猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

新潟県立歴史博物館【伝統芸能上演会】佐渡人形芝居上演会 

2018年07月01日 22時00分11秒 | 調査・研究・紀行
久しぶりに、佐渡真明座の舞台を拝見。午前中は、平家女護島から、「俊寛」と「宗清親子対面」。この「宗清親子対面」は、猿八座ではまだやっていないが、義経が女装して美人局になり、男を呼び込み、源氏方に味方するという血判を迫る。拒めばその場で殺されて、床下行きという、とんでもない設定で、しかも、平家方の武将弥平兵衛宗清の娘「雛鶴」が、それに荷担している。なぜなら、母親白妙は源氏の武将比企藤九郎盛長の妹だったので、密かに源氏に味方しているのであった。


午後は、のろま人形で笑わせてくれてから、「源氏烏帽子折」。「卒塔婆引き」でデビューした平野太夫は立派に勤めていて感心。さて、お目当ては「烏帽子づくし」。なんといっても、この浄瑠璃の外題の通り、義経が元服の烏帽子折を誂えにくる場面であるので、重要なシーンなのだが、猿八座ではまだ取り組めていないので、どうなるのか興味津々。

なるほど、それぞれの特徴ある烏帽子を被せた人形を並べたか。そして、義経に一目惚れした、烏帽子屋の娘「東雲」が、この人形を持って可愛く踊るというところが、見所であった。人形を遣いながら、さらに別の人形を持つというのは・・・かなり重労働ではなっかったでしょうか。ただでも日本中が暑かったのに、真明座の舞台は、さらに熱かった。今日は大変勉強になりました。そして、みなさんお元気でなによりでした。



御礼 猿八座 東京・鎌倉公演 無事終了 

2016年01月25日 10時52分54秒 | 調査・研究・紀行
1月9日(土)からスタートした「猿八まつり」と東京・鎌倉での新春公演。盛況の内に終わりました。寒気、厳しい折にもかかわらず、大勢の方々にご来場いただきました。改めて御礼申し上げます。又、東京会場の馬喰町ART+EATの皆々様、鎌倉公演を企画していただいた「港の人」、会場の古民家スタジオイシワタリの皆々様、多くの方々に支えられての公演でした。重ねて御礼申し上げます。

1月22日(金)ART+EAT 
二人三番叟

三番叟が猿面をつけました。

角田川

梅若を捜しに来た御台様は、隅田川の渡し船に乗った。既に一年前、息子梅若は、この川辺で亡くなっていたのだった。
今でも、隅田川の辺、木母寺には、梅若の墓、梅若塚がある。

山椒太夫:鳴子引き

地蔵菩薩のご加護によって、母上様の目が開く

1月23日(土)ART+EAT
二人三番叟

正月の縁起物、「福」まきを楽しむ。拾えた方は、必ず良い事があります。

角田川

母が、念仏を唱えると、梅若の亡霊が現れるが、大念仏の人々には、見えない。母は、息子の姿を追い求めるが、人々には、気が狂ったとしか見えないのだった。

信太妻:子別れ

母は、狐となって、森に帰っていった。

1月24日(日)古民家スタジオイシワタリ
二人三番叟


耳なし芳一

帰ってきた和尚は、芳一の耳から流れ出た血の海に、足を滑らせる

文弥談義

姜信子(八景)の進行で、文弥人形や文弥節について話しをする、八郎兵衛と八太夫。



道端の女、実は「むじな」におどろかされた商人は、逃げ込んだ屋台で、又、化かされる。





南の島で出合った浄瑠璃

2015年11月27日 14時49分31秒 | 調査・研究・紀行
 石垣島に行って来ました。「まゆんがなし」の地「川平(かびら)」を訪問することや、神の山「於茂登(おもと)岳」に登ることが、主な目的でしたが、案内をしていただいた、大田静男氏(郷土史研究家)から、「浄瑠璃ならあるよ。」と言われて、びっくり。遥か南の島で出合ったのは、「ひらがな盛衰記」でした。

