猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

第24回 全国地芝居サミットin魚沼

2014年11月30日 20時22分18秒 | 調査・研究・紀行
小出のインターのすぐ隣に、魚沼市小出郷文化会館があります。何度も通過している所ですが、今回、二日間に渡って、お世話になりました。演じていただいたのは、「塩沢歌舞伎保存会」の皆さんと、「越後魚沼干溝歌舞伎保存会」の皆さんでした。

塩沢歌舞伎:義経千本桜「吉野山 道行初音旅」


越後魚沼干溝歌舞伎:源平布引滝二段目「義賢最期」


どちらも、素人離れしたというか、玄人肌の言うか、特に「義賢」の最期は、本当に圧巻で、手に汗を握りました。改めて、地芝居って何なのかなと、考えさせられました。さて、あきる野市が、平成27年のサミットのバトンを渡されました。来年の五月二日、三日は、あきる野市で、地芝居サミットが開催され、菅生一座も出演しますので、宜しくお願いいたします。

紫雲「キダケの森(やま)」復活PJ

2014年11月24日 17時14分28秒 | 公演記録
お借りしている稽古場で、「里山づくり集会」が行われました。活動母体は、新発田地域のNPO「紫雲「きだけの森」復活プロジェクト」の皆さんです。この地域に古くからあった松の暴風防砂林のことを、この地域の方々は、「森(やま)」と言ってきました。ところが、松食い虫による被害によって次々と姿を消しつつあり、又、人手が入らなくなって荒れてしまった為に、キノコも取れなくなってしまったということでした。写真は、その状況を訴える代表の鬼嶋正之氏です。猿八座にも応援をいただいております。里山づくりには、あまり力になれないですが、アトラクションとして、「貉(むじな)」を披露させていただきました。




貴重な「キダケ」をいただきました。ちょっと苦みがありますが、貴重品です。松茸の仲間で、正式名称は、「キシメジ」だそうです。

猿八座 新春公演 速報

2014年11月13日 08時22分45秒 | お知らせ
さて、来年の話しですが、新潟大学人文学部附置地域文化センター主催の4回目の公演が決まりました。チラシができ次第、またお知らせします。


高田世界館公演の予定:平成27年 4月18日・19日

こちらも回を重ねてきた上越公演ですが、今度の演目は、「続・山椒太夫」を予定しています。現在仕込み中です。これまでの「三段組み山椒太夫」で扱えなかった、逃れた厨子王の出世物語を、更に三段に構成してお届けする計画です。
主な筋:山別れ-国分寺(大誓文)-出世(四天王寺)-佐渡巡検-山椒太夫成敗
やっと、台本が確定したところで、これから作曲するところです。

人形浄瑠璃の授業 新発田市立紫雲寺小学校

2014年11月12日 18時28分28秒 | 公演記録
新発田市立紫雲寺小学校は、在籍児童180名です。今回の体験授業では、1年生から6年生までの全員が、1回は人形を持って、動かし方を実地に学習しました。

題材は、子供に分かりやすいものと思い、小泉八雲の「貉」(むじな)を用意しました。事前学習もきちんとしていただいたので、子供達の飲み込みも良く、代表による試演も立派にできました。

忘れ去られた物語 33 古浄瑠璃 明石 ⑥終

2014年11月06日 11時05分46秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
あかし ⑥終

