猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 11 説経百合若大臣 ④

2012年03月29日 11時12分37秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ゆりわか大じん ④

緑丸死する件、ならびに大臣、嶋にて御なげき

 去るほどに、物の哀れを留めたのは、豊後の国にいらっしゃる大臣殿の北の方です。

大臣の形見の品を眺めては、物憂い日々を送っていらっしゃいましたが、見る度に心が

乱れるので、形見の中でも、御着背長(きせなが)と鉄の弓矢を宇佐八幡(大分県宇佐市の宇佐神宮)

に奉納されました。家来達は、主が居なくなってしまったので、浪人となり、またある

者は、出家して大臣の菩提を問う者もありました。また、大臣が飼っていた十二羽の鷹

も、世話する人もいないので解き放たれました。しかし、その鷹の中で、主君に名残惜

しいのか、緑丸という大鷹は、一向に飛び去る気配がありません。御台所はこれを見て、

「あれは、御君が秘蔵されていた緑丸ですね。疲れているのでしょうか。餌を与えてあ

げなさい。」

と、言いました。女房達は、鷹の餌については何も知らなかったので、ご飯を丸めて

鷹の前に置きました。すると、緑丸は、嬉しそうに、この飯を咥えると、大空に飛び上

がったのでした。

 雲井遙かに飛び上がった緑丸は、飯を咥えて、大臣が取り残された玄界島へと飛んで行ったのです。

やがて、嶋に飛んできた緑丸は、咥えてきた飯を、とある岩間に置くと、羽を休めておりました。

大臣が気配を感じて、岩間の宿から出てみると、岩の上に一居(ひともと)の鷹が居る

のをみつけました。急いで駈け寄ってみると、それは、手飼いの緑丸ではありませんか。

夢か現かと、抱き取ると、

「あら、懐かしの緑丸。この大臣がこの嶋に居るということを、どうやって知ったのだ。

まったく、鳥類には五通(神通力)あるというが、利口な奴よ。さて、この飯は、御台

所が送ってよこしたのか。飯などよこさずに、何故、文を使わさぬのだ。未だ豊後にお

るものやら、はたまた都へもどったやら。淵瀬となる世の中(変わりやすいの意)よのう。」

と、声を上げて泣き悲しむのでした。優しくも緑丸は、主君との再会を喜び、涙を浮か

べているように見えました。大臣は、

「なんと名誉な鷹であろうか。いくら鳥類とは言え、この鷹の前で、落ちぶれた姿を曝

して、この飯を食うのも恥ずかしい。」

と、食べるのをためらいましたが、せっかく緑丸が、万里の波を越えて、ここまで運ん

で来たこころざしの優しさを思い、飯を食べました。これを見た緑丸は、羽を広げて喜

びを表しました。しばらくして大臣は、緑丸に、

「お前が見ても分かるように、木の葉も無い嶋であるので、文を書き送る手立ても無い。

どうしたものかのう。」

と、話しかけました。すると、緑丸は、すっと飛び去ってしまったのでした。驚いた

大臣は、

「おお、もう行ってしまうのか、まてまて、戻って来い。」

と、叫びました。また独りぼっちかと大臣は涙を流しておりましたが、しばらくして、

緑丸は、楢の葉を咥えて戻って来たのでした。誠にいにしえ、蘇武(そぶ)が胡国の玉

章を雁の翼に言づてしたのも、こういうことだったのでしょう。大臣は、我も思いは劣

らないぞと思うと、左の小指を食いちぎって、岩間に血を溜めると、その葉に一首の歌

を書きました。

『飛ぶ鳥の 跡ばかりをば頼め君 上の空なる 風の便りに』

大臣は、葉を緑丸の「鈴付け」(尾羽)に結び付けると、