(石垣市立八重山博物館蔵:新本家文書より)
この本は、写本で、年代等は不明。コピーを持ち帰ったので、これから翻刻の予定。
大田氏が著した「八重山の芸能」によると、石垣島にもかつて、「文弥節」による浄瑠璃があり、その人形浄瑠璃のことを、「京太郎(チョンダラー)」と呼んだと書かれています。

(南島覚書:須藤利一著・第一書房:より)
このチョンダラーの写真は戦前の記録で、残念ながら、現在はその現物は残ってはいませんが、佐渡の文弥人形と大変良く似ています。

(八重山博物館)
南の島では、いったいどんな人形浄瑠璃が行われていたのでしょう。



旅する神「まゆんがなし」がやってくる(群星御嶽(ンニブシオン)にて)




三味線の根緒

2015年09月28日 18時21分55秒 | 調査・研究・紀行
 以前から古い根緒が切れてしまっていました。面倒くさいので、テーピングで補強して使っていましたが、いくらなんでも、舞台では使えません。先日、浅草に行ったついでに、新しい根緒をひとつ買ってはきたのですが、自分で組めないものかと、その古い根緒をほどいてみました。すると、うまいことに、テーピングが目印となって、どういう組み方なのが一目瞭然です。そこで、実験的に、山道具の中から細引きを引っ張り出して来て、組んでみました。太棹用ですので、5mm程度の細引きがぴったりです。

(クリックで拡大します。)
左が切れてテーピングだらけの古い根緒。右が細引きで組んでみたもの。形を決めるために、試作品もテープで留めながら、作業しました。
やっと完成。

古い方も元通りにできました。
今度、綺麗な紐がありましたら、オリジナル根緒を作りましょう。細棹用なら3mmぐらいがよさそうです。

説経祭文とチョンガレ、そして瞽女唄

2015年07月22日 11時24分07秒 | 調査・研究・紀行
説経祭文の「信徳丸」を依頼されたので、薩摩若太夫正本を探したが、版本に行き着くことができなかった。薩摩派の写本を調べてみると、「善兵衛住処」という、呪いの釘を鍛冶屋に打たせる場面しか残っていない。これは、10年以上前に「祈り釘」という段として節付けしたことがあり、私の譜面が残っている。古説経の信徳丸では無く、説経祭文としての全段が、どこかに残っていないかと、調べている内に、「日本庶民生活資料集成第17巻」に、ようやくその文言を見つけることが出来た。しかし、これは、版本ではなく、新潟県上越市高田の市川信次氏の所蔵する、若太夫正本の写本であると書かれていた。説経祭文が、高田瞽女の段物、祭文松坂の原文テキストとして使われたらしいというのである。そこで、逆に、このテキストを、祭文として採用しうるのかを、確かめる爲に、長岡市在住の瞽女研究家鈴木昭英氏を訪ねた。鈴木氏は、集成17巻の著者である五来重博士(東大)の御弟子さんである。

説経祭文の節を聴いていただいた。
 結論的には、かなりの頻度で、祭文語りやチョンガレがやってきて、若太夫正本を使った語りをしたので、瞽女も同じような演目の段物を、習得するようになったらしいのである。この集成17巻の「写本信徳丸」は、実は、明らかに越後訛りで記録されているのだが、そこに注意をしながら、説経祭文のテキストとして採用してみようと思う。

旅するカタリ かもめ組 成蹊大学公演 

2015年07月13日 14時46分23秒 | 調査・研究・紀行
作家の姜信子氏は、猿八座の一員となり、八太夫会にも入って、三味線を稽古しています。8月の佐渡では、初舞台に上がってもらう予定です。さて、その姜信子氏と、浪曲師玉川奈々福さん、パンソリ唱者安聖民(アン ソンミン)さんの3人組は、「かもめ組」という不思議な芸能集団を組んでいます。その呼びかけが、「世界よ、この愚か者たちの声を聴け」です。
 浪曲も生で聴くのは初めてでしたが、韓国の語り物「パンソリ」は勿論初めてで、そのような芸能があることすら知りませんでした。とにかく、初体験でしたので、感動と驚きの連続でしたが、お二人の共通して素晴らしかったのは、その声の鍛え方でした。やはり、プロの声は違いますね。惚れ込みました。

