

「久しぶりの蓮花坊。母の言葉を守り、仏道修行に勤めている様子。神妙なことです。

さて、只今の薄衣は、疑いも無き親子の証拠です。無仏の者を仏道に向かわせようとする

大慈大悲(観音菩薩)の誓願の顕れです。ですから私は、かつて人間に交わり、生活を

共にして、草芥(そうかい:ゴミ)の土に穢れたのです。このことを、眼前に見たからは、

疑問に思うことはひとつとしてありません。他力本願の勧めは、一向一心に、南無阿弥

陀仏の名号を唱えることです。ますます念仏して、衆生を済度しなさい。私の教えは、

これだけです。それでは、お別れです。」

と、有り難くも、お話になりました。蓮花上人親子、住職、随行の人々も、皆、随喜の

涙を流しました。蓮花上人は、

「さてもさても、有り難い言葉。願わくば、本当のお姿を、拝ませてください。」

と、涙ながらに問いかけました。母上は、

「それでは、疑いを晴らさせてあげましょう。よくよく、尊っとみなさい。」

と言うなり御帳を閉じました。暫くすると、厨子の中から、有り難い声が聞こえてきました。

「今在西方名阿弥陀(こんざいさいほうみょうあみだ)娑婆示顕観世音(しゃばじげん観世音)

(※今は、西方浄土に阿弥陀仏として念仏の衆生を救い、現世には観世音菩薩となって

顕れて、苦しみの衆生を救う)

願えや願え、衆生よ。南無阿弥陀仏。」

すると、御帳がさっと開いて、金色の十一面観音が、光を放って現れたのでした。

 さては、蓮花上人の母上様は、石山寺の観音様であったかと、末代までも語り継がれたのでした。

さて、それから蓮花上人は、念仏の大道心、石山寺中興開山の善知識となられたのでした。

衆生済度の御方便、二世安楽の御誓い、仏法繁盛。

有り難きとも中々、申すばかりはなかりけり。

おわり

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忘れ去られた物語たち 15 説経石山記(蓮花上人伝記) ⑤