「早く、帰れよ緑丸。必ず便りを待つぞ。」

と、涙と共に緑丸を放しました。緑丸は、嬉しげに飛び上がると、虚空高くに舞い上が

りました。三日三夜を飛び続け、再び豊後の御所に戻ったのでした。緑丸は、御台所の

前に降り立ちました。御台は、

「また、来たのか、緑丸。お前を見ていると、夫(つま)の面影が思い出されて悲しく

なります。今でも淵瀬に身を投げて、夫のお供をしたいとも思いますが、夢に見る夫の

面影は、死んだ人には思えません。もしかのことを頼みとして、再び会うまでは命が惜しい。

これ、緑丸や。おまえは大空を飛び回ってきたのじゃろ。大臣殿がどこに居るのか分からぬか。

この世にいるのか。教えてくださいな。緑丸。」

と、はらはらとお泣きになりました。緑丸は、優しくも、御台所に近づいて、鈴付け

を盛んに振り上げて見せます。御台所は、鈴付けに結んである木の葉に気が付きました。

急いで取り上げてみると、それは紛れもない我が夫の筆跡です。これは夢かと、驚いて、

「女房達、これを見てください。大臣殿は生きていらしゃいます。確かに死んではいないのです。」

と、喜び叫びました。女房達も俄に浮き足立って、涙を流して喜び合います。

「これをご覧なさい。これこそ命ある証拠の印。紙も無い所にいらっしゃるので、木の葉

にものを書いたのでしょう。それに、硯も筆も無いので、血で書かれたのですね。

 さあ、硯を届けて思いの丈を書いていただきましょう。」

と、御台が言うと、女房達は、紫硯(むらさきすずり)に油煙の墨と筆を、紙を五つ重

ねにして巻き込みました。その上、御台を初め女房どもが、我も我もと文を書き、取り

集めた巻物は、仕方がないとはいえ、とんだ重い荷物となりました。これを緑丸の鈴付

けに無理矢理結びつけると、

「必ず、必ず、早く帰れよ。」

と、緑丸を放ちました。緑丸は、嬉しげに雲井遙かに舞い上がりましたが、この大荷物は、

やがて、露を含んでさらに重くなり、次第次第に力尽きて、とうとう緑丸は、海に落ち

てしまったのでした。無惨というより外に言葉もありません。

 労しいことに、嶋に一人居る大臣は、なかなか緑丸が帰って来ないので、空しく時を

送っていましたが、ある日、海蘊(もずく)取りに磯に出てみると、鳥の羽が打ち寄せ

られているのを見ました。不思議に思って近づいてみると、それは緑丸の死骸でした。

あまりのことに、肝も魂も消え失せて、膝の上に抱き上げ、悲しみに暮れていましたが、

よく見ると、なんと、最早にじんで読めない沢山の文に、墨硯まで結び付けてあります。

こんなことをしたら、沈んでしまうのも当たり前だと、歯がみをして、

「これぞ、女性(にょしょう)の浅ましさ、紙、筆、墨だけあれば物を書くことが出来

るのに、硯まで付けるとは何事ぞ。まったく情けない。

 ああ、なんど無惨な。この鷹が死しても、鬼界ケ島や高麗、契丹に流れ着かず、また

この島に流れ着くとは、魂は冥途へ赴けども、魄はこの世に残ればこそ。

 我が命もこれまで。冥途の道しるべして連れて行ってくれよ、緑丸。」

と、声を上げて泣きました。

緑丸が最期の体、大臣殿の御情け

世の中のものの哀れはこれとて

皆、感ぜぬ者こそなかりけれ

つづく

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忘れ去られた物語たち 11 説経百合若大臣 ③

2012年03月28日 16時23分00秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ゆりわか大じん ③