「ピナリ(祈り)」安聖民  鼓手:趙倫子(チョ リュンジャ)

「金魚夢幻(きんぎょむげん)」玉川奈々福 曲師:澤村豊子
因みに、浪曲の三味線は、三下がり。三味線は太棹で、東サワリがある地唄タイプでした。駒は、端唄用に近い大きめの物でした。撥は総鼈甲とお見受けしました。

「ケンカドリの物語」(姜信子著「生きとし生ける空白の物語」から)パンソリと浪曲と声による実験的語りの試み

中西和久氏 山椒大夫考

2015年05月04日 20時27分19秒 | 調査・研究・紀行
新百合ヶ丘の川崎アートセンター



一人芝居京楽座の山椒太夫考を見て来ました。1時間45分ぶっ通しの熱演に脱帽でしたね。



中西さんの舞台を観たのは、テレビ放映だったはずですが、十五年以前で、題目も覚えていません。簓をするお姿が目に焼き付いてます。今日は、下座囃子方もついて賑やかでしたが、三味線が置いてあるので、どこで使うのかと楽しみにしていました。三味線は、母親の鳥追いの口説きで使われました。節は、若松派の説経祭文でした。流石、武蔵大掾に手ほどきを受けただけはあるなあと思いました。



公演終了後、サインを戴いて参りました。

善光寺 御開帳 参拝

2015年04月28日 15時05分16秒 | 調査・研究・紀行
阿弥陀胸割を演じて以来、一光三尊像を拝んで毎日、阿弥陀経を唱えて来ましたので、長時間並んでも、前立本尊を拝めたので、大変有り難い次第です。回向柱に結ばれた善の綱は、前立本尊に繋がってますから、この柱に触れることで、本尊に触れたことになるわけです。源氏烏帽子折の卒塔婆というのは、こういう回向柱のことなのかと、妙に納得。ありがたや、ありがたや。

驚愕の軽金属製三味線

2015年01月21日 18時56分05秒 | 調査・研究・紀行
こういう仕事柄、早稲田大学の演劇博物館には、いつか行かなくてはと思っていましたが、なかなか機会がありませんでした。そんな折、「響きで紡ぐ アジア伝統弦楽器展」というチラシをみつけたのでした。小さい字で、「若松武蔵大掾三味線『鈴虫』」と書かれています。ずっと気になっていたのですが、うかうかしていると、会期が終わってしまうので、小雪の舞う中、重い腰を上げました。

早稲田大学演劇博物館
今回の企画のチラシの写真は、このようなものですが、

このチラシの三味線は、その「鈴虫」ではありませんでした。なんと、初代の若松武蔵大掾(初代若松若太夫)の三味線というのは、おそらくは、アルミ材で作ったと思われる三味線だったのです。(皮は犬皮、糸は絹の様な感じでしたが、説明無し)いくらなんでも、世の中に、こんな大それた物が存在していたとは、びっくり仰天でした。鈍く光る撥もアルミみたいです。この不気味な三味線の説明には、こうありました。

軽金属製三味線
演博所蔵
若松武蔵大掾(1874-1948)が、三味線で型取りをして、鋳造したもの。機関銃の音や爆音などを真似て、軍国調の説教節を唄った。

恐るべき改良説教節・・・なんだ、こんなものを見に来たのかと、がっかりしておりましたが、この三階建ての瀟洒な建物には、面白いもがいっぱい詰まっていました。特に、三階の時代別の演劇史は飽きることがありません。特に面白かったのは、無声映画の絵本太功記十段目です。義太夫がぴったり乗るので、画面に向かって、ひと語りしてきました。更に懐かしかったのは、写し絵です。小栗判官一代記の御菩薩池の板を写していました。私が以前に使用した、横瀬の板に似ています。

2時間かけて見学してから、1階の図書室で、気になっていた長唄の文句の意味などを調べて、たっぷり一日お勉強しました。

第24回 全国地芝居サミットin魚沼

2014年11月30日 20時22分18秒 | 調査・研究・紀行
小出のインターのすぐ隣に、魚沼市小出郷文化会館があります。何度も通過している所ですが、今回、二日間に渡って、お世話になりました。演じていただいたのは、「塩沢歌舞伎保存会」の皆さんと、「越後魚沼干溝歌舞伎保存会」の皆さんでした。

