義朝の卒塔婆は、稽古する度に、ぶっつりと折れなければなりませんが、次には、元通りに建てなければなりません。目立たない継ぎ目で、しかも、耐久性も要求されます。今日の実験では、まずまずの使い勝手の様です。
新潟は雨です。源氏烏帽子折の最終稽古は終わりましたが、いつもの様に、小道具や書き割り、衣装などの細部が整っていません。連日、細かい作業に追われています。私は、卒塔婆を書くのに、四苦八苦。又、方丈さんに頼んで、イロイロと、ご指導、いただきました。
こういう仕事柄、早稲田大学の演劇博物館には、いつか行かなくてはと思っていましたが、なかなか機会がありませんでした。そんな折、「響きで紡ぐ アジア伝統弦楽器展」というチラシをみつけたのでした。小さい字で、「若松武蔵大掾三味線『鈴虫』」と書かれています。ずっと気になっていたのですが、うかうかしていると、会期が終わってしまうので、小雪の舞う中、重い腰を上げました。
早稲田大学演劇博物館
今回の企画のチラシの写真は、このようなものですが、
このチラシの三味線は、その「鈴虫」ではありませんでした。なんと、初代の若松武蔵大掾(初代若松若太夫)の三味線というのは、おそらくは、アルミ材で作ったと思われる三味線だったのです。(皮は犬皮、糸は絹の様な感じでしたが、説明無し)いくらなんでも、世の中に、こんな大それた物が存在していたとは、びっくり仰天でした。鈍く光る撥もアルミみたいです。この不気味な三味線の説明には、こうありました。
軽金属製三味線
演博所蔵
若松武蔵大掾(1874-1948)が、三味線で型取りをして、鋳造したもの。機関銃の音や爆音などを真似て、軍国調の説教節を唄った。
恐るべき改良説教節・・・なんだ、こんなものを見に来たのかと、がっかりしておりましたが、この三階建ての瀟洒な建物には、面白いもがいっぱい詰まっていました。特に、三階の時代別の演劇史は飽きることがありません。特に面白かったのは、無声映画の絵本太功記十段目です。義太夫がぴったり乗るので、画面に向かって、ひと語りしてきました。更に懐かしかったのは、写し絵です。小栗判官一代記の御菩薩池の板を写していました。私が以前に使用した、横瀬の板に似ています。
2時間かけて見学してから、1階の図書室で、気になっていた長唄の文句の意味などを調べて、たっぷり一日お勉強しました。
早稲田大学演劇博物館
今回の企画のチラシの写真は、このようなものですが、
このチラシの三味線は、その「鈴虫」ではありませんでした。なんと、初代の若松武蔵大掾(初代若松若太夫)の三味線というのは、おそらくは、アルミ材で作ったと思われる三味線だったのです。(皮は犬皮、糸は絹の様な感じでしたが、説明無し)いくらなんでも、世の中に、こんな大それた物が存在していたとは、びっくり仰天でした。鈍く光る撥もアルミみたいです。この不気味な三味線の説明には、こうありました。
軽金属製三味線
演博所蔵
若松武蔵大掾(1874-1948)が、三味線で型取りをして、鋳造したもの。機関銃の音や爆音などを真似て、軍国調の説教節を唄った。
恐るべき改良説教節・・・なんだ、こんなものを見に来たのかと、がっかりしておりましたが、この三階建ての瀟洒な建物には、面白いもがいっぱい詰まっていました。特に、三階の時代別の演劇史は飽きることがありません。特に面白かったのは、無声映画の絵本太功記十段目です。義太夫がぴったり乗るので、画面に向かって、ひと語りしてきました。更に懐かしかったのは、写し絵です。小栗判官一代記の御菩薩池の板を写していました。私が以前に使用した、横瀬の板に似ています。
2時間かけて見学してから、1階の図書室で、気になっていた長唄の文句の意味などを調べて、たっぷり一日お勉強しました。
好例八太夫会の新年弾き初めで、大々的にブレイク???演目とは関係無しに、大変盛り上がった話題は・・・「こんだら」事件。
中年の人々には、「巨人の星」は、忘れようも無いテレビ漫画の筆頭ですが、その主題歌においては、未だに、次の様な誤解が伴っています。あなたは、大丈夫ですよね。「思い込んだら。」・・・「重いコンダラ」を曳く????・・・校庭をならす為に引くのは、ローラーです。その主題歌のその場面は、まさにローラーを引いていましたが、それは、「重いコンダラ」ではありません。星飛雄馬は、「思い込んだら、試練の道を」行くのでありました。「校庭ならしてくれる?」「はい、コンダラ出しておきます。」なんていう会話は、ありませんでしたか?
八太夫会新年弾き初め会は、このように、笑いこけて、終わりました。おめでとうございます。
八太夫会の面々
中村万里 説経祭文 山椒太夫鳴子曳き
野口令 中田惹八 説経祭文 浅倉双紙楓短冊 甚兵衛渡し場段
石橋迪子 長唄 多摩川
前川美千代 長唄 大原女
崎村良子 長唄 越後獅子
渡部八太夫 二上文弥節 角田川 梅若塚段
菅生一座 野口座長一家
中年の人々には、「巨人の星」は、忘れようも無いテレビ漫画の筆頭ですが、その主題歌においては、未だに、次の様な誤解が伴っています。あなたは、大丈夫ですよね。「思い込んだら。」・・・「重いコンダラ」を曳く????・・・校庭をならす為に引くのは、ローラーです。その主題歌のその場面は、まさにローラーを引いていましたが、それは、「重いコンダラ」ではありません。星飛雄馬は、「思い込んだら、試練の道を」行くのでありました。「校庭ならしてくれる?」「はい、コンダラ出しておきます。」なんていう会話は、ありませんでしたか?