2012年12月20日 11時45分07秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

れんげ上人伝記 ⑤

 これはさて置き、弾正左衛門国光の一子、形部の介国長は、幼少の時に父国光を豊春

に討たれたので、親の敵討ちを念願としていました。この頃、国長は、郎党六人を連れ

て、敵の行方を探索していましたが、その行方もつかめずに、無念の毎日を過ごしてい

ました。国長達は、ある時、摂津に来ていましたが、堺にいる蓮花坊という僧が、敵の

一子であることをつきとめました。国長はこれを聞いて、大変喜びました。血気無謀の若武者は、

「長年、探し回ってきた親の敵である豊春の一子が、和泉の国、貝塚の寺に居ることは

間違いない。(※浄土宗孝恩寺の可能性がある:大阪府貝塚市木積798)これより、早速

そこへ行き、奴から豊春の居場所を聞きだそう。もし、豊春の行方が分からなかったら、

せめて、奴を討ち殺し、日頃の恨みを晴らすぞ。」

と、貝塚へと急行したのでした。

 一方、蓮花上人は、堺での逗留を終えて、沢山の修行僧と共に、都を目指して北上し

ておりました。やがて、南下してきた国長一行は、大勢の僧と行き会いました。国長は、

「これは、何処に向かう僧の皆さんですか。貝塚の寺までは、まだ遠いですか。」

と、尋ねました。蓮花上人は、これを聞いて、

「さて、それは、何のお尋ねですか。」

と聞き返しました。国長は、こう答えました。

「その寺に居ると聞いた、蓮花坊という僧に、少し用があって、向かっているところです。」

蓮花上人が、

「その蓮花坊というのは、愚僧のことです。」

と、答えると、国長は喜んで、

「やあ、お前が、梅垣権太郎豊春の一子か。ここで会うと、はなかなかよ。如何に若僧

(にゃくそう)、俺を誰だと思うか。お前の父、豊春に討たれた弾正左衛門国光が嫡子

形部の介国長だ。お前の父を敵として、長年討ち殺そうと探し回ったが、とうとう会う

ことができなかった。貝塚の寺にお前が居ると聞き、豊春の行方を聞くために来たのだ。

もし、豊春が既に死んでいるのなら、せめてお前を討って、恨みを晴らさん。因果は巡

って、ここで会うとは、嬉しい限り。さあ、法師だからといって容赦はしない。覚悟しろ。」

と、息巻いて怒鳴りました。同行の僧達は驚きましたが、

「それは、如何にも無道過ぎます。例え、敵であろうとも、今は法師の身になった者を

殺そうとは、あまりも乱暴で邪見です。」

と、我も我もと前に出て、蓮花上人を守ろうとしました。中でも、大力の法師、観智坊は、

「ええ、よっく聞け。無道の者ども。髪を丸めた解脱の導者にして、仏の再来と言われ

るお方を殺そうとする大悪人め。木っ端微塵にしてくれん。」

と、飛んで掛かりました。蓮花上人は、

「やあ、騒がしい。皆さん静かにしなさい。」

と、人々を押し鎮めながら、思い出していました。

『いつか、母上が、仰っていたことが現れた。因果が巡り、敵が命を取りに来ても、

命身を少しも惜しむなと仰られていたことは、まさにこのことだな。妄語戒を破っても

父の代わりに討たれることこそ、我が身の喜びである。』

そこで、蓮花上人は、

「おお、あなたは、愚僧が父豊春を狙っている方ですか。あなたの父を私の父が討った

頃は、私はまだ幼かったので、様子の子細は分かりませんが、私の父は、その後、発心

されて出家し、山に籠もって修行なされていましたが、病を得てお亡くなりになりました。

愚僧はまさしく、あなたの敵の子です。人の為に命を捨てるのは、出家の役目。殊に、

自分の親の代わりに討たれるというのなら、これは、喜びの中でも最上の喜び。少しも

命は惜しくはありません。さあ、どうぞ。」

と言うなり、その場に端座しました。国長は、

「おお、どうして、許してやろうものか。父の代わりに、その命いただく。さあ、念仏

申せ。」

と、怒鳴ります。蓮花上人は、

「どうぞどうぞ、望む所です。皆さん、どうか心して嘆かないようにしてください。只々

念仏を唱えてください。」

と言うと立ち上がり、師匠から拝受した御開山御自筆の紺紙金泥の名号を取り出すと、

傍にあった松の木に掛けました。蓮花上人は、

「南無阿弥陀仏。一向専念無量寿仏。討たれ討たれつ、敵、味方の霊魂。成仏せよ。南無阿弥陀仏。」

と、深く回向すると、共の僧達と共に、合座(馬蹄形)に座し、合掌を胸に当てました。

「さあ、早く切りなさい。」

と、蓮花上人が言うと、国長は、太刀を抜き放ち、さっと蓮花上人の後ろに回りました。

「父の幽霊も、草場の陰で、きっと喜んでくれているだろう。」

と言うと、ちょうどとばかりに、蓮花上人の首を討ち落としたのでした。首は、あえな

く落ちました。

 ところが、次の瞬間、その首は不思議にも宙に舞い上がりました。そして首から、た

ちまち蓮華の花を開いたかと思うと、その中から「南」の一字が空中に浮かんだのでした。

皆々、はっと気が付くと、蓮花上人の首は、元通りに戻っており、名号の「南」の一字

が消えているではありませんか。国長は、

「むむ、なんと不思議な。首は確かに切り落としたと思ったが、切り損じたのか。」

と言うなり、再び太刀を振り上げると、再びはったと切り付けました。またもや首は、

ばらりと落ちましたが、やはり同じように、宙に舞い上がると、今度は、「無」の一字

に変じ、蓮花上人は何事も無かったように念仏し続けているのでした。名号からは、

「南無」の二字が消え失せて宙に浮いていました。さすが、邪見の国長達も、このよう

な奇跡を二度も見せられ、あまりの不思議に驚いて感歎すると、太刀を投げ捨てて、

「さても、さても、これほどまでの仏道の奇瑞は、夢でも見ることは無い。このような

尊い上人様に、刃を当てた我が身の咎を許してください。この上は、あなたの弟子にし

てください。」

と、涙ながらに願い出るのでした。その時、「南無」の二字は、金色の光を放って、虚

空へと飛び去りました。やがて、蓮花上人は、こう言いました。

「それは、殊勝な事です。悪心も懺悔することによって、善心菩提の縁となります。さて、

今の世に至るまで、「身代わり名号」といって、見る人も聞く人も礼拝してきたのです。

国長よ。人間の首を切るということは、例えて言えば、仏の袈裟を切って落とす事に等しいことです。

名号の奇瑞を見て、得道できたとあれば、誠に殊勝です。それでは、出家なさい。」

 やがて、国長達は剃髪しました。国長は、「南無」の二字を切って善人の心に至った

ので、蓮切坊(れんざいぼう)と名付けられました。残る六人の共達は、「切」の字を

上に付けて、切なん、切こん、切たん、切うん、切しゅん、切りんと、それぞれ名付け

たのでした。今は蓮切坊となった国長は、

「悪人の友を振り捨てて、善人の敵を招けとは、あなたのことだったのですね。有り難

いことです。ああ、有り難や、有り難や。今宵は終夜(よもすがら)、懺悔話をいたし

ましょう。」

と、喜ぶのでした。仏果(ぶっか)の縁に引き入れた蓮花上人の法力は、今の世でも、

言い様も無い程、有り難いものです。

つづく

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忘れ去られた物語たち 15 説経石山記(蓮花上人伝記) ④

2012年12月18日 16時34分46秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

れんげ上人伝記 ④

 さてそれから、時は過ぎ、蓮花丸は十五歳となりました。老母は、既に永禄の頃(1558年~1570年)