塩沢歌舞伎:義経千本桜「吉野山 道行初音旅」


越後魚沼干溝歌舞伎:源平布引滝二段目「義賢最期」


どちらも、素人離れしたというか、玄人肌の言うか、特に「義賢」の最期は、本当に圧巻で、手に汗を握りました。改めて、地芝居って何なのかなと、考えさせられました。さて、あきる野市が、平成27年のサミットのバトンを渡されました。来年の五月二日、三日は、あきる野市で、地芝居サミットが開催され、菅生一座も出演しますので、宜しくお願いいたします。

秋の好日 秩父 萩平歌舞伎の一日

2014年10月26日 19時18分03秒 | 調査・研究・紀行
萩平歌舞伎公演は、今年で17回目ということです。秩父の人々は、大変行いが良いらしく、私が行く様になってから、雨と言う事は無くて良いのですが、毎回、夏の様な太陽に悩まされます。今日も暑かったですね。
さて、子供歌舞伎は、「吉例曾我対面 工藤館の場」です。6月からの猛稽古の結果が十二分に発揮されたようです。菅生との違いも勉強になりました。子供歌舞伎は、文句なしに可愛い。年ですかね。

正和会は、「一谷嫩軍記 熊谷陣屋の場」です。地芝居では、お馴染みの作品ではありますが、9月の白山で、真明座の文弥人形で見ているので、その比較に興味が湧きました。正直に結論を言ってしまうと、今日の芝居の方が面白かったし、良く理解できました。同じテキストを使っているのに、人形と人間とは言え、何でこんなに印象が異なるのか、大変不思議です。ご存知の様に、「一の谷嫩軍記」は、並木宗輔の作です。初演は宝暦元年(1751年)の大坂豊竹座ということですから、古浄瑠璃的なものとは、既に100年もの時代の差があります。この百年のギャップが、何をどう違えているのかは、良くは説明できませんが、素朴な文弥人形では、表現しきれない部分があるのかなあと、考えさせられた秋の一日でした。反対に、観る側が楽をして、想像力を麻痺させているのかもしれませんが・・・

首実検

「その昔、母常磐の懐に抱かれ、伏見の里にて雪に凍えしを、汝が情けをもって、親子四人が助かりし嬉しさ。その時は、我三歳なれども、面影は、目先に残り、見覚えある眉間のほくろ・・・」と正体を見破られた弥陀六、実は、弥平兵衛宗清。「源氏烏帽子折」(1690年:近松)の宗清が、田村川合戦の前に失踪してから、ここに再登場かと思うと、なんとなくジーンとしますが、内輪受けの感想ですね。何はともあれ、秋を満喫するには萩平歌舞伎です。因みに、我等がお師匠様の坂東彦五郎氏は、今回チョボ床をお勤めでした。
萩平の芝居小屋遠景:後ろの山は、「美の山(簑山)」(582m)です。山頂が色づいていましたが、写真ではみえるかな?

波除け地蔵祭り(佐渡真野新町太日堂)文弥人形 盛久

2014年07月28日 13時22分32秒 | 調査・研究・紀行

「主馬判官盛久」という浄瑠璃を、私は知りませんでした。調べてみると、近松34歳、貞享三年(1686年)の作品でした。この人形芝居を、真野の地蔵祭りで、真明座が演ずるというので、勉強に行ってきました。因みに、この波除けとは、津波封じのことだそうです。

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主馬判官盛久 あらすじ

第一

一の谷の合戦で敗走し、海上に逃れた平家の船団を追いかけて来たのは、平家譜代の侍大将、主馬の判官盛久でした。盛久は、主君である薩摩の守忠度卿が、岡部六弥太忠澄に討たれた今、妻の床夜の前と最期の名残を惜しむ為に、戻って来たのでした。それと言うのも盛久は、小松殿(平重盛)から女房をいただいておきながら、とうとう現世においては、迎えることができなかったからでした。しかし無念にも、床夜の前は、どの御座船には乗っていませんでした。