 さて、津軽に流された明石の三郎は、土牢に入れられ、昼夜五十人の番人が、警戒する物々しさです。明石殿は、
『自分程の武士が、この程度の牢を破ることなど、簡単な事であるはずだが、これまで、ろくな食べ物も与えられていないので、どれほどの力が出るのかも分からない。御台は、もう天下の宮の所に送られてしまったか。』
と落胆して、既に3年の月日が過ぎました。弱り切った明石殿の命が、風前の灯火となった時、どこからとも無く、山伏が二人現れて、戸をしきりに叩いて、
「牢を破れ、破れ。」
と、言うのでした。これに力を得た明石殿は、立ち上がると、渾身の力で、えいやっとばかりに、牢格子を押しました。すると、頑丈な牢格子が、ばらばらと崩れ落ちたのでした。飛び出した明石殿は、そのまま駆けに駆けて、都を目指しました。その途中、五月五日には、信夫の里まで辿り着きました。明石殿は、庄司基隆の屋敷を通り掛かり、若者達が、庭乗りをして興じているのを目にしました。明石殿は思わず、
「おお、奥では、珍しい乗り方をするものですね。そもそも、庭乗りとは、四本の庭木を植えて、四本掛かりに、手綱の手を訓練するものでしょうに。そんなことも知らないとは。」
と、言って笑ったのでした。これを、聞いた若者達は、直ぐに、基隆殿に報告をしました。庄司基隆は、これを聞くと、明石殿を招き入れて、
「当家の若者達の馬の乗り方を、お笑いになられたとのこと。遠国であれば、馬の作法も良く存ぜず、恥ずかしい次第です。ところで、あなた様は、どちらのお国の方ですか。」
と、尋ねました。明石が、都の者だと答えると、基隆は喜んで、酒宴を開いたのでした。元より明石殿は、文武に秀でた人物でしたから、進められる酒を、たんぶと受けては、軽々と干します。基隆は、すっかり明石殿を気に入って、親子の契約まで交わすことになったので、
明石殿は、暫くここで、休養をすることにしました。
 ところで、今は庄司基隆の屋敷に仕えている乳母の常磐は、客人をつくづくと見れば、どう見ても、明石の三郎重時殿の面影に間違いありません。常磐は、夢か現かと飛び出して、
するすると立ち寄って取り付けば、明石殿も驚いて縋り付き、言葉もありませんでしたが、
「どうして、遙々、このような所まで、来たのだ。さて、御台は、天子の宮の所へ行ったのか。」
と、聞くのでした。常磐が、
「御台所も、若君も、このお屋敷にいらっしゃいます。」
と言うので、急いで御台所の館へ向かいました。驚いて走り出てきた御台様と明石殿は互いに手と手を取り合って、涙、涙の再会です。明石殿は、
「お前のせいで、このような難行に遭ったと、恨んだ事もあったが、いつも恋しく思っていたのだぞ。再び、逢えて本当に良かった。これもすべて、熊野権現のお陰であると、感謝しなければならない。」
と言って、喜びの涙は尽きないのでした。これを聞いた、庄司夫婦は、益々喜んで、喜びの祝杯を挙げるのでした。
 さて、それから明石殿は、上洛の準備を始めました。庄司基隆の号令で集まった武士は三千余騎。早速に都へ向けて進軍しました。都七条の天下の宮は、これを聞くと、これは叶わないと尻尾を丸めて、高野山へ逃げて出家してしまいました。津の国の多田の刑部も、同様に怖じ気づき、慌てて出家をしましたが、余りに動顛していた為、髭を剃り忘れました。
 やがて、明石殿は、参内して、これまでの経緯を奏聞しました。御門は叡覧されて、
「まだ、若い身の上での様々の苦労、大義であった。以前の領地をすべて安堵する。」
との御判をいただくことができたのでした。
 それから、明石殿は、津の国向かいました。多田の刑部を召し出すと、
「おや、これは刑部殿。お久しぶりです。あなたは、いつ出家なされたのですかな。それにしても、どうして髭は剃らないのですか。」
と、言いました。多田は赤面して平身低頭、言葉もありません。明石はさらに、
「あなたの罪状を、ひとつひとつ言い立てて、刻み殺しても飽き足らない程ですが、我が御台所の父上ですから、命は助けましょう。」
と、言いましたので、刑部は、手を合わせて、「有り難や。有り難や。」と拝む外はありません。最後に明石殿は、
「あなたのお好みの婿殿は、高野山に居るらしいですね。その婿殿に付け届けでもしたらどうです。」
と、多田を追放したのでした。それから、明石殿は、多田の三郎と四郎を引き据えると、斬首としました。又、太郎、二郎を召して、
「あなた達は、誠に忠臣でありまたから、その返礼に、多田の跡目をお継ぎなさい。」
と、本領を安堵したのでした。
 そうして、播磨の国に帰って明石殿は、再び数々の屋敷を再興し、栄華に栄えたということです。兎にも角にも、重時殿の果報の程、貴賤上下押し並べて、感ぜぬ人こそなかりけり

