昨年もご案内いたしましたが、佐渡の文弥人形「真明座」が今年も、長岡で公演を予定しています。
7月7日(日) 長岡市の県立歴史博物館にて
午前の部 「孕常磐(はらみときわ)」
午後の部 「出世景清」
詳細は以下新潟県立歴史博物館へ
昨年もご案内いたしましたが、佐渡の文弥人形「真明座」が今年も、長岡で公演を予定しています。
7月7日(日) 長岡市の県立歴史博物館にて
午前の部 「孕常磐(はらみときわ)」
午後の部 「出世景清」
詳細は以下新潟県立歴史博物館へ
昨年の忘れ去られた物語シリーズ9で紹介した山本角太夫板とされる「山椒太夫」を床として
http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20120224
以前から演じてきた「鳴子挽き・親子対面の場」の発端部分の作曲が終わったのは、今年の
3月でした。昨年10月頃から約半年もかかったのは、この角太夫本の筋書き通りに再演する
ことに躊躇があったからでした。山椒太夫のテキストは比較的多く残っていますが、その中
で、この角太夫板は、特異な筋書きを持っています。唯一、佐渡に安寿を渡らせるこの本を、
どうしても使いたいのですが、その特異さ故に、古説経の雰囲気にそぐわない部分があるの
も事実です。
角太夫板では、岩木判官正氏の失脚を、かなりあくどいやり方で描きますが、浄瑠璃的な
筋立てを感じます。そこで、発端の筋書きを、オーソドックスな筋立てに依ることとして、寛
文後期に出版された「さんせう太夫物語」(新日本古典文学大系90古浄瑠璃説経集:岩波書
店)から発端部分である「信夫の里」を作りました。初段は、この発端部分と、角太夫板から
起こした「直井の浦」とを繋げたものとなり、ようやく落ち着いたのでした。
発端「信夫の里」
ある日、厨子王は、ツバメを眺めていて、ツバメには父も母も居るのに、どうして僕には居
ないのと、母親に尋ねます。母が、お父さんは、築紫の国に流罪となって生きていると教えま
すと、厨子王は、父の汚名を晴らして、本領を安堵するために、上洛すると言い出します。そ
うして、人々は、京都へと旅だったのでした。
「直井の浦」
会津街道から、越後へとやってきた一行は、直江津の扇の橋で、人買いの山角の太夫にだ
まされてしまいます。母と姥竹は佐渡島に売られ、安寿と厨子王は丹後由良に売られて行く
のです。
人買いの山角の太夫が、人々をだまして、船上で売り飛ばす場面。
しかし、山角は、お供の小八が強うそうなので、海へ突き落としてしまいます。怒った小八
は、猛然と反撃しますが、その間に、御台様や姉弟を乗せた舟は、行方不明となってしまうの
でした。小八は山角を引っ捕らえて、姉弟や御台様の捜索に向かいます。
新しい演目に、座員一同、本格的に取り組み始めました。乞うご期待。
初演は、10月20日(日)新潟県村上市塩谷 塩谷山円福寺を予定しています。
毘沙門の本地 ⑥終
地蔵菩薩の導きに従って、金色太子は、見も知らぬ山道を、ひたすら走り続けますが、やが
て日は暮れ、夜になってしまいました。まだ月も出ず、道は真っ暗になってしまったので、
ある岩陰で休むことにしました。やがて、十五夜の満月が昇り、辺りを照らし始めますと、
その由旬(ゆじゅん)の光は、まるで昼のような明るさです。犍陟駒から飛び降りた金色太
子は、七曜(しちよう:北斗七星)に向かって、尋ねました。
「地蔵菩薩の教えによって、ここまで辿り着きました。つついの浄土へ行く道を、教えて下さい。」
すると、貪狼星(どんろうぼし)(大熊座αドーブェ)は、こう答えました。
「この道を、更に遙かに進みなさい。すると、天の河という大河があり。その河の辺
に、女が一人いるであろう。その女に詳しく聞いて見なさい。旅人よ。」
金色太子は、喜んで、更に犍陟駒を進ませました。そして、とうとう、天の河までやって来
たのでした。貪狼星の教えの通り、女が一人居るのが見えます。急いで近付くと、太子は、
「つついの浄土への道を教えて下さい。」
と、尋ねました。女は、しげしげと金色太子を見ると、
「不思議なことですね。あなたは、有漏の身で浄土を目指しているのですか。」
と怪訝な顔です。太子は、
「はいそうです。私は、クル国の姫宮と一夜の契を込めましたが、死んでしまいました。そ
して、つついの浄土を尋ねよとのお告げを受けて、ここまで、やって来たのです。どうか、
哀れと思って、お教え下さい。」
と、太子は涙ぐみました。女は、これを聞くと、
「恋路と聞くならば、一層辛さが増しますね。私は、七夕の星の精です。この河を隔てて年
に一度、恋しき人と、一夜を契ることができますが、もし、一滴でも雨が降るのなら、洪水
が、私の涙も押し流し、逢うこともできずに、空しく帰るのです。さぞや、あなたも、焦が
れ果てていらっしゃるのでしょうね。そのやるせなさを十分に分かっていますから、教えて
あげましょう。この河を渡れば、男が一人、通ることでしょう。それこそ、私の恋人、七夕
です。七夕に会って、詳しくお尋ねなさい。」
と、言い残すと、やがて去って行きました。金色太子は、犍陟駒を励まして、天の河を渡り
切りました。対岸に渡り着きますと、犬を連れた男が河の辺に立っているのが見えました。
太子は、駆け寄って、つついの浄土への道を尋ねました。男は、
「この道を、遙かに進んで行きなさい。きっと沢山の僧達が居る所に着くでしょう。そこで、
詳しくお聞き下さい。」
と答えました。それは、川上に向かう道でした。金色太子は、犍陟駒を更に進め、野を横切
り、山を越えて、先を急ぎました。すると、教えの通り、僧が沢山居る所にやってきたのでした。
太子は、馬から飛んで下りると、つついの浄土への道を尋ねました。輿の中に居る僧が、
さて、金色太子は、摩耶国を滅ぼした後、犍陟駒に鞭を当てて、急いでクル国を目指し
ました。ようやくクル国に到着した太子は、駒を乗り捨てると、王宮に駆け込みました。
ところが、大様もお后様も、金色太子に抱きついて、声を上げて泣くばかりです。金色太子
は、呆れ果てて、
「一体、どうしたというのですか。」
と尋ねると、お后様は涙をぬぐって、
「姫は、あなたに焦がれて、昨日、息を引き取ったのです。一夜を待てずに、短い生涯を閉
じてしまいました。どうして、もっと早く帰らなかったのですか。」
と喚き叫ぶのでした。金色太子は、夢か現かと驚いて、
「せめて、最期の時に間に合ったなら、こんな悔しい思いは、しなかったものを。たった一
夜のすれ違いで、あの世に行ってしまうとは、これはいったい、どんな因果の結果であろうか。」
と、人目も恥じずに、泣き崩れました。王様は、太子を慰めて、
「そんなに嘆くものではない。死んでしまったものは、もう仕方が無い。お前は、ここに