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(先陣を離れた盛久と、船上の能登の守)

盛久は、最早、討ち死に以外に道は無いと、須磨へ取って返しましたが、流れ矢に当たって馬が倒れ、盛久も岩角に胸を打ち付け悶絶してしまうのでした。そこに現れたのは、漁師の娘、曙でした。曙の看病により、意識を取り戻した盛久でしたが、今度は、曙から言い寄られて辟易とします。命の恩があるので、とうとう盛久は、夫婦の約束をさせられてしまうのでした。

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(盛久を介抱する曙)           (宗重と戦う、妻の床夜の前)

敵が迫って来たので、盛久は、傷ついた馬の介抱を曙に頼むと、再会の約束をして別れました。ところが、敵と戦っていたのは、鎧姿の妻、床夜の前でした。源氏方の小山の太郎武者宗重は、床夜の前を組み伏せると、にやにやしながら、「盛久は死んだから、俺の女房になれ」と迫ります。

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(床夜の前に言い寄る宗重)        (再会を果たす盛久と床夜の前)

危うい所を盛久が蹴散らし、晴れて夫婦の対面が叶うのでした。二人は、平家一門と合流して一緒に死にましょうということになりますが、盛久は、先ほどの曙との約束を思い出ます。一瞬、逡巡しましたが、最早どうすることもできません。時は元暦二年三月二十四日、壇ノ浦での総攻撃が始まっていました。二人は、御座船を目指しましたが、とうとう堀の弥太郎近経に取り押さえられてしまいます。弥太郎は、床夜の前が、女であることを知ると、逃がしましたが、それを見ていた先程の宗重は、「敵を助けるとは二心あり」と叫んで、頼朝への告げ口に走るのでした。

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(弥太郎は床夜の前を逃がします)      (宗重が弥太郎を見咎めます)


一方、盛久は、妻を助けた弥太郎に恩を感じて、首を差出します。高名を焦っていた弥太郎でしたが、後日、宗重の讒言を覆すための証人となるように頼み、盛久を生け捕りにするのでした。

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(首を差し出す盛久と、生け捕りを乞う弥太郎)  (以上真明座)
 

第二 

堀の弥太郎に生け捕られた盛久は、土屋の三郎に預けられ、鎌倉まで護送される手筈ですが、弥太郎は、盛久を丁重に扱う様に命じたのでした。その為、盛久が乗る馬を手配することになりました。ところが貸し馬を曳いて来たのは曙です。曙は、盛久は自分の夫だから会わせて欲しいと懇願しますが、許されません。今度は、床夜の前がやってきて、自分は盛久の妻なので会わせてくれと涙をながすので、門番は呆れて、門をピシャリと閉じてしまいます。床屋の前が、曙を問い正して、女の戦い一触即発です。曙が、「私は盛久殿を助けたのに、あんたは、弥太郎に生け捕らせたではないか、それで夫婦と言えるか。口惜しかったら、早く弥太郎を討ち取れ」と食い付きます。互いに、今夜にでも弥太郎を討ってみせると、喧嘩別れになるのでした。その日の夕刻、床夜の前が忍び込もうとうろうろしていると、逆に弥太郎にみつかってしまいます。弥太郎は、床夜の前が盛久の妻であることは知っていましたので、陣屋に呼び入れ、是までの経緯を話すのでした。盛久が、恩情を受けている事を知った床夜の前は、弥太郎を討つことができなくなりました。しかし、やがて曙が、弥太郎を討つためにやってくるでしょう。どうしたものかと、思い悩んだ末に、床夜の前は、書き置きをすると、黒髪をふっつと切り落として、弥太郎の直垂を被って、床に着いたのでした。明け方に、弥太郎を討つために、曙が忍び込んで来ました。しかし、曙が掻き落した首は、床夜の前の首だったのです。陣屋は大騒ぎになりますが、一通の書き置きに皆、涙するのでした。『討てば情けの恩を知らず、討たでは人の義理立たず、恩にも恋は替えられず、恋にも恩は捨てられず、二つの道が心の責め、露の命を捨て筆に、言い残し置く、我が心』
 