おわり

忘れ去られた物語 33 古浄瑠璃 明石 ⑤

2014年11月05日 21時53分33秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
あかし ⑤

 さても哀れな御台様は、都を立ち出でて東路を目指しました。
《以下、道行き:省略》
東海道を何日も掛けて旅した二人は、12月2日に、遠江の小夜の中山に着きました。ところが、御台様は、常磐にこんなことを言って、あわてさせました。
「私は、妊娠しています。もう苦しくて歩くこともできません。御産とは、どうするものですか。」
と、言うのです。飛び上がった常磐は、
「ええ、それは、大変です。急いで人里へ下りて、助けを呼びましょう。」
と、御台様の手を引きますが、もう一歩も歩けません。御台様は、その場に倒れ込んでしまいました。既に辺りは夜陰に包まれはじめ、その上、雪まで降り出しました。御台様が、微かな声で、水が欲しいと言うので、常磐は、雪を分けて水を探し始めました。谷の下の方で水音がします。常磐が、水を汲んで帰ろうとした時、降り積もる雪に道を失ったことに気が付きました。常磐は焦って、彼方此方とさまよいました。どうしても御台様の所に帰り付けません。やがて、夜が明けて来ました。すると、遠くから、赤ん坊の泣く声が聞こえてきます。常磐が、急いで駆け寄ってみると、若君が生まれていました。常磐は、若君を抱き上げて、御台様を懸命に暖めますが、その甲斐も無く、御台様は、既に亡くなっていました。
 その時、不思議な事に、どこからともなく、紫の袴を着た女が現れ、御台様の口に薬を入れたのでした。すると、御台様は蘇りました。二人が、
「あら、有り難や。」
と、手を合わせて拝むと、その女は、
「私は、熊野権現のお使いの者です。余りに不憫なので、命を助けにきました。しかし、命の代わりに、その子を捨てて行きなさい。」
と、言って消え失せたのでした。二人は、泣く泣く若君を捨てて、山を下ったのでした。
 一方、陸奥の国の住人で、信夫の庄司基隆(もとたか)という人は、申し子の為に熊野へ参詣して、権現から、ある霊夢を授けられました。そして、小夜の中山を通った時に、この赤ん坊を拾うのでした。赤ん坊を抱いた基隆は、駿河の国で、御台所と常磐と行き会い、
「小夜の中山で、ご出産なされたのは、あなたではありませんか。」
と尋ねるのでした。御台様は、言葉も無く、只、醒め醒めと泣くばかりです。この子の母が御台所であると分かった基隆は、信夫の里に親子共々を、連れ帰りました。そうして、御台様は、信夫の里で暮らすことになったのでした。
かの姫君の心の内の哀れさは、何に例えん方もなし
つづく

忘れ去られた物語 33 古浄瑠璃 明石 ④

2014年11月05日 20時48分50秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
あかし ④

 さて、御台様と乳母の常磐は、明石の消息を知る為に、都に行こうと考えましたが、追っ手の者から逃れる為に、山道を辿り、知らない谷や渚を回りました。冥途の道かと思う様な恐ろしい所を通り、書写山(兵庫県姫路市)の裏側に出ました。暫く休んでいると、道行く人が、
「あなた方の事かも知れませんが、後ろの方で、大勢の人々が捜し廻っていましたよ。」
と言い捨てて行きました。御台様と常磐は、驚いておろおろするばかりです。泣く泣く常磐は、
「今、里へ出るのは危険です。今夜は、この山中で夜を明かしましょう。」
と言いました。二人は、千草に鳴く虫たちと一緒に、泣き明かすのでした。さて、夜が明けると二人は、二重の衣装を、脱ぎ捨てて、落ちて行きました。
 やがて追っ手の者がやって来ましたが、脱ぎ捨てられている衣装を見ると、
「さては、身投げをしたな。」
と思い。あちこちと、捜し廻りました。しかし、とうとう死骸も発見できなかったので、諦めて帰って行きました。
 こうして、御台所と常磐は、ようやく都に辿り着き、五条の辺りに宿を取ると、先ず清水へとお参りに向かったのでした。明石殿の無事を祈って、深く祈誓を掛けていると、十八九の女房が、近付いて、話しかけて来ました。
「お見受けいたします所、深い思いがおありのようですが、こう申す私も、深い思いがあって、ここに参ったのです。と申しますのもこう言う次第なのです。播磨の国の住人で、明石の三郎重時様の御台様は、津の国の住人、多田の刑部という人の娘です。一昨年、熊野へご参詣の折、同じくご参詣の高松の中将殿に見初められました。中将殿は、明石殿の御台様を手に入れる為に、父の多田に明石殿を討つ様に命じました。多田は、いろいろと手を打ちましたが、討つ事ができず、とうとう、合戦となったのです。一日一夜の合戦で疲れ切った明石殿は、生け捕られて、奥州に流されたということです。かく言う私は、二条西の洞院(京都市中京区)の遊女、熊王と申す者で、明石殿が在京の折に宮仕えした者です。」
と、醒め醒めと泣くのでした。御台所は、心の内に、
『このような者まで、明石の身を心配してくれて、なんと心の優しいことか。』
と思い、涙に袖を濡らすのでした。それから、二人は終夜、語り合い、夜明けに泣く泣く別れをするのでした。御台様は、常磐に、
「常磐よ。明石殿は、陸奥という国で、まだ生きておられますよ。さあ、捜しに行きましょう。」
と言うと、立ち上がりました。御台所の心の内の哀れさ、何に例えん方も無し

