弘知上人六段目
その時、弘嗣は法印に近づき、
「今まで、師匠様とばかり思っていましたが、本当は父上様だったのですね。」
と大喜びです。弘知法印ははこれを聞いて、
「もっと早くに名乗って、喜ばせようとは思っていたが、恩愛の執着は大変強いもの
であるので、菩提の障害であると思い、これまで名乗らなかったのだ。この上は、更に
修業を怠るなよ。修業さえ熟すれば何事も心に叶わないことは無いぞ。」
と言えば、これを聞いていた馬子が、
「これは、これは、大変有り難や。実は、あの馬は、私が飼っていた馬というわけでは無
いのです。ついこの間、どこからとも無く、親子馬がやって来たので、持ち主を捜しま
したが、見つかりません。馬主が現れるまでと思い世話をしておりました。普通の馬と
思って居ましたが、このような奇跡を目にしたからは、一念発起して、私も髪を剃り、
弘嗣様に付いて御奉仕申し上げたく思います。」
と言うと、弘知法印は、そのように思うなら兎にも角にもと、早速に髪を剃ると、「弘
りん坊」と名付けました。
これはさて置き、かつて柏崎で怪我をした弥彦の荒王信竹は、足の傷も治ったので、
君の行方を尋ねようと、あちらこちらを尋ね回りました。荒王は、弘知法印の所在を
聞きつけると、急いでお目にかかろうと、道を急いでおりました。すると、途中で、三
十歳程の女が、七つほどの男の子の手を引いているのと出合いました。女は、荒王に、
「あなたは、弘知法印の所へ行かれる方とお見受けしました。この幼いは、法印のお子
さんです。子細はまたお話しいたしますが、私も共に弘知法印の本に連れて行って下さい。」
と言えば、荒王は、
「さては、千代若様ですか。」
と聞きました。女は、
「いいえ、千代若の弟君です。」
と答えました。荒王が、
「おお、確かその時分、柳の前様は御懐妊なされておりました。母君はどうされましたか。」
と聞くと、女は、柳の前が死んだことを話すのでした。
そうして、荒王は、二人を連れて、弘知法印の所へとやってきたのでした。弘知法印
は、懐かしい荒王をご覧になり、
「これは、珍しい。荒王、傷は癒えたか。さて、誰を連れて来たのじゃ。」
と言いました。その時、かの女は、
「これは、御失念ですか、法印殿。この者こそ、千代若の弟君。あなたのお子様ですよ。」
と言うのでした。法印が、首をかしげて、
「なるほど、確かに弟はいたが、生まれてすぐに、狼にさらわれてしまった。狼に食わ
れて死んだ子が、どうしてここにおるのじゃ。」
と言うと、女は、
「さすがの法印様でも、変なことを仰るのですね。獅子、熊に育てられて大きくなった
話しは、内外の書伝にいくらでもあります。証拠はこれです。」
と言うと、かの半分に割った鏡の片割れを出したのでした。驚いた法印が、千代若に与
えたもう半分を合わせてみると、疑いもない兄弟です。その時、女は、
「私を誰と思うか。氏神弥彦権現である。その時の狼も、私である。」
と言い残して、消すが如くに消え失せたのでした。人々は、有り難し有り難しと虚空を
礼拝しました。弘知法印は、
「やれさて、これは、我が子に間違いない。兄の千代若は出家であるから、お前は、大
沼の家を継ぎなさい。」
と言うと、千代松と名付けたのでした。
「このことを帝に報告すれば、必ずや帝より所領を給わるであろう。そうしたら、荒王
は、家の家臣として勤めよ。今年は、お前達の母、柳の前の七年忌。忌日はちょうど、
今月の今日である。さあ、母の墓に参詣して、回向をいたしましょう。」
と、法印は、人々を連れて、妻の墓参りをしたのでした。法印は、高らかに御経を読誦
