ひょうごのつき嶋 ④
※以下の記述には、権藤次重元が、一段目の後半で家包を攻めて、明月女を奪還しよ
うとした筋との不一致が見られる。この戦の場面は幸若には無いものであるので、八太
夫が金平風に筋を付け加えたものであると推測される。しかし、ここ四段目においては、
幸若の記述をそのまま受け継ぎ、筋の齟齬を修正していない。家包との戦いに敗れて落
ちた重元が、家包の館と知らずに家包の館に現れるという不自然さを、当時の人達は、
何とも思わなかったのだろうか?逆に、筋はどうあれ、派手な合戦場面を設定しなければ、
興行的人気が出なかったという当時の事情も汲んで取れる。そういう点では、この
作品は、古説経の崩壊を物語る作品とも言えるようである。
ここに神崎の住人、権藤次重元という優しい人がおりました。(※幸若では、ここで
初めて登場する)
この方も、かつて住吉神社で、明月女を見かけて一目惚れをし、数々の恋文を明月女に
送ったのでした。しかし、明月女が行方不明になってしまったので、思い悩んだ末に出
家して諸国修行の旅に出たのでした。どういう機縁でありましょうか、やがて重元は、
丹波の能勢にやって来ました。そして、探し求めている明月女が居るとも知らずに、家
包(いえかね)の門外で、一休みをしました。重元は、国春禅門(くにはるぜんもん)が、
兵庫の浦の人柱に取られたことを浅ましく思って、何気なく一首の歌を口ずさみました。
『浮き世ぞと 思い捨てても 一筋に 人の上にも 憂きにとぞ聞く』
その時、明月女は、この歌を耳にして、胸騒ぎがしたので、家人を出してこの修行者を
呼び止め、何者であるかを聞かせました。重元は、
「浅ましい修行者が、現世に存在しているように、故郷のことなどをいうべきではあり
ませんが、また、隠してどうなるというものでもありません。 私は、摂津の国、神崎の者。」
と、答えました。物陰から様子を窺っていた明月女と乳母は、神崎と聞いて、吹く風も
懐かしくなり、飛んで出ると、修行者に話しかけました。
「のう、修行者。先ほどの歌に、人の上にも憂き事ぞ聞くと、口ずさんだのは、どうい
うことですか。」
答えて重元は、
「人の上と申すのは、ある法師もこと。この法師の由来をお話しすれば、摂津の国、難
波入り江三松に形部左衛門国春という人がおりましたが、一人の姫がありました。この
姫は、大変美しくなられましたが、ある日行方不明となってしまわれました。父母のお
嘆き、悲しみは大きく、母は、昨年の秋のころに亡くなられ、父国春は、高野の峰に遁
世されました。その後、諸国修行の旅に出られましたが、兵庫の浦の人柱に取られて、
六月二十三日には、海中に沈められると聞きました。なんという浅ましい世の中である
かと、何気なく下手な歌を詠みました。」
と、言いました。明月女も乳母も驚いて、さらに夢とも弁えず、
「それは、ほんとうですか。修行者よ。」
と、呆然としています。重元は、
「かく言う私も、このように諸国修行をしているのは、その姫君のせいなのです。」
と、言い残すと何処へとも無く立ち去りました。これを聞いて明月女は、
「さては、今の修行者は、私を恋していたあの方か。私のせいで、あのような修行者に
なってしまわれたのですね。今となっては、なんともしようの無いことです。」
と、簾中に入って、どうしよも無い自分の運命を思い、さめざめと泣きました。しかし、
父の行方を知った明月女は思い切って、どうにかして父の命の代わりになろ
うと思い立ったのでした。
ちょうどその時は、家包は狩り場に出て留守でしたので、これを良い機会と思い、
明月女は、事の次第を細やかに文に書き置くと、乳母を呼んで、
「この人が、帰って来るなら、父を助けることが出来なくなります。少しも早く、急い
で行って、父の命に替わりましょう。」
と、言うと、乳母も嬉しげに旅の用意をするのでした。
かくて、二人は兵庫の浦を目指して旅立ったのでした。人目を忍ぶ旅なので、菅笠で
顔を隠し、頼みといえば、竹の杖だけです。しかし、足に任せて辿っていく道は、こ
こがどことも知れない山道です。やがて、二人は道に踏み迷って、山中で一夜を明かしました。
その夜が明けて、涙ながらに峰に上がれば、猿の声しか聞こえません。谷に下れば、6
月の激しい水音がごうごうと響くばかりです。心ははやりますが、行く道はなかなか
見つかりません。太陽が出てきたので、東の方向は分かりましたが、なんとしても南下