つづく

忘れ去られた物語 33 古浄瑠璃 明石 ③

2014年11月05日 19時36分24秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
あかし ③

 播磨の明石に残された御台所は、都での出来事を夢にも知りませんでしたが、何やら胸騒ぎを感じている所へ、美山が明石殿の手紙をもたらしました。急いで、開いて見てみると、
『浅ましいことに、神では無いこの身の悲しさは、お前が引いた袂を引き分けたその日が、
今生の別れであるとは、分からなかった。どういうことかというと、高松の中将、天下の宮は、お前を妻として手に入れる為に、父の多田殿に沢山の褒美を与えて、私を殺そうとしていたのだ。こうなっては、もう討ち死にする外は無い。』
と、書いてあり、その辞世は、
『忘るるな 一夜、契りし呉竹の 葉に浮く露の ふちとなるまで』
とありました。御台所は、夢か現かと、泣き伏す外はありません。御台所は、
「親に背けば、五逆罪。夫には、二世の契り。私も、自害いたします。」
と、懐剣に手を掛けますと、乳母の常磐が駆け寄って、押し留め、
「おお、勿体ない。お待ち下さい。私が、何とかお隠しいたします。」
と、兎に角も、天下の宮の追っ手から逃れることにしたのでした。
 さて、都では、孝尚の太夫国春(たかなおのたゆうくにはる)を大将とする天下の宮の軍勢一千余騎が、明石殿へと押し寄せて、鬨の声を上げています。国春が門外に駆け寄せて、大音声を上げました。
「只今、ここへ寄せ来たる強者を、誰だと思うか。天下の宮の御内に、孝尚の太夫国春であるぞ。明石殿、覚悟いたせい。」
館の内で、これを聞いた、加藤輔高は、
「何、孝尚の太夫国春だと。我を誰と思うか。明石の乳母に、加藤の太夫輔高なるぞ。歳積もって七十四。出陣したる合戦は五十七度。ええ、いで手並みを見せん。」
と、名乗り合い、ここを最期と激戦となりました。加藤は、大勢に傷を負わせましたが、自らも十三カ所の傷を負い、明石殿の前に戻って来ると、
「都にての合戦で、この輔高、一番に討ち死にすること、なによりもって幸いなり。」
と言い残すと、かっぱと腹を十文字に掻き切って果てたのでした。明石殿は、
「輔高が、討ち死にする上は、もう惜しい命も無い。中将に一太刀浴びせて、返す刀で腹切って、死出の山に追いつくぞ。」
と言うと、駒引き寄せて、ゆらりと乗り出しました。七条の御所の前で、明石殿は、大音声で上げて、
「只今、ここに押し寄せた強者を、誰と思うか。播磨の国の住人、明石の三郎重時なるぞ。
歳積もって、十八歳。中将殿に見参。見参。」
と名乗られました。ここを先途と、再び激戦が始まりましたが、一日一夜の合戦に明石殿も疲れ果て、とうとう生け捕りにされてしまったのでした。明石殿は、高手小手に縛り上げられて、天下の宮の前に引き出されました。天下の宮は喜んで、直ぐに首を刎ねようとしましたが、母の女院が、止めました。女院は、牢舎させなさいと言うので、明石殿は、陸奥の国の住人、津軽の源八のところに幽閉されることになったのでした。無念なるとも中々、申すばかりはなかりけり