留まって、我々を慰めておくれ。姫宮がいなくなっても、我々の心は変わらないぞよ。お前
も疲れたことであろう。暫く、休息なされなさい。」
と言うのでした。哀れな金色太子は、それから、持仏堂に籠もりました。花を供え、香を焚
いて、悲しみの中に沈んで、こう口説くのでした。
「姫よ、冥途黄泉に行って、私を恨まないで下さい。私の心は昔と、少しも変わってはいません。
どうか、今一度現れて、私をそちらの国に連れて行ってください。」
その夜、冥土にいらっしゃる姫君は、金色太子の枕元にお立ちになりました。
「ああ、懐かしい金色太子様。私こそ、あなたの姫宮ですよ。苔の生(こけのう)での睦言
に、三年の間は待てとありましたから、明け暮れ待ち続けましたが、お出でにならないので、
心労が重なり、とうとう病となり、死んでしまいました。一夜を待てずに、空しくなった私
の心の内を、御察し下さい。しかし、これも成刧(じょうごう)ですから、仕方ありません。
今でも、私を恋しいと思ってくれるのなら、犍陟駒に打ち乗って、目を塞いで虚空に向かい、
つついの浄土(不明)をお尋ね下さい。そうすれば、必ずお逢いすることができるでしょう。
ここに留まって、お話をしていたのですが、時の太鼓が鳴っています。名残惜しくはありま
すが、これでお別れです。」
姫宮は、こう言うと悲しそうに消えて行きました。金色太子は、抱だき付こうと、かっぱと
起きましたが、もう既に姿は有りませんでした。太子は、声を上げて、
「ああ、なんと恨めしいことか。今一度、お姿を見せて下さい。」
と、そのままそこに倒れ伏して、只、ほうほうと泣くばかりです。落ちる涙を、振り払って
太子は、
毘沙門の本地 ④
哀れなことに、姫宮は、金色太子のことを、片時も忘れず、明け暮れ太子の帰りを待ち続
けています。しかし、波濤を隔てる遠い国への旅ですから、便りもありません。余りの悲し
さに姫宮は、女房達を伴って、南面に出て空を見上げるばかりです。すると、どこからとも
なく、一群の渡り鳥が飛んで行くのが見えました。姫君は、つくづくとご覧になり、
「あれを、ご覧なさい。今、飛んで行く渡り鳥は、風に誘われて、万里の距離を、思うまま
に飛び回ります。なんと、恨めしいことに、私は女として生まれ、只、後宮の中で、心の
慰める事もないままに、物思いに沈む毎日を過ごす外ありません。ああ、あの鳥が羨ましい。
私も、摩耶国へ飛んで行き、恋しい人に逢うことができたなら、こんなに苦しむこともないのに。
ああ、懐かしの金色太子様。」
と嘆くのでした。女房達は、承り、
「仰ることは分かりますが、太子と交わされた兼ね言を信じて、今の苦しい時をお忍び下さい。」
と、励ますのでした。姫宮は、涙を抑えて、
「そうではありますが、交わした約束は、三年目には帰るということでした。もう四年目の
夏を迎えるというのに、太子はまだ、帰りません。最早、討たれて、お亡くなりになってし
まったのかもしれません。」
と言うと、法華経の転読をなされ、頓証菩提(とんしょうぼだい)と回向すると、虚空に
向かって礼拝するのでした。すると、俄に紫雲が棚引いて、異香が漂いました。若い男を
先立てて、菩薩の主従が、東を指して通って行ったのでした。姫君は、不思議に思って、
明王鏡(めいおうきょう)を取り出して見ると、若い男は、金色太子ではありませんか。
姫君は、驚いて、
「のうのう、皆の者、見てご覧なさい。ここに映っているのは、恋しき人の姿です。きっと
私を恋しく思って、鏡に映ったに違いありません。しかし、これは、後世へと飛んで行く
とのお知らせなのでしょうか。もし、そうであるなら、このお姿を消さないでおいて下さい。」
と、鏡を抱きしめましたが、やがて、その姿は、紫雲と共に消えて行きました。すると今度
は、鏡の裏に施してあった、鶴亀の彫り物が、外れ落ちると、天へと飛び去って行ってしま
ったのでした。これを見た姫君は、もう太子は死んでしまったのだと思い込み、天を仰ぎ、
地に伏して、消え入る様に泣くばかりです。女房達も、姫宮と共に悲しみに暮れて泣くほか
ありません。そうして、積もる思いは、とうとう姫宮を病に落として行ったのでした。王様
もお后様も、必死の看病に当たり医術を尽くしましたが、容体は重くなるばかりです。とう
とう、最期の時がやってきました。姫宮は、
「父母様、お聞き下さい。私は、重い病のため、これから冥途へと旅立ちます。私こそ、
後に残って、父母の菩提と弔うべきなのに、老少不定(ろうしょうふじょう)の現世ですか
ら、残念ながら、私が先に行くことをお許し下さい。逆縁とはなりますが、亡き後の弔い
を宜しくお願いいたします。名残惜しい、父母様。女房達よ、お暇申し上げます。ああ、
恋しい太子は、何処に居るのですか。」
と、言い残すと、十七歳の生涯を閉じたのでした。王様もお后様も、姫宮の死骸に取り付いて、
「これは、なんということか。百歳にも近い我々を残して、どうしろというのか。どうせ
行く道ならば、どうして一緒に連れて行ってくれないのだ。」
と、姫の顔に顔を押し当て、死骸を押し動かして、嘆き悲しむのでした。やがて、家臣達は、
「どんなに嘆かれても、姫宮はお帰りにはなりません。さあ、早く供養をしてあげましょう。」
と、集まって、姫宮の遺体を抱き上げると、野辺の送りをしたのでした。兎にも角にも、
姫君の御最期は、哀れと言うも、まったく言葉もありません。
つづく
さて、次の日の朝、金色太子は、姫君に、
「私は、これから摩耶国に行って来ます。あなたは、本国に帰って、私をお待ち下さい。
摩耶国までの道のりは、三年かかりますが、犍陟駒(こんでいごま)で行くならば、一年
でゆくことができるでしょう。しかし、三年の間は、お待ち下さい。三年が過ぎてしまった
ら、最早、私は死んだと思って、後世を弔って下さい。名残は尽きませんが・・・。」
と言うのでした。姫君は、涙ながらに、
「たった一夜だけの契で、もうお出かけになってしまわれるのですか。なんと恨めしいこと
でしょう。故郷を出たその時は、父母に引き別れ、今又、あなた様に別れて、また物思い
が増えてしまいます。」
と言うと、互いに手と手を取り合って、嘆かれるのでした。姫宮は、涙をぬぐいながら、
「しかし、摩耶国は大国ですよ。あなた、一人で摩耶国に行って、大軍に勝つことができる
のですか。」
と聞きました。金色太子は、
「ご尤もな質問です。私の家の家宝には、金石縅(きんせきおどし)の大鎧と、金剛の兜
があります。これは、どんな矢も射通すことはできません。そして、大通連(だいとうれん)
という太刀があります。この太刀を一振りすれば、一度に、千人の敵の首を落とすことがで
きます。ですから、敵がどんなに多くとも、負けるということは無いのですよ。」
と言うと、別れの歌を詠みました。