にお亡くなりになられました。母が亡くなった頃に、豊春夫婦も出家の願いを持ちましたが、

蓮花丸がまだ幼少であったので、しんよ上人は、出家を止めました。蓮花丸は、日夜、

学問に励みました。元より仏の再来でありますから、その賢さといったら、まったく如

来の御化身かと、誰もが皆、尊敬するのでした。

 ある時、蓮花丸は、勉強にも疲れたのでしょうか、ついうとうとと、眠り込んでしまいました。

さて、その枕元に母上が姿を顕しました。

「如何に、蓮花丸。昼夜の学問を怠らず、仏道に専心し、如来の報恩を尊むことは、大

変嬉しいことですよ。私は、あなたの母親ではありますが、本当は人間ではありません。

あなたの父、豊春は、幼少の時に父を討たれ、明け暮れ敵討ちの願いを、私に祈願しました。

あなたの父の親孝行の心に感心して、その本願を助けることにしたのです。私は、仮の

人間として現れて、あなたの父と夫婦になりました。願いの通りに仇討ちを果たさせたのは、

仏の道に引導するための方便です。さて、老いた母上も極楽往生されました。父豊春も

仏道に入り、修行することを望んでいます。これは、他力本願の力なのですよ。あなたは、

いよいよ出家をして、一門の眷属を引導しなさい。しかし、因果応報からは逃れること

はできません。敵の一子は、父豊春を討ち殺そうとやって来ますが、その罪は、父に来

るのではなく、あなたに巡って来ます。敵が、あなたを打ち殺そうとしても、少しも

身命(しんみょう)を惜しんではいけません。阿弥陀仏の本願の為に命を捨てるのなら、

あなたも敵も、共に成仏の一蓮托生となり、出離決定(しゅつりけつじょう:解脱すること)

は疑いありません。私は、この因果の道理を知らせるために、これまで仮に現れていたのです。

誰にでも容易くできる他力念仏の行を、更に広く人々に勧めなさい。そうすれば、又

会うこともあるでしょう。」

蓮花丸の母は、そう言うと、不思議にもたなびく白雲の上に乗り、

「夢ではありませんよ。決して母の言葉を疑ってはいけません。」

と、言い残して、空高く舞い上がりました。蓮花丸は、驚いて飛び起きると、虚空を飛

んで行く母上の姿を、有り難く拝みましたが、さすがに突然の母との別れを悲しみました。

 そこへ、父豊春が、駆け込んで来ました。蓮花丸が、事の次第を話すと、豊春も、

「おお、私にも同じ事を告げて、妻が虚空に飛んで行く夢を見た。目覚めて、妻を捜し

たが、どこにも居ない。あまりにも不思議なので、お前に知らせに来たところだ。それ

にしても、こんな珍しいことは無い。先ずは、上人様にお知らせいたそう。」

親子が、事細やかに次第を上人に語ると、上人はこれを聞いて、

「おお、そんなこともあるであろう。大慈大悲(観世音菩薩のこと)の誓願には、無仏

の衆生を救うため、妻となり子となり、様々な利益(りやく)をお与え下さるのだ。菩

薩が様々に化身して、人々を救う事は、沢山の経文に明かである。あなた方の信心が深

いので、疑いもなく、仏、菩薩が付き添ってくれているのです。そのうな奇跡があった

のなら、少しも早く、親子共々、出家するべきでしょう。」

と、言うと、早速に豊春親子に受戒を授けたのでした。やがて、剃髪し、豊春は善浄坊、

蓮花丸は蓮花坊と名付けられたことは、有り難限りです。善浄は、上人に、

「このように、有り難い身分となった上は、少しも早く諸国修行に出発し、どのような

山にも籠もって、ますます未来を願うことといたします。」

と、言うと、早速に暇乞いをして、念願であった修行の旅に旅立たれたのでした。まっ

たく有り難い次第です。

 さて、上人は、蓮花坊に、こう問いました。

「蓮花坊よ。そなたは、仏菩薩の胎内より生まれ出た者であるから、衆生を引導するこ

とのできる善知識であることに間違い無い。これから、どのような法味(ほうみ:教え)

