猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

猿八座 6月公演 お知らせ 第14回伝統人形芝居(西川古柳座)

2012年04月25日 23時19分17秒 | お知らせ

昨年3月に計画されていた第14回伝統人形芝居は、震災のため中止されましたが、この度、西川古柳師匠のご尽力により、6月に開催の目途となりました。

猿八座は、御物をくり絵巻のテキストを使って作曲した、新たな浄瑠璃「猿八節」をこの舞台で披露させていただきます。演目は、「車曳きの段」です。

自分に夫である小栗判官のなれの果てである「餓鬼病」を、それと知らず曳いて行く照手姫が、最終地点の大津関寺玉屋の前で、餓鬼病と共に最後の夜を明かします。その照手の心情を語るのがこの段の真骨頂です。そして、だんまりに入る所での八郎兵衛師匠の人形遣いが最大の見せ場ですので乞うご期待。

現在、私が取り組んでいる新浄瑠璃を東京で聞いていただける貴重な機会ですので、是非、おいでください。

6月16日(土)17日(日)二日とも同じプログラムで、13:00開場13:30開演。

会場は、八王子車人形稽古場・・・東京都八王子市恩方町

問い合わせは、042-652-1222 西川古柳座

詳しくは以下のビラを御参照ください。

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阿弥陀胸割 辰の月辰の日に公開稽古

2012年04月14日 20時22分18秒 | 公演記録

壬辰の年の辰の月(3月)の壬辰の日は4月1日(旧暦3月11日)だけでしたが、

辰の日は12日毎に巡って来ます。

物語では、壬辰の年は限定していますが、

月と日と刻に関しては、「辰」とだけ記しているので

「壬辰の年の辰の月の辰の日」

は複数あることになります。

ちなみに、今年は閏年なので、辰の月は、2回あるため(閏三月)

「辰の日」は、全部で5回もあります。

最後の辰の月辰の日は、5月19日(土)庚(かのえ)辰です。

 そこで今回は、2回目の辰の日である4月13日(金)(旧暦3月23日)

に「阿弥陀胸割」を未完成ながらも

公開稽古という形で御披露させていただきました。

猿八座公開稽古の第1回目となりました。

お集まりいただいた地元の皆々様、

ありがとうございました。

 さて、座長の八郎兵衛師匠は、今回の公開に向けて、

徹夜の工事で、舞台道具や小道具作り上げました。

阿弥陀三尊が完成したのは、

開始五分前でいう凄まじさです。

 こちらも順調にというわけではありませんでした。

今回は、浄瑠璃猿八節の初舞台でしたが、

直前まで修正に修正を重ねて、

譜面が真っ黒になってしまいました。

写真は、胸割阿弥陀が、身代わりになって生血を出す場面です。

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次回は、5月19日(土)に山椒太夫を公開する予定です。


阿弥陀胸割 公開稽古のお知らせ

2012年04月04日 10時22分06秒 | お知らせ

 春の嵐が吹き荒れて、ようやく咲いた梅の花を散らしました。桜はまだ咲きません。これは八王子の話しです。

 さて4月7日から猿八座の4月稽古が始まります。いよいよ「阿弥陀胸割」の稽

古が本格的にスタートしますが、その様子を公開しますので、近郷近在の皆々

様は、気楽に見に来てください。

猿八座公開稽古 阿弥陀胸割(中・下)

日時 平成24年4月13日(金)辰の日

    午後六時より七時半

会場 東光寺心萃房(旧児童館)

    新潟県新発田市真中

入場無料、飲食持ち込み可、飲みながら食べながらお楽しみ下さい。


忘れ去られた物語たち 11 説経百合若大臣 ⑥ おわり

2012年04月04日 09時59分46秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ゆりわか大じん ⑥ おわり

大臣帰国、並びに別府兄弟、討たるる事

 壱岐の漁師に助けられた百合若大臣は、ようやく日本に帰ることができました。さて、

壱岐の漁師が、玄海嶋で拾ってきた風変わりな者を使っているという風聞は、すぐに広

がり、別府の耳にも届きました。これを聞いた別府は、一度見物してやろうと、漁師に

連れてくるように命じました。やがて、漁師に連れられて来た大臣を見て、別府は、

「これは、不思議の生き物じゃ。人かと思えば人でなし。鬼かと思えば鬼とも見えず。

これこそ餓鬼とも言うべきか。よし、これをしばらく我に預けておけ、都へ連れて行き、

笑いものにしてやろう。」

と言うと、漁師達は帰して、大臣は館に留め置きました。別府は、自分の主とも知らず

に、身体全体があまりにも苔むしているので、「苔丸」と名付けて、見せ物にしては、

笑いものにしておりました。

(以下欠頁のため幸若のストリーを補う)