『君故に 捨つる命は 惜しからず 何時の世にかは 巡り逢うべき』
姫の返歌は、こうでした。
『何時の世と 思う君こそ 儚けれ 月日は重ねて 巡り逢うべし』
別れの憂き涙に濡れる二人の様子は、誠に哀れな限りです。離れがたきを振り切って、太子
は、門外へと出ましたが、また立ち返って、走り寄るのでした。しかし、太子は、思い切り、
犍陟駒にまたがって、摩耶国へと旅だったのでした。哀れな姫君は、金色太子の後を見送っ
て、泣き崩れておりましたが、女房達が、姫君の手を取って、輿に乗せると、クル国へと帰
って行ったのでした。やがて、故郷に帰り着いた姫君は、金色太子の事を、有りの儘に、父
母に話すのでした。王様もお后様も喜んで、金色太子の帰りを待つこととなりました。
さて、一方、金色太子も駒を急がせて、やがて、摩耶国に辿り着きました。摩耶国の様子
を窺ってみると、明後日にはクル国へ出兵との命令に、多くの軍兵が集結し、着到状(ちゃくとうじょう)
を、付ける有様は、目も驚かすばかりです。この様子を見て、金色太子は、馬に乗せた物の
具を下ろすと、鎧兜に身を固め、手棒という杖を突いて、王宮へと向かいました。王宮の
門番は、怪しんで、
「何者。」
と、押し留めましたが、太子は、怯みもせず、
「いや、怪しい者では無い。クル国の遣いである。国王に取り次ぎ願いたい。」
と言いました。やがて、青帝王に前に通ると、金色太子は、
「勅使に参りましたのは、クル国の姫君のことでございます。承りました所、クル国の姫君
を奪い取るとの企てがあると聞きました。クル国は、小国とは言えども、人々の心は、獰猛
ですので、とても敵うものではありません。そこで、無駄な企てをやめさせるために、これ
まで参った次第です。」
と言うのでした。居並ぶ役人は、せせら笑って、
「これほどの大国を動かす大王様を、お前一人で止めに来たと申すか。おこがましい。ええ、
ひったってえ。」
と言うなり、小腕取って引っ立てると、場外へと引きずり出しました。青帝王は、怒って、
「あのような、生意気な小童(こわっぱ)を、そのまま国に帰すのも、癪に障る。軍神の
血祭りに、切って捨てよ。」
と、命じました。兵士達が、どっとばかりに繰り出して、太子を取り囲みました。金色太子は、
「なんと、物々しい。それでは、物を見せてやろう。」
と、大勢の中へ切り込みました。しかし、あっという間に、多くの兵が討たれたので、驚い
た摩耶国軍は、援軍を集めました。何千もの兵が、金色太子めがけて、攻め寄せて来ます。
この時太子は、大通連の剣を抜きました。一振りすれば、千人の首が一度に落ちました。
これには、摩耶国の軍勢も敵わずに、皆散り散りに敗退したのでした。金色太子は、勝ち鬨
を上げると、再び犍陟駒に打ちまたがって、クル国を目指して、帰って行きました。この
金色太子の活躍は、鬼神にも勝ると、感心しない者は、ありませんでした。
つづく
さて、ここに摩耶国という国がありました。帝の名を青帝王と言います。青帝王はある時、
家臣を集めて、こう言いました。
「我は、十全の王となって、思うに任せぬことも無いが、百にも近い歳となり、どうしても
止めることができないのは、老いの道である。聞く所に依ると、蓬莱の故宮には、不死の薬
があると聞く。その薬を、是非試してみたい。」
すると、ある臣下が、進み出て、
「それ迄には、及びません。クル国には、玉体女(ぎょくたいじょ)という言う姫宮がおられます。
この姫君を、一目見るならば、八十、九十になる老人も、忽ち若返るということです。急い
で、勅使を立てられ、迎えられては如何でしょうか。」
と、奏聞したのでした。青帝王は、それを聞くと、早速に勅使を立てることにしたのでした。
勅使に命ぜられたのは、侃郎(かんろう)という兵士でした。急ぎに急いで、二年と三ヶ月。
侃郎は、クル国に到着しました。侃郎は、参内すると、青帝王の金札(きんさつ)をクル王
に差し出しました。クル王は、金札を見るなり、
「いやいや、只一人の娘ですから、差し上げるなどといこはできません。」
と、断りました。侃郎は、面目を失って、帰国すると、青帝王に結果を奏聞しました。これ
を聞いた青帝は、怒って、
「金札を贈ったにもかかわらず、その返礼も無く、違背するとは言語道断。急ぎ、軍兵を送
り、奪い取ってこい。」
と命じたのでした。そこで、侃郎が総大将となって、二十万騎の兵を集めることになったのでした。
摩耶国が攻めてくるという知らせは、クル国にも伝わりました。王様と、お后様は、どうし
たものかと、泣くばかりです。姫宮は、これを聞いて、
「かの摩耶国という国は、この国よりも大国で、文明も進んでいると聞きます。程なく、
押し寄せて参りましょう。父母様が、私を惜しむお気持ちは分かりますが、そうなったなら、
返って、恨みとなるでしょう。名残惜しいことではありますが、戦争にならぬ内に、早く私
を、摩耶国に送って下さい。決して、恨みになど思いませんから。」
と、涙ながらに言うのでした。王様もお后様も、思い惑って、言葉もありません。只、涙に
暮れておりますと、臣下の一人が進み出て、
「姫宮を送らなければ、摩耶国が攻め入ってくることは明らかです。どうか、姫君を摩耶国
へお送り下さい。」
と、進言すると、とうとう王様も諦めて、姫を摩耶国へ送ることにしました。付き従う
お供の卿相や、華やかに着飾った女官は数知れず、大行列で、姫君を送り出したのでした。
さて、姫君の一行が進んで行くと、七日目に苔の生(場所不明)という所にやってきました。
都に比べ様も無い、鄙びた所です。葦の野原の八重葎は、宿覆い尽くすばかりです。月の
光が漏れてくるような寝床に、気は滅入るばかりです。あまりにも寂しいので、姫宮は、女
官達を集めて、管弦を奏でさせますが、古里の父母を恋しく思い出して、管弦の音色も耳に
入らない様子です。月が昇った空を、遙かに眺めて、心細くなるばかりです。姫宮は、
『旅寝の憂さは、変わるけれども、月は、いつもと変わらず、澄み渡って出てくるのですね。』
と、思いつつ、一首の歌を詠みました。
「旅の空 月も隈無く 出でぬれば いとど心は 澄み上がるかな」
そして、涙を流すのでした。女房達も共に、涙に暮れて、伏し沈んでおりますと、どうした
ことでしょう。突然、異香があたりに立ち込め、紫雲がひと叢棚引いたかと思うと、二十歳
程の若者が、颯爽と現れ、姫君の旅宿に舞い降りて来たのでした。その若者は、
「如何に、姫宮。聞いて下さい。私は、ここより西の維縵国(ゆいまんこく)の王子、金色
太子(こんじきたいし)と言う者です。私の父の大王は、齢百歳。母の后は、九十三歳の老
人です。風の噂に、姫君の事を聞き、ここまで迎えに参りました。どうか、急いで維縵国
へお越し下さい。」
と、言うのでした。これを聞いた姫君は、