を説いて、往生の関門を越えさせるのか。真の道理とは何か。さあ、どうだ、どうだ。」

蓮花坊は、

「私は、卑しくも、上人様に助けられて、御哀れみを深く被りました。そして、有り難

い仏法を、聴聞して参りました。その中で、最も尊きものは、阿弥陀如来の御本願です。

何故なら、無量寿経四十八願の第十八番目に、念仏の信心のみを勧めて、他の修行を勧

めてはいません。又あるいは、十回でも念仏を唱えれば、必ず往生すると説かれるのです。

一向専念無量寿仏(いっこうせんねんむりょうじゅぶつ)と言うより外に、別の方法は

ありません。往生の肝要は、ここに極まっております。」

と、鮮やかに答えたのでした。上人は、大変感心して、

「まだ年端も行かないのに、たいした悟りである。きっと立派な高僧になることだろう。

決定往生(けつじょう)往生の関門は、念仏に過ぎたるものは無い。さて、ここで修行

を重ねるのか、また諸国修行に出るのか。そのどちらでも、望む方にしなさい。」

と言うと、蓮花坊は、

「まず修行に出たいと思います。世間の憂い、無常を経験し、衆生を誡め、念仏を勧め

たいと考えます。これより、暇申し上げ、旅の仕度をいたします。」

上人は、蓮花坊の志しを殊勝に思い、

「何ひとつとして、実を結ばないという事はない。幸い、修行を望んでいる僧が多数いるので、

この人々と一緒に、諸国巡礼に出かけ、無仏の人々を、菩提の道へと引導しなさい。

さて、それでは、形見を取らせることにしよう。」

と、言うと、紺紙金泥(こんしこんでい)の名号を取り出して、

「これは、我が門の御開山様自筆の霊宝である。これを、御身にお譲りいたそう。奇特

不思議の名号である。よくよくこれを、信心しなさい。今から、御身を蓮花上人と名付

ける。よいな。」

と言うのでした。蓮花上人は、喜んで形見を拝受すると、同行の僧達と修行の旅に出たのでした。

 《以下、道行き》

さぞや仏陣三宝も

いかで哀れみ無かるらん

修行の縁を頼まんと

熊野に参り、三つの山

補陀落や、波打つ浪は、三熊野の(熊野三社)

那智の御山に、響く滝つ瀬と

心静かに、伏し拝み

これや牟婁(むろ:和歌山県から三重県)

浦山かけて遙々と

の岬を打ち眺め(那智勝浦町宇久井半島)

いつか、我が身も極楽の

台(うてな)の縁に大崎の(三重県志摩市浜島町大崎半島)

里をも越えつつ塩津浦(和歌山県海南市下津町塩津)

向かいは、和歌の浦山や(和歌山県北部)

月の夜船に頼り得て

光も差すや玉津島(和歌山県和歌山市和歌浦中)

その古は父上の

母諸共に年を得て

ここぞ、妹背の山住まい

今は、大日の誓いにて

親子諸共、出家して

菩提の岸に至る身の

頼めや頼め、弥陀の為

人は、雨夜の空なれど

雲晴れぬとも、西に行き

仏の教え、有り難し

水底澄みて、明らかに

流れも清き、紀ノ川の

渡し守さえ心地して

関の戸、あくる山口の(和歌山県日高郡印南町山口)

里、離れたる山中(大阪府南市山中渓谷)

下は、吹飯(ふけ)の浦とかや(大阪府泉南郡深日(ふけ)海岸)

父御に何時か、大川の(旧淀川)

宿にも今は和泉なる

住み慣れ給いし貝塚を(大阪府泉南地域)

修行の身なれば、他所ながらもや、打ち眺め

大鳥五社の大明神を伏し拝み(大鳥大社:大阪府堺市西区鳳北町)

信太の森の恨み葛の葉

北は、住吉、こうこうたり(住吉大社:大阪市住吉区住吉)

西、蒼海、満々と

沖より浪の打つ音は

物凄まじき、風情かな

巡り巡りて、今は早

堺の港に着き給い(大阪湾)

旅の休息、晴らさるる

かの上人の有様

殊勝なりとも、なかなか、申すばかりはなかりけり

つづく

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忘れ去られた物語たち 15 説経石山記(蓮花上人伝記) ③