つづく

忘れ去られた物語 33 古浄瑠璃 明石 ②

2014年11月05日 17時46分30秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
あかし ②

前の御台の子であった太郎と二郎は遁世してしまったので、多田の刑部は、今の御台の子である三郎と四郎を呼んで、明石を討つ手を考えさせました。三郎は、
「明石の命を取る事など容易いことです。明石を騙して呼び出し、酒を飲ませ、べろべろに酔わせた所を、切って捨てれば良いことです。どうです。父上。」
と、答えました。多田の刑部は喜んで、
「おうおう、良い考えじゃ。お前達兄弟が生まれた時に植えた二本の松が、この頃、勢いよく伸びて来たが、どうやら、お前達の末繁盛を占っているようじゃ。」
と、まだ見ぬ夢物語をして、どっと笑いましたが、それこそ、運の尽き場としか、言い様がありません。


 それから多田は、明石に、遊びに来る様にとの文を書いて送りました。明石は喜んで参りますと返事をしたので、多田は喜んで、今や遅しと、明石の来訪を、手ぐすね引いて待ち構えるのでした。
 さて、明石殿は、乳母の加藤を大将として、五百余騎を率いて、津の国へと向かわれました。多田の館に着きますと、山海の珍味に、国土の菓子で迎えられ、沢山の酒を飲まされましたが、明石はまったく乱れる所を見せません。業を煮やした多田は、三郎、四郎を近づけて、相談を始めました。三郎が、
「それでは、毒の酒を盛りましょう。」
と提案したので、多田は早速に、毒酒を持って酌に立ちました。多田は、
「さあさあ、婿殿。この酒は、我が家に伝わる特別の薬酒じゃ。門外不出であるが、婿殿には進ぜましょう。」
と、毒酒を差すのでした。明石殿は、
「おお、これは、忝い。」
と受けると、ぐいと干されました。多田一門が、すわやと見守りますが、何も起こりません。明石殿は、熊野権現の申し子でありましたので、常に権現様がお守りになり、どんな毒酒を盛ろうと、たちまちに甘露の酒に変わってしまうのでした。その上、明石殿のそばには、乳母の加藤太夫輔高(すけたか)等が、左右に付き添い、常に守っているので、容易には手も出せません。とうとう、多田一門は、何もできないまま、明石殿は、播磨の国へお帰りになったのでした。
 多田の刑部は、地団駄を踏んで悔しがり、更なる計略を巡らし、今度はこんな嘘の手紙を書き送りました。
『都、天下の宮様よりの宣旨によしますと、此の度、聟揃えを行うということです。近国の聟は、急ぎ上洛せよとのお達しですから、明石殿も、急いで御上洛下さい。しかし、上洛には、沢山の兵は連れては行けませんので、お供は四、五人にとどめて下さい。』
この手紙を見た明石殿は、御受けなされて、11月10日に出立すると返事をしたのでした。
多田は、この返事を受けると、喜んで上洛し、天下の宮に早速に報告しました。
「此の度、国元で、明石を討ち取ろうと、色々企てましたが、うまく行きませんでした。そこで、偽りの手紙によって誘い出すことにしました。明石は、11月10日に播磨を出立するということですので、急ぎ軍勢を集めて、討伐なされませ。我が君様。」
これを聞いた天下の宮が、早速に号令されると、一千余騎の軍勢が集結したのでした。
 さて、11月10日になりました。明石殿は、乳母の加藤を大将として、選び抜いた強者五十人を共にして、京に向けて出発なされようとしましたが、御台所が、袂(たもと)に取り縋って、
「何故かわかりませんが、今日は、夢見が悪かったので、大変心配しています。どうか今回は、行くのをおやめください。」
と、言って離さないのでした。明石殿は、
「心配ない。直ぐ帰る。」
と言い残して、都へと向かったのでした。明石一行は、都に着くと、三条高倉に宿を取りました。すると、「熊王」という遊君が尋ねて来て、こう告げるのでした。
「あなたは、きっとご存じ無いと思いますが、あなたの妻が、熊野へ参詣した折、七条の天下の宮、高松の中将も同じく参詣しおりました。天下の宮は、御台所をご覧になって、横恋慕をされました。舅の多田を抱き込んで、あなたを殺し、姫を手に入れようとたくらんでいるのです。播磨六カ国を餌に踊らされた多田は、あなたを国元に呼んで殺そうとしましたが、うまく行かなかったので、今度、聟揃えなどと偽って、都へおびき出したのです。今、七条の御所には、雲霞の如くの軍勢が集まっています。」
熊王は、涙を流しながら、訴えました。明石は、これを聞くと、
「今にも、天下の宮の軍勢が、ここに攻めてくるでしょう。私は、潔く討ち死にいたしましょう。あなたは、早くお帰りなさい。」
と言うと、故郷の妻に宛てて、細々と文を書き綴りました。その文を、美山の安三郎に託すと、名残の酒宴を催すのでした。明石殿は、心の中で
『只、一筋に駆け入って、中将に一太刀くらわせてくれるわ』
と、決意するのでした。
彼の明石重時の勢いには、如何なる天魔鬼神も、面を向くべき様も無し
恐ろしし共中々、何に例えん方もなし