「私は、これより、南の国、摩耶国へ送られて行くのです。もし、あなたの国に行ったなら、
摩耶国は、我が国へ攻め込んで、戦争になってしまいます。ですから、あなたの国へ行くこ
はできません。お許し下さい。」
と言いました。金色太子は、これを聞いて、
「そういうことなら、私が、摩耶国へ行って、その軍勢を押し留め、その後、改めてお迎え
に参りましょう。姫は、恋しい父母の居る故郷へお帰りなさい。さて、例え戦に敗れて、
死んだとしても、今宵、新枕を並べることができるならば、露の命も惜しみません。姫宮。
如何に。」
と、口説くのでした。言われた姫も、まんざらでもなく、ぽっと紅くなって、
「賤が宿にて、お恥ずかしい次第ですが、こちらへどうぞ。」
と、寝殿に入られたのでした。そして、翠帳紅閨(すいちょうこうけい)の枕を並べて、
妹背の仲の契を交わしたのでした。兎にも角にも、この人々の心の内は、嬉しいとも何とも
申し様もありません。
つづく
したのは、萬治四年(1661年)のことであり、元禄の初めぐらいまで約30年間は、 江戸古説経の黄金期と言えるようだ。(説経正本集第3:天満八太夫雑考:信多純一) 説経正本集第3(40)に収録された「毘沙門之本地」は、宝永八年(1711年)出版 と推定されているが、再版であることは明かなので、原刻は、その12年前の貞享四年(1 687年)であろうとされている。まだ、天満八太夫が元気な頃の説経であり、仏神の奇譚 を、絡繰りを駆使して見せたであろう、説経らしい舞台が目に浮かぶ。 毘沙門の本地① そもそも、京都の鞍馬寺にいらっしゃる毘沙門天王の由来を、詳しく尋ねてみますと、 天竺の傍にありましたクル国にまで遡ります。クル国の王様は、三皇五帝の後を継いで、国 を治めておりました。吹く風も、枝を鳴らさない程に、穏やかな国で、剣は箱の中にしまっ たままだったということです。摂家、六位の公卿達は、昼夜に精勤して、国王を守護し、下 は、首陀(しゅだ:シュードラ)の人々まで、幸せに暮らしたというほどに、栄えていまし た。しかし、そのような素晴らしい国王でさえ、八苦を逃れることはできないのです。 国王は、もう百歳近い老体でしたが、跡継ぎが一人もおらず、そのお嘆きは、大変深い ものでした。卿相雲客達が集まっては、いろいろ相談をしましたが、願いは叶いませんでした。 ある時、家臣の一人が、こう申し上げました。 「今も、昔も、王子が無い国は、滅んでしまいます。諸天の神々に、王子を授けて頂く様、 願を掛けては如何でしょうか。」 王様は、願を立てようと思い立って、内侍所(ないしどころ)に籠もらるると、大梵天王宮 を勧請になり、様々な祈祷を始めたのでした。 「南無帰命頂礼(なむきみょうちょうらい)大梵天。その昔、陰陽の二道に分けられてより この方、夫婦、人倫の道あり。ですから、普天率土(ふてんそつど)の精よ、お願い致します。 凡そ、身分の上下を問わず、世継ぎを持たなければ、必ずその家は絶えてしまいます。これ を悲しまない者があるでしょうか。どうか、神々の感応を戴き、一子をお与え下さい。」 と、王様は、深く祈るのでした。有り難いことに、梵天王は、これを不憫とお思いになられ、 紫雲に乗って、王様の枕元に立たれたのでした。梵天王は、 「如何に、大王。お聞きなさい。あなたの嘆きを不憫に思って、三界を飛行して、あなたの 子種を捜し回りましたが、残念ながら、あなたの子種はありませんでした。あなたに子種 が無いことには、理由があります。あなたは前世で、西の崑天山(こんてんさん:崑崙山脈カ)の 峰に棲む小鷹でした。沢山の鳥類を食べたので、その業因が積もって、子種が無いのです。 又、この国の王として生まれたことにも、理由があります。崑天山の山中には、弥陀経を 読誦する法師がおりましたので、そのお勤めの声を、毎日聞いていたのです。その聞法の 功徳によって、現世で、この国の王となったのですよ。過去の因果を知らずに、嘆くとは 不憫なことです。しかし、あなたは大願をお立てになったので、玉体の天女を一人、与える ことにしましょう。」 と言って虚空を招くと、異香が漂い、花が降り始めました。すると、天人菩薩が、姫を抱い て、天より降りて来たのでした。やがて、姫を内侍所に安置すると、梵天王達は、再び天へと 帰っていきました。王様とお后様が夢から覚めて、 「有り難い夢を見た。」 と、辺りを見て見ると、可愛らしい女の子が居たのでした。后が、駆け寄って抱き上げました。 「あなたは、我が子となったのですよ。なんという嬉しい契でしょう。元気に育って下さいね。」 と、その喜びは限りもありません。そして、不思議なことに、姫君の姿を見た途端、王様も お后様も、もう九十歳を越える年齢であったというのに、三十代の若さに戻ったのでした。 国中の人々が喜んだのは、言うまでもありません。 姫宮は、人間の子では無く、天の麗質を具えていましたので、その眉目と言い貌と言い、 言葉では尽くせぬ美しさです。やがて、その噂は広がって、近隣諸国の王子達は皆、姫宮に 恋い焦がれるようになったのでした。さて、クル国は、豊かに栄えて、千秋万歳の喜びは、 なかなか、言い尽くせるものではありません。 つづく
法論の奇特を得た、崙山上人は、いよいよ尊敬を集めるようになりましたが、ある時
玉若殿を近づけて、こう言うのでした。
「愚僧はこれから、諸国修行の旅に出る。再び関東へと下り、師匠にもお目に掛かりたい。」
そして、再び修行の旅を始めたのでした。
これはさて置き、その頃。下総の国には、神崎陣内(こうざきじんない)という者が
ありました。元々西国の出身でしたが、行方不明になった主人を探し回っている内に、
身を成り崩して、今は追い剥ぎとなってしまったのでした。ある時陣内は、牛久保の弥
太郎という悪友と、いつもの様に悪巧みの相談をしました。
「おい、弥太郎。今夜も、いつも原に出て、通り掛かる奴を追い剥ぎして、少し酒代を
稼ぐとしよう。」
二人は、枸橘ヶ原(からたちがはら)と言う所に陣取ると、誰かが通り掛かるのを、今
か今かと、待ち受けました。そこに通り掛かったのは、崙山上人でした。二人の盗賊は、
ぬっと飛び出ると、左右に崙山上人を挟んで、
「やあ、御坊。ちょっと待て。長浪人にて尾羽を枯らした我等に、少しばかり酒手代(さかてしろ)
を恵んでもらおうか。」
と、睨め付けました。崙山は、
「おお、それは、お困りですね。しかし、愚僧は貧僧で蓄えも、着替えもありませんので、
お許し下さい。」
と言いました。盗賊は、怒って、
「なんとも、ふてぶてしい法師だな。その肩の油単(ゆたん)包みはなんだ。それを、よこせ。」
というなり、無理矢理に奪い取って、その上、袈裟も衣も剥ぎ取ろうと襲いかかって
きたのです。崙山は、抵抗もしませんでしたが、こう言いました。