2012年12月17日 16時45分05秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

れんげ上人伝記 ③

 敵の首を討ち取った、豊春親子夫婦の喜びは、この上も無いものでした。しかし、喜

んでばかりは居られません。何時追っ手が来るとも知れないと、夜半、仮の住まいを捨

てると、若を妻に抱かせ、自らは母を肩に掛けて、逃亡の旅に出たのでした。

 女子供連れで目立つ為、人目を忍んで夜になると歩き、日数を重ねて、和泉の国佐野

の里(大阪府泉佐野市)あたりにまでやって来ました。しかし、もともと、貧乏な豊春

には蓄えも無く、とうとう食べる物もなくなり、飢えに疲れ果ててしまいました。

 もうこれ以上は歩けないという所に、荒れ果てた辻堂を見つけました。とりあえず、

今夜は、ここで休むことにしようと、この辻堂を一夜の宿とすることにしました。親孝

行の豊春は、自分の疲れは露にも出さずに、母を労り、

「のう、母上様。年来の願いも叶った上は、本国に帰り、父の本領を安堵して、母上様

にも安楽に暮らせるようにと思っておりましたが、本望を遂げた甲斐もなく、食べ物も

無くなってしまいました。ここで、飢え死ぬを待つとは、恨めしい世の中です。」

と、涙を流して謝りました。母上は、

「おお、嬉しい事を言ってくれるのですね。私は、もう老木。老い先短いのですから、

飢え死にしようと、構いません。ただ、本領を安堵したお前達の姿を見られないことだ

けが心残りですが、私に構わずお行きなさい。」

と、夫婦に気遣って、自分を捨てるように言うのでした。有り難い母の心遣いに、若の前は、

「大変有り難いお心。なんとか、母上にご奉公する方法はないものでしょうか。ああ、

そうです。思い出しました。天竺のしょうえん女(不明)という方は、年老いた母が

飢え死にしそうになった時、自らの乳を与えて親孝行をしたと聞きました。私も、母上

様に乳を与えるならば、少しは飢えを凌ぐことができるでしょう。」

と、豊若を豊春に抱かせると、老母の傍に立ち寄って、

「せめて、乳をお飲みいただいて、空腹を癒してください。」

と、母乳を勧めました。まったく、これ以上の親孝行は、ありません。母は、若の前

の母乳を有り難く飲みましたが、

「ああ、嬉しいことです。嫁としてのこれまでの親孝行、返す返すも感謝しておりますよ。

この度は、御身の切なる願いであったので、乳を頂きましたが、そのようなことは、二

度としないで下さいよ。不憫の上にも愛おしい孫の食事を、どうしてこの婆が奪うことが、

できますか。こんな老木は捨てておいて、孫子を労ってやりなさい。」

と言って、それからは、母乳を飲もうとはしませんでした。それから夫婦は、老母を

休ませると、二人で密かに、身の成り行きを相談しました。豊春は、

「如何とも、運命尽き果てた。女房よ。あと、四、五日あれば、本国に帰り着くという

所だが、どうしようも無い。この有様では、その前に飢え死にしてしまうだろう。私や

お前は、一日二日、食べなくてもなんとかなるだろうが、母上様はもう限界である。

お前の乳を飲んでくれれば、なんとか本国に帰り着くこともできるだろうが、豊若を

気遣って飲んでくれそうに無い。この子が居なければ、母に母乳を与えることもできる

だろうが、流石にこの子を捨てることもできない。お前はどう思うか。」

と、涙を流して話します。若の前は、

「ごもっともです。母乳を飲んでいただければ、死なずに本国に帰ることができます。

この子のことを心配して、飲んでいただけないのです。お心の優しい母上様です。

不憫な事ではありますが、幼い子を何とでもして、老母に乳を与えてお連れいたしましょう。

行きとし生ける物、子の死を悲しまない物はありませんが、命長らえれば、又、子には、

恵まれる事もあります。しかし、親に別れたなら、二度と会うことはできません。恨め

しい浮き世ではありますが、母上様を労ることの方が大事です。」

と、泣き崩れました。豊春も涙ながらに、

「さても頼もしい言葉。私には実の親であるから、この身諸共失っても惜しくはないが、

お前にとっては、舅(しゅうと)であるのに、そこまで深く孝行してくれるのか。まったく、

唐土(もろこし)のとう夫人(不明)にも勝る賢女だな。また、郭巨(かっきょ:中国故事)