八太夫会新年弾き初め会は、このように、笑いこけて、終わりました。おめでとうございます。
八太夫会の面々
中村万里 説経祭文 山椒太夫鳴子曳き
野口令 中田惹八 説経祭文 浅倉双紙楓短冊 甚兵衛渡し場段
石橋迪子 長唄 多摩川
前川美千代 長唄 大原女
崎村良子 長唄 越後獅子
渡部八太夫 二上文弥節 角田川 梅若塚段
菅生一座 野口座長一家
新潟大学主催の県民会館公演が近付いて来ました。源氏烏帽子折の「竹馬」「宗清館」は昨年9月の豊田公演でご覧いただきましたが、「卒塔婆引き」は、今回が初挑戦になります。源義朝の家来で、同級生の「比企藤九郎盛長(ひきのとうくろうもりなが)」と「渋谷金王丸(しぶやのこんのうまる)」は、主君義朝の墓参りに来て、卒塔婆を奪い合います。八寸角もある角卒塔婆を、ぼきりと捻折るという豪快さですから、相当に力が入ります。
押し込んで行く盛長。
捻折って、飛びしさる所。
まだ、空席がありますので、お早めに予約をお願いします。
公演紹介記事は以下のページです。
http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/e/28040b31af1724ee8b59d28557b6ad32
押し込んで行く盛長。
捻折って、飛びしさる所。
まだ、空席がありますので、お早めに予約をお願いします。
公演紹介記事は以下のページです。
http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/e/28040b31af1724ee8b59d28557b6ad32
はらだ ⑥終
とうとう、父、種直と名乗る者はありません。若君は、未だ牢内に居る者があるかも知れないと、牢内に立ち入ってみると、果たして、牢の奥に男が一人残って居るではありませんか。若君は、近付いて、
「どうして、牢を出ないのか。早く、牢から出なさい。」
と言いますと、男は、
「牢を出たとしても、行く当ても無い。牢屋に居させてもらいたい。」
と、涙を流して言うのでした。若君が、
「あなた一人の為に、これまでの大願を無に帰する訳には行きません。さあ、とにかく、牢の外に出なさい。」
と、重ねて説得すると、格子の所まで、やっと出てきました。しかし、やはり外へは出ず、醒め醒めと涙を流すばかりです。若君は、
「名前は何と言うのです。」
と尋ねましたが、
「名前など無いので、名乗りもできません。何とでもお書き下さい。」
と、言うばかりです。若君は、更に、
「後世を大事に思うのなら、とにかく名乗りなさい。」
と、ねばりました。やがて、男は、
「名乗らないつもりでしたが、それ程言うのなら申しましょう。私は、筑紫筑前の住人、原田の二郎種直と言う者です。」
と、名乗ったのでした。喜んだ若君は、
「私は、あなたの子供です。」
と言って、醒め醒めと泣きましたが、種直は、
「私には、子供などありません。どういうことですか。」
と、不審顔です。若君は、
「不思議に思われるのは、ご尤もですが、父上とは、母の胎内、七月半でお別れいたしました。母に暇乞いをして、これまで父上を探しに参ったのです。母上は、これを形見として見せなさいと言っておりました。」
と言うと、肌の守りと、黄金造りの御佩刀を取り出して見せました。
「又、この法華経の末の七巻を、父上はお持ちのはずです。」
種直は、最早、疑う所もありませんでした。
「おお、母の胎内で別れた子に巡り逢うことができたのか。ああ、嬉しや嬉しや。」
と、泣くより外はありません。
この事は、直ちに、鎌倉殿に知らされました。鎌倉殿は、
「何、あの御稚児は、あの原田の子であったのか。すぐに親子を連れて参れ。」
と命じました。種直は喜び、鎌倉殿の御前に上がりました。鎌倉殿は、
「久しぶりの種直よ。一門の讒奏を、誠と思い、投獄させたことは、大変残念であった。日頃よりの無念を晴らされよ。それそれ。」
と言うと、一門の者共に縄を掛けて、引き出しました。そうして、全員を打ち首にしたのでした。それから鎌倉殿は、種直に、
「本領であるから、筑前の国を返し与える。」
と、御判を出されたのでした。又、若君には、三百町歩を下されました。そうして、親子の人々は、御前を立って、都を指して旅立ちました。
種直は、若君が、相模の国の由比ヶ浜で世話になった夫婦に、数々の宝を下され、やがて都の御台様とも再会されました。夫婦は、十三年間の憂き辛さを語り合うのでした。そして、筑前の国へと戻りました。館を建て直し、かつての郎等達も、我も我もと戻って来たので、原田種直は、再び富貴の家と栄えたのでした。今に至るまで、筑紫筑前には、原田という名前が、富貴の家として栄えています。かの種直の心の内を、貴賤上下押し並べて、感じない人はいませんでした。
おわり
とうとう、父、種直と名乗る者はありません。若君は、未だ牢内に居る者があるかも知れないと、牢内に立ち入ってみると、果たして、牢の奥に男が一人残って居るではありませんか。若君は、近付いて、
「どうして、牢を出ないのか。早く、牢から出なさい。」
と言いますと、男は、
「牢を出たとしても、行く当ても無い。牢屋に居させてもらいたい。」
と、涙を流して言うのでした。若君が、
「あなた一人の為に、これまでの大願を無に帰する訳には行きません。さあ、とにかく、牢の外に出なさい。」
と、重ねて説得すると、格子の所まで、やっと出てきました。しかし、やはり外へは出ず、醒め醒めと涙を流すばかりです。若君は、
「名前は何と言うのです。」
と尋ねましたが、
「名前など無いので、名乗りもできません。何とでもお書き下さい。」
と、言うばかりです。若君は、更に、
「後世を大事に思うのなら、とにかく名乗りなさい。」
と、ねばりました。やがて、男は、
「名乗らないつもりでしたが、それ程言うのなら申しましょう。私は、筑紫筑前の住人、原田の二郎種直と言う者です。」
と、名乗ったのでした。喜んだ若君は、
「私は、あなたの子供です。」
と言って、醒め醒めと泣きましたが、種直は、
「私には、子供などありません。どういうことですか。」
と、不審顔です。若君は、
「不思議に思われるのは、ご尤もですが、父上とは、母の胎内、七月半でお別れいたしました。母に暇乞いをして、これまで父上を探しに参ったのです。母上は、これを形見として見せなさいと言っておりました。」
と言うと、肌の守りと、黄金造りの御佩刀を取り出して見せました。
「又、この法華経の末の七巻を、父上はお持ちのはずです。」
種直は、最早、疑う所もありませんでした。
「おお、母の胎内で別れた子に巡り逢うことができたのか。ああ、嬉しや嬉しや。」
と、泣くより外はありません。
この事は、直ちに、鎌倉殿に知らされました。鎌倉殿は、
「何、あの御稚児は、あの原田の子であったのか。すぐに親子を連れて参れ。」
と命じました。種直は喜び、鎌倉殿の御前に上がりました。鎌倉殿は、
「久しぶりの種直よ。一門の讒奏を、誠と思い、投獄させたことは、大変残念であった。日頃よりの無念を晴らされよ。それそれ。」
と言うと、一門の者共に縄を掛けて、引き出しました。そうして、全員を打ち首にしたのでした。それから鎌倉殿は、種直に、
「本領であるから、筑前の国を返し与える。」
と、御判を出されたのでした。又、若君には、三百町歩を下されました。そうして、親子の人々は、御前を立って、都を指して旅立ちました。
種直は、若君が、相模の国の由比ヶ浜で世話になった夫婦に、数々の宝を下され、やがて都の御台様とも再会されました。夫婦は、十三年間の憂き辛さを語り合うのでした。そして、筑前の国へと戻りました。館を建て直し、かつての郎等達も、我も我もと戻って来たので、原田種直は、再び富貴の家と栄えたのでした。今に至るまで、筑紫筑前には、原田という名前が、富貴の家として栄えています。かの種直の心の内を、貴賤上下押し並べて、感じない人はいませんでした。