「さてさて、あなた方は、破戒無慙(はかいむざん)の人達ですね。よっく聞きなさい。
水は方円の器物に従い、人は善悪の友に寄って決まるのです。あなた方は、悪業が深く、
善悪を弁えずに、今生で悪事を重ねていますが、死んで冥途に行ったならば、大変恐ろ
しい猛火の中に堕罪するのですよ。苦しみを受けるその時になって、後悔しても既に遅
いのです。愚僧をどうしようと構いませんが、あなた方の後世を思うと、不憫でなりません。」
これを聞いた盗賊は、更に怒って言いました。
「このくそ坊主。未来と言っても、何処に見てきた者がいるのか。地獄も極楽も、釈迦
とかいう似非者が、勝手に作った作り話よ。悪を作って地獄に落ちるか、お前のように、
三衣を纏って仏になるか。その証拠を見せてやる。」
そして、崙山上人を高手小手に縛り上げると、傍にあった松の木に吊し上げたのでした。
二人の盗賊は、
「おい、坊主よ。どうした。仏とやらは救いに来ないのか。それじゃあ、売僧(まいす)
をお勧めになる法師様に、暇を取らせてあげましょうか。」
と、言うなり太刀を抜き放ち、崙山上人に切りつけました。すると、その途端に、その
太刀は、ばらばらに砕け散ってしまったのでした。驚いた盗賊が目にしたものは、光を
放つ十一面観世音でした。腰を抜かした盗賊は、その場に平伏してわなわなと震えています。
崙山は何気ない様子で、盗賊の後ろに佇んでいました。盗賊達は飛び上がって驚くと、
「さてもさても、御僧は仏でありましたか。有り難や、有り難や。そうとも知らず、
縛り上げましたこと、何卒お許し下さい。この奇特を見る上は、どうか、我々を、弟子
にして下さい。」
と言うのでした。崙山上人は、
「おお、それは殊勝なこと。方々よ。例え十悪五逆の者であっても、一念仏心を起こす
時は、諸佛も感応するものです。それでは、出家なさい。」
その頃の天皇は、第109代太上皇帝(明正天皇)でした。帝は、先帝の菩提を篤く
弔う為に、日本の名僧を集めるようにとのお触れを出したのでした。そんな折り、宮中
に百色の冥鳥が飛んで来て、
『ぶっぽうめいしそう』
と鳴いて飛び去ったのでした。帝は、不思議に思って、陰陽の博士に占わせました。
陰陽の博士、阿倍の望月は、参内すると、暫く考えてこう言いました。
「これは、宮中より、東の方向に、ろうれつという名の者がおり、この者は、文殊菩薩
の化身であるから、法要に呼び出すようにとのお告げです。かつて、弘法大師、性空上
人、法然や親鸞が世に出る時も、この鳥が舞い降りております。その鳴き声を文字に表
すならば、「仏の法、明かなり、使いの僧」となります。この僧をお召しになり、追善
法要を致すのがよかろうと存じます。」
帝は、この占いに従って、ろうれつを召し出したのでした。やがて、ろうれつは参内し
ましたが、そこには、嘗て、霊巌寺に於いて、ろうれつを殺そうとした「かい月」も
来ていました。帝の宣旨を受けると、かい月は、憎々しげに、ろうれつの前に出て、
「おぬしは、このような大事の御法事に、何の心得も無いままに来たのであろう。どの
ような有り難い法要をするつもりか。」
と、言い寄りました。ろうれつは、
「お前は、知らないのか。往生極楽の回向の外に、秘術などは無いのだよ。」
かい月は、これを聞くと、
「それでは、どんな回向をするのか。」
と問い詰めました。ろうれつは、
「それ、回向には四種あり。第一に「ぢきしゅつ回向」(不明)第二に「くんほつ回向」(不明)
第三に「往相回向」第四に「そんそう回向」(還相回向カ)。この中で、最も助かり易い
回向は、「ぢきしゅつ回向」である。」
と、答えます。聞いたかい月は、
「その回向では、どのような経を読むのか。」
と更に問い詰めました。ろうれつは、
「おうおう、何ということだ。六字の名号の外に、唱えるべき文言などありはしない。
六字の名号こそが、第一の回向である。」
と言い切りましたが、かい月は食い下がって、
「すべての諸経は、釈迦一代のお示しであるのに、念仏とは何事だ。」
と、怒鳴りました。ろうれつは、少しも騒がず、からからと笑うと、
「よっく聞けよ。六字の名号の「阿」の字一字に、十万の三世の諸佛。「弥」の字には、
一切の諸菩薩が。「蛇」の字には、八万諸正経が封じ込まれているのだぞ。どうだ、どうだ。」
と説くのでした。しかし、かい月は、しつこくも、
「やあ、ろうれつ。この生道心め。念仏の六字ぐらい知ってるおるわい。諸々の諸経を
広めた釈迦如来は、一切の事物の父母ではないか。阿弥陀仏ばかりを頼んでいたのでは、
成仏などできっこあるまい。」
とたたみ掛けます。ろうれつは呆れて、
「お前は、くだらないこと言うな。私は、釈迦を捨てる等と言った覚えは無い。六字の
名号には、釈迦諸菩薩も籠もっているのだ。大乗の心は、三神一仏を崇め申し上げるのだ。
三神とは、弥陀、釈迦、大日であり、この三仏を一仏と見るのだから、お前のように、
阿弥陀仏を遠ざけては、釈迦をも遠ざけることになるではないか。さあ、今からは、強
情なことはやめにして、愚僧の教えに従いなさい。」
と、諭すのでした。すると、弁舌盛んなかい月も、とうとう言葉に詰まって、
「ええ、お前のような悪僧は、仏法の外道だ。その首、捻切ってやる。」
と、ろうれつに飛びかかりましたが、その場の公家大臣が、取り押さえました。
ろうれつが、
「如何に、かい月。このような大事の御法事に当たって、埒もない言い争いは、慎みなさい。
先ずは、御法事をしっかり勤め、それからは、好きなようにしなさい。諸佛の目の前に、
大仏法に悪を為すような外道を、どうして諸佛が許し置くことがあろうか。よっく観念
しなさい。」
と言うと、突然、御殿が振動し、黒雲が辺りを覆いました。すると、金色の名号が、燦
然と顕れたのでした。今度は、その名号が、忽ち六色の悪鬼に化身すると、かい月に向かって、
「如何に、かい月。お前は、道者を嫉む悪人。今現在、六道の苦しみを見せてやる。」
と、その場で地獄の猛火を吹きかけました。猛火に包まれたかい月は、苦しみの余り、
「この悪い口の為に、あなたを誹ってしまいました。どうぞ、お助けを。」
と、血の涙を流して謝るのでした。ろうれつは、哀れに思って、
「只、南無阿弥陀仏えお唱えなさい。」
と諭しました。かい月が、必死に南無阿弥陀仏を唱えると、どうでしょう。猛火は忽ち
に消え去り、悪鬼は元の六字に戻って、再び燦然と輝くのでした。やがて六字の名号が
消え去ると、今度は、かい月が、無碍光如来に変じて、光明を放ち始めたのでした。
かい月が仏になったと、皆一同に驚き、帝、ろうれつを初めとして、皆、礼拝をされた
のでした。帝は、ろうれつの働きに感心して、
「この度の奇特の勤めは、大変ご苦労でした。今より、あなたの名を、崙山上人と改め
なさい。寺を建立してあげましょう。」
