猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 34 古浄瑠璃 よりまさ ⑥終

2014年12月29日 17時25分59秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
よりまさ⑥終

 平家の軍勢二万余騎が、平等院を取り囲んで、鬨の声を上げています。頼政は、討ち死にの覚悟をすると、装束を整えました。赤地色の直垂に、緋縅の鎧を身につけました。猪早太は、黒糸縅の鎧を着けました。主従二人は、切って出ると、
「やあ、如何に。平家の軍兵ら、手並みの程をよっく見よ。」
と、大勢の中に割って入り、ここを最期と戦いました。頼政の手に掛かった者は、五十三名。残りの者どもを、四方へばっと追い散らすと、平等院へと引き戻り、いよいよ切腹と、思い定めました。鎧を脱ぎ捨てると、扇を打ち敷いて座りました。辞世の句は、
『埋もれ木の 花咲く事も なかりしに 身の成る果てぞ 哀れなりけり』
そうして、腹を十文字に掻き切ると、猪早太が介錯しました。早太も自ら、腹を掻き切ると、臓物を掴んで繰りだし、念仏を唱えるのでした。
 二人の首が清盛の所に届けられました。清盛は喜んで、
「これで、もう国々に、気になる源氏もいなくなったわい。それでは、平家一門で官職を思いのままにしてやろう。」
と、嫡子の重盛を小松の太夫に任ずるなど、昔から位の高かった公家大臣を差し置いて、平家の無位無官の者達を、続々と、中将、別当、宰相、右大臣、左大臣と任官して行ったのでした。
 上古も今も末代も、例し少なき次第とて、感ぜぬ者こそ、なかりけり
おわり

忘れ去られた物語たち 34 古浄瑠璃 よりまさ ⑤

2014年12月29日 16時56分06秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
よりまさ⑤

さて、特に可哀想でならないのは、都に残された頼政の家族です。御台様は、頼政が、平等院で、平家に討たれたと聞くと、
「かねてより、こうなることは、予期していたことですから、今更、歎く事もありませんが、
やっぱりあの時、夫の手で、殺して貰っていたのなら、こんな思いをしなくても済んだものを、無残にも、あの幼い者達を悲しませる事になってしまった。」
と、口説くのでした。御台所は涙ながらに、子供達に向かい、
「お前達の父は、君のお供をして、亡くなられました。この先、頼政の妻や子として捕らえられ、そこらを引き回され、屈辱を与えられ、殺されるでしょう。なんという惨い(むごい)ことでしょう。」
と、聞かせるのでした。子供達が、一度にどっと泣き叫ぶ有様は、目も当てられません。御台所は、更に、
「さあ、子供達よ。そんな辛い目に会う前に、閻魔様の前で、父が来るのをまつのですよ。さあ、念仏を唱えなさい。」
と勧めるのでした。無残にも若君達は、父に会えると思って、幼気な手を合わせ、
「阿弥陀仏や弥陀仏」
と、四五回、唱えるのでした。御台様は、目も眩れ、心も消え入るばかりですが、思い切って、兄の千代若を引き寄せると、二刀に刺し殺したのでした。これを見た、弟は驚いて、
「ああ、恐ろしの母上や。私を許して下さい。」
と、逃げるかと思えば、殺す母に縋り付いて泣きじゃくります。母は、
「何を言うのです。千代鶴。お前一人、行かないのですか。父も母も、兄も一緒に行くのですよ。」
と言うなり、心元にぐさりとひと刀に突き刺しました。それから、御台様は、肌の守りから朱艶の数珠を取り出すと、
「只でさえ、五障三従(ごしょうさんしょう)に生まれて、女は罪が深いと聞きます。どうか、これから地獄に行く私を、お助け下さい、弥陀仏様。南無阿弥陀や南無阿弥陀や、南無阿弥陀仏、弥陀仏。」
と唱え、これを最期の言葉として、自害なされたのでした。これは都の物語。
 