別府兄弟、大臣を嶋捨て、帰国の事

 さて、そのままご帰朝あれば、何事も起こらなかったのでしょうが、百合若大臣は、

日本を背負っての長期にわたる戦いに疲れたのでしょう。別府兄弟を近付けると、

「この辺りに嶋が有れば、ひとまず上陸して、休みたい。」

と、命じました。兄弟は、端船(はしぶね)を降ろして、百合若大臣を乗せると、玄海

島(福岡県福岡市)に上陸させました。百合若大臣は、敷き皮の上にどうと横になると

岩角を枕として、忽ちに眠り込んでしまいました。剛の者の常と言いますか、一度寝入

り込むと、そう簡単には起きません。大臣は三日経っても起きませんでした。

 さて、別府兄弟は、することもなく傍らに付き添っていましたが、諸々おしゃべりを

して居る内に、弟の貞貫(さだつら)が、こんなことを言い出しました。

「さて、この君は、御帰朝なされれば、日本国をいただくことになるのでしょうね。

私も、この君のような果報を得たいものです。」

兄の貞澄(さだすみ)はこれを聞いて、

「もっとも。君は左様に富み栄えるが、我々は大して変わりもなく、そのまま朽ち果て

るのがおちじゃ。まったく無念よの。しかし、お前はどう思うか。今なら、この君を討

って、主無き後を、我々で知行できるかもしれんぞ。」

と、いいました。貞貫は、

「声が大きい、兄じゃ。我ら兄弟が心を合わせて、密かに殺してしまえば、誰にも分か

りませんが、我が手で殺せば、天罰が下るかもしれません。どうでしょうか、この嶋に

置き去りにするというのは。人里離れたこの嶋ですから、十日と命はもちますまい。こ

こに、打ち捨てて帰朝してしまいましょう。」

と、策略しました。貞澄はこれを聞いて、

「おお、それは、よい考えじゃ。」

と、賛成して、百合若大臣の太刀、刀を奪い取ると、さっさと端船に乗り込んで、母船

に戻ってしまいました。別府兄弟は、陣に戻ると、

「我が君様は、蒙古が大将、梁曹と組合いになり、そのまま海に没してしまわれた。」

と、嘘をつきました。軍勢みなこの嘘の報告にがっくりと力を落としましたが、兄弟の

命令に従って、日本へ向けて帰国することになりました。日本軍の大船団が、一度に

どっと動き出しました。

 この船音に、百合若大臣は、目を醒まして、辺り見回しましたが、誰もいません。か

っぱと起きあがって見てみれば、最早、我が船団は、遙かの海上に帆を上げていました。

「ええ、さては、別府兄弟め、心変わりをしたな。やあ、その船戻せ。」

と、声を限りに叫びましたが、船音高く、届きません。百合若大臣は、海に飛び込んで

泳ぎ着こうとしましたが、風を受けた船に追いつくことは出来ません。とうとう仕方な

く、元の嶋に泳ぎ戻りました。磯に立ち上がった百合若大臣は、茫々たる海を眺めて

呆れ果ててしまいました。

「ああ、口惜しや。それにしても、かつて、早離速離(そうりそくり:継母によって離

島に遺棄されて死んだ兄弟の話:早離は観世音菩薩:速離は勢至菩薩)が、捨てられた

時もこのような惨めさであったか。」

それにしても、早離速離の兄弟は慰め会うこともできましたが、百合若大臣は只一人、

草木も稀な小島に取り残されたのでした。蒼天は広々と無辺で、月の出る山もなく、朝

日が海から昇り、夕日は海に沈み、たまたま聞こえる声は、海鳥ばかり。明け行く夜は

遅く、暮れゆく日影は長く、ようやく、なのりそ(ホンダワラ)を摘んで飢えをしのぎ、

悲しみに暮れる日々を過ごすのでした。

 これはさておき、別府兄弟は、帰朝後に、まず豊後の御所へ行き、百合若大臣が戦死

したと嘘の報告をしました。

「君は、蒙古(むくり)が大将梁曹と組み合ったまま海に落ちました。我々は、形見の

品を持参いたしました。」

と、嘆くふりをして、太刀や刀を渡しました。これを聞いた御台所は、声を上げて泣き

崩れましたが、よくよく考えてみると、変な話しです。御台は、

『おかしな話しだ。敵と組んで海中に落ちたのに、どうやってこれらの形見を残すこと

ができたのだろうか。』

と、別府兄弟の報告を疑い始めました。御台は兄弟を捕らえて、拷問して責めれば、本

当のことを言うかもしれないとは思いましたが、死んでは居ないという証拠も無く、あ

まり騒ぎ立てて、狂乱したと言われても困るので、半信半疑のままに別府兄弟を帰して

しまいました。

 別府兄弟は、これで先ずは、首尾良く言ったと、兄弟揃って、都へと向かいました。

早速に参内した兄弟は、まことしやかに、帝に奏聞しました。

「この度の筑紫での合戦は、敵の蒙古(むくり)手強く、数度の合戦に及び、大臣も手

を焼きましたが、敵の大将、大臣を狙ってひっ組み、ついに両将諸共に海中に没しました。

詰めの戦いを我々兄弟で下知し、苦戦しながらもようやく、蒙古を退治して参りました。

とはいえ、大臣が討たれましたことは、帰国の甲斐も無い次第です。」

帝は、

「それは、無惨な次第である。大臣が無事に帰国あれば、日本の主としようと考えてい

たが、残念である。それでは、別府兄弟には、九州の国司を預けおくので、大臣の御台

所に仕えて、その上、大臣を懇ろに弔うように。」

との宣旨を下されました。兄弟は、ははっとばかりに下がりましたが、兄弟顔を見合わ

せて、

「いやいや、予想に反して、ありきたりの恩賞であったな。日本国をいただけると思っ

て、君を置き去りにしてきたのに。」

と、不平たらたらで、筑紫へと戻ったのでした。兄弟の心中は、はかなかりけりとも中々

申すばかりはなかりけり

つづく

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忘れ去られた物語たち 11 説経百合若大臣 ②

2012年03月28日 09時25分12秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ゆりわか大じん ② 