 かくてその年も暮れ、新年を迎えました。別府の館には、九州の各長官が、新玉の祝

いに参上し、新年の弓取りを行っております。苔丸は、矢取りの役を命じられて弓場の

片隅におりましたが、ここが絶好の機会と、突然こんなことを言い出しました。

「なんと、あそこの殿は、弓立ちが悪い。ああ、ここの殿は、押し手が震えてみっともない。」

と、さんざんの悪口です。これを聞いた別府は、

「おまえは、いつ弓を習って、そのような生意気な口をきくのか。そんなにもどかしく

思うならば、ひと矢射てみよ。」

と言うと、苔丸は、

「弓など射たることはありませんが、あまりに皆さんの弓が醜いので言ったまでです。」

と澄まして答えました。別府は、

「弓も射ぬのに、知った口をききよって。今すぐに射てみよ。射なば、ここで切って捨

てる。さあ、早く射よ。」

と怒りだしました。苔丸は、

「仰せのように射てみたいとは思いますが、弓がありません。」

と答えると、別府はせせら笑って、

「なんの容易いこと、強い弓がいいか、弱い弓がいいか。」

と言いますと、苔丸は、

「どうせなら、強い弓をお願いします。」

と言いました。そこで別府は、筑紫に聞こえる強弓を十張ばかり持ってこさせると、苔

丸の前に並べて、どれでも好きなものを選べと言いました。ところが、苔丸は、二、三

張の弓を束ねて持ったかと思うと、はらはらとへし折って、

「どれも弱くて、使い物になりませんね。」

と澄まして言ったのでした。これを見て驚いた別府は、

「こいつは曲者、ならば、大臣殿の鉄の弓矢を射させよ。」

と、怒鳴りました。さて、大騒ぎなことになりました。宇佐八幡の宝物殿に奉納されて

いた鉄の弓が運び出されて、苔丸の前に置かれました。百合若大臣は、自らが作らせた

鉄の弓を懐かしげに軽々と手に取ると、懸かりの松に押し当てて、ゆらりゆらりと素引

きしてから、鉄の矢をうち番えると、時は今よとばかりに、別府目掛けて引き絞り、

「いかに、九州の在庁ども、我を誰と思うか。かつて、嶋に捨てられた百合若大臣が

今、春草と萌え出ずるぞ。道理に任せて我を見よ。非道に任せて別府を見よ。」

と大音声を上げました。これを聞いた、大友諸卿、松浦党は、はっとばかりに畏まり、

懐かしの御主様と、駈け寄りました。驚いた別府は、これはこれはと逃げ回りましたが、

高手小手に縛り上げられ、懸かりの松に吊されてしまったのでした。

 (以下、本文に戻る)

 ようやく名乗りを上げた百合若大臣は、早速に都へ上りました。内よりの宣旨には、

「大臣、不思議にも命助かり、再び参内いたすこと神妙なり。これより日本の将軍に

なるべし。また、別府兄弟の処分は任せた。」

と、御土器(かわらけ)を下されたのでした。意気揚々と都の館へ戻ると、そこへ翁と

忠太に連れられて御台所が到着しました。百合若大臣と御台所は抱き合って喜び合いま

した。別れてよりこの方の尽きせぬ物語を涙ながらにしておりましたが、御台所が、

翁と忠太の情けによって助けられたことを話すと、百合若大臣は、翁、忠太に、九州の

総政所を与えことにしました。さらに、壱岐の漁師を呼び、数々の恩賞を与えた後、

別府兄弟の首を刎ねたのでした。

 その後、百合若大臣は、緑丸の供養として神護寺(京都市右京区高雄)を建立しました。

鷹のために建てたので、今でもこれを高雄山と言うのです。その外の人々にも、皆々

恩賞を賜る大臣の御威勢は、誠に千秋万歳、目出度しとも中々、申すばかりはなかりけれ。

寛文二年壬寅二月吉日太夫正本なり

おわり

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忘れ去られた物語たち 11 説経百合若大臣 ⑤

2012年04月02日 17時52分34秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ゆりわか大じん ⑤