おわり
はらだ ⑤
間もなく、若君の事は、鎌倉殿にも聞こえました。鎌倉殿は、
「この国に、不思議な稚児がやって来たと聞いた。連れて参れ。」
と、命じました。直ぐに使者が立ち、若君は、鎌倉殿の御前においでになりました。鎌倉殿は、若君にいろいろな事を尋ねました。
「御稚児は、まだ若いのに、どうして修行に出る事になったのか。」
若君は、
「人の為、又、自分の為、諸国修行の旅に出ました。世間を知らず、憂い事も、辛い事も知らない儘では、立派な人間にはなれないからです。」
と答えました。鎌倉殿は、重ねて、
「おお、それは大変、尤もなことだが、白骨を集めて、千体の地蔵を作ったのは、どういうわけか。」
と尋ねました。若君は、
「白骨を集めて地蔵を作ったのは、外でもありません。『将軍菩薩』こそが、修羅道に落ちた者達を救ってくれるからです。十三年前に、筑前の者達が、由比ヶ浜で討ち死にしましたが、無縁仏となり、弔う者もありません。彼らの修羅の苦患を救う為に、千体の地蔵を作ったのです。」
と答えました。次に、鎌倉殿は、
「御稚児は、毎日、法華経を読誦すると聞くが、その功徳は、どのようなものか。」
と尋ねました。若君は、
「釈迦一代の説法の中でも、法華経は、『一切衆生、即身成仏』にて『草木国土、悉皆成仏』と、説かれました。つまり、草木や土くれですら、仏性を具有し、成仏するということです。殊に、五逆罪の龍女ですら、ついには仏となるのです。このような尊いお経ですから、毎日読めば、成仏は間違いありません。」
と、すらすらと答えます。今度は、
「さて、それでは、夜念仏(よねぶつ)をしているのは何故か。」
と尋ねました。若君が、
「はい、夜念仏とは、『一念弥陀仏、即滅無量罪』と申しまして、一度でも弥陀仏を念ずれば、弘誓(ぐぜい)の舟に救い上げて、浄土の台(うてな)に運び上げようという誓いなのです。殊に、このように危うい世の中で、何に縋って生きて行けば良いのでしょうか。人の心こそが一番、恐ろしい。世の為、人の為、自分の為に、毎日、夜念仏をするのです。」
と答えたので、鎌倉殿は、感心して、
「実に有り難き次第。」
と、お手を合わせて、若君を拝むのでした。周りの人々も、有り難い、有り難いと、拝まない者はありませんでした。それから、鎌倉殿は、
「御稚児殿。寺が欲しければ造らせよう。所領が欲しければ、与えよう。望みは何か。」
と言いましたが、若君は、
「私は、修行の身の上ですから、寺も所領もいりませんが、ひとつだけ望みがあります。叶えて頂けるのなら、申しましょう。」
と答えたのでした。鎌倉殿は、気軽に、
「さあ、申してみよ。」
と言いましたので、若君は、改めて、
「大変に、畏れ多い事ですので、簡単ではありません。ご誓文をなされるのなら、申しましょう。」
と念を押しました。鎌倉殿が、
「それ程に言うのであれば、若宮八幡に誓って、お前の望みを叶えよう。」
と答えたので、若君は、
「分かりました。それならば、申します。鎌倉、谷七郷の牢屋に繋がれて人々を、全ていただきたい。」
と、願い出たのでした。鎌倉殿は、予期せぬ望みに驚いて、しばらく答えることができませんでした。ようやく、鎌倉殿は、
「牢に下した者共には、咎人で有るから、それはできぬ。」
と答えましたが、若君は、立ち上がって、
「だから、言った事ではありませんか。ご誓文というものは、綸言(りんげん)汗の如し、出たら再び帰らぬものです。慈悲の心をもって御世を治めると言われる最明寺殿は、この様な愚人でありましたか。そいうのを『嚙み済んだ後は、舌にも残らぬ』と言うのです。やれやれ、あなたの政(まつりごと)も思いやられますね。」
と、吐き捨てました。これには、鎌倉殿も、ぐうの音もでませんでした。すごすごと、
『三十六人の牢下し者を御稚児に参らす。』という自筆の御判を下されたのでした。
喜んだ若君は、牢の奉行を呼ぶと、
「鎌倉殿のご命令によって、牢下しの者の身柄を預かった。皆、釈放するので、その由、触れを出せ。」
と命じたのでした。早速に、谷七郷に触れが回り、近国他国より、咎人を引き取ろうと、縁者が駆けつけて来ました。若君は、牢奉行に、
「牢の戸口に、鼠木戸(ねずみきど)を設えて、一人一人呼び出し、その名前をすべて記録いたせ。もしかしたら、父の種直と、名乗る者がいるかもしれないので、ようく気をつけるように。」
と、命じましたので、一人一人の名前を記録しながら、咎人を釈放して行きます。釈放された人々は、次々に親類、眷属の者達が受け取って、我が家へと帰って行きますが、父の種直を名乗る者はいません。若君は、
「いつの日にかは、父に巡り会えると思って、ここまで来たのに、とうとう父には会えなかったか。」
と、悲嘆に暮れて泣くより外はありません。若君の心の内は、何にも例え様がありません。
つづく
間もなく、若君の事は、鎌倉殿にも聞こえました。鎌倉殿は、
「この国に、不思議な稚児がやって来たと聞いた。連れて参れ。」
と、命じました。直ぐに使者が立ち、若君は、鎌倉殿の御前においでになりました。鎌倉殿は、若君にいろいろな事を尋ねました。
「御稚児は、まだ若いのに、どうして修行に出る事になったのか。」
若君は、
「人の為、又、自分の為、諸国修行の旅に出ました。世間を知らず、憂い事も、辛い事も知らない儘では、立派な人間にはなれないからです。」
と答えました。鎌倉殿は、重ねて、
「おお、それは大変、尤もなことだが、白骨を集めて、千体の地蔵を作ったのは、どういうわけか。」
と尋ねました。若君は、
「白骨を集めて地蔵を作ったのは、外でもありません。『将軍菩薩』こそが、修羅道に落ちた者達を救ってくれるからです。十三年前に、筑前の者達が、由比ヶ浜で討ち死にしましたが、無縁仏となり、弔う者もありません。彼らの修羅の苦患を救う為に、千体の地蔵を作ったのです。」
と答えました。次に、鎌倉殿は、
「御稚児は、毎日、法華経を読誦すると聞くが、その功徳は、どのようなものか。」
と尋ねました。若君は、
「釈迦一代の説法の中でも、法華経は、『一切衆生、即身成仏』にて『草木国土、悉皆成仏』と、説かれました。つまり、草木や土くれですら、仏性を具有し、成仏するということです。殊に、五逆罪の龍女ですら、ついには仏となるのです。このような尊いお経ですから、毎日読めば、成仏は間違いありません。」
と、すらすらと答えます。今度は、
「さて、それでは、夜念仏(よねぶつ)をしているのは何故か。」
と尋ねました。若君が、
「はい、夜念仏とは、『一念弥陀仏、即滅無量罪』と申しまして、一度でも弥陀仏を念ずれば、弘誓(ぐぜい)の舟に救い上げて、浄土の台(うてな)に運び上げようという誓いなのです。殊に、このように危うい世の中で、何に縋って生きて行けば良いのでしょうか。人の心こそが一番、恐ろしい。世の為、人の為、自分の為に、毎日、夜念仏をするのです。」
と答えたので、鎌倉殿は、感心して、
「実に有り難き次第。」
と、お手を合わせて、若君を拝むのでした。周りの人々も、有り難い、有り難いと、拝まない者はありませんでした。それから、鎌倉殿は、
「御稚児殿。寺が欲しければ造らせよう。所領が欲しければ、与えよう。望みは何か。」
と言いましたが、若君は、
「私は、修行の身の上ですから、寺も所領もいりませんが、ひとつだけ望みがあります。叶えて頂けるのなら、申しましょう。」
と答えたのでした。鎌倉殿は、気軽に、
「さあ、申してみよ。」
と言いましたので、若君は、改めて、
「大変に、畏れ多い事ですので、簡単ではありません。ご誓文をなされるのなら、申しましょう。」