つづく

忘れ去られた物語 33 古浄瑠璃 明石 ①

2014年11月04日 18時33分02秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
しばらく、このシリーズの発表が停滞してしまったが、古浄瑠璃正本集から離れて居たわけでは無い。前回の32:「親鸞記」の後、正本(14)から順番に読み進めてはいたが、説経の焼き直しであったり、完本でない物、主観的に面白く無い物も含めて、訳出に至らなかったというのが実情である。
古浄瑠璃正本集第1の(18)は、「あかし」である。若狭守藤原吉次の作品として、正保2年、山本久兵衛板として出版された。この物語は、御伽草子「明石物語」の焼き直しであるが、ようやく訳出し甲斐がありそうである。

あかし ①
その昔、播磨の国に、明石左衛門重次(あかしさえもんしげつぐ)というお殿様がおりましたが、年取っても世継ぎがありませんでしたので、熊野権現に申し子をしました。祈誓の霊験が現れて、生まれて来たのは、男の子でした。その子は、成長するに従って、文武両道に人並み以上の能力を発揮しました。そして、十五の歳に、元服し、明石三郎重時(しげとき)と名乗ったのでした。次に、父重次は、重時の嫁探しをしました。津の国の多田刑部家高(ただのぎょうぶいえたか)が、器量の良い娘を持つと聞いて、使いを出しました。快諾の返事がありましたので、多田の姫君を重時の妻として迎え、二人は仲睦まじく暮らし初めましたが、父も母も、安心したのか、相次いで亡くなったのでした。
それから、3年が過ぎた頃、姫君は、熊野詣にお出かけになりました。この時、熊野には、七条天下の宮(又の名を高松の中将殿)が、同じく参籠されていました。天下の宮は、姫君の花の姿を見るなり、一目惚れをしてしまい、そのまま都に帰って、恋の病に伏してしまったのです。
天下の宮は、乳母の太夫に、
「軍勢を揃えて、明石を討ち、姫奪い取るぞ。」
と、言いましたが、太夫は、
「いえいえ、明石という者は、文武の名を馳せた武士ですから、そう簡単に、討ち破ることはできないでしょう。ここは、舅の多田刑部を呼び出して、姫を取り返す様に申し付ければ、嫌とは言わないでしょう。」
と、悪知恵を授けるのでした。天下の宮は、早速に多田を召し出して、
「やあ、多田の刑部よ。お前の聟の明石を討ち、姫をこの中将に嫁がせよ。その返礼には、播磨六カ国を与える。」
と、命じたのでした。多田の刑部は、これをお受けすると、飛んで帰り、四人の子供達を集めて、こう言いました。
「天下の宮様からの宣旨というのは、明石を討って姫をくれよという事であった。この命令を引き受けて来たから、お前達で、明石を討つ相談をせよ。」
これを聞いた、太郎は、
「父上の御諚に背くわけではありませんが、六カ国はさて置き、例え日本国をくれると言われても、婿殿を討つことなどできません。どうか思い留まり下さい。」
と、願い出ました。多田は、大変腹を立て、二郎に問い正すと、二郎も同じ返事でした。多田はいよいよ怒って、
「なんと不甲斐ない奴原じゃ。おまえたちを出世させる為に、色々知略を巡らせているというのに。ええ、今日よりは、親子の縁は切ったぞよ。」
と、言い捨てると、奥へ入ってしまったのでした。太郎・二郎の兄弟は、これを菩提の機会として、出家をすると、修行の旅に出てしまったのでした。この兄弟の心の内の哀れさは、何に例えん方もなし。

つづく