蒙古の梁曹(りょうそう)、百合若大臣に討たるる事

 蒙古(むくり)の大将梁曹は、二相を悟る神通の者でありましたので、百合若大臣が

攻めて来るのを既に悟り、

「敵の軍勢を近寄せてはならない。潮境まで打って出て、即時に勝負を決してくれん。」

と、四万艘の軍船に多くの軍勢を乗せて、唐と日本の潮境、筑羅(ちくら:巨済島)の

沖に陣取りました。同じ頃、百合若大臣の軍勢も筑羅の沖に到着しました。海上で両軍

は対峙して、互いに太鼓を打ち鳴らして鬨(とき)の声を上げました。これこそ六種振

動(ろくしゅしんどう)を見るが如くの凄まじさです。やがて、鬨の声が静まると、蒙

古の大将梁曹は、天地も響かす大声で、

「我らが、いくさの吉例には、霧降りの法がある。いざ、霧を降らせよ。」

と、下知しました。すると、キリン国の大将が船端に突っ立ち上がって、青息をほうと

つくと、なにやら術をかけて、辺りは一面の霧に包まれたのでした。この霧は、一日や

二日では消えず、百日百夜続きました。日本の強者どももこれには閉口して、呆れ果て

るばかりです。百合若大臣は、無念と思い、潮(うしお)をすくって手水(ちょうず)

を使うと、

「南無日本六十四州の大小の神祇(じんぎ)、この霧を晴らせよ。」

と、深く神仏に祈誓をかけたのでした。すると、仏神三宝もこれを不憫と思われて、俄

に神風が吹き、霧を吹き散らしたのでした。百合若大臣は、これを見て喜ぶと、蒙古

に多勢をかけるのも無駄なことと思い、僅か十八人の強者どもを率いて、一気に攻め込

みました。蒙古軍は、これを「蟷螂(とうろう)が斧」(※弱小の者が自分の力量も弁

えず強敵に向かうこと)と見下して、鉾を飛ばし釼を投げつけ、火花を散らして応戦し

ました。しかし、有り難いことに、百合若大臣の船の舳先に金泥で書かれている「尊勝

陀羅尼(そんしょうだらに)」の文字が、三毒不思議の矢となって、蒙古の眼を射潰し

不動の真言のカンマンの二文字が釼となって飛びかかり、観音経の「於怖畏急難(おういきゅうなん)」

の文字が黄金の盾となって、蒙古の矢を防いだので、味方を失うことはありませんでした。

力を得た百合若大臣以下十八名は、ここぞとばかりに鉄の弓矢を射かけます。やがて

接近戦となり、鉾、鉄杖ひっさげて互いの船に乗り込んで、入り乱れて火花を散らしました。

そうこうしているうちに、誰が射たのかは分かりませんが、白羽の矢が虚空より飛んで

きて、蒙古の大将梁曹の眉間を貫きました。そのまま狂い死にした梁曹をみた蒙古の軍勢は、

途端に怖じ気づいて、撤退を始めたのでした。百合若大臣はいよいよ勇んで、唐と日本

に戦いに勝ったぞと、勝ち鬨を上げたのでした。

百合若大臣の手柄の程、由々しかりとも中々申すばかりはなかりけれ

つづく

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忘れ去られた物語たち 11 説経百合若大臣 ①

2012年03月25日 17時56分48秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ゆりわか大じん ①

日暮小太郎

寛文二年壬寅二月吉日

八文字屋八左衛門

日暮小太夫は、万治~寛文の頃(1600年代後半)に活躍した説経太夫である。

本稿は、寛文2年(1662年)刊行の正本を用いる(説経正本集第2-27)