と念を押しました。鎌倉殿が、
「それ程に言うのであれば、若宮八幡に誓って、お前の望みを叶えよう。」
と答えたので、若君は、
「分かりました。それならば、申します。鎌倉、谷七郷の牢屋に繋がれて人々を、全ていただきたい。」
と、願い出たのでした。鎌倉殿は、予期せぬ望みに驚いて、しばらく答えることができませんでした。ようやく、鎌倉殿は、
「牢に下した者共には、咎人で有るから、それはできぬ。」
と答えましたが、若君は、立ち上がって、
「だから、言った事ではありませんか。ご誓文というものは、綸言(りんげん)汗の如し、出たら再び帰らぬものです。慈悲の心をもって御世を治めると言われる最明寺殿は、この様な愚人でありましたか。そいうのを『嚙み済んだ後は、舌にも残らぬ』と言うのです。やれやれ、あなたの政(まつりごと)も思いやられますね。」
と、吐き捨てました。これには、鎌倉殿も、ぐうの音もでませんでした。すごすごと、
『三十六人の牢下し者を御稚児に参らす。』という自筆の御判を下されたのでした。
喜んだ若君は、牢の奉行を呼ぶと、
「鎌倉殿のご命令によって、牢下しの者の身柄を預かった。皆、釈放するので、その由、触れを出せ。」
と命じたのでした。早速に、谷七郷に触れが回り、近国他国より、咎人を引き取ろうと、縁者が駆けつけて来ました。若君は、牢奉行に、
「牢の戸口に、鼠木戸(ねずみきど)を設えて、一人一人呼び出し、その名前をすべて記録いたせ。もしかしたら、父の種直と、名乗る者がいるかもしれないので、ようく気をつけるように。」
と、命じましたので、一人一人の名前を記録しながら、咎人を釈放して行きます。釈放された人々は、次々に親類、眷属の者達が受け取って、我が家へと帰って行きますが、父の種直を名乗る者はいません。若君は、
「いつの日にかは、父に巡り会えると思って、ここまで来たのに、とうとう父には会えなかったか。」
と、悲嘆に暮れて泣くより外はありません。若君の心の内は、何にも例え様がありません。
つづく
はらだ ④
すっかり寝入っていた若君は、夜半になって目を醒ましました。女房を呼ぶと、こう言いました。
「すみませんが、灯火を貸して下さい。私には、宿願があって、法華経を唱えなければなりません。お願いします。」
女房が、灯火を持ってくると、若君は、金泥の法華経をはったと開いて読誦して、
「このお経の功力によって、母上様を安穏にお守り下さい。又、父の種直に巡り会わせて下さい。又、もうこの世にいらっしゃらないのならば、出離生死頓証菩提。(しゅつりしょうじとんしょうぼだい)」
と、祈られるのでした。その様子は、堅牢地神(けんろうじしん)や十羅刹女(じゅうらせつにょ)がお声を添えている如くに、有り難く聞こえて来るのでした。女房は、これを聞くと、
『この様に、尊い稚児様を、売り飛ばしては、後世での極楽往生が叶わない。この稚児様を助け落としてあげましょう。もし、夫に責め殺されても、私の命と引き替えにこの稚児様をお守りすれば、きっと後世での助けを受ける事ができるでしょう。』
と思い、若君の前に出ると、こう言いました。
「申し、御稚児様。実は、この家の亭主は、人売りなのです。もう、あなたは売られてしまいましたので、早く逃げて下さい。もし、亭主に責め殺されたなら、どうか、後世を弔って下さい。」
そうして女房は、若君を連れて家を飛び出しました。女房は、逃げ道を教えると、
「ずっとお供をして行きたいのですが、亭主が帰って来て、気付かれては詮無い事ですから、ここでお別れです。」
と、涙ながらに家に戻るのでした。
さて、それから亭主が帰って来ました。あちこち探しましたが、稚児が居ません。亭主は驚いて、女房を呼びました。
「御稚児はどうした。」
と聞くと、女房は、
「さて、宵の頃まで、法華経をお唱えでしたが、どうしたのでしょうね。いらっしゃらないのですか。」
と、とぼけました。亭主は、
「お前、知らないわけは無いだろう。偽り事を言うと、鮫の餌食にするぞ。」
と、声を荒げて迫りましたが、女房は、知らぬ存ぜぬです。さすがの亭主も、諦めめて、
「やれやれ、掘り出し物を逃がしたわい。もったいねえなあ。」
と、つぶやくばかりでした。
一方、逃げ延びた若君は、由比ヶ浜の手前、半里ぐらいの所で、次の宿を見つけました。今度の宿の主人は、大変情け深い人でしたので、一日二日を過ごすことになりました。若君は、この家の人々を信頼して、こう打ち明けました。
「お聞きしますところ、十三年前、筑紫筑前の人々が、由比ヶ浜で討ち死になされたということですが、きっと無縁仏となって、弔う人も無いことと存じます。彼らの修羅の苦患が思いやられてなりません。私は、由比ヶ浜で、あらゆる破骨、白骨を拾い集めて、千体の地蔵を造り、彼らの苦患を助けたいと、思っているのです。」
これを、聞いた夫婦は、若君と一緒に由比ヶ浜に出て、骨拾いをしました。曝れ(され)た白骨が、砂を撒いた様に散らばっています。哀れにも若君は、ひとつ骨を拾っては、
「これは、父上の骨か。」
又、ひとつ拾っては、
「これは、一門の者の骨か。」
と、泣くのでした。夫婦の人々も、若君と共に、沢山の白骨を拾いました。拾い集めた骨を突き砕いて固め、千体の地蔵を造りました。昼間には、夫婦は、柄杓を持って、谷七郷を勧進して回り、若君は地蔵の前で法華経を唱えました。夜になると、若君が鉦鼓を首に掛けて、谷七郷を念仏して廻りました。谷七郷の人々は皆、勧進に入ったので、程無く寺が建立され、多くの人々が集まる様になりました。地蔵の前でお経を唱え、行い澄ましておられる若君の心の内は、例え様もありません。
つづく
すっかり寝入っていた若君は、夜半になって目を醒ましました。女房を呼ぶと、こう言いました。
「すみませんが、灯火を貸して下さい。私には、宿願があって、法華経を唱えなければなりません。お願いします。」
女房が、灯火を持ってくると、若君は、金泥の法華経をはったと開いて読誦して、
「このお経の功力によって、母上様を安穏にお守り下さい。又、父の種直に巡り会わせて下さい。又、もうこの世にいらっしゃらないのならば、出離生死頓証菩提。(しゅつりしょうじとんしょうぼだい)」
と、祈られるのでした。その様子は、堅牢地神(けんろうじしん)や十羅刹女(じゅうらせつにょ)がお声を添えている如くに、有り難く聞こえて来るのでした。女房は、これを聞くと、
『この様に、尊い稚児様を、売り飛ばしては、後世での極楽往生が叶わない。この稚児様を助け落としてあげましょう。もし、夫に責め殺されても、私の命と引き替えにこの稚児様をお守りすれば、きっと後世での助けを受ける事ができるでしょう。』
と思い、若君の前に出ると、こう言いました。
「申し、御稚児様。実は、この家の亭主は、人売りなのです。もう、あなたは売られてしまいましたので、早く逃げて下さい。もし、亭主に責め殺されたなら、どうか、後世を弔って下さい。」
そうして女房は、若君を連れて家を飛び出しました。女房は、逃げ道を教えると、
「ずっとお供をして行きたいのですが、亭主が帰って来て、気付かれては詮無い事ですから、ここでお別れです。」
と、涙ながらに家に戻るのでした。
さて、それから亭主が帰って来ました。あちこち探しましたが、稚児が居ません。亭主は驚いて、女房を呼びました。
「御稚児はどうした。」
と聞くと、女房は、
「さて、宵の頃まで、法華経をお唱えでしたが、どうしたのでしょうね。いらっしゃらないのですか。」
と、とぼけました。亭主は、
「お前、知らないわけは無いだろう。偽り事を言うと、鮫の餌食にするぞ。」
と、声を荒げて迫りましたが、女房は、知らぬ存ぜぬです。さすがの亭主も、諦めめて、
「やれやれ、掘り出し物を逃がしたわい。もったいねえなあ。」
と、つぶやくばかりでした。