第三 

鎌倉に戻った小山の太郎武者宗重は、堀弥太郎が、盛久を優遇して、謀反を企てていると讒言をします。頼朝は盛久を問い詰めますが、盛久は源氏のことなど知らないと取り合いません。頼朝は、宗重に弥太郎の捕縛を命じ、盛久を川越重房に預けるのでした。 

 一方、曙は、罪も無い床夜の前を殺してしまったことを後悔して、出家をするために京都大原の辺りをさまよっていました。とある庵に辿り着きますが、そこは、盛久の主であった忠度卿の妻、菊の前と、無官の太夫敦盛の妻(法正覚)が尼となって隠れ住んでいる庵でした。曙の話しに涙している所に、今度は法師となった熊谷直実(蓮生坊)が闖入して来ます。蓮生坊は敦盛を殺した後悔の念に苛まれますが、逆に、法正覚に励まされるのでした。やがて蓮生坊は寝入ってしまいますが、女三人は、いつまでも身の上話しが尽きませんでした。 

 そこへやってきたのは、弥太郎の行方を捜す宗重です。曙が居ることを知ると、宗重は、無理矢理に曙を奪い取りました。騒ぎに目覚めた蓮生坊が、飛んで出ますが、宗重はさっさと逃げてしまいます。曙を奪い取られた蓮生坊は、地団駄を踏んで悔しがるのでした。
 

第四 

その頃、弥太郎は清水寺に隠れて、世情を窺っておりました。夜半に念仏していると、大男が現れました。それは、蓮生坊でした。蓮生坊は、弥太郎と知ると、曙を宗重に奪われた事等を悔しさ紛れにぶちまけるのでした。弥太郎は、宗重にはめられた悔しさと、自らの不甲斐なさを嘆きつつも、涙に暮れる外はありませんでした。そこで、蓮生坊は、大原の二人の比丘尼と鎌倉に行き、頼朝公を説得しようと決意するのでした。 

蓮生坊は二人の比丘尼を先行させて、鎌倉を目指しました。しかし、関の厳しい東海道は下らずに、長野経由で、群馬県の安中、板鼻の宿までやってきたのでした。ところが、ここに臨時の関が設けられて、厳しい詮議がされているようです。役人は、弥太郎詮議のため通行は出来ないと言います。二人が、熊野比丘尼を何故通さないのかと粘りますと、本当の熊野比丘尼なら、六道の絵図を見せて見ろと、突っ込むのでした。しめたと二人は、幸い持っていた九品十戒の絵を出して、関の柱に掛けると、滔々と説法を始めるのでした。お前達の様に往来を妨げる関守は、地獄行きだと言われて、役人達は慌てて喜捨すると、震えながら二人を通すのでした。ところが、菊の前を見知った者がいたので、せっかくの大芝居も無駄になって、二人は取り押さえられてしまうのでした。絶体絶命の所に、ようやく蓮生坊が現れます。蓮生坊の一暴れで、二人を救い出しただけで無く、若侍に二人の尼を背負わせて、さらに鎌倉を目指すのでした。
 

第五 

ここは、鎌倉桐が谷(きりがやつ)にある川越重房の座敷牢。盛久は、法華経を読誦する毎日です。友といえば、寝起きを共にする鸚鵡(おうむ)だけですが、この鸚鵡は、毎日のお経を口真似し、とうとう、盛久と一緒に読誦するようになったのでした。盛久処刑の命令が出され、川越重房が知らせに来た時の事です、なんと鸚鵡が重房に飛び掛かって、左の頬を傷つけたのでした。重房が、鸚鵡を捻り殺そうとする所を盛久は、黄金の守り本尊(清水の観音様)と引き替えに、鸚鵡の命を助けるのでした。 