藍子(あいし)の姫、大臣の御台所の身代わりに立つ事

 さて一方、別府の刑部貞澄は、九州の国司を預かって、上を見ぬ鷲とばかりに傲って、

百合若大臣の北の方へ、恋文を送り続けていましたが、御台所は、手にも取らず破り捨

てておりました。別府は、無念に思っていましたが、所詮叶わぬことならば、いっそ殺

してしまえと、家来の河野の忠太を呼びつけると、こう言いました。

「如何に忠太。豊後の庁に行き、御台所を謀り、連れ出して、密かに満濃が淵へ沈めよ。」(地名不明)

これを聞いて、忠太は情けなく思いましたが、主命とあれば逆らう事も出来ず、豊後へ

と向かいましたが、なんとかならないものかと、庁屋(ちょうや)には行かずに、先ず

門脇の翁という叔父の館を密かに尋ねました。事の次第を聞いた翁は、

「これは浅ましき次第。よくぞ知らせた。ここは、なんとか知略を巡らせて助けなけれ

ばならん。」

と、しばらく考え込んでおりましたが、やがてこう言いました。

「我が子の藍子の姫は、見た目も容姿も御台所と劣らぬから、夜ならば、それと疑われ

ることもあるまい。不憫とは思うが、藍子を御台所の身代わりに立てて、御台所をお救

いいたそう。」

と、頼もしくも、只一筋に思い定めると、翁は藍子の姫の帳内(ちょうだい)に入り、

「如何に藍子の姫。御主様に一大事の難儀が起きておる。そのことについて、お前に頼

みたい事がある。庁屋におられる御台様は、お前にとっては三代相恩の御主であるよな。

その御台様を、別府殿が暗殺せよと忠太に申しつけたが、御台様は、忠太にとっても御

主であるから、わしの所へ相談に来た。さて、これにはわしも困ったが、お前を御

台所の身代わりに立て、御台様を助ける以外に方法がないと考えた。この様に言うから

と言って必ず父を恨みと思うなよ。親の身として、子に命をくれと言わなければならな

い心の内を察してくれ。藍子の姫。」

と、涙ながらに話すのでした。姫を父の話を聞いて、

「ご安心下さい、父上様。御主様の為にどうして命を惜しみましょうか。侍は戦場に出

て、互いに討たれるのも御主の為、過去世の業因が拙くて女に生まれて来ましたが、心

は、男子に劣りませぬ。今、そのように御主様の身代わりに立てることは、自らの果報です。

そうして、末代まで名を残すことが出来るのなら、心ある人々は、きっと私を羨ましく

思うことでしょう。」

と、気丈にも答えたのでした。翁はこれを聞いて、

「ああ、よくぞ言った。藍子の姫。お前がそこまで思い切るならば、父も決心したぞ。

夜になったなら、最早、最期。これより、母上に御暇乞いをしなさい。」

と、言えば、藍子の姫は、

「仰せのように、暇乞いとは思いますが、子を先立てて年寄りが後に残って、思い煩わ

ぬ親はいません。お暇乞いもせずに参りますが、これを形見として渡してください。」

と言うと、髪の毛を少し切り取って、涙と共に渡したのでした。これを受け取った翁は、

涙ながらに、

「ああ、それにしても、我が子の形見を受け取るとは、まったく逆さまの世となってしまった。

伝え聞く釈迦牟尼如来は、子供の羅睺羅尊者に密行を説き、また、孔子は、子供の鯉魚

(鯉伯魚)を先立てたとはいえ、今を陽春と輝く我が姫を先立てて、後に残って何を頼

りに生きて行くのか。ああ、恨めしい我が身じゃなあ。」

と嘆くのでした。その時、忠太は、

「御嘆きは道理ながら、それ、人間の命は電光朝露(でんこうちょうろ)、夢の幻。また

北州の千年すら今は跡形もありません。殊に人間五十年は夢現(ゆめうつつ)。時刻も

移りました。そろそろ参りましょう。」

と、声をかけました。翁は、いよいよ思い切って、

「今は、いくら嘆いても仕方ない。私も一緒に行くべきところだが、これより、庁屋へ赴き、

御台所をお慰め申すことにする。姫をよろしくお願い申す。」