すると、
「如何に、柳の前の霊魂よ。兄は出家し、弟じゃ先祖よりの家を継ぐであろう。その上、
この弘知も、すぐに往生して、お前と共に一仏乗の蓮台に座るであろう。本当の悦びと
は、その時に訪れるぞ。」
と、回向すると、有り難いことに、虚空より音楽が聞こえ、花が降り、二十五の菩薩が
顕れたのでした。そして、墓がぱっかりと二つに割れると、柳の前が顕れました。
「有り難や、私の夫よ。仏法を成就なされて、私を弔う功徳によって、只今極楽世界へ
と引導されて行きます。懐かしの兄弟達よ、母が成仏する姿を、しっかりと拝むのですよ。」
と言い残すと、たちまちに仏体を現し、紫雲に打ち乗り、虚空に舞い上がりました。大
変有り難いことです。その時、仏法僧(ぶっぽうそう)が鳴きながら空を渡りました。
弘知法印は、これを見て、
「人々よ、聞きなさい。只今の鳥は、高野山の鳥であるぞ。この鳥は、こう告げた。
高野山は我等が胸の内にあり、知れば浄土、知らねば穢土(えど)。私は、高野山へ上
って往生を遂げようと思っていたが、どうして場所にこだわることがあるだろうか。只
今、ここで往生いたす。
愚僧が誓った大願は、この身をそのまま現世に留め置いて、永遠に即身仏の証拠を、
末世の衆生に示すことである。千万年の時が経っても、朽ちもせず腐りもせず、鳥類
畜類にも荒らされず、まるで自然石然となるのだ。
千代松は、本領を安堵して、御堂を建てよ。兄の弘嗣は住職なり、即身仏となった私
を安置して、衆生に拝ませなさい。」
と、委細を仰せ付けると、人々に念仏を唱えさせ、自らは数珠を手に禅定へと入りました。
そして、まるで眠っているように往生したのでした。有り難いこと限りありません。近
郷近在は言うに及ばず、生き如来を拝もうと群がった人々は、上下貴賤を問わず、夥
しい数だったということです。
その頃、かつて弘知の身代わりとなって、柳の前を斬り殺した馬子は、出雲崎で羽振
り良く暮らしておりましたが、弘知法印の噂を聞いてやって来ました。
「何、悪所に狂って、親の勘当を受けた大悪人が、なんで成仏などできるものか。狐
や狸の仕業であろう。ほんとの生き仏なら受けてみよ。」
と、言うやいなや、手にした矛で、即身仏の左の脇腹を、ぐさりとばかりに突き立てた
のでした。ところが、その瞬間、馬子の目が潰れてしまいました。馬子が、矛を捨てて、
立ちすくんでいると、神光雷電、夥しく鳴り響き、悪鬼が現れました。悪鬼は、馬子を
鷲掴みにすると火の車に乗せて、あっという間に無間地獄をさして飛び去ったのでした。
まったく恐ろしいことといったらありません。
さて、こうした奇跡を聞き及んだ都から、勅使として二条の中将がやってきました。
勅諚はこうでした。
「弘嗣を、権大僧都(ごんだいそうづ)とし、千代松は、大沼権之助弘親(ひろちか)
と名を改め、越後の領主とする。急いで御堂を建て、即神仏を安置せよ。」
早速に、御堂を建立すると、弘知法印の尊体を移し、弘嗣が住職を勤めました。弘親は、
昔の館を復興し、末繁盛に栄えたのでした。光孝天皇の仁和七年九月三日
(※仁和は五年までしか無いので架空の設定と考えるべきか:この記述からすると、寛
平2年(891年)のことになるが、805年前では無い。貞享2年(1685年)か
ら逆算すれば、元慶4年のことになる(880年))
に弘知法印は、往生され(史実上の入定は、貞治2年(1363年))貞享2年まで
805年間、今も越後の国柏崎に、そのお姿を拝むことができます。前代未聞のありが
たさに、言うべき言葉もありません。
おわり