 さて、平等院に立て籠もった頼政の軍勢は、渡辺党を始めとし、三井寺の法師達に至るまで、壊滅状態となりました。最早これまでと思った頼政は、高倉の宮に
「味方は、悉く討たれました。頼政は、此処で討ち死にを思い定めましたので、君は、これより南興福寺を目指して落ち延び、世の成り行きを見定めて、必ず本意を御遂げ下さい。」
と、涙ながらに申し上げましたが、高倉の宮は、
「今回、謀反を思い立ったのも、張良(ちょうりょう)よりも頼もしく、樊噲(はんかい)にも勝るお前を頼りにしたからであるぞ。今更、ここで、お前と別れたら、いったいどんな事になるのか、想像もつかない。いったいどこまで落ちて行くのか検討もつかない。」
と涙ぐんで、狼狽えるばかりです。頼政が、
「良き大将という者は、攻める時には、十分に攻め込み。引くべき時には、さっと引くものです。」
と、いろいろと賺し宥め(すかしなだめ)ますと、高倉の宮は、ようやく覚悟するのでした。それから頼政は、仲綱を呼ぶと、
「おい、仲綱。お前は、君を守護して南へ落ち延びよ。そして君を、父とも兄とも敬って、しっかりと忠節を尽くすのだぞ」
と、言い含めるのでした。仲綱は時に十五才。まったく、鳳凰は、卵の中に居ながらにして、宇宙を飛び越える翼を持ち、龍の子は、一寸足らずの幼いうちから、雨を降らせることができるというのは、まさにこの子のことです。少しも憶せず、言うことには、
「これは、父上のお言葉とも思えません。二十にもならない、この仲綱が、大事の戦をほったらかして、どこかへ落ち延びるとは、一体どういう事ですか。どこかに落ち延びるにしても、ちゃんと、敵を滅ぼす計略をお立て下さい。あなたは、保元平治の合戦で、度々勝ち抜いて、天下に名を轟かせた弓取りではありませんか。私が防ぎ矢を射て、父も君も共に落ち延びさせ、然る後に、腹切って死ぬのなら、父の為には孝行。君の為には忠義の道ではありませんか。」
と、一歩も引きません。そこで頼政は、
「おお、よくぞ言った。仲綱よ。お前の言う事は、確かに理に適って、当然である。しかし、心を鎮めて、良く考えてみよ。親子諸共に討ち死にすれば、一体誰が、君を助けて、御世に送り出すのだ。先ず今は、何とかして君を落ち延びさせ、やがて、御世に出だすことができたなら、それこそが孝行ではないのか。頼政の命令に背く仲綱は、未来永劫に勘当だぞ。」
と説得するのでした。さすがの仲綱も、これに反することはできません。泣く泣く親子は暇乞いをするのでした。そうして、伊豆の守仲綱は、高倉の宮を守護して南、興福寺へと落ちて行きました。兎にも角にも、頼政親子の心の内の悲しみは、何にも例え様がありません。
つづく

忘れ去られた物語たち 34 古浄瑠璃 よりまさ ④

2014年12月29日 11時56分26秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
よりまさ④

《道行き》
扨も其の後、源三位頼政は、宮を誘い奉り、大和路指して落ちらるる
通らせ給うは、どこどこぞ
新羅の社、伏し拝み(滋賀県大津市)
大関小関打ち過ぎて、東を見れば水海の(琵琶湖)
只、茫々として、波清く
西を、遥かに、眺むれば
峰の小松に訪れて、関山関寺、伏し拝み
行くも帰るも、逢坂の
一本薄(ひともとすすき)の陰よりも
筧(かけい)の水の絶え絶えに
久々井坂(不明)、神無しの(京都府山科区神無森町)
早や、醍醐にぞ差し掛かり(京都府伏見区醍醐)
木幡(こはた)の里をば伝い来て(京都府宇治市木幡)
宇治の里にぞ着き給う