と、有り難いお言葉を下されました。そこに、稲垣與一が参内して、崙山上人の出自や
玉若殿の事等を奏聞しますと、帝は叡覧なされて、玉若も参内させました。そして、
玉若を日向の三郎元義と名付けて、大和の国に七万町をお与えになったのでした。
こうして、人々は、老母を伴って、大和の国に帰ることとなりました。かの崙山の
有様は、前代未聞の知識の誉れであると、有り難いとの何とも、申し様も無い次第です。
つづく
さて、江戸の霊巌寺で修行を積まれたろうれつ(金国)は、今はもう大知識となっていました。
一切経を全て習得して、御釈迦様の教説をそらんじていましたから、人々から、仏の化
身であると尊敬されていました。
ある時、ろうれつは、こう考えました。
『天地開闢よりこの方の、日本に伝わる一切経を読破し、ひたすら六波羅蜜の修行を
行い、悟りの境地に達したけれども、とどのつまりは、名号である。伊弉冉尊(いざなみのみこと)
も天照大神も、本地と言えば阿弥陀如来であることは疑い。末世の衆生は、下地下根であり、
座禅を通して悟りに達することは難しい。この有り難い念仏を、人々が軽んじていることは、
残念なことである。十万の三世仏、一切の諸菩薩が、八万ものお経に書き表されているが、
それでも、文字には書き尽くすことはできず、言葉で言い尽くすこともできない。そう
であるからこそ、仏の知恵は、この六字に詰め込まれたのだ。私が出家をしたのは、人々
を助けるためであった。これよりは、日本中を修行して回り、人々を利益しなければ
ならぬな。」
そうして、ろうれつは、雄誉上人から授けられた御名号を襟に掛け、全国行脚の旅へ
と出掛けたのでした。先ず都に向けて旅立ったろうれつは、やがて小田原までやってきました。
もう日暮れ近くのことでした。入相の鐘が鳴るのを聞いてろうれつは、夕日を拝みなが
ら一首を詠みました。
「月も日 東に出でて 西に行き 弥陀の浄土へ 入相の鐘」
やがて、日はとっぷりと暮れました。ふと、気が付くと、遙かの向こうに、灯火の光が
ちらちらと見えます。ろうれつが立ち寄って、編み戸の隙間から中を覗いてみますと、
八歳ほどの子供が、仏前に手を合わせて、念仏をしています。これを見たろうれつは、
『さても殊勝な子供じゃな。年端も行かぬのに、有り難きお念仏。何やら子細もありげ
だが、外に人の姿も見えない。これは、ひょっとして、愚僧の修行を試す、仏神の現れ
であろうか。むう、まあそれはどうあれ、このような尊い子供を見捨てて通るというの
も如何なことか。もう日も暮れてしまったことだし、今宵はここに宿を借りて、旅の疲
れを癒やすことといたそう。』
と、思案して、庵の戸を叩きました。
「もし、私は旅の僧であるが、日に行き暮れてしまった。一夜の宿をお貸しくだされ。」
玉若殿は、これを聞くと急いで立ち上がり、戸を開けて、
「何、旅の御僧ですか。主は留守をしておりますが、お坊様であるなら、どうぞお入り下さい。」
と招きました。ろうれつは、これを聞いて、
「さてさて、あなたは、まだ子供なのに、殊勝なお志。子供ながら、只人とは思えません。
しかしならが、主もいらっしゃらない所へ、如何に法師といえども、宿を乞う訳には
行きません。お志は有り難いとは存じますが、別の宿を探すことにいたしましょう。」
と行って立ち去ろうとしました。しかし、玉若は、ろうれつの袖に縋り付いて、
「仰ることは道理ではありますが、少しも苦しいことはありません。殊に私は、最近
母を失い、孤児となりました。祖母がおりますが、今日は乳母を連れて、母の墓参りに
出掛け、まだ戻りません。丁度、物寂しく感じていた所に、あなた様が宿を乞われたので、
嬉しく思っております。丁度、明日は、母上様の初七日ですから、外の宿を借りる等と
言わずに、今夜はここにお泊まり下さい。どうかお願いいたします。お坊様。」
と言って、袂を離しません。ろうれつは、その心に感心して、
「そういうことであれば、一夜の宿をお借りいたしましょう。」
と言って、奥の間に入ったのでした。
ろうれつは、この子が、我が子であるとも知らず、先ず持仏堂にお参りなされてから、
さてその後、更に哀れであったのは、ろうれつ(金国)の老母でした。御台所と玉若
が、父を訪ねて旅立った事を、夢にも知りませんでしたが、その日の夢見が悪かったので、
その話をしようと、北の方を訪ねました。ところが、御台所も玉若も見当たりません。
あちらこちらと探しまわりましたところ、一通の文があるのを見つけました。一体どう
いうことかと、急いで開いてみると、こう書いてありました。
「私は、このまま朽ち果てても構いませんが、不憫なのは玉若です。朝夕に父のことを
思って嘆く姿を見るにつけて、心も乱れ、悲しみに暮れていましたが、不思議の霊夢を
見たのです。金国殿は、東路にあるとの瑞夢を頂いたのです。そこで、東を訪ねること
にいたしました。やがて、目出度く巡り会って、連れて帰り、母上を喜ばせる所存です。」
老母は読むなり、むせ返り、文を胸に当て、顔に当てして、声を上げて、泣き崩れました。
そこに、霜夜(しもよ)の局という、金国の乳母が様子を見に来ました。霜夜は、老母
の有様を見て、
「何があったのですか。」
と聞きました。老母は、涙ながらに事の次第を話すのでした。
「のう、嫁御前と玉若は、金国の居所を聞いて、右も左も知らぬ東路に旅立ってしまいました。
私はもう老い木。いつ果てるとも知れませんが、命も惜しくないので、後を追って、東
路へ参ります。」
聞いて局も、決心し、
「その様にお考えでありますなら、私もお供致しましょう。人に気が付かれない内に、
出立いたしましょう。」
と、早速に東路へ旅立ったのでした。
《短い道行き略》
やがて、二人は、小田原までやってきました。そこへ客僧が二人通り掛かりました。
その客僧は、こんなことを話しながら通り過ぎたのです。
「それにしても、哀れな話じゃな。所の者の話では、なんでも、旅人が、幼い子供を
残して、後ろの山中で死んだそうだ。人の命は、分からんのう。南無阿弥陀仏。」
客僧達は、山に向かって弔うと、去って行きました。これを聞いた老母は、
「のう、局。これはひょっとして、嫁御前のことではあるまいか。子供も居ると言うし、
遙々と下った甲斐も無く死んでしまったか。」
と泣き出しました。局は、
「広い世の中のことですから、御台様のこととはかぎりません。」
と、老母を慰めて、山中に分け入ってみますと、確かに新しい塚があり、高札が立てて
ありました。二人が駆け寄って見て見ると、こう書いてあります。
「ここで、二十歳ぐらいの女が、八歳の子供を残し、旅に疲れて亡くなった。子供に
尋ねても、国も郡も分からないので、ここに葬る。子供の名は玉若。所縁の者があれば、
在所の者にお尋ね下さい。寛永三年寅三月五日。」