という者は、貧乏のため食い詰め、口減らしをしようとしだが、老母を助け、一人の嬰児

を、山の中に生き埋めにしようとしたという。その時、掘った土の中から、黄金の釜

を掘り当て、再び長者になったとか。そのような天の哀れみがあればよいが、私は、ど

の様な因果で、たった一人の子供を殺すはめになるのだろうか。しかし、私も一人しか

居ない親の為にそうするのであれば、これが天命と諦める外ない。」

と、消え入る様に嘆く外ありません。無惨にも、幼い子供は、これから殺されるとも知

らずに、父や母の顔を撫でて、戯れ遊んでいるのです。若の前は、

「ああ、世の中で、親の恩程重いものはありません。今日まで、三年の間育ててきた

幼気(いたいけ)盛りのこの子を、親の為に殺すのなら、仕方のないことです。それに

しても豊春殿。見てください。今から殺されるとも知らないで、無惨にもこの子は、無

心に遊んでいます。ああ、不憫な子です。これまでの旅の苦労も、この子が居るから耐

え忍んでこれらましたが、この子が亡き後は、どうやって心の憂さを晴らしたら良いの

でしょう。このような薄い親子の縁であったなら、なんで生まれてきたのですか。」


忘れ去られた物語たち 15 説経石山記(蓮花上人伝記) ②

2012年12月14日 12時46分26秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

れんげ上人伝記 ②

 さて、ここに哀れを留めたのは、豊春の妻、若の前でした。今は、三歳になる嬰児が

一人おりました。夫の豊春が、山において、討ち殺されたと聞き、涙に暮れておりましたが、

『二世の誓いを立てた夫が討たれ、帰らないことを嘆いているよりも、女の身であろうとも、

なんとかして、敵を騙して、恨みの一太刀を報い、夫の供養としよう。』

と、乱れる心の中で思い立ちます。しかし、後ろ髪を引かれるのは、老いた母と幼い

若君のことでした。しかし、心強くも思い切ると、思いの丈を文に書き記し、たった一人

で、敵の館を目指したのでした。

 敵の館にやってきた若の前は、門番に近づくと、

「私は、人に騙されて、都から拐(かどわ)かされて来た者です。哀れと思し召して、

下の水仕の奉公にでも、雇っていただけないでしょうか。」

と、誠しやかに言いました。門番は、若の前をじろじろと見て、こう言いました。

「これはまあ、美人な女だな。当家に女房は沢山おるが、こんないい女はいないぞ。い

ったい、何処の者だ。話してみろ。」

と、丁度そこに、外出していた弾正国光が帰宅してきました。国光は、若の前を見るなり、

その美しさに、心奪われて、めろめろになってしまいました。国光は番人に、

「そこの女は、何の用があって、ここに来たのか。」

と、問いました。番人が、

「はい、当家へ宮仕えをしたいと、参った者でございます。」

と答えると、国光は喜んで、

「由緒正しい者であるならば、それそれ、今より直ぐに奉公いたせ。」

と、にこにこして言いました。若の前は、しめしめと心の中で

『よしよし、計略通りに、入り込めた。このまま騙し通して、きっと討ち取ってやる。』

と、勇みました。

 さて、それから、国光は、仲居の女房を呼んで、

「さっき参った、旅の女を、急ぎ奥へ通せ。」

と命じました。やがて、女房が、若の前を連れてきました。国光は、入ってきた若の前が、

臆することもなく普通で居る様子を、うっとりと見惚れてしまいました。

「如何に、女。旅の者と聞いたが、生国は何処であるか。」

若の前は、都の者であると答えます。国光は、

「おお、我が故郷も都に近い所だが、いろいろ子細あって、この土地に住んで、もう長い。

今は、こんな所で無為に暮らしておるが、心は都人に劣ることはないぞ。今日は、用事

で出かけて、かなり飲んで来た所だが、せっかくの都の女。今宵は、お前を花と眺めて

酒盛りをすることとしよう。さあそれそれ、酒の用意じゃ。」

と言うと、盛大に酒宴を始めたのでした。やがて、夜も更け、家の人々も皆、寝所へと

下がりました。そこで国光は、若の前に膝枕をすると、

「まったく縁とは不思議なものよ。今日、偶然にも会ったばかりではあるが、どうも他

人とも思えない。これこそ、深い縁というものであろう。情けを掛けてくれよ。」

と、すっかりその気になって、優しい言葉を掛けるのでした。若の前は、

「もったいないお言葉です。私のような卑しい身の上の者を、召し抱えていただき、そ

の上、優しくしていただけるとは、身に余る喜びです。しかしこのようなことは、神仏

の前では、あってはならぬことです。」

と、わざと萎れて言うのでいた。その露を含んだ花の様な顔の、例えようも無い妖艶さです。

国光は、うっとりとしながら、酔いも回り、

「何を、余計なことを考えておるのだ。情けの道に、神も仏もあるものか。その様に、

他人行儀では、互いに心も打ち解けぬではないか。さあ、お前の心に任せるが、もっと

心を打ち解けてくだされ。」

と、言いながら、正体無く寝入ってしまいました。若の前は、

『さて、いよいよ機会がやって来た。その太刀を取って、胸元を突き刺して、夫の敵

を取ってやる。』と思いましたが、

『いや、もう少し待とう。失敗したら一大事だ。まだ、夜も半ば。家内の人々も、まだ

寝入ってはいない。もう一時(いっとき)も待てば、門番ども、きっと寝入るに違い無い。』

と、いろいろ知略を巡らせ、手筈を慎重に考えながら、はやる心を押し静めて、じっと

時の過ぎるのを待つのでした。

 一方その頃、豊春は、慈悲心が天に通じて、危うい難儀を鶴に助けられ、宙高く運ば