 三井寺と宇治までは、僅か三里ぐらいの道のりでしたから、関所での休みも取りませんでしたが、高倉の宮は、その間に六回も落馬されました。昨夜、一睡もしていなかったからでした。そこで、高倉の宮を休める為に、平等院に御座を設けて、御休息していただくことになりました。一行が、平等院へと集結すると、猪早太は、平家の襲来に備えて、宇治橋の真ん中、三間余りの橋板を引き剥がすと、源氏の白旗を立てました。
 都の六波羅では、大将清盛が、一門を集めて、
「兵庫の守頼政は、高倉の宮に、謀反を勧め、南へと落ち行くとの知らせが入った。急いで追っかけ、討ち滅ぼせ。」
と号令を掛けました。平家の将軍は、左兵衛の尉知盛(とももり)、本三位の中将行盛(ゆきもり)、左中将重衡(しげひら)、薩摩の守忠度(ただのり)。侍大将には、越中の二郎兵衛、上総の五郎兵衛、飛騨の判官、前司の判官、上総の五郎、悪七兵衛景清。平家の軍勢、三万余騎が、宇治橋へと押し寄せました。しかし、橋板が剥がされていて、渡る事ができないまま、徒に時を費やしました。その時、平家方の侍で、下野の住人、年は十八の足利又三郎忠綱という者が、
「この川は、近江の国の水海(琵琶湖)から流れてくるのであるから、いくら待っても、水が引くという事は無い。こんな所で、ぐずぐずしていて、源氏の軍勢に襲撃されたら、一大事であるぞ。浪間を分けて、先陣せよ。」
と、大音上げて、川に駆けて飛び込めば、勇められた強者三百余騎が、一斉に川へと乗り入れました。白波を立てるその有様は、群れ居る叢鳥が一斉に飛び立ち、羽音をたてるが如くです。更に、忠綱は、
「この川は、流れが速く、乱杭もあるぞ。手強い川だから油断するな。水が逆巻く所あれば、岩が隠れていると思え。弱い馬を下流に回し、強い馬を川上に立てて守れ。流された者があれば、弓筈(弓の先)を延ばして助け上げよ。互い助け合い、力を合わせて渡り切れ。」
と、号令するのでし。そうして、この大川を、一騎も失わずに渡りきったのでした。これを見ていた平家の軍勢は、赤旗を差し上げて、鬨の声を上げました。忠綱は、対岸に上がると、大音声で呼ばわりました。
「只今、ここに進み出でたる強者を誰と思うか。下野の住人、足利又三郎忠綱であるぞ。年積もって十八才。宇治川の先陣は我なり。」
さて、源氏方からは、渡辺党の大将、木村の判官重次が、名乗って、
「天晴れ、大剛一の忠綱に、見参せん。」
と飛んで出ました。忠綱は、
「おお、互いに良い相手だ。さあ、来い。」
といって、馬上で互いに組み合うと、双方、両馬の間にどうと落ちるのでした。忠綱は判官重次を取り押さえると、判官の首を掻き切るのでした。そうして、敵味方入り乱れての合戦の火ぶたが切って落とされました。源氏の方から出てきた二人の法師は、
「園城寺(三井寺)に隠れ無き、筒井の浄妙明春(みょうしゅん)」
「同、一来法師(いちらいほうし)。寺門(三井寺)他門に憎まれて、その名を上げた悪僧だ。」
と名乗ると、東西南北縦横無尽に走り回り、手にした長刀を蜘蛛手結果(くもでかくなわ)十文字、八つ花形にぶん回して、ここを最期と奮戦しました。この二人が、切り伏せた平家方の軍兵は、380人。残りの軍勢を四方へ追っ散らして、ふと、我が身を見て見ると、夥しい傷で血だらけです。明春は、
「ええ、これ以上は、防ぎ様が無い。最早、これまでぞ。一来。」
と言うと、師弟主従は、南の方へと落ちて行くのでした。明春・一来法師の手柄を褒めない者はありませんでした。
つづく