なお、この底本には欠頁があるため、同じ説経正本集第2に収録されている幸若小八郎正本「大臣」(慶長14年)を用いて、話を補う部分がある。

 いかに、完全な謀略といえども、神を欺くことはできません。ついには、神明がこれ

を罰するのです。正直は、その時は自分に不利であっても、必ず日月の哀れみを受けるものです。

ここに、本朝五十二代、嵯峨天皇の御代のことです。(786年~842年)四條の左

大臣公満(きんみつ)卿のご子息、百合若大臣公行(きんゆき)という方がおりました。

大臣は、和漢の道は言うに及ばず、文武両道を兼ね備え、天下に肩を並べる人はありま

せんでした。そもそも大臣は、大和の国長谷寺(奈良県桜井市初瀬)の申し子でいらっしゃいます。

夏の半ばにお生まれになったので、百合若殿と名付けられました。七歳にして元服され、

十七歳には正一位右大臣に補されて百合若大臣と号されたのでした。御台所は、三条壬生

の大納言章時(あきとき)卿の姫君です。その夫婦仲の睦まじさは、世に浅からずと聞

こえておりました。

 ある時、帝より、九州の国司を命ぜられ、豊後(大分県)の国に赴任されました。

民を哀れみ慈悲をもって治めましたので、領民の信頼も厚く、平和に暮らしておりました。

 さてその頃、蒙古国の蒙古(むくり)どもが、我が朝の仏法を妨げ、魔王の国にしよ

うと蜂起したとの知らせが、続々と都に届きました。公卿大臣が集まり、善後策を協議

しますが、まとまりません。その時、源享(みなもとのとおる)大臣は、

「それ、我が朝は、国常立尊(くにのとこたちのみこと)よりこの方、神国として仏法

王法一体無二であり、車の両輪のようなものである。されば、イザナギ、イザナミの尊

は、伊勢渡会(わたらい:三重県中東部)の郡、山田(伊勢市宇治)に跡を垂れ、衆生

の済度をなされた。これこそ、慈悲の眦(まなじり)が三千世界を照らす、天照皇大神

宮(てんしょうこうだいじんぐう)である。大神宮へ勅使を立てられ、蒙古が有様を神

託に任せてはいかがか。」

と、故事を用いて申し上げれば、帝ももっともとお思いになり、直ちに大神宮へ勅使

が立ったのでした。

 さて、宣旨を受けた伊勢神宮では、さっそくに神楽を奏で、占いますと、有り難い事

に、神明(天照大神)は、七歳になる乙女の袖に乗り移り、鈴を振り上げて、神託が

下されました。

「蒙古が日本に向かった日より、神々は、高天原(たかまがはら)に集まって、いくさ

評定を様々行ったが、蒙古の大将「りょうそう」が放つ毒矢が、住吉明神が召したる

神馬の足に突き立ったため、この傷を治すために、神いくさは、一時延期となっている。

その為、九夷(きゅうい)どもは、力を得たりとばかりに攻め入って来るが、それも、

風が吹かぬ間の花のようなものである。急ぎ、凡夫も戦いの準備を調え、諸神もこれを

応援し守るべき。今度の大将には、左大臣が嫡子、百合若大臣を遣わし、鉄(くろがね)