と言いました。藍子の姫は、

「されば、これまでなり、父上様。必ず後世にてお待ちしております。さらば、さらば。」

と、別れを告げると、忠太に連れられて満濃が淵へと向かったのでした。

 池に着くと、忠太は、小船一艘捜してきて、藍子の姫を乗せると、沖を指してこぎ出しました。

やがて、忠太は、

「只今こそ、御最期です。念仏申されよ。」

と、言いながらも、目が眩み心も消え失せんばかりです。しかし、御主のためには、

心弱くては叶わないと、念仏を唱える藍子の姫を、かっぱとばかりに突き落としたのでした。

 これはさておき、壱岐の浦の漁師達は、沖の漁に出ていましたが、強い南風に吹き流

されてしまい、玄海が島に漂着したのでした。漁師達は、取りあえずこの島で一休みし

ようと、上陸しました。これを見た百合若大臣が、久しぶりに見る人影を懐かしく思っ

て近づきました。すると、漁師達は、化け物が出たと恐ろしがって逃げ回ります。大臣

は、これを見て、

「ああ、浅ましいことじゃ。我は生も変えずに鬼となってしまったのか。」

と、涙を流して悲しみました。涙をながしている大臣を見た漁師達は、やがて近づいて

来て、何者かと問いました。百合若大臣は、名乗るべきか名乗らぬべきか迷いましたが、

名乗っては恥と思い切り、

「私は、昨年、百合若大臣殿が蒙国(むこく)へ向かわれた時の水夫ですが、その時に

この島に取り残されてしまい、このような姿となってしまいました。一樹の影、一河の

流れを汲むも他生の縁とありますから、お情けに日本へ帰してくださらぬか。」

と言ったのでした。漁師達はこれを聞いて安心し、大臣を乗せて帰ることにしました。

喜んだ大臣が、潮を汲んで手水として、

「南無諸神菩薩。再び日本の地に帰してください。」

と、虚空に向かって祈誓すると、仏神三宝も、さすがにこれを不憫と思われたのでしょう。

たちまち、順風に変わると、帆柱の蝉口(せみぐち)に八大龍王が現れ、船の舳先には、

不動明王が、カンマンの二つの目を光らせ、降魔の利剣をひっさげて、守護に立たれた

のでした。さらに、艫(とも)では、広目天、増長天、伊舎那天、大光天、羅刹天、風

天、水天、火天などが、雨、風、波を沈めるためにずらりとお並びになられたのでした。

こうして、難無く三日の後には、筑紫の博多に船はお着きになり、百合若大臣は、よう

やく帰国なされたのでした。有り難きとも中々、申すばかりはなかりけり。

つづく

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壬辰の年、辰の月、壬辰の日、辰の刻

2012年04月02日 08時14分16秒 | 調査・研究・紀行

4月1日(日)は、旧暦三月十一日、壬辰の日でした。

辰の年辰の月辰の日と言えば、わりと沢山ありますが、

壬と限定すると、60年に一度しか訪れません。

水の兄(みずのえ)と辰の組み合わせは、

まさに水を得た龍であり、

生命力に溢れた瞬間であると言えるでしょう。

さて、古説経「阿弥陀胸割」に取り組んでから

ほぼ1年が経とうとしていますが、

いよいよ、今年の11月頃に公開できそうです。

主人公の天寿と松若の生まれは、

壬辰の年の辰の月の辰の日の辰の刻とされていますので、

昨日は、辰の刻(午前八時頃)に供養を行い、

新作の「阿弥陀胸割」を稽古いたしました。

60年に一度のチャンスに「阿弥陀胸割」が公開できることは、

阿弥陀様のお導きでしょうか。

仏説阿弥陀経には、極楽浄土が如何なる物かが美しく描かれ、

その世界に生まれるよう祈念しなさいと説きます。

遍く世界を照すという阿弥陀如来の光を感じながら、

「阿弥陀胸割」を演ずることにいたしましょう。

公演に関する詳細が決まりましたらお知らせいたします。