忘れ去られた物語たち 34 古浄瑠璃 よりまさ ③

2014年12月29日 10時21分07秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
よりまさ③

 兵庫守源頼政は、御殿の上の鵺退治で、その名声をさらに高めました。しかし頼政は、そんな事よりも、奢る平家に押さえ付けられている、源氏の無念を、どう晴らそうかと日夜、思案していました。そうして、治承四年の夏の頃、高倉殿(以仁王)の館を尋ねた頼政は、高倉殿に謀反を勧めたのでした。高倉の宮は、
「よし、それでは八幡へ参詣いたしましょう。」
と言って、戦勝祈願に社参するのでした。八幡様もお悩みだったのでしょうか、ご神体が顕れて、社壇の回りを漂ったので、人々は大変驚いたということです。
 ところが、頼政の軍勢といっても、渡辺党の省(はぶく)、授(さずく)、覚(さとる)、競(きおう)以下、三百余騎程度しかおりません。そこで頼政は、三井寺の法師の力を借りることにしました。高倉の宮を三井寺に護送した後、頼政は、御年十五才になる嫡子、伊豆の守仲綱(なかつな)を連れて、近衛河原の自宅に一度、戻りました。
 頼政は、御台所を近付けると、
「共に年老いて、念仏を唱えて暮らすのが本来だろうが、わしは、老いても武士であるから、甲冑、弓矢を携えて、老いの名を残す為に出陣いたす。おまえも一緒に連れて行きたいとも思うが、戦場に妻子を伴うわけにも行かぬ。もしも、討ち死にしたなら、若達を形見として、忍んで生きながらえ、後世を弔ってもらいたい。ただし、伊豆の守仲綱は、後ろ楯として連れて行くぞ。」
と、涙ながらに言うのでした。驚いた御台は、
「これは、まあ、なんという事でしょうか。女の私独りで、五つや三つの若達を、どうして守って置けましょうか。敵の手に掛かって死ぬよりも、どうかあなたの手で殺して下さい。」
と言って、泣き崩れました。日頃、鬼神と言われた頼政も、今の別れの悲しさに、
「例え、朝、出陣し、夕べに帰れたとしても、名残惜しい思いをするであろうに、まして、此の度は、再び帰る当ての無い戦。この頼政ですら、目が眩れ、心も潰れる。ああ、こんな悲しみを味わうくらいなら、妻も子も持つべきではないものだ。」
と、涙に暮れるばかりです。御台様は、零れる涙をぬぐい、子供達に向かい、
「果報のある人の子は、成長して年老いるまで、親に付き従って生きて行くのに、お前達は五つや三つで、親に離れ、なんと親に縁の無い子供たちでしょうか。今夜、父に別れたなら、明日からは、夢の中でしか会えないのですよ。よく父の姿を、心に刻みなさい。」
と、言って号泣するのでした。子供達は、事情はよく分かりませんが、
「父よ、父よ。」
と、泣きつくので、頼政は、堪えかねて、
「夫婦妹背の縁の深さに比べたら、滄海さえも浅く、親子の契りの高さは、例え須弥山であろうとも叶うものではない。そんなに、歎いては、この頼政の弓矢の傷、未練の基になるぞ。今は、ただ我慢して、隠れているのだ。事が穏やかに済めば、また、会うこともできよう。」
と、言い捨てると、ふっつと袖を払って、心強くも立ち上がるのでした。
 武士が、一度番えた弓を下ろすわけには行きません。頼政は、只一筋に思い切り、嫡子仲綱と、親子諸共に、三井寺へと急行したのでした。三井寺に立て籠もった軍勢は、渡辺党をはじめ三百余騎、三井寺法師が三百余騎、その外の強者が八百余騎でした。頼政は、
「この軍勢では、平家の大軍を防ぐのは、難しい。これより、南に向かい、興福寺の衆徒を味方につけるぞ。高倉の宮をお守り申せ。」
と、号令するのでした。かの頼政が心中は、天晴れ、頼もしいばかりです。
つづく