れたのでしたが、虚空を飛んで気が付くと、知らない森の中に降ろされて、呆然と佇ん

でいます。

「おお、鶴に助けられ、再び地上に戻ったとは、嬉しい限りだが、ここは、いったい何処なのか。」

と、つぶやきながら、辺りを見回すと、どうやら近くに家があるらしく、灯火の光が

見えました。豊春は、その光を頼りに、進んで行きました。忍び忍び近づいて、障子の

隙間より、そっと中を覗いた豊春は、びっくりしました。中に居たのは、疑いも無き敵

の国光が、なんと妻の膝枕で寝ているのです。

「これは、いったいなんたることか。ここは、敵の館か。それにしても、なんで、妻が

ここに居るのだ。よりによって、敵に取り入るとは。」

 さて、その時、若の前は、そろそろ良い頃だろうと、国光の太刀を取ろうとして、膝

を少し動かしました。すると国光は、目を醒まし、

「やれ、上﨟よ。最前の情けの言葉の返事はどうなったかな。さあさあ。」

と、迫るのでした。若の前は、はっとしましたが平然として、

「どうして、あなた様の仰せに背くようなことをしましょうか。しかし、今夜は、少し

お召し上がりが過ぎました。もう少しお休みになって、酔いをおさましください。」

といなすのでした。しかし、国光は、答える様も無く、またぐっすりと寝入ってしまいました。

 これを、じっと見ていた豊春は、

「ええ、悔しいことだ。俺が討たれたと聞いてあの女、自分の難儀を逃れるために、母

や若を振り捨てて、敵に所で、身を立てる気だな。くそ、憎っくき女め。この所へ、落

とされたのも天の恵み。駆け入って、女房諸共に切って捨ててくれる。」

と、いきり立ちましたが、

「いや、待てよ。俺はまだ後手に縛られたままだ。このまま駆け入っても、返って返り

討ちに遭うだけだ。年来の敵とふしだらな女を目の前にして、討つことができないとは、

天道にみすてられたか。」

と、その場で、涙にくれるしかありませんでした。

 その時、若の前は突然、太刀を取り、さっと抜いて、国光の胸に突き立てると、

「如何に、左衛門国光。私こそ、お前が討った豊春の妻女である。報いの程を知れ。」

と、一気に刺し通そうとしました。国光は反射的に起きあがり、太刀をはね除けましたが、

夢うつつのまま正体無く、若の前の突き刺す太刀を避けながら、あちらこちらとはいずり回りました。

やがて、障子に追いつめられた国光が、

「しばし、しばし。」

と、言う所で、外に居た豊春は、すかさず障子をはったと蹴倒し、国光諸共踏みつけると、

「俺だ、豊春だ。女房よ。よくぞやったり。さあ、早くこの縄を解いてくれ。」

と、大声を出しました。驚いた若の前が駈け寄って、縄を切り落としました。豊春は、

ばっと敵を取り伏せて、

「如何に国光。巡る因果を思い知れ。年来の本望、今、遂げん。」

と、国光の首を、討ち落としたのでした。

 それから豊春は、若の前を肩に担ぐと、塀の上を乗り越え、飛び越えて、家に帰った

のでした。これは、石山寺の観音様を信仰したからこそであると、人々は皆、感心したのでした。

つづく

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忘れ去られた物語たち 15 説経石山記(蓮花上人伝記) ①

2012年12月13日 11時40分03秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

天下一石見掾藤原重信(天満八太夫)正本

延宝から元禄頃

つるや板

 この説経では、大津にある石山寺の十一面観音の本地を、蓮花上人の生涯を通して説

く物語である。しかし、石山寺の本尊は、如意輪観音であって、十一面観音では無く、

蓮花上人なる人物の存在も確認することはできなかった。同じ近江の中で、十一面観音

は数多くあり、例えば渡岸寺等が有名であるが、この話しの中では、他の具体的が寺の

名称は出てこない。従って、この説経の設定は、かなり架空の設定であるということに

なりそうだが、内容的には、念仏「南無阿弥陀仏」の奇瑞を通して、浄土教の思想を語

りかける点で、十分古説経の演劇的世界を感じることができる。また、「身代わり名号」

の説話は、日本各地に残されている点からも、当時はかなりポピュラーな題材であった

と言えるだろう。

れんげ上人伝記 ①

 それ、一切の衆生は、無碍光(むげこう)を発する阿弥陀如来のお名前を聞き、生死の

苦界から脱して解脱に至ることは、ひとえに、念仏往生の一道にあるのです。

  ここに、「身代わり名号」の高僧、蓮花上人の由来を詳しく尋ねてみると、人皇百

一代、後小松天皇の世、明徳(1390年頃)の頃のことでありました。紀州の藤白(和歌山県海南市藤白)

というところに、下河辺弾正左衛門国光(しもこうべだんじょうさえもんくにみつ)と

いう猛悪無道の荒くれ者がおりました。元はといえば、近江の国高嶋郡(滋賀県高島市)

の杉山兵衛の尉(ひょうえのじょう)と言う者でしたが、志賀郡を治めていた、梅垣監

物豊重(うめがきけんもつとよしげ)を、たいした理由も無く討ち殺したので、近江の

国に居ることが出来なくなったのでした。杉山は、母方の叔父を頼って、国光と名前を

変えて、紀州の国に潜伏していたのです。それから、年月は流れ、十七年が経ちました。

弾正国光には、形部の介国長(ぎょうぶのすけくになが)という男の子が一人おりますが、

元より大酒飲みで好色、人の情けも顧みぬ、悪逆深き傲り者でした。

 

 これはさて置き、討たれた豊重の一子、梅垣権太郎豊春(うめがきごんたろうとよはる)