老母も局も、はっと驚き、そのまま塚に抱き付いて、おいおいと泣くより外はありません。
「さても、さても、尋ねる夫にも逢えないままで、さぞや最期に思いを残したことであろう。
この母が、お前や孫の後を追って来たと言うのに、空しい塚を見る事になるとは。せめて、
孫若を形見と見ることができたなら、こんなに悲しまなくても済むのでしょうが、金国
には捨てられ、孫とは生き別れ、嫁御に先立たれるとは、後に残った老いの身は、どう
すれば良いのですか。」
為す術も無く、泣き暮れていますと、在所の者が、玉若の手を引いて、三日目の塚詣
でにやって来たのでした。老母と乳母は驚いて、
「それなるは、玉若かあ。」
と、駆け寄って、互いの袖に取り付きました。喜びの余り、言葉もありません。只、泪、
泪の再会です。玉若は健気にも涙を抑えて、
「のう、母上は、冥途という所に行ってしまわれました。」
と、事の次第を語ると、安心したのでしょうか、そのままそこに寝入ってしまいました。
そうして居るところに、別の里人がやってきました。目を醒ました玉若は、
「この方が、母を埋めて下さいました。そして、所縁の人が現れるまで家に留まるよう
にと仰って下さり、これまで面倒を見ていただいていたのです。お礼を言って下さい。」
と老母に話しました。老母は涙ながらに、
「それはそれは、このように養育いただき、何ともお礼の言葉も有りません。有り難う
ございます。私たちも、この者どもの後を追って参りましたが、このような憂き目を
見ることになりました。」
と言うのでした。里人は、
「誠に、労しい限りですが、あなた方は、どうやら身分あり気なご様子です。宜しけれ
ば、子細をお話下さい。」
と尋ねました。老母は、
「この上は、隠すことは何もありません。私どもは、大和の国、葛城の下の郡から参りました。
但馬の守金国と申す者の母です。我が子は、三年前に、夢の中で頓死をして、不思議な
霊夢を体験しました。それから遁世してしまい、東に向かったと聞きました。嫁御前は
夫を探してここまで来ましたが、この様に、先立ってしまったのです。」
と、話すのでした。その時、里人は飛び上がって驚くと、
「さては、金国殿の御母上でいらっしゃいますか。私のことを知らないのも当然ですが、
私は、この辺の頭領で、稲垣與一と言う者です。私も、三年前に不慮の頓死をいたしまして、
三悪道へと堕罪しておりましたが、金国殿に助けられて、再び娑婆へ戻ってきたのです。
一刻も早く、御礼に参るべき所ですが、病があってままならず、又、人を遣わしても
みましたが、行方が知れませんでした。それで、お伺いすることができなかったのです。
そうですか、遁世されたのですか。まあ、しかし、こうして皆様方とお会いできたのは、
私の心底が通じたのでしょう。有り難いことです。さあ、我が家へおいで下さい。」
と、喜ぶのでした。その後、新しい庵を結んで、人々を手厚く持て成したのでした。
何とも頼もしい限りです。
つづく
ろんざん上人③
ここに、哀れを留めたのは、大和の国、葛城にいらっしゃる、金国殿の御台所と老母
です。
金国殿が、突然に居なくなってしまったので、死に別れたように、悲しみに沈んでいます。
家来の栗川は、主人を探し出そうと、旅立って行きました。御台様は、幼い玉若に向かって、
泪ながら、こう口説きました。
「如何に、玉若よ。お前も、もう八歳となりました。どうか、父の行方を捜し出し、母
の気持ちを安らげて下さい。」
玉若は、これを聞いて
「愚かな母上様。言われるまでもありません。八歳にもなって、父の行方を尋ねもしなければ、
来世の罪となります。それでは、早速に暇を頂きます。」
と言いますと、母上は、
「いや、これは恥ずかしいことですが、御身の父が居なくなった時は、火にも水にも入
って死のうと思ったのです。しかし、老母様やお前のことを考えて、甲斐も無い命を長
らえました。今、お前と離れ離れになってしまっては、私は、どうしたらよいのですか。」
と、さらに泣くのでした。玉若殿は泪を押さえて、
「お嘆きはご尤もですが、お暇を乞うのも、母上のお心を慰める為です。決して母の仰
せに背くのではありません。」
と慰めるのでした。母上は、これを聞いて、
「お前の志は、誠に唐土の「りゅうこう」(不明)にも勝ります。そこまで思い立つの
であれば、母も一緒に行きましょう。」
と決意したのでした。するとその時、何処からともなく老人が一人現れると、
「如何に、汝等、父が行方を尋ねるのならば、東国へ下りなさい。我は、長谷の観世音であるぞ。」
と言って、消え失せたのでした。親子は喜んで、有り難い教えに任せることにしました。
しかし、老母にこのことを告げれば、一緒に行くと言うに違い無いので、文を残して
そのまま旅の装束を整えたのでした。哀れな御台様は、夫の行方を尋ねる為に、住み慣
れた古里を、心細く後にしたのでした。この先の行方はどうなることでしょうか。
《道行き》
この手、柏の二つ面
とにもかくにも、我が夫の跡
懐かしき泪こそ
袖の柵(しがらみ)、暇も無く
一方ならぬ我が思い
誰に語らん年月の
思いを流せ、木津川に
便船乞うて、打ち渡り
西の大寺、伏し拝み(西大寺:奈良県奈良市)
この若が行方、如何にと、白露の
若も別れて、何方(いづち)とも
知らぬ旅路の思いの種
葉末の露は、曲水の
奈良の都を出でるにぞ
流石、故郷の懐かしく
後振り返り、御蓋山(奈良県奈良市:若草山)
見慣れぬ、身なれば、佐保の川(大和川水系)
涙ながらに、打ち渡り
早、山城に井手の里(京都府井手町)
玉水に掛け映す(木津川支流)
その面影は、隠れ果て
いとど心は、黒髪の
乱れて、物や思うらん
都の西に、聞こえたる
嵯峨野の寺に参りつつ(化野念仏寺カ)
四方の景色を眺むれば
花の浮き木の亀山や(京都市右京区嵯峨亀山町:「盲亀の浮木」(涅槃経)に掛ける)
雲に流るる、大堰川(桂川の別名)
誠に、浮き世の性(嵯峨)なれや
ろんざん上人②
さて、これは冥途でのお話ですが、金国殿の館の人々は、そのようなことは、まった
く知りません。老母や御台所が、金国殿が見当たらないと不審に思って、女房達に聞い
てみると、
「昨日、西の御殿で、諸鳥をお眺めになっておられました。」
と言うので、早速、西の御殿に行ってみると、数々の美しい諸鳥ばかりで、金国殿の
姿は見えません。探し回る内に、四間の出居に、意識不明で倒れている金国殿を見つけ
たのでした。御台所と母は取り付きますが、ぴくりともしません。老母が、不思議に
思って、肌に触れてみますと、氷のように冷たく、温かいところは少しもありません。
いったいいつ死んでしまったのでしょうか。館の内は大騒ぎとなり、家来がいろいろ看
病しましたが、一向に回復の兆しもありません。老母も御台も抱き付いて泣くばかりです。
労しことに御台様は、金国殿のお顔をつくづくと、打ち眺めては、
