ゆりわか大じん ④
緑丸死する件、ならびに大臣、嶋にて御なげき
去るほどに、物の哀れを留めたのは、豊後の国にいらっしゃる大臣殿の北の方です。
大臣の形見の品を眺めては、物憂い日々を送っていらっしゃいましたが、見る度に心が
乱れるので、形見の中でも、御着背長(きせなが)と鉄の弓矢を宇佐八幡(大分県宇佐市の宇佐神宮)
に奉納されました。家来達は、主が居なくなってしまったので、浪人となり、またある
者は、出家して大臣の菩提を問う者もありました。また、大臣が飼っていた十二羽の鷹
も、世話する人もいないので解き放たれました。しかし、その鷹の中で、主君に名残惜
しいのか、緑丸という大鷹は、一向に飛び去る気配がありません。御台所はこれを見て、
「あれは、御君が秘蔵されていた緑丸ですね。疲れているのでしょうか。餌を与えてあ
げなさい。」
と、言いました。女房達は、鷹の餌については何も知らなかったので、ご飯を丸めて
鷹の前に置きました。すると、緑丸は、嬉しそうに、この飯を咥えると、大空に飛び上
がったのでした。
雲井遙かに飛び上がった緑丸は、飯を咥えて、大臣が取り残された玄界島へと飛んで行ったのです。
やがて、嶋に飛んできた緑丸は、咥えてきた飯を、とある岩間に置くと、羽を休めておりました。
大臣が気配を感じて、岩間の宿から出てみると、岩の上に一居(ひともと)の鷹が居る
のをみつけました。急いで駈け寄ってみると、それは、手飼いの緑丸ではありませんか。
夢か現かと、抱き取ると、
「あら、懐かしの緑丸。この大臣がこの嶋に居るということを、どうやって知ったのだ。
まったく、鳥類には五通(神通力)あるというが、利口な奴よ。さて、この飯は、御台
所が送ってよこしたのか。飯などよこさずに、何故、文を使わさぬのだ。未だ豊後にお
るものやら、はたまた都へもどったやら。淵瀬となる世の中(変わりやすいの意)よのう。」
と、声を上げて泣き悲しむのでした。優しくも緑丸は、主君との再会を喜び、涙を浮か
べているように見えました。大臣は、
「なんと名誉な鷹であろうか。いくら鳥類とは言え、この鷹の前で、落ちぶれた姿を曝
して、この飯を食うのも恥ずかしい。」
と、食べるのをためらいましたが、せっかく緑丸が、万里の波を越えて、ここまで運ん
で来たこころざしの優しさを思い、飯を食べました。これを見た緑丸は、羽を広げて喜
びを表しました。しばらくして大臣は、緑丸に、
「お前が見ても分かるように、木の葉も無い嶋であるので、文を書き送る手立ても無い。
どうしたものかのう。」
と、話しかけました。すると、緑丸は、すっと飛び去ってしまったのでした。驚いた
大臣は、
「おお、もう行ってしまうのか、まてまて、戻って来い。」
と、叫びました。また独りぼっちかと大臣は涙を流しておりましたが、しばらくして、
緑丸は、楢の葉を咥えて戻って来たのでした。誠にいにしえ、蘇武(そぶ)が胡国の玉
章を雁の翼に言づてしたのも、こういうことだったのでしょう。大臣は、我も思いは劣
らないぞと思うと、左の小指を食いちぎって、岩間に血を溜めると、その葉に一首の歌
を書きました。
『飛ぶ鳥の 跡ばかりをば頼め君 上の空なる 風の便りに』
大臣は、葉を緑丸の「鈴付け」(尾羽)に結び付けると、
「早く、帰れよ緑丸。必ず便りを待つぞ。」
と、涙と共に緑丸を放しました。緑丸は、嬉しげに飛び上がると、虚空高くに舞い上が
りました。三日三夜を飛び続け、再び豊後の御所に戻ったのでした。緑丸は、御台所の
前に降り立ちました。御台は、
「また、来たのか、緑丸。お前を見ていると、夫(つま)の面影が思い出されて悲しく
なります。今でも淵瀬に身を投げて、夫のお供をしたいとも思いますが、夢に見る夫の
面影は、死んだ人には思えません。もしかのことを頼みとして、再び会うまでは命が惜しい。
これ、緑丸や。おまえは大空を飛び回ってきたのじゃろ。大臣殿がどこに居るのか分からぬか。
この世にいるのか。教えてくださいな。緑丸。」
と、はらはらとお泣きになりました。緑丸は、優しくも、御台所に近づいて、鈴付け
を盛んに振り上げて見せます。御台所は、鈴付けに結んである木の葉に気が付きました。
急いで取り上げてみると、それは紛れもない我が夫の筆跡です。これは夢かと、驚いて、
「女房達、これを見てください。大臣殿は生きていらしゃいます。確かに死んではいないのです。」
と、喜び叫びました。女房達も俄に浮き足立って、涙を流して喜び合います。
「これをご覧なさい。これこそ命ある証拠の印。紙も無い所にいらっしゃるので、木の葉
にものを書いたのでしょう。それに、硯も筆も無いので、血で書かれたのですね。
さあ、硯を届けて思いの丈を書いていただきましょう。」
と、御台が言うと、女房達は、紫硯(むらさきすずり)に油煙の墨と筆を、紙を五つ重
ねにして巻き込みました。その上、御台を初め女房どもが、我も我もと文を書き、取り
集めた巻物は、仕方がないとはいえ、とんだ重い荷物となりました。これを緑丸の鈴付
けに無理矢理結びつけると、
「必ず、必ず、早く帰れよ。」
と、緑丸を放ちました。緑丸は、嬉しげに雲井遙かに舞い上がりましたが、この大荷物は、
やがて、露を含んでさらに重くなり、次第次第に力尽きて、とうとう緑丸は、海に落ち
てしまったのでした。無惨というより外に言葉もありません。
労しいことに、嶋に一人居る大臣は、なかなか緑丸が帰って来ないので、空しく時を
送っていましたが、ある日、海蘊(もずく)取りに磯に出てみると、鳥の羽が打ち寄せ
られているのを見ました。不思議に思って近づいてみると、それは緑丸の死骸でした。
あまりのことに、肝も魂も消え失せて、膝の上に抱き上げ、悲しみに暮れていましたが、
よく見ると、なんと、最早にじんで読めない沢山の文に、墨硯まで結び付けてあります。
こんなことをしたら、沈んでしまうのも当たり前だと、歯がみをして、
「これぞ、女性(にょしょう)の浅ましさ、紙、筆、墨だけあれば物を書くことが出来
るのに、硯まで付けるとは何事ぞ。まったく情けない。
ああ、なんど無惨な。この鷹が死しても、鬼界ケ島や高麗、契丹に流れ着かず、また
この島に流れ着くとは、魂は冥途へ赴けども、魄はこの世に残ればこそ。
我が命もこれまで。冥途の道しるべして連れて行ってくれよ、緑丸。」
と、声を上げて泣きました。
緑丸が最期の体、大臣殿の御情け
世の中のものの哀れはこれとて
皆、感ぜぬ者こそなかりけれ
つづく