一方、逃げ延びた若君は、由比ヶ浜の手前、半里ぐらいの所で、次の宿を見つけました。今度の宿の主人は、大変情け深い人でしたので、一日二日を過ごすことになりました。若君は、この家の人々を信頼して、こう打ち明けました。
「お聞きしますところ、十三年前、筑紫筑前の人々が、由比ヶ浜で討ち死になされたということですが、きっと無縁仏となって、弔う人も無いことと存じます。彼らの修羅の苦患が思いやられてなりません。私は、由比ヶ浜で、あらゆる破骨、白骨を拾い集めて、千体の地蔵を造り、彼らの苦患を助けたいと、思っているのです。」
これを、聞いた夫婦は、若君と一緒に由比ヶ浜に出て、骨拾いをしました。曝れ(され)た白骨が、砂を撒いた様に散らばっています。哀れにも若君は、ひとつ骨を拾っては、
「これは、父上の骨か。」
又、ひとつ拾っては、
「これは、一門の者の骨か。」
と、泣くのでした。夫婦の人々も、若君と共に、沢山の白骨を拾いました。拾い集めた骨を突き砕いて固め、千体の地蔵を造りました。昼間には、夫婦は、柄杓を持って、谷七郷を勧進して回り、若君は地蔵の前で法華経を唱えました。夜になると、若君が鉦鼓を首に掛けて、谷七郷を念仏して廻りました。谷七郷の人々は皆、勧進に入ったので、程無く寺が建立され、多くの人々が集まる様になりました。地蔵の前でお経を唱え、行い澄ましておられる若君の心の内は、例え様もありません。
つづく
はらだ ③
都に残された御台様は、種直が捕らえられたことも知らずに過ごしておりましたが、やがて、玉の様な男の子を産んだのでした。御台様は、大変お喜びになって、御乳や乳母を付けて、大切にお育てになりました。そうして、3年の月日が流れたのでした。しかし、種直からは便りも無いので、御台様は、
「恨めしい種直様。鎌倉で美しい花と戯れて、私たちのことを忘れてしまったのでしょうか。」
と、恨み事を言うのでした。御台様は、通りに出て、鎌倉から来る人に、種直の事を聞いてみようと思い立ちました。道端に立っていますと、山伏が三人、通りかかりました。御台様が、
「申し、客僧達。あなた方は、どちらからお出でですか。」
と訪ねますと、客僧達は、
「おお、我等は、鎌倉より来ました。何かご用ですか。」
と答えます。そこで御台様は、
「鎌倉では、何か大きな事件はありませんでしたか。」
と尋ねたのでした。客僧は、
「おお、ありましたよ。ちょうど三年前の事になりますが、原田の二郎種直という者が、由比ヶ浜で、討ち死になされました。」
と、言い捨てて通り過ぎたのでした。これを聞いた御台様は、夢か現かと、泣き崩れました。
「私は、なんと馬鹿なのでしょう。種直殿は、都の事を忘れてしまったと思い込んで恨み、都の事を思い出す様にと、賀茂神社に祈誓を掛けておりました。ああ、恨めしい憂き世です。」
と口説く様子は、哀れな有様です。やがて、涙を押しぬぐった、御台様は、
「三歳になる若君を、出家させて、後世を弔ってもらう外はありません。」
と考えて、若君を山寺に登らせたのでした。
若君は、大変優秀でした。他の子供達は及びもしません。一字を十字に覚ったので、十三歳になる頃には、山一番の稚児学者と呼ばれる様になりました。御台様は、大変お喜びになり、若君を呼び戻しました。御台様は、立派になった若君に、父の事を話すことにしたのです。
「良く聞きなさい。お前の父親の種直は、十三年前に、由比ヶ浜で討たれたと聞きました。」
と、泣きながら、父の話しをしました。若君は、これを聞くと、
「それでは、私は、鎌倉へ行って、事の子細を確かめて来ます。」
と言いました。御台様は、
「七月半で捨てられた父を恋しく思って、鎌倉まで行くというのですか。しかし、十三年も前のことです。恨めしいことですが、鎌倉へ行ったとしても、白骨すらもみつからないでしょう。」
と、歎くばかりです。しかし、若君は、
「いえ、それでも私は参ります。許して頂けないのなら、如何なる淵へでも身を投げて、死ぬ覚悟です。」
と、がんとして譲りませんでした。とうとう、御台様は、
「それ程までに、思うのであれば、尋ねて行ってごらんなさい。」
と、折れるのでした。若君は、
「このままの姿では、人売りに、売られてしまう。」
と考えて、修行者の姿に身をやつすと、鉦鼓を首に掛けました。御台様はこの姿をご覧になると、
「もし、父と巡り逢った時に、何を証拠とするつもりですか。」
と、守り袋と黄金作りの御佩刀を取り出しました。
「これこそ、父、種直の形見の品ですよ。」
と、若君に手渡すと、
「夫に別れてよりこの方、袖を絞らない日は無いというのに、今日から、子にも別れて、明日からの恋しさを、誰に話して慰めればいいのですか。」
と、重ねて歎き悲しむばかりです。しかし、若君は、名残の袖を振り切って、鎌倉へと旅立ったのでした。
馴れない旅でしたから、若君の足からは、血が噴き出し、道端の砂や草を朱に染めるのでした。それでも、日数は重なり、いよいよ相模の国に着きました。由比ヶ浜まで、あと三里という辺りです。日が暮れて来ましたので、とある人家に一夜の宿を乞いました。その家の夫婦は、若君を見ると、奥の座敷へと招き入れました。
しかし、その亭主は人売りだったのです。亭主は、しめしめと、早速に、人買いを呼びに行きます。それとも知らずに若君は、旅の疲れから、前後不覚に寝入ってしまいました。しばらくして、亭主は人買いを連れて戻って来ました。寝入っている若君を見定めた人買いは、
「年寄りでは、鮫の餌にもならぬが、このように若い者であれば、買いましょう。」
と言うと、二人は又連れだって浜の方へと、下りて行きました。若君の心の内は何に例え様もありません。
つづく
都に残された御台様は、種直が捕らえられたことも知らずに過ごしておりましたが、やがて、玉の様な男の子を産んだのでした。御台様は、大変お喜びになって、御乳や乳母を付けて、大切にお育てになりました。そうして、3年の月日が流れたのでした。しかし、種直からは便りも無いので、御台様は、
「恨めしい種直様。鎌倉で美しい花と戯れて、私たちのことを忘れてしまったのでしょうか。」
と、恨み事を言うのでした。御台様は、通りに出て、鎌倉から来る人に、種直の事を聞いてみようと思い立ちました。道端に立っていますと、山伏が三人、通りかかりました。御台様が、
「申し、客僧達。あなた方は、どちらからお出でですか。」
と訪ねますと、客僧達は、
「おお、我等は、鎌倉より来ました。何かご用ですか。」
と答えます。そこで御台様は、
「鎌倉では、何か大きな事件はありませんでしたか。」
と尋ねたのでした。客僧は、
「おお、ありましたよ。ちょうど三年前の事になりますが、原田の二郎種直という者が、由比ヶ浜で、討ち死になされました。」
と、言い捨てて通り過ぎたのでした。これを聞いた御台様は、夢か現かと、泣き崩れました。
「私は、なんと馬鹿なのでしょう。種直殿は、都の事を忘れてしまったと思い込んで恨み、都の事を思い出す様にと、賀茂神社に祈誓を掛けておりました。ああ、恨めしい憂き世です。」
と口説く様子は、哀れな有様です。やがて、涙を押しぬぐった、御台様は、
「三歳になる若君を、出家させて、後世を弔ってもらう外はありません。」
と考えて、若君を山寺に登らせたのでした。
若君は、大変優秀でした。他の子供達は及びもしません。一字を十字に覚ったので、十三歳になる頃には、山一番の稚児学者と呼ばれる様になりました。御台様は、大変お喜びになり、若君を呼び戻しました。御台様は、立派になった若君に、父の事を話すことにしたのです。
「良く聞きなさい。お前の父親の種直は、十三年前に、由比ヶ浜で討たれたと聞きました。」
と、泣きながら、父の話しをしました。若君は、これを聞くと、
「それでは、私は、鎌倉へ行って、事の子細を確かめて来ます。」