の弓矢を用意せよ。急げ、急げ。」

この神託を聞いた勅使は、奇異の思いをしながらも、いよいよ深く礼拝すると、都へ戻

り、神託をつぶさに奏聞しました。

 これを聞いた帝は、早速に勅使を、豊後の百合若大臣へ送り、蒙古征伐の総大将を命じたのでした。

大臣は、勅命を受けると、先ず家の家臣である別府兄弟を召されると、

「如何に兄弟。蒙古征伐の勅諚(ちょくじょう)が下った。先ず、軍勢を集め、船を用

意せよ。それから、鉄(くろがね)の弓矢を作ることができる鍛冶の名人を捜すのだ。」

と言いました。やがて、伯耆(ほうき:鳥取県中西部)の国から名鍛冶が招かれ、一所

を清めて仕事を始めました。その鉄の弓の長さは八尺六寸(約2.8m)、矢柄(やが

ら)は三尺六寸(約1.2m)羽周りは六寸二分(約20cm)、その矢数三百六十三本でした。

根には、八つ目の鏑(かぶら)を入れ、弓も矢も鉄なので、人魚の油を差して仕上げました。

思いのままの鉄の弓矢ができあがったので、大臣は大変喜んで、数々の恩賞を与えました。

そこで、百合若大臣は、御台所を近付けると、

「この度、帝よりの宣旨に任せて、蒙古征伐に参ることになった。無事に戻る事

ができたなら、またお目にかかりましょう。もし、討たれたならば、後世の供養を頼み

ます。名残惜しい事じゃ。」

と言いました。御台はこれを聞いて、

「これは、恨めしいことを。蒙国(むこく)とやらに遙々攻めて行かれて、後に残った

私は、どうしたらよいのですか。どうか一緒に船に乗せて行って下さい。」

と、悶え焦がれて泣き崩れました。百合若大臣も心が揺れましたが、涙を抑えて、

「その嘆きは尤も至極ではあるが、勅命であるから仕方無い。又、船艫(ふねとも)には

既に諸神を斎い奉ってあるので、女人を乗せることは思いもよらぬこと。どうか、この

御所で、心強く待っていて下さい。」

と、慰めるのでした。御台も道理に詰められて、

「この上は、何と慕うとも、叶わないのですね。必ず無事にお帰り下さい。」

と、さらばさらばと涙ながらの別れは、哀れなる次第です。かくて百合若大臣は、心弱

くては叶わないと、振り切るとやがて出陣しました。

 その勢は三万余騎、大船は百余艘、小船は数えきれぬ程、総じて船の数は、八万余艘もありました。

中でも大将の御座船は、錦を飾り立て、艫舳(ともえ)に五色の幣を切り、日本六十四州の

大小の神祇(じんぎ)を、斎垣(いがき)、鳥居、榊葉に斎い込めました。さらに、雲

をも照すのろしを焚き、太鼓を鳴らして、弘仁(こうにん)七年(816年)卯月

(4月)半ばに、艫綱(ともづな)を解き、順風に帆を上げて出陣していったのでした。

その百合若大臣の勇ましさは、由々しかりともなかなか、申すばかりはありません。

つづく

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忘れ去られた物語たち 10 説経法蔵比丘 ④ おわり

2012年03月01日 17時26分14秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ほう蔵びく ④