「のう、金国殿。日頃より、人より勝る武辺を持ち、心も剛の方なのに、末期の一句も
お残しにならず、このように頓死されるとは、どういうことなのですか。私のことは、
さて置いて、母上様や玉若をこれから、どうして行ったら良いのですか。のう、我が夫(つま)。」
と、顔を顔に擦り付けて嘆き悲しむのでした。しかし、家臣栗川形部は、少しも慌てず、
金国殿の脈を調べると、
「北の方様。そのように嘆くことはありません。そもそも人間は、心、肝、腎、肺、
脾、五臓六腑が命門に通じております。さて、脈を見ました所、何れの脈も切れてしまって
おりますが、心の脈は、未だ確かに有ります。先ず先ず、もう少し様子を見て見ましょう。」
と言うのでした。すると、栗川の言う通り、しばらくすると、金国殿は夢から醒めて、
かっぱと起き上がったのでした。母上も御台も、今度は悦びの涙に濡れました。生き返
った金国殿は、
「私は、ここで微睡んでしまったのだが、さては、一度は死んだのか。
私は、まさしく冥途に行って来た。閻魔王に会い、殺生の罪を問われて畜生道に落とさ
れることになったのだが、長谷寺(奈良県桜井市初瀬)の観世音に助けられ、不思議にも
この娑婆に帰ってきたのだ。これよりは、殺生をやめ、弥陀の誓いを忘れないようにするぞ。
南無阿弥陀仏。」
と言って、涙を流して念仏するのでした。さらに、
「在郷の咎人、飼い鳥、残らず解放せよ。」
と栗川に命じました。それから金国殿は、
「私は、長い間、火宅に住んでいることにすら気が付かなかった。天人は、水を瑠璃と
楽しむが、餓鬼は水を火炎と恐れる。このような苦界を逃れて、未来の極楽を願うべき
である。そして、猛悪の輩を利益して、その功徳によって、成仏するのだ。」
と、菩提心を起こしました。
「このことを、老母や御台所に話すならば、止めることは治定である。よし、このまま
遁世いたそう。」
と思い立つと、細々と文を書き置いて、夜半に紛れて館を後にしたのでした。まったく
殊勝な心掛けです。
金国殿は、急いで長谷寺に詣でると、観世音にお礼を言いました。
「冥途にてのお助け、誠にありがとうございます。未来成仏、極楽へお導き下さい。
これより、関東へ参ります。江戸霊巌寺の雄誉上人(おうよしょうにん)は、仏の化身
した念仏行者と聞きます。そこで出家することにいたします。」
そうして、金国殿は、東国を指して旅立ったのでした。
江戸に着いた金国殿は、雄誉上人に弟子入りなされ、やがて出家をされました。雄誉
した作品のひとつに、高僧伝があった。既に紹介した「弘知法印御伝記」がそれである。 http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20120714 この「崙山上人」も、同列の作品であるが、残念ならがヒットはしなかったであろう。 説経正本集第三(39) 天満八太夫座 天満重太夫作 元禄六年(1693年)大伝馬三丁目鱗形屋板(※原刻推定) ろんざん上人 ① さて、往生や極楽へ行く為の経行は、この濁世末代にあって、最も大事なことである。 神も仏も皆、衆生利益の為にいらっしゃるのです。三界の衆生は、すべて仏の子であっ て、生まれた時は清らかですが、生きていく間に、五欲の道に染まってしまいます。 一炊の夢であっても、善悪を悟るならば、仏となり、迷うのであれば、これを愚痴と言うのです。 関東十八檀林第三、霊巌寺(東京都江東区)の開祖雄誉(おうよ)上人の弟子である 常陸国潮来村の大知者、念仏興行の名士である崙山上人の由来を詳しく尋ねてみますと、 生国は、大和の国葛下郡(奈良県葛城市一帯)、但馬の介金国(きんごく)殿という公 家でした。父左京の進殿が亡くなった翌年、金国殿は十八歳となり、中臣郡司兼盛の娘 を嫁に迎えました。やがて、子供ができ、名前は玉若殿といい、三歳におなりになります。 さて、家の家来には、栗川形部常春という、頼りになる勇士がおりました。 この頃の金国殿は、常に殺生を好み、人々の嘆きも顧みずに、様々の罠を作っては、 鳥類畜類を捕らえて楽しむのでした。ある春の半ばのことでした。金国殿は、捕らえた 鳥を、籠に入れて、眺めておりました。 「なんとも良い眺めだな。先ず、春はウグイスが梅の小枝に羽を休めてさえずる声は、 ほうほけきょと、法華経の妙の大事を表す。ホトトギスは、冥途の鳥。山雀、小雀、 四十雀、これは、勧農の鳥と聞く。その外、諸鳥の声までも、皆これ諸経の肝文に聞こ えて来る。このような利益の声に、善人であれば目を醒まし、悪人であれば暗闇に迷う のであろう。」 と、言う内に、金国殿は、強い眠気に誘われて、眠り込んでしまったのでした。すると、 籠の辺りから、人のような形の物が顕れ、金国殿に近付きました。 「如何に金国。おまえは、正に仏の化身であるのに、どうして悪を好み、栄華を誇るのか。 朝顔よりも脆い命なのに、殺生を楽しむとは。過去の業(ごう)によって、現在の悪業 も深く、未来の業も浮かぶことが無い。我こそは、諸鳥の精であるが、おまえの悪心 によって、このような憂き目に遭うのだ。この上は、おまえの来世での有様を見せてやろう。」 と言うなり、その精は消え失せたのでした。すると不思議にも、金国殿の胸の中から、 突然、黒日の精が輝き出でて飛び上がると、庭の軒先で赤い鳥となり、虚空を指して飛 び去って行ったのでした。そして、金国殿は、刹那の間に六道の辻に落とされ、気が付くと、 只、呆然と佇んでいるのでした。 やがて、見目童子(みるめどうじ)が飛んできました。金国殿を見るなり、 「呵責、呵責。」 と、怒鳴ります。すると、さも恐ろしげな獄卒どもが飛んで来て、金国殿を掴むと、 火の車に乗せて、虚空に舞い上がりました。気が付くと今度は、仄暗い広い野原に連れ て来られて、火の車から下ろされました。それから、十町(約1Km)ばかり歩かされ 鉄の門までやってきました。外にも連れて来られた罪人が、沢山いるようです。 そこで、獄卒たちが、 「件の似非者来る。」 と言うと、罪人を責めるための、様々の責め道具が用意されました。やがて、背が高 く、真っ赤な色の大男が立ち出でて、鉄の板に何やら書き留めながら、次々と罪人の処 断を始めました。 「南閻浮提、奈良の都のぜかいどうしという罪人。親を殺せし大悪人。無間奈落へおとすべし。」 「相模国、もばら村(不明)の罪人。人を殺せし咎。修羅道へ落とすべし。」 「同国、小田原の稲垣與一介盛は、大焦熱へ落とすべし。これは、娑婆に居た時、人を 中傷し、その外数え切れない悪事をした不道の者である。」 「さあ、それにて、罪人共を悉く責め、その後、地獄へ落としてしまえ。」 と言うと、獄卒どもは、よってたかって罪人を責め立てました。その有様は、身の毛も よだつばかりです。金国殿は、これを見て、