する道が見つからないのでした。疲れ果てて休んでいると、そこに一人の山人が現れ、ました。山人は、
『あれ、不思議なことだ。この人は、秋を待つ桔梗、苅萱、女郎花の花が、露が重いと
身をくねるようだ。また、時雨に染まる紅葉葉と、籬(まがき)の八重菊に野干の畏れ
を憚って、打ち萎れる様にも見える。いったい何を標(しるべ)にこのような人倫稀な
深山までやって来たのだろうか。なにやら怪しい。』
と、変化の物かもしれないと怪しんでいます。お互いに咎めることも、問いかけること
もせずに、その場で休んでいましたが、やがて乳母は山人に近づいて、
「如何に山人。尋ねたいことがあります。私たちは東国八箇の郡(埼玉県の辺り:身を偽って言った)
の者です。ここにいらっしゃいます姫君の父上様が、兵庫の浦の築嶋の奉行に参りまし
たが、父上様の居ない間に、継母が姫を殺そうとしますので、宵に紛れてこれまでお供
して参りました。しかし、ここまできて道に迷って困っているところです。どうか、兵
庫までの道を教えて下さい。」
と、まことしやかに嘘をつきました。山人はこれを聞いて、
「そうであれば、早く言ってくだされば良かったのに、さあ、こちらへお出でください。」
と、言うと、谷川を渡り、細い道を掻き分け掻き分け案内してくれたのでした。やがて、
小高い所に辿り着くと、山人は、
「ここは、その昔、『兵庫への追分け』と言いましたが、今は、『一松(ひとまつ:人待)峠』
と呼んでいます。あれ、あれをご覧なさい。西への道が見えますが、あれは高砂へと
下る道。よく気を付けて、そちらへ行ってはいけませんよ。辰巳(南東)の方に少し行きますと、
一段高い所から東の方を見れば、湊川が見えます。さらに、雀の松原(神戸市東灘区魚崎西町付近)
御影の森、布引(神戸駅付近)、神崎(尼ヶ崎市)、天王寺、住吉神社まで見渡せます。
西の方は、明石、大蔵谷。南の方向に見える渚こそ、兵庫の浦ですから、東西に分かれ
る道に迷わずに、真っ直ぐに下りて行って下さい。名残惜しい夕映えの空ですが、私は、
ここでお暇申し上げます。」
と言うと、山人は又山の中へと消えて行きました。明月も乳母は、
「この恐ろしい山中で、道案内をしていただけるとは、有り難いことです。これは、き
っと人間ではなく、長年、願を掛けてきた鞍馬の大悲多聞天が、山人となって現れたの
に違いありません。ありがたや、ありがたや。」
と、語り合いながら道を急ぎ、ようやく摂津の国、兵庫の浦に到着したのでした。
兵庫の浦についた二人は、ある浦人に、人柱の行方について尋ねましたが、浦人は、
「人柱の行方をしゃべった者も人柱にすると、高札に書かれておりますから、とてもお
話することはできません。」
と、逃げて行ってしまいました。哀れな二人は、父の行方も知れぬまま、その日は、空
しく、とある庵に宿を取ったのでした。
一方、丹波の家包は、三日間の狩りを終えて戻って来ると、身内の者が走り出て、
「大変です。姫君が居なくなりました。行方も知れません。」
と言うのでした。家包は、不思議に思って家に入りましたが、確かに姫の姿は見えません。
姫の部屋を見てみると、床の間に置き文があるのを見つけました。いったい、どういう
ことだと、さっと開いて見てみると、こう書いてありました。
『今生ならぬ、花の縁。かように散り果つるべしとは、ゆめゆめ、思わざりしに、
父母の御行方、風の便りに聞きぬれば、身の咎、業の恐ろしく、御身の咎も恨めしや
労しや母上様は、去年の秋、空しくならせ給う。父国春は、高野の峰にて遁世し、諸国
修行なさるるとて、兵庫の浦の人柱に取られ給うと承る。明日とも、御最期を定めぬ由
を承り、情けの縁の尽き場こそ、御身の恨みもおわせめ、少しも急ぎ、疾く行きて、
父の命にかわるべし。自らなからぬその後に、如何なる花に慣れ給うとも、思し召し忘
れずば、菩提を問うてたび給え。かえずがえず。』
家包は、これを読んで、
「兵庫の浦の人柱は、他所の嘆きと思っていたが、我が身の上に降りかかってきたか。
されば、私も兵庫の浦に行こう。」
と思い立ち、直ちに馬を引き出すと、鞭を打ち当て、兵庫の浦に急行しました。兵庫
の浦で家包は、姫の姿をあちらこちらを探し回りましたが、その契りはまだ尽きてはい
なかったのでしょう。探し回る家包の姿を見つけた明月が、するすると走り出て、家包
の袂に取り付いたのでした。再会した二人の喜びは限りもありません。かの家包の志し、
嬉しきともなかなか、申すばかりはなかりけり。
つづく