と言いました。御台様は、
「七月半で捨てられた父を恋しく思って、鎌倉まで行くというのですか。しかし、十三年も前のことです。恨めしいことですが、鎌倉へ行ったとしても、白骨すらもみつからないでしょう。」
と、歎くばかりです。しかし、若君は、
「いえ、それでも私は参ります。許して頂けないのなら、如何なる淵へでも身を投げて、死ぬ覚悟です。」
と、がんとして譲りませんでした。とうとう、御台様は、
「それ程までに、思うのであれば、尋ねて行ってごらんなさい。」
と、折れるのでした。若君は、
「このままの姿では、人売りに、売られてしまう。」
と考えて、修行者の姿に身をやつすと、鉦鼓を首に掛けました。御台様はこの姿をご覧になると、
「もし、父と巡り逢った時に、何を証拠とするつもりですか。」
と、守り袋と黄金作りの御佩刀を取り出しました。
「これこそ、父、種直の形見の品ですよ。」
と、若君に手渡すと、
「夫に別れてよりこの方、袖を絞らない日は無いというのに、今日から、子にも別れて、明日からの恋しさを、誰に話して慰めればいいのですか。」
と、重ねて歎き悲しむばかりです。しかし、若君は、名残の袖を振り切って、鎌倉へと旅立ったのでした。
馴れない旅でしたから、若君の足からは、血が噴き出し、道端の砂や草を朱に染めるのでした。それでも、日数は重なり、いよいよ相模の国に着きました。由比ヶ浜まで、あと三里という辺りです。日が暮れて来ましたので、とある人家に一夜の宿を乞いました。その家の夫婦は、若君を見ると、奥の座敷へと招き入れました。
しかし、その亭主は人売りだったのです。亭主は、しめしめと、早速に、人買いを呼びに行きます。それとも知らずに若君は、旅の疲れから、前後不覚に寝入ってしまいました。しばらくして、亭主は人買いを連れて戻って来ました。寝入っている若君を見定めた人買いは、
「年寄りでは、鮫の餌にもならぬが、このように若い者であれば、買いましょう。」
と言うと、二人は又連れだって浜の方へと、下りて行きました。若君の心の内は何に例え様もありません。
つづく
はらだ ②
明け方になって、種直は、御僧の寝ている座敷に立ち寄って、声を掛けました。
「申し、御僧様。夕べは、酒に酔って、つまらない事を話してしまいました。あの話しは無かったことにして、鎌倉殿にお伝えするのは、絶対にやめて下さい。さあ、もう夜も明けますので、どうかお起き下さい。」
種直が、障子を開けてみると、御僧の姿はありません。種直が、驚いて座敷に入ると、扇が置かれているのが見えました。
「これは、慌てて、お忘れになったか。」
と、種直が取り上げて、開いて見てみると、
「なになに、原田が本領、返し与える。春になったら、鎌倉を訪ねよ。」
と、鎌倉殿の御判が据えてあるではありませんか。御台所と諸共に、その喜びは限りもありません。この事を聞き付けて、曽ての郎等達も戻ってきました。そうして、明くる年の春になったのです。
種直が、御台所に、
「鎌倉殿のお言葉に従い、急いで鎌倉へ下ることにするぞ。」
と、告げると、御台所は、
「そうですね。それでは、私もお供をして、都まで参ります。それというのも、私には、宿願があるのです。」
と言うのでした。種直は、輿を整えて、御台所を乗せると、早速に都へと上って行きました。
さて、都に着くと御台様は、あちらこちらの「神虫(しんちゅう)」(厄除け札)を、集めて廻るのでした。そうこうしている内に、もう秋の半ばになってしまいました。種直が、
「さて、鎌倉殿は、春には下れと仰っていたのに、春どころか、もう秋も半ばになってしまったぞ。急いで、鎌倉へ参ろう。」
と言うと、御台様は、
「いつ、お知らせしようかと、思っていましたが、実は、私の胎内には、七月半の嬰児があります。どうか、男の子か、女の子かを、確かめてから、鎌倉へお下りくださいませ。」
と、願うのでした。しかし、種直は、
「その子が生まれて、男子ならば、この形見を取らせよ。」
と、守り袋と、黄金造りの御佩刀(はかせ)を渡すのでした。御台所は、仕方無く、法華経の七の巻きを取り出すと、
「このお経は、安穏長寿の経ですから、道中のお守りとして下さい。」
と言って、互いに形見を取り交わすのでした。こうして、種直主従は、鎌倉へと向かったのでした。
さて其の頃、鎌倉の一族の者どもの元には、原田が本領を安堵されて、鎌倉へ下って来るらしいという知らせが既に届いていました。種直が、下ってくれば、自分たちの讒奏が明白になり、打ち首は逃れられません。いろいろ評定した結論は、再び讒奏をして、原田追討の軍勢を出せるようにしようということでした。一族の面々は、御前に出ると、
「原田次郎種直が、鎌倉に攻め下って来きます。知らせによると、昨年の秋に、鎌倉殿が筑紫で、原田の館にお泊まりになった折、原田は、鎌倉殿と知らずに逃がしてしまったので、無念と思い、攻め下って来るということです。」
などと、讒奏を繰り返すのでした。しかし、鎌倉殿は、この一族が、讒奏をしたことを知っていましたから、取り合いませんでした。しかし、一族の面々は、
「後々、後悔いたしますな。御覚悟下さい。」
等と、しつこくも、七回も訴訟したということです。あまりしつこいので、鎌倉殿は、
「そこまで言うのならば、あなた方が、迎え撃てば良いでしょう。」
と、言ったのでした。一族の三千余騎が、由比ヶ浜で、種直を迎え撃つことになりました。
そこへ、待ち伏せのことなど、夢にも知らない種直の一行が来ました。待ち伏せの人々が、
「そこを通るのは、原田殿か。鎌倉殿のご命令により、成敗いたす。腹を切られよ。」
と、呼ばわると、種直は、
「さては、又、讒奏したな。」
と、大勢の中へ飛び込んで入り、ここを最期と戦いました。しかし、多勢に無勢、やがて種直達は、郎等四五人にまで、切り崩されてしまいました。最早これまでと、種直は腹を切ろうとしましたが、藤王という家来が、取り縋って、
「お待ち下さい。君は、ここは先ず、落ち延びて下さい。命を全うする亀は、蓬莱山にも辿り着くと聞きます。畏れ多き事ですが、君の名を名乗って、私が腹をきります。」
と言うのでした。種直は、
「浅ましい死に方をするぐらいなら、腹を切った方がましだ。」
と、はねつけましたが、どうしても藤王が取り付いて離れないので、とうとう、種直は、簑笠を付けて、浜地へと落ちたのでした。寄せ手の者達は、これを見ると、種直とは知らずに捕縛して、落人なりと言いながら、鎌倉へ引いて行きました。それから、藤王は、再び大勢に飛び込んで、散々に戦いましたが、やがて小高い所に駆け上ると、
「我を誰だと思うか。原田の二郎種直。今年二十七歳。剛なる者の腹の切り方を良く見て、手本とせよ。」
と言い放って、腹十文字に掻き切るのでした。藤王の首は、直ちに鎌倉へと運ばれました。種直の心の内は、何にも例え様がありません。
つづく
明け方になって、種直は、御僧の寝ている座敷に立ち寄って、声を掛けました。
「申し、御僧様。夕べは、酒に酔って、つまらない事を話してしまいました。あの話しは無かったことにして、鎌倉殿にお伝えするのは、絶対にやめて下さい。さあ、もう夜も明けますので、どうかお起き下さい。」
種直が、障子を開けてみると、御僧の姿はありません。種直が、驚いて座敷に入ると、扇が置かれているのが見えました。
「これは、慌てて、お忘れになったか。」
と、種直が取り上げて、開いて見てみると、
「なになに、原田が本領、返し与える。春になったら、鎌倉を訪ねよ。」
と、鎌倉殿の御判が据えてあるではありませんか。御台所と諸共に、その喜びは限りもありません。この事を聞き付けて、曽ての郎等達も戻ってきました。そうして、明くる年の春になったのです。
種直が、御台所に、
