猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語 28 古浄瑠璃 村松(1)

2014年03月22日 12時09分14秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 古浄瑠璃正本集第1(6)として収録されているのは、「むらまつ」である。寛永十四年(1637年)に、京都の草紙屋太郎左衛門から出版されている。内容的には、既に流布していた説経のモチーフを散りばめているが、全体に言葉遣いや話の展開がぞんざいに感じる。その太夫は不明である。

  ところで、この物語には、おそらく元になったと思われる伝説がある。宮城県気仙沼の羽黒神社(宮城県気仙沼市後九条271)を中心とした伝説を先に見ておこう。

 今からおよそ千百六十年前、嵯峨天皇の弘仁年間、五條民部中納言菅原昭次卿が行くえ知れずとなった妻子(玉姫と一若)を捜し求めて、陸奥の国にやってきた。そこで、神頼みをしたのが、羽黒権現だった。すると二羽の霊鳥が導案内に飛び立ち、今の 陸前高田市米崎町あたりに着くことになる。そこでなれない田植え仕事をしている妻子とめぐり逢えたという話だ。 昭次卿は羽黒権現の神恩に感謝し、当時は 小さな祠であったのをりっぱな社殿とし、 玉姫の守り本尊であった聖観世音像をお祀りして神社を中心に地域の発展に尽くしたのだという。現気仙沼高校付近は昭次卿のやしき趾であったといわれ、卿を祀る祠があるとのことである。また羽黒神社の南西にある 大塚神社は昭次卿の墓所といわれており、この辺一帯を中納言原と呼んだということである。つまり、現在の気仙沼の発祥の伝説が、この中納言伝説である。

 むらまつ(1)

   五条壬生(京都市下京区)の大納言は、中納言殿をお育てになられました。その乳母である蔵人というのは、この私です。

  実は大納言殿は、嵯峨天皇にお仕えになられ、津の国(大阪:兵庫)播磨(兵庫)近江(滋賀)の三カ国を知行されて、何の不自由もありませんでしたが、三十路になられてもまだ、お子様が一人もおいでになりませんでした。そこで、大納言殿は、日吉大社(滋賀県大津市坂本)に参籠されて申し子をなされたのです。深く祈誓なされたので、その霊験が現れて授かった御子が、今の中納言殿なのです。

  さて、この中納言の后として、四条大宮(下京区)の大臣に娘を迎えることになりました。ところが、どういう訳か、中納言は気に入らず、すぐに大宮へ送り返えしてしまったのでした。そして、出家をしたいと言い出しました。ようやく授かった跡取りを出家にする訳には行きません。困った父の大納言は、様々と手を尽くして、なだめますが、中納言はにこりともしません。この事を聞き及んだ御門は哀れんで、

 「人の心を、慰めるのであれば、国司にさせるのが一番良いであろう。東にある相模の国は、心の優しい国であると聞いておる。中納言には相模の国、大納言には、武蔵の国の国司をそれぞれ三年の間、任命するから、向こうでゆっくりして参れ。」

 との宣旨をくだされたのでした。そこで、大納言、中納言親子は、相模と武蔵に下向されたのでした。

  さて、相模の国の住人に、村松という家がありました。その家には、都でも見つからない程大変美しい娘が居りました。やがて娘は、中納言と仲良くなり、子供ができました。この子の名を一若と言います。中納言の御寵愛は、ますます深くなりましたが、三年の任期は既に過ぎ、もう五年もの月日が流れてしまったのでした。都からは、早く上洛せよとの勅使が何度も来ましたが、大納言だけを上洛させて、中納言は尚も相模に留まったので、とうとう御門の逆鱗に触れてしまいました。

  大納言は既に、沖の嶋(福岡県)に流罪となり、今は、中納言を連行するために、都より梶原判官家末と館の判官満弘が、三百余騎を引き連れて、相模の国へ押し寄せていました。

 「御上洛なさらない科により、お迎えにあがりました。」

 これを聞いた中納言は、御台所に向かって、

 「私が、都へ戻らないので、父大納言は、沖の嶋へ流罪となられた。私も同じ島へ流罪となる。もう、おまえと話すことも、一若を可愛がることもできない。手紙を出すことすらできない離れ小島だ。悲しいことだが、なんとも、もう逃れようも無い。」

 と言うと、一若を膝に抱き上げ、

 「父が姿を、よっく見よ。」

 と、涙に暮れるのでした。いじらしいことに一若殿は、何のことかは分かりませんでしたが、

 「父上、のう。」

 と言って、一緒に泣くのでした。御台所は、これを見て、

 「これは、なんと情け無い事になったのでしょうか。都へ帰られることすら、悲しいことなのに、聞いたことも無い離れ小島に流されるとは、その沖の嶋とやらに、私も一緒にお供いたします。虎伏す野辺の果てまでも付いて行きます。」

 と、泣き崩れました。村松夫婦も涙に暮れる外はありません。中納言は、

 「おお、なんと頼もしい言葉であろうか。しかし、流罪とは、単なる旅とは違うのだぞ。家族連れで流罪ということは許されることでは無い。もしも、都へ戻ることがあれば、又必ず巡り逢うことだろう。お前の心が変わらなければ、一若を形見と思って、七歳になるまでは待っていてくれ。さて、村松夫婦よ。一若が育ったならば、出家をさせて、私の弔いをさせて下さい。」

 と頼むのでした。その時、迎えの人々が、縁先まで来て、

 「早く、おいで下さい。」

 と催促するので、中納言は涙と共に立ち上がりました。可哀想に御台所は、多くの武士に連れられた中納言の袂に縋り付いて、泣きじゃくるのでした。やがて、武士達が中納言を馬に乗せますと、名残の一首を詠みました。

 『命あらば またもや君に 逢うべきと 思うからにこそ 惜しき玉の緒』 玉の緒=命)

御台所は、

『慰めに 命あらばの 言の葉を 答えん隙も 無き涙かな』

と返歌したのでした。互いに見つめ合う内にやがて、馬は門外に引き出されました。人々は別れを惜しむ涙に咽ぶのでした。

さて、村松殿は、小田原まで送り別れました。それから一行は駒を速め、十三日目には、大津の浦に到着したのでした。すると、都からの勅使が来ました。勅諚は、

「これより、伏見へ行き、そのまま舟に乗せ、沖の嶋に流罪とせよ。」

と、いうことでした。宣旨に従って、中納言は、伏見から舟に乗せられ、とうとう大納言の居る沖の嶋へと流されたのでした。島の粗末な伏屋で、親子は手を取り合って泣くより外はありません。大納言は、

「もうこうなっては、一度は捨てられた神や仏に、再び祈りを掛ける外はあるまい。」

と言うと、山王権現(日吉大社の神)の神像を作り上げ、毎日、体を清めては、

「都に帰して下さい。」

と、伏し拝み祈るのでした。なんとも哀れな次第です。

つづく

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1 コメント

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忘れ去られた物語 28 古浄瑠璃 村松 (千葉富夫)
2023-09-05 08:09:07
気仙沼の歴史を調べていてここにたどり着きました。気仙沼出身者として、中納言伝説は知っていましたが、古浄瑠璃むらまつとして1637年に京都で出版されているとは知りませんでした。地元の慶長の大津波、隠れキリシタン等の話ともつながり、是非地元で広めてゆきたいと思います。そしていつか気仙沼でも上演等出来たら最高ですね。
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