忘れ去られた物語たち 34 古浄瑠璃 よりまさ ②

2014年12月27日 15時24分03秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
よりまさ②
 都の人々を悩ます化け物を、祈祷では封じ込めることができませんでした。内裏では、論議百出して喧喧諤諤です。その中で、徳大寺の左大臣(実能:さねよし)は、
「目に見えぬ物に対しては、祈祷も効くであろうが、この化け物は、形を現すくせ者である。誰か武士に命じて、退治させては如何か。」
と、言いました。それでは、試してみようということになり、源平の両家の中から、化け物退治に相応しい武士を、選びました。選ばれたのは、源の頼政でした。早速に勅使が立ち、頼政が召されました。こうして、頼政に、化け物退治の勅命が下ったのでした。
 館に戻った頼政は、郎等の猪早太(いのはやた)を呼んで、こう告げました。
「この程、都に出没の化け物を、射落とせとの宣旨を給わった。どうしたものだろうか。」
早太はこれを聞くと、気色を変えて、
「これは、我が君のお言葉とも思えません。考えるまでもありません。源平両家の中から選ばれて、化け物退治の命を受けた以上は、この早太めに退治の役を御命じ下さい。例え、十丈、百丈の鬼神であろうと、退治してみせまする。もしも、射損じたその時は、御首を給わり、腹、十文字に掻き切って、死出の山まで御共いたします。」
と、迫りました。頼政は、
「いや、これも、お前の心底を、確かめる為だ。さあ、源氏の名を濯ぐ時ぞ。用意をいたせ。」
と答えると、早速に出陣の用意をしました。頼政は、赤地色の狩衣に、直垂、小袴を身につけ、早太は、黒糸縅の鎧を着ると、三尺八寸の「骨食」という太刀を差しました。
 頼政が、化け物退治をするというので、公卿大臣は言うに及ばず、源平両家の名だたる人々が、内裏につめかけて、大騒ぎです。頃は五月の闇の夜。正体不明の化け物を、射落とす事が出来るのか、武士としての運の極めでもあります。皆々、固唾を飲んで見守る中、頼政が、内裏の広庭に入りました。重藤の弓に大の雁股(かりまた:矢の種類)を番えて、化け物が現れるのを、今や遅しと待ち構えておりまと、午前0時を廻った頃のことです。東三條の森から黒雲が湧き起こりました。御殿の上を這いずり回り、火炎を吹きながら、雄叫びを上げています。この時、頼政は、
「南無八幡大菩薩。」
と、心の中で、祈念して、ひょうどとばかりに矢を放ちました。はたと手応えがありました。化け物が、御殿の庭にもんどり打って落ち、虚空に逃げようと悶えるところに、猪早太が駆けつけて、取り押さえ、九つの太刀を浴びせて、刺し殺したのでした。人々は、やったとばかりに、どよめきました。急いで火を灯して見て見ると、頭は猿、尾は蛇、手足は虎の様で、その鳴き声は鵺(ぬえ)にそっくりの化け物でした。余りに気味が悪いので、七条河原に捨てられたのでした。御門は、その武勇に感激して、頼政に「獅子王」という名の御剣を褒美に取らせました。弓の名人と言えば、唐には、雲上の雁を射落とした養由(ようゆう)。我が日本に於いては、御殿の上を射た頼政であると、感動しない人はおりませんでした。
つづく

忘れ去られた物語たち 34 古浄瑠璃 よりまさ ①

2014年12月25日 18時31分43秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
「よりまさ」とは、源頼政のことである。以仁王(高倉の宮)が、平家追討の令旨を出すに至るのは、頼政が平氏打倒を持ちかけたからである。その辺りの消息は、平家物語に詳しい。この古浄瑠璃は、平家物語をベースとして、頼政の鵺(ぬえ)退治と、平等院・宇治川の合戦の様子を描いている。
出展:古浄瑠璃正本集第1(21)「よりまさ」天下一若狭守藤原吉次正本。刊期は、正保三年(1646年)。版元は、二條通丁子屋町 とらや左兵衛。