は、その時七歳。豊春は、幼少にもかかわらず、敵を捜し回りますが、敵の行方は知れません。

無駄に年月をすごしていましたが、十九歳の春に、敵が名を変えて、紀伊の国に潜伏し

ていることをつきとめ、母上を連れて、和歌浦(和歌山県北部)へとやってきました。

明け暮れ、敵を捜しますが、なかなか、敵の居所がつかめません。とうとう、生活にも

困窮して、賎の手業に身を落としていましました。親孝行の豊春は、七十歳になる老

母を、土車に乗せて浜辺に出ては、潮を焼いてその日を過ごしていたのでした。

 さて、浜では、沢山の海女達が、潮汲みに出ています。海女達は、豊春親子を見ると、

「さてさて、あの人は、毎日、老母を土車に乗せて浜にやって来て、仕事の合間に母を

労る、その様子は、まったく奇特なお方であるな。私たちも、そんなふうになりたいものだ。」

と、話すのでした。そんな海女達の中に、若の前という大変優しい女がおりました。若

の前は、汲んだ潮を下ろして、豊春の傍に立ち寄ると、

「あのう、私は、この浦の潮汲み海女ですが、あなたのお姿を見ていると、卑しい賎の

仕事をするような方には見えません。特に、毎日、老母を乗せて土車を曳く、その孝行

深いお姿に大変、感心しています。」

と、優しげに声を掛けました。豊春は、

「ああ、そのような、お優しいお言葉掛けは、どのようなお生まれの方でしょうか。

私はと言えば、かつては、知る人は知る身分ではありましたが、ある事件によって、国

を出て、只一人の母上に、貧苦の苦しみを遭わせることになってしまいました。このこ

とが、なんといっても、一番の悲しみです。」

と、力なく答えたのでした。若の前は、これを聞くと

「まったく、世の中というものは、どうなるか分からないものです。私も、元は卑しい

身分の者ではありませんでしたが、父にも母も死んでしまい、住むところも無くなり、

頼むところも無いままに、仕方なくこのような仕事をするようになったのです。

 ところで、あなた様は親孝行で、お情け深い心がおありのようです。私を哀れとお思

いになり、もらっていただけるなら、私も一緒に働いて、老母の面倒を見たいと思います。

あなたが、山へ行き、私は浜へ出て、あの母上を自分の母と思って、一緒に孝行させてください。」

と、言うのでした。豊春は、これを聞いて、

「先ほどよりの情け深いお話。特に、老母を共に労ってくれるという志しは、大変嬉し

いことです。しかし、母上のお気持ちを尋ねなければ、お答えできません。母上のお心

次第にしたいと思います。それでは、こちらへ。」

と、母の傍に連れて行き、事の次第を母に語ったのでした。母はこれを聞いて、

「さてもさても、姿と言い、心といい、由緒ありげに見受けます。このような、世にも

浅ましい婆の面倒を見ようとは、これも前世の縁の結びかもしれませんね。

 のう、豊春よ。このような優しい女性こそ、末頼もしい奥方になるでしょう。一緒に

庵に連れて帰りましょう。さあさあ、早く早く。」

と、言いました。こうして、仮初めながら、浜路において、親子夫婦の契約をなされると庵に帰り、

三人で、仲睦まじく暮らし始めたのでした。

 さて一方、ある時、弾正左衛門国光は、一族郎党を連れて藤白峠に陣を張って、狩り

を行いました。岩代(和歌山県日高郡みなべ町)の山谷に入り、狩りに興じておりました。

そのうちに、関山という大変険しい山中の松の大木に、鶴の巣を見つけたのでした。

勢子達は、


御礼 八王子車人形公演

2012年12月09日 23時44分35秒 | 公演記録

12月9日(日)の八王子車人形公演では、多くの方々からご声援をいただきまし

た。この場を借りて、篤く御礼申し上げます。説経、義太夫、新内と、三者三様の

浄瑠璃の競演となり、私も大変、勉強になりました。

写真は、リハーサルの様子です。

「説経節 出世景清大仏殿記 目玉献上の段」 頼朝が、五條の狩衣を、景清に与え、仇討ちの代わりとさせる場面

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「義太夫節 日高川入相花王 渡し場の段」 安珍を追いかけてきた清姫が、日高川に飛び込む場面

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「新内節 明烏夢泡雪 雪責めの段」 吉原山名屋の亭主は、遊女浦里を雪の中で折檻して、馴染みの時次郎との仲を裂こうとする場面

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終了後の懇親会で、人間国宝鶴賀若狭掾師匠、竹本越孝師匠とお話をさせていただく機会に恵まれました。

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出世景清大仏伝記目玉献上の段 12月9日 いちょうホール

2012年12月05日 23時12分46秒 | お知らせ

 既にお知らせしておりますが

http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20120904

八王子車人形公演が近づいて参りました。まだ、若干の余裕があるようです。

義太夫、新内も併せて、堪能できると思いますので、お時間の有る方は是非

お出で下さい。

説経節「出世景清」は十年ぶりの公演で、2回目となります。平成14年の公演

時は、まだ小若太夫でしたので、若太夫となってからは初めての「景清」という

ことになります。源頼朝と平家の残党景清が、互いの立場を越えて、尊敬し合う

のですが、それ故に無惨な結末を招きます。台詞回しが非常に難しい浄瑠璃です。

西川古柳座での稽古の様子

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