 鹿野園の后の墓で手篤く回向をした太子一行は、西上国へと戻りましたが、最愛の妻

を失った悲しみを癒すことはできませんでした。ある時、二人の若宮、臣下大臣を集め

ると、千丈太子はこう言いました。

「さても無常な世の有様。盛りと見ていた春の花は、嵐に誘われ散り易く、秋の月は、

雲に覆われる。昨日、見た人も今日には亡くなっており、若くても長生きするとは限ら

ない。悲しい無常の世界だ。このような世の中で、迷い暮らす輪廻の綱を何とかして断

ち切りたいと考えておる。この世でたまたま人身を授かって、菩提心に至らないままで

は、またもや三悪道に堕罪して、六道四生(ろくどうよんしょう)に迷い、貪瞋痴(と

んじんち)の三毒に冒され、無明煩悩(むみょうぼんのう)の闇から出ることが出来ない。

必ず法性(ほっしょう)の悟りを開いて、末世の衆生を利益しようと思う。今生の楽し

みもこれまでだ。」

そうして、千光、千子諸共に、髪を剃ると、墨の衣にお着替えなされました。則ち、太

子は自ら、「法蔵比丘」と名乗り、千光千子兄弟は、「早離」、「速離」(※早離は観音菩

薩、速離は勢至菩薩の前世)と名付けられたのでした。ラゴトンを始め、近習の者六十

人も、皆々これに習って出家をされました。法蔵比丘は、末世濁世の悪衆生を仏果に導

くために、四十八願をお立てになり、再び鹿野園のアジュク夫人の墓に参りました。

法蔵比丘が、墓に向かって、

「声明念仏、仏果菩提一蓮托生、正覚正道なり給え。」

と、夫人の成仏を様々に弔いますと、本願が忽ち現じて、草茫々たる墓が二つにぱっか

りと割れたのでした。中より、十方を照す光明が顕れたかと思うと、蓮華が一本生え、

花が開き、中から、アジュク夫人が現れて、

「あら、尊き御祈りかな。御本願の功力によって、正覚はまさに疑いありません。私の

最期の時、病を受けて苦しみましたので、薬師と号して末世の衆生の病苦を救いましょう。」

と言うと、忽ちに薬師如来と顕じて、左の御手に持つ瑠璃の壺には、八万四千の薬味を

入れて、東方浄瑠璃世界へと飛び去りました。誠に有り難い限りです。そして、弥陀の

六十願の内、十二願は薬師如来に付属したのでした。法蔵比丘が、残る四十八願の成就

のために祈り続けていると、不思議な音楽が聞こえ始め、異香(いぎょう)が薫じて、

花が降り始めました。やがて南無阿弥陀仏の六字の名号が光りを放ち、十方世界を照ら

し出し、諸々の仏、菩薩が数多降臨したのです。そして、早離は観音に、速離は勢至に

正覚されました。これを見た法蔵比丘は、こう言いました。

「さては、この願、成就疑い無し。我は阿弥陀仏と号して、愚痴無知を極楽浄土へと救い取らせん。」

有り難かりける次第なり。 忝なくも阿弥陀如来の御本願は、

一念弥陀仏 即滅無量罪 現受無比楽 後生清浄土(観世音菩薩往生浄土本縁経)

(いちねんみだぶつ そくめつむりょうざい げんじゅむひらく ごしょうしょうじょうど)

『一度、阿弥陀仏を念ずれば、直ちに無量の罪を滅ぼして、目の当たりに無比の楽を受

け、後生は浄土に生まれ変わるであろう。』と、いうことなのです。まったく有り難い

とも中々申し様もございません。

おわり

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忘れ去られた物語たち 10 説経法蔵比丘 ③

2012年03月01日 14時30分29秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ほう蔵びく ③