よりまさ ①
清和天皇の第6子、貞純親王より二代後の多田満仲(源満仲:まんじゅう)。その満仲の嫡子、源頼光より更に三代の後胤であり、三河の守源頼綱の孫であり、兵庫の守源仲政の子であるのが、源頼政である。
 さて、頼政は、大将として保元の合戦を戦いました。勝ち組だったので、殿上人にはなりましたが、平家の人々と比べれば、たいした恩賞も無いままでした。これを、長年、恨みとしていた頼政は、やがて打倒平家の野望を巡らすのでした。しかし、この企みは、やがて六波羅の知れる所となりました。清盛は、直ちに一門を集めると、
「兵庫の守(頼政)には、我等平家を滅ぼし、天下を治める野心があると聞く。かの頼政の力など知れたもの、攻め寄せて、絡め取り、平家一門を更に勢い付けよ」
と、言うのでした。しかし、一門の者達は、色よい返事をしません。すると、嫡子重盛が進み出て、
「恐れながら、申しあげます。あの様な微力な者が、昼夜、付け狙って来たとしても、何の危害となりましょうや。頼政の様な似非者(えせもの)を討ち取ることは、簡単ですが、宣旨、院宣の無い私戦をするならば、上を軽んずる事になります。その上、検使の軍勢をも相手にしなければならなくなります。これまで、上を重んじて、御門を敬い、平家の運を開いて来たではありませんか。どうか、只々、理を曲げて、この戦を思い留まり下さい。」
と、諫めるのでした。重盛が、どうしても譲らないので、流石の清盛も折れたのでした。小松殿(重盛)の心を褒めない者は、ありませんでした。
 これは、源平両家の物語。さて一方、内裏では、不思議な事件が起きていました。東の方の三条の森から、黒雲が湧き上がり、火炎を噴き出します。形はよくは見えないのですが、蜘蛛の糸を吐き出して、天上を這い回ったり、雲の中を飛び廻ると言った次第です。御門は、ひどく心配をなされました。不思議な事が起こったと、人々も大騒ぎです。公卿大臣は、集まって善後策を話し合いました。結局、貴僧高僧を呼び集めて、大法・秘法を尽くしましたが、化け物を封じることはできませんでした。
つづく

アートミックスジャパン 新潟 2015 参加決定

2014年12月20日 08時11分48秒 | お知らせ
アートミックスジャパンへの3回目の出演が決まりました。
平成27年4月25日(土)12:20より 於:りゅーとぴあ能楽堂
演目は新作になる「角田川」です。場面は終段の「梅若塚の段」ですが、母の道行きを付けて、経過を分かりやすく構成しました。ご期待下さい。詳細は以下のサイトをご覧下さい。

http://artmixjapan.com/

猿八座 終い稽古

2014年12月15日 19時50分55秒 | 猿八座
今年も猿八座に、多くの御声援をいただき、誠にありがとうございました。午年も残り僅かとなりましたが、雪の新潟で、終い稽古をしました。稽古場からの雪景色

大雪の為に来られない座員もいたので、まとまった稽古になりませんでしたが、新弟子が入りましたので、基本の所作を、みんなで稽古いたしました。

今年は、新作と次々と創作する年でしたが、来年はじっくりと熟成していきたいものです。今後とも、宜しくお願い致します。

猿八座 新春公演 「平家と源氏」

2014年12月02日 17時10分10秒 | お知らせ
「源氏烏帽子折」と、見せてすんなり読めた方は、あまり居ませんでした。多分、私も読めなかったと思います。「げんじえぼしおり」は、元禄3年(1690年)、近松38歳の時の作品です。今回は、平家琵琶と対比して、観て戴くという趣向になりました。又、寒い季節のど真ん中ですが、宜しくご予定下さい。