さて頼朝公が諸大名を引き連れて、鶴岡八幡宮に参拝されますと、神木の銀杏に怪しい鳥が留まって、こう鳴きました。「ねんぴかんのんりき、とうじんだんだえ」(念彼観音力刀尋段段壊)頼朝を初め、皆々不思議に思っていると、宗重がしゃしゃり出ます。この鳥を射落としたと思いきや、鳥は黄金の千手観音となって光を放ち、矢を放った宗重は悶絶し、痙攣してしまうのでした。するとそこへ、川越の重房が盛久を連れて駆け込んできました。重房は、「首を討とうとしましたが、盛久の体が光り輝き、これこのように、太刀が段々に折れ、処刑できません。」と言上するのでした。頼朝は、はったと手を打ち、「信あれば徳あり。仏が助けた者を、頼朝が討つわけには行かぬ。」と、盛久を助命するのでした。しかし、盛久は源氏の恩は受け無いと、助命をはねつけます。そこへ、ようやく蓮生坊、法正覚、菊の前が到着しました。蓮生は、堀、土屋に科は無く、すべては宗重の讒言であると告発します。更に、宗重に捕らえられていた曙も逃れ来て、宗清の悪行を暴露するのでした。頼朝公はお怒りになり、その場で宗重を縛り上げると、蓮生に引き渡しました。頼朝公は「神の前で、佞人は暴かれたな。この御本尊様は、頼朝が預かる。」と感じ入り、盛久に源氏の姓と領地をお与えになったのでした。
 

おわり

 


文弥人形真明座 至高の操り  

2014年06月22日 23時16分47秒 | 調査・研究・紀行

真明座の長岡歴博公演「嫗山姥二段目」の後半「時行切腹の場」で八重桐を操った川野名座長は、まさに鬼人の如しでした。文楽では、「ガブ」という仕掛けで、頭の表情を瞬時に変えて見せますが、文弥人形にはそんな仕掛けはありません。八重桐の頭を瞬時に山姥に挿げ替えるその迫力に、場内は騒然となりました。ほんとに凄い。まさに金時が宿ったという感じです。この感じは、文弥人形以外では出ないと思います。

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切腹した夫坂田時行の魂が宿った八重桐

『三十二相の容顔(かんばせ)も、怒れる眼、もの凄く』

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『島田解けて、逆様に』

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『たちまち、夜叉の鬼瓦』

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現在の頭(八重桐)を宙に放り捨て、瞬時に山姥の頭に入れ替えました。これは、言う程簡単な事ではありません。古浄瑠璃の絡繰りというのは、この様に単純かつ明快であるべきであろうというお手本みたいな舞台でした。真明座の皆さんご苦労様でした。有り難う御座いました。

 


新潟県立歴史博物館 佐渡人形芝居 真明座

2014年06月10日 12時02分46秒 | 調査・研究・紀行

6月吉例、真明座の長岡公演をお知らせ致します。

午前の部:嫗山姥(こもちやまんば)八重桐廓噺の段
午後の部:源氏烏帽子折(げんじえぼしおり)竹馬の場、宗清館の段

どちらも、近松の作品です。源氏烏帽子折は、元禄三年(1690)近松が、38歳の時の作品です。まだ古浄瑠璃の香りが漂っている感じがします。

源義朝が殺された後、運命が急変する常磐御前と、その三人の子供達(今若、乙若、牛若)の物語。1段目の後半の「竹馬の場」は、子供達が竹馬(切った竹を馬に見立てて跨がること)に乗って、合戦ごっこをして遊びながら、平家追討を誓い合いますが、なんとも愛くるしい場面です。

義朝が殺害されたのはまだ、正月三が日のことです。三段目では、逃げ落ちる常磐親子が、雪の伏見で難渋します。そこである庵に、助けを求めたのですが、そこは、敵方の平宗清の庵だったので、断られてしまいます。寒さの余り、気を失った母の為に、子供達が着物を脱いで着せ、一所懸命に看病します。裸になった子供達が、寒さに震えながらも、耐えて強がる場面がいじらしい所です。しかし、宗清の妻は、源氏の家臣、藤九郎盛長の妹であったので、親子は危うく難を逃れることになります。

猿八座でも、今年、この源氏烏帽子折に取り組んでいます。9月には、新発田稽古場での公開稽古を予定しておりますので、お楽しみに。

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