 こうしてラゴトンの働きによって、太子親子は助けられたのでしたが、都へ帰ること

も出来ず、奥深い山の中で、月日を重ねました。やがて弟君が誕生し、千光と名付けら

れました。姫宮は、こんな山の中で生まれなければならなかった弟宮を哀れみましたが、

太子は、いつかは昔のように都へ戻れる日が来ると慰めるのでした。

 さて、西上国では、太子が行方知れずとなってから、お后も亡くなってしまい、大王

は、独りぼっちになってしまいます。ある夜、大王は、

「一生は風前の灯火、春の夢。」

と思うと、書き置きを残して、コウリン山へと遁世してしまいました。人々は、このよ

うなことになったのも、太子が行方不明になってしまったからだと、手分けして太子を

捜すことにしたのでした。

 龍瀬の洞での山暮らしも、七年が経ちました。太子は、姫宮にこう言いました。

「そろそろ、本国に帰り、父上に奏聞して、迎えの輿を寄越させることにしましょう。

長い旅となりますが、二人の若を慰みとして、再び会う日まで辛抱してください。」

これを聞いた姫君は、

「そんなつれないことを言うのですか。このような山暮らしもあなたが居れば耐えられ

ますが、あなたが居なくなってしまっては生きていくも出来ません。どうか親子一緒に

連れて行ってください。」

と泣き沈みました。太子も後ろ髪を引かれる思いですが、二人の子供達の為には、そう

するしか無いのだと、重ねて説得をすると、意を決して一人、西上国へと向かったので

した。それからというもの、姫宮は、恋しい夫を思いつつ、二人の子供を守って、心細

い山の生活と続けたのでした。

 さて、千丈太子は、やがて西上国へと戻って来ましたが、王宮の有様は、門に蔦が這

い、軒の瓦も崩れ落ちている有様です。不思議に思った太子が、うろうろしていると、

老人が、出て来て、

「如何なる者ぞ。」

と咎めました。太子は、

「そういう翁は誰ですか。大王様はどうなされたのですか。」

と聞き返しました。老人は、太子が居なくなってからのことを語り、涙ながらに、

「さて、つくづく見れば、千丈太子に良く似ていらっしゃいますが、恋しい太子ではあ

りませぬか。」

と言いました。太子が、

「我こそ、千丈太子である。」

と言えば、老人は、はっと驚いて、

「ははあ、私は、大王の家臣、桂の大臣でございます。数千の家臣はあなた様を捜しに

行ったまま戻らず、残る臣下大臣は、大王と共にコウリン山へ籠もってしまいました。

御台様も亡くなり、内裏を守るのは私一人で、このように荒れ果ててしまいました。」

と、頭を地にすりつけて、声を上げて泣くのでした。大王が存命であることを知った太

子は、先ずコウリン山へ行き大王に謁見しました。喜んだ大王は、位を千丈太子に譲り、

太子は王宮を再建したので、数千の臣下もやがて戻り、王宮は元の賑わいを取り戻した

のでした。そうこう忙しくしている所に、かのラゴトンが現れました。太子は、喜んで

ラゴトンを迎え入れました。ラゴトンは、姫宮のことを心配したので、急いで龍瀬の洞

へと迎えに行くことになったのでした。

 一方、龍瀬の洞では、アジュク夫人と二人の若宮が、迎えの輿を待ちながら暮らして

いましたが、五年経っても迎えが来ません。后は、若宮達の前で、

「父上は、五年目の春には迎えに来ると言っていましたが、五年目の夏も過ぎ、もう秋

も半ばとなりました。我々を捨ててしまわれたのでしょうか。それとも旅路の露と消え

てしまわれたのでしょうか。」

と泣くのでした。兄弟の若宮は、

「御嘆きは尤もです。この上は、我々が母上のお供をしますから、西上国へ行きましょ

う。命さえあれば、きっと巡り会うことができます。」

と、力強く言うのでした。そこで、お后は兄弟を連れて西上国へと旅立つことを決心したのでした。

しかし、それも峨々たる山を越え、谷を渡る辛い旅路です。二年と三ヶ月の月日を費や

して、母子三人はようやく鹿野園(ろくやおん)に辿り着きました。三人は、赤栴檀(しゃくせんだん)

の木の下でしばしの休息を取りましたが、母にはもう歩く力も残ってはいませんでした。

母は、そこにどっと倒れ伏してしまって動けなくなりました。母は、苦しげな息の下よ

り、兄弟に、

「もう、母は最期のようです。会うは別れの始めと言います。心強く持って、何とかし

て西上国まで行って、父上に会うのですよ。私は、死んでもお前達の影身に寄り添って、

お前達を守ってあげますからね。衣冠正しき高人に会ったなら、先祖を詳しく語って、

父を尋ねなさい。

 さて、この肌の守りは千光の宮に、この簪(かんざし)は、千子の宮に、形見として

肌身に添えて持ちなさい。この鬢(びん)は、父上に渡しなさい。ああ、名残惜しの兄

弟よ。暇申してさらば。」

と最期の言葉を残すと、二十七歳を一期として息絶えてしまいました。兄弟が、取りす

がって、呼べど叫べど答えません。空しい死骸を押し動かして、顔と顔とを摺り合わせ

て嘆き悲しみますが、もうどうしようもありません。やがて、千光は、赤栴檀の枝を折

り、母上の死骸を無常の煙と葬りました。印の塚を築くと兄弟は、生きている母に言う

様に、

「母上様の仰せに従い、これより西上国へと向かいます。いざさらば。」

と、言い置いて、涙ながらに出発したのでした。

 ところが、父千丈太子は、もう既に鹿野園の近くまで来ていたのでした。兄弟が、ウ

ンビシュリという所まで来ると、綺麗な華鬘(けまん)瓔珞(ようらく)に飾られた輿

と出合いました。千光はこれを見て、母の仰せの通り、名乗ろうと思い、御輿の近くに

走り寄りました。しかし、家来達は、

「やあ、見苦しい者ども。畏れも知らず輿に近づくとは、何事か。」

と、散々に打ち伏せました。兄弟は互いにかばい合って、打つなら我を打てと泣きました。

これを見ていた千丈太子は、

「難の咎があって、そのような幼いを叩くのだ、手荒な事をするな。子細を聞くから連

れてきなさい。」

と、兄弟を招きました。太子が、どこの者かと聞くと、兄弟はここぞとばかりに名乗りました。

「何を隠そう我々の父上は、西上国の主千丈太子、母上はアジュク夫人と申して東上国

の姫宮・・・。」

と名乗りも終わらぬ内に、太子は輿から跳んで降り、

「おお、我こそは、お前達の父であるぞ。」

と言うなり抱き付き、喜びの涙に暮れましたが、やがて涙の隙より、母上はどうしたと

尋ねました。兄弟は、

「さればでございます。母上は、父上を恋わびながら、七日前に鹿野園の麓でお亡くな

りになりました。」

と泣き崩れたのでした。聞くなり太子も、あまりの無念に悶え焦がれました。太子は

涙をぬぐって、

「今、兄弟に出合うことも、これ天道のお導き。これより后の後を弔わん。」

と言うと、若宮達を御輿に乗せ、鹿野園へと向かいました。この人々の御有様は、

哀れともなかなか申すばかりはありません。

つづく

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