簡単に「源氏烏帽子折」の筋を紹介しておきます。平治の乱で、敗走した源氏方の大将、源義朝(よしとも)は、いわば、身内の裏切りによって、殺されてしまいます。(1160年)清盛が、源氏狩りを命じたので、義朝の側室、常磐御前は、三人の子供を連れて落ち延びます。この子供が、今若、乙若、牛若ですが、今若を頼朝、乙若を範頼としている所は、史実は異なる点です。牛若は、ご存知の通り後の義経です。
 今回の演目では、全五段の浄瑠璃の中から、次の部分をご覧いただきます。

第1:竹馬の場・・・常磐親子は、下の醍醐に落ち延び、兄弟は父の敵討ちを誓い合います。
          今若と乙若を寺子屋に送り出した後、義朝を殺害した長田親子が常磐
          を探索にやって来ます。とうとう。常磐と牛若は、捕らえられてしま
          うのでした。
第1:卒塔婆引の場・一方、義朝の死を悼んで、家臣の比企の藤九郎盛長と、渋谷の金王丸
          は、墓参りにやって来ますが、墓所でばったりと出会います。主君を
          失って、源氏が没落したのは、お前のせいだと互いに罵り合い、大喧
          嘩となり、あげくに卒塔婆を奪い合って、へし折ってしまうのでした。
          最後には仲直りして、源氏の再興を誓い合いますが、そこに、捕らわ
          れた常磐御前が連行されて来ます。盛長と金王丸が飛び出して、敵の
          長田太郎(子の方)を討ち取り、常磐御前と牛若を救出するのでした。

第2:宗清館の場・・常磐親子は、更に落ちて行きますが、雪の伏見で、行き暮れてしまい
          ます。微かな明かりを見つけて、宿を乞いますが、その家は、平家の
          侍、弥平兵衛宗清の家でした。出てきた女房は、盛長の妹(白妙)な
          のですが、夫の手前、源氏の落人を泊めることはできないと、断るの
          でした。常磐親子が、軒下で凍えていると、宗清が帰ってきます。常
          磐親子であることに気が付いた、宗清は、見ぬ振りをして、常磐親子
          を落ち延びさせるのでした。その様子を見ていた兄の盛長は、宗清に
          礼を言って、東へと下って行きました。

今回は、ここまでです。第3は、この浄瑠璃の題名にもなっている場面で、「烏帽子折名盡(なづくし)」です。牛若が元服する為に、烏帽子折を求めるのですが、三条烏丸という烏帽子屋の娘(東雲)と恋に落ちるという、艶めかしい場面です。第4は、「田村川合戦」の場です。烏帽子屋の主、五郎太夫が恩賞目当てに密告したので、義経は、平家方に追われて、田村神社で戦いになりますが、東雲、白妙が加勢して、平家の軍勢を蹴散らし、義経一行は、東に落ちて行くのでした。第五は、義経が各地を宮参りして戦勝祈願し、源氏の再興を願う所で終わります。

さて、一方の平家琵琶ですが、調べてみたところ、平家物語の第九に「老馬(ろうば)」、第十一に「弓流」がありました。
「老馬」:義経の軍勢が一の谷に向かう時に、不案内な山道を切り抜ける為に、別府小太郎の進言により、老馬を先に立てて道案内させるという話しです。
「弓流」:有名な「那須与一」の話しの後で、小競り合いになります。義経は、平家方の船を馬で海中まで追いますが、船上より熊手を掛けられ、弓を落としてしまうという話しです。必死になって、義経が弓を拾った理由というのは、敵に拾われて、源氏の大将が、こんな貧弱な弓を使っているのかと思われたくないというものでした。

源氏烏帽子折に出て来る義経は、三歳から元服(16歳)まで。一の谷を攻める義経は二十六歳です。この対比もおもしろいかもしれませんね。