「鎌倉殿のお言葉に従い、急いで鎌倉へ下ることにするぞ。」
と、告げると、御台所は、
「そうですね。それでは、私もお供をして、都まで参ります。それというのも、私には、宿願があるのです。」
と言うのでした。種直は、輿を整えて、御台所を乗せると、早速に都へと上って行きました。
さて、都に着くと御台様は、あちらこちらの「神虫(しんちゅう)」(厄除け札)を、集めて廻るのでした。そうこうしている内に、もう秋の半ばになってしまいました。種直が、
「さて、鎌倉殿は、春には下れと仰っていたのに、春どころか、もう秋も半ばになってしまったぞ。急いで、鎌倉へ参ろう。」
と言うと、御台様は、
「いつ、お知らせしようかと、思っていましたが、実は、私の胎内には、七月半の嬰児があります。どうか、男の子か、女の子かを、確かめてから、鎌倉へお下りくださいませ。」
と、願うのでした。しかし、種直は、
「その子が生まれて、男子ならば、この形見を取らせよ。」
と、守り袋と、黄金造りの御佩刀(はかせ)を渡すのでした。御台所は、仕方無く、法華経の七の巻きを取り出すと、
「このお経は、安穏長寿の経ですから、道中のお守りとして下さい。」
と言って、互いに形見を取り交わすのでした。こうして、種直主従は、鎌倉へと向かったのでした。
さて其の頃、鎌倉の一族の者どもの元には、原田が本領を安堵されて、鎌倉へ下って来るらしいという知らせが既に届いていました。種直が、下ってくれば、自分たちの讒奏が明白になり、打ち首は逃れられません。いろいろ評定した結論は、再び讒奏をして、原田追討の軍勢を出せるようにしようということでした。一族の面々は、御前に出ると、
「原田次郎種直が、鎌倉に攻め下って来きます。知らせによると、昨年の秋に、鎌倉殿が筑紫で、原田の館にお泊まりになった折、原田は、鎌倉殿と知らずに逃がしてしまったので、無念と思い、攻め下って来るということです。」
などと、讒奏を繰り返すのでした。しかし、鎌倉殿は、この一族が、讒奏をしたことを知っていましたから、取り合いませんでした。しかし、一族の面々は、
「後々、後悔いたしますな。御覚悟下さい。」
等と、しつこくも、七回も訴訟したということです。あまりしつこいので、鎌倉殿は、
「そこまで言うのならば、あなた方が、迎え撃てば良いでしょう。」
と、言ったのでした。一族の三千余騎が、由比ヶ浜で、種直を迎え撃つことになりました。
そこへ、待ち伏せのことなど、夢にも知らない種直の一行が来ました。待ち伏せの人々が、
「そこを通るのは、原田殿か。鎌倉殿のご命令により、成敗いたす。腹を切られよ。」
と、呼ばわると、種直は、
「さては、又、讒奏したな。」
と、大勢の中へ飛び込んで入り、ここを最期と戦いました。しかし、多勢に無勢、やがて種直達は、郎等四五人にまで、切り崩されてしまいました。最早これまでと、種直は腹を切ろうとしましたが、藤王という家来が、取り縋って、
「お待ち下さい。君は、ここは先ず、落ち延びて下さい。命を全うする亀は、蓬莱山にも辿り着くと聞きます。畏れ多き事ですが、君の名を名乗って、私が腹をきります。」
と言うのでした。種直は、
「浅ましい死に方をするぐらいなら、腹を切った方がましだ。」
と、はねつけましたが、どうしても藤王が取り付いて離れないので、とうとう、種直は、簑笠を付けて、浜地へと落ちたのでした。寄せ手の者達は、これを見ると、種直とは知らずに捕縛して、落人なりと言いながら、鎌倉へ引いて行きました。それから、藤王は、再び大勢に飛び込んで、散々に戦いましたが、やがて小高い所に駆け上ると、
「我を誰だと思うか。原田の二郎種直。今年二十七歳。剛なる者の腹の切り方を良く見て、手本とせよ。」
と言い放って、腹十文字に掻き切るのでした。藤王の首は、直ちに鎌倉へと運ばれました。種直の心の内は、何にも例え様がありません。
つづく
原田種直(はらだたねなお:1140年~1213年)という人は、元々、平家方の武将で、清盛の信頼を得ていた人物でした。平家滅亡の後、幽閉されましたが、1190年に赦免されて、御家人として筑前国を与えられたという、数奇な運命を辿っています。種直が、平家一族を弔う為に建てた言われる地蔵堂は、後に建長寺となりますが、建長寺を創建したのは、北条時頼(1227年~1263年)です。時頼は、出家して「最明寺殿」と呼ばれました。
この二人が、この浄瑠璃「はらた」の登場人物なのですが、ご覧の通り、時代的にはミスマッチです。作者の意図は、良く分かりませんが、古説経や古浄瑠璃は割と史実に沿った設定をしますので、この様に、実在の人物の年代を無視した設定というのは、珍しいことの様に思います。又、後半の主人公になる、種直の子供に関しては、はっきりとした活躍の記録は得られませんでした。おそらく、創作であろうと思われます。
古浄瑠璃正本集第11(22)天下一若狭守藤原吉次正本 正保4年(1647年)正月二條通草紙屋喜右衛門板
はらだ ①
筑紫筑前の国には、原田次郎種直(はらだのじろうたねなお)という文武二道に優れた武士がおりました。鎌倉に、その一族がおりましたが、種直の繁栄を嫉んでおる者がいたようです。その者が、鎌倉殿に讒奏(ざんそう)をしたので、種直の本領は、全て召し上げられてしまいました。種直は、日々に衰え、眷属郎等も次々に去って行きます。庭に草が生え茂り、館の軒は、蔦に覆われるという凋落の有様です。訪ねる人も無く、とうとう、種直と、北の方の二人だけになってしまったのでした。種直は、いっその事、山に籠もって世を捨てようかとも思いましたが、まだ再興の機会はあると、思い留まるのでした。
さて、時の鎌倉殿は、曲がるを憎み、正直をもって御世を治める方でした。ですから、「最明寺殿」と呼ばれたのでした。最明寺殿は、諸国修行の旅に出られて、やがて、筑紫の国を訪れました。宿を取ろうと、やって来た所は、原田の館でした。しかし、門はありますが扉がありません。軒の檜皮(ひわだ)もこぼれ落ちて、余りにもひどい傷み方でしたので、最明寺殿は、諦めて帰ろうとしました。すると、その時、種直が出てきました。最明寺殿が、
「一夜の宿をお貸し下さい。」
と言いますと、種直は
「ええ、お宿を、お貸ししたくは思いますが、宿らしいおもてなしもできません。それでもよろしいでしょうか。お僧様。」
と言いました。最明寺殿は、
「おもてなしはいりません。只、寝るだけで結構ですので、一夜の宿をお貸し下さい。」
と言うので、種直は、仕方無く僧を招き入れました。それでも、種直と御台様は、御酒を出してもてなしたのでした。最明寺殿は、その様子をご覧になって、
『このような、優しい夫婦の者達が、どうして、このように落ちぶれて居るのだろう。』
と、不思議に思って、色々と話しかけてみました。すると、種直は、
「御僧様は、どちらの方ですか。」
と聞いて来ましたので、最明寺殿は、
「ええ、私は、鎌倉の者です。何か、鎌倉に御用事でもあれば、どうぞ仰って下さい。」
と、答えました。すると、種直は、
「そうですか。鎌倉の方ですか。鎌倉では何か変わった事は起きていませんか。御僧様は御所にお出でになられる事はありますか。」
と、矢継ぎ早に聞いて来ました。最明寺殿が、
「鎌倉には、これといって事件はありません。私は、御所へも時々、出仕いたしますので、何かご用事があれば、お取り次ぎいたしましょう。」
と答えると、種直は喜んで、
「おお、これは実に有り難いことだ。良いついでがありましたなら、鎌倉殿にお取り次ぎ願います。実は私は、筑紫筑前の住人、原田次郎種直という者ですが、一門の中で、讒奏をした者がおり、本領を全て召し上げられてしまい、この様な有様です。しかし、もし明日にでも、鎌倉に一大事が起これば、ご覧下さい。この千切れた具足を身につけ、やせ細ったあの馬に乗り、錆びたこの長刀を掻い込んで、真っ先に討ち死にする覚悟でいるのです。それなのに、本領を召し上げられたことは、本当に無念でなりません。」
と、身の上を吐露するのでした。最明寺殿は、これを聞くと、
「おお、それは、まったく道理というものです。良いついでが、ありましたら、必ずお伝えいたしましょう。」
と、答えるのでした。種直は、更に、
「この事は、絶対に外へは漏らさないで下さい。鎌倉の一門が知ったなら、何をするか分かりませんので。」
と、言い添えると、臥所へと下がりました。最明寺殿は、鎌倉殿でしたから、
「さては、この者は、あの原田であったか。一門の讒奏を真に受けて、浪人させたとは、なんと口惜しいことであるか。よし、これは、なんとしても本領を安堵させなければならん。」
と、扇を取り出すと、扇の面に、
『原田が本領、返し与うる所なり、鎌倉殿 御判』
と、書き置きして、夜陰に紛れて、鎌倉へと帰って行かれたのでした。
つづく
この二人が、この浄瑠璃「はらた」の登場人物なのですが、ご覧の通り、時代的にはミスマッチです。作者の意図は、良く分かりませんが、古説経や古浄瑠璃は割と史実に沿った設定をしますので、この様に、実在の人物の年代を無視した設定というのは、珍しいことの様に思います。又、後半の主人公になる、種直の子供に関しては、はっきりとした活躍の記録は得られませんでした。おそらく、創作であろうと思われます。
古浄瑠璃正本集第11(22)天下一若狭守藤原吉次正本 正保4年(1647年)正月二條通草紙屋喜右衛門板
はらだ ①
筑紫筑前の国には、原田次郎種直(はらだのじろうたねなお)という文武二道に優れた武士がおりました。鎌倉に、その一族がおりましたが、種直の繁栄を嫉んでおる者がいたようです。その者が、鎌倉殿に讒奏(ざんそう)をしたので、種直の本領は、全て召し上げられてしまいました。種直は、日々に衰え、眷属郎等も次々に去って行きます。庭に草が生え茂り、館の軒は、蔦に覆われるという凋落の有様です。訪ねる人も無く、とうとう、種直と、北の方の二人だけになってしまったのでした。種直は、いっその事、山に籠もって世を捨てようかとも思いましたが、まだ再興の機会はあると、思い留まるのでした。
さて、時の鎌倉殿は、曲がるを憎み、正直をもって御世を治める方でした。ですから、「最明寺殿」と呼ばれたのでした。最明寺殿は、諸国修行の旅に出られて、やがて、筑紫の国を訪れました。宿を取ろうと、やって来た所は、原田の館でした。しかし、門はありますが扉がありません。軒の檜皮(ひわだ)もこぼれ落ちて、余りにもひどい傷み方でしたので、最明寺殿は、諦めて帰ろうとしました。すると、その時、種直が出てきました。最明寺殿が、
「一夜の宿をお貸し下さい。」
と言いますと、種直は
「ええ、お宿を、お貸ししたくは思いますが、宿らしいおもてなしもできません。それでもよろしいでしょうか。お僧様。」
と言いました。最明寺殿は、
「おもてなしはいりません。只、寝るだけで結構ですので、一夜の宿をお貸し下さい。」
と言うので、種直は、仕方無く僧を招き入れました。それでも、種直と御台様は、御酒を出してもてなしたのでした。最明寺殿は、その様子をご覧になって、
『このような、優しい夫婦の者達が、どうして、このように落ちぶれて居るのだろう。』
と、不思議に思って、色々と話しかけてみました。すると、種直は、
「御僧様は、どちらの方ですか。」
と聞いて来ましたので、最明寺殿は、
「ええ、私は、鎌倉の者です。何か、鎌倉に御用事でもあれば、どうぞ仰って下さい。」
と、答えました。すると、種直は、
「そうですか。鎌倉の方ですか。鎌倉では何か変わった事は起きていませんか。御僧様は御所にお出でになられる事はありますか。」
と、矢継ぎ早に聞いて来ました。最明寺殿が、
「鎌倉には、これといって事件はありません。私は、御所へも時々、出仕いたしますので、何かご用事があれば、お取り次ぎいたしましょう。」
と答えると、種直は喜んで、
「おお、これは実に有り難いことだ。良いついでがありましたなら、鎌倉殿にお取り次ぎ願います。実は私は、筑紫筑前の住人、原田次郎種直という者ですが、一門の中で、讒奏をした者がおり、本領を全て召し上げられてしまい、この様な有様です。しかし、もし明日にでも、鎌倉に一大事が起これば、ご覧下さい。この千切れた具足を身につけ、やせ細ったあの馬に乗り、錆びたこの長刀を掻い込んで、真っ先に討ち死にする覚悟でいるのです。それなのに、本領を召し上げられたことは、本当に無念でなりません。」
と、身の上を吐露するのでした。最明寺殿は、これを聞くと、
「おお、それは、まったく道理というものです。良いついでが、ありましたら、必ずお伝えいたしましょう。」
と、答えるのでした。種直は、更に、
「この事は、絶対に外へは漏らさないで下さい。鎌倉の一門が知ったなら、何をするか分かりませんので。」
と、言い添えると、臥所へと下がりました。最明寺殿は、鎌倉殿でしたから、
「さては、この者は、あの原田であったか。一門の讒奏を真に受けて、浪人させたとは、なんと口惜しいことであるか。よし、これは、なんとしても本領を安堵させなければならん。」
と、扇を取り出すと、扇の面に、
『原田が本領、返し与うる所なり、鎌倉殿 御判』
と、書き置きして、夜陰に紛れて、鎌倉へと帰って行かれたのでした。
つづく
明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いいたします。羊というと、浄瑠璃では、あまりいい意味では使われませんが、一歩一歩を見詰めながらしっかりと歩むことにいたしましょう。というわけで、足元を見詰めながら、年越し登山をしてきました。
平成26年の最後の落日:12月31日16:24:軍刀利神社元社
平成27年元旦:初日の赤富士:7:04:軍刀利神社元社
平成27年 猿八座 春の公演予定
1月31日(土)・2月 1日(日) 新潟大学公演 源氏烏帽子折 新潟県民会館
4月18日(土)・4月19日(日) 上越公演 ※続山椒太夫 高田世界館
4月25日(土) アートミックスジャパン 角田川 りゅーとぴあ能楽堂
※続というのは
昨年までに公演してきた「山椒太夫三段組み」は安寿のストーリーを主に追っているので、厨子王が山別れした後の話を取り扱うことができませんでした。そこで、今年は、山別れの後、国分寺に逃げ込んで助かる「国分寺の段」、四天王寺で拾われて出世を果たす「厨子王丸出世の段」、そして、親子対面はダブルのですが、最後に「山椒太夫成敗の段」がつきます。謂わば、厨子王丸を中心とした構成の山椒太夫を三段でご覧に入れます。これで、山椒太夫全六段が完結することになります。お楽しみに。
平成26年の最後の落日:12月31日16:24:軍刀利神社元社
平成27年元旦:初日の赤富士:7:04:軍刀利神社元社
平成27年 猿八座 春の公演予定
1月31日(土)・2月 1日(日) 新潟大学公演 源氏烏帽子折 新潟県民会館
4月18日(土)・4月19日(日) 上越公演 ※続山椒太夫 高田世界館
4月25日(土) アートミックスジャパン 角田川 りゅーとぴあ能楽堂
※続というのは
昨年までに公演してきた「山椒太夫三段組み」は安寿のストーリーを主に追っているので、厨子王が山別れした後の話を取り扱うことができませんでした。そこで、今年は、山別れの後、国分寺に逃げ込んで助かる「国分寺の段」、四天王寺で拾われて出世を果たす「厨子王丸出世の段」、そして、親子対面はダブルのですが、最後に「山椒太夫成敗の段」がつきます。謂わば、厨子王丸を中心とした構成の山椒太夫を三段でご覧に入れます。これで、山椒太夫全六段が完結することになります。お楽しみに。