しだの小太郎 ⑥ 終
さて、栄華に栄えていた小山太郎は、七月七日の節句のお祝いに、数々の宝物を並べ
立てました。金銀綾羅(りょうら)を取り出している内に、信田玉造の地券の巻物が見
あたらないことに気が付きました。あちこちと探し回りましたが、見つかりません。
小山は、妻に、
「これは、他人の知ることでは無い。お前が盗み取り、誰かに渡したのであろう。お前
の様な、後ろ暗い女を頼みとするわけにはいかん。」
と言うと、労しいことに、妻を追い出してしまったのでした。
可哀相なことに、信田の姫君は、
「今となっては、頼む当ても無い。信田殿が沈んだ霞ヶ浦に、私も身を投げよう。」
と思い。そのまま、湖畔へと下りました。すると、そこに、千原の後家が、追い掛けてきて、
「そんなに、お嘆きにならないで下さい。信田殿のお命は、我が夫が身代わりになったのですよ。」
と、縋り付くと、信田殿からの数々の文を見せるのでした。姫君は、これを見て、
「それでは、信田殿は、生きているのですね。一縷の望みを掛けて、訴訟のために都に
上がられているのですか。それでは、私も都へ行きましょう。」
と言うと、とある寺で、御髪を下ろすと、旅の装束を調えて、千原の後家と一緒に京都
を目指す旅にでたのでした。
〈道行き〉
三十五日と申するには
花の都に着き給い
先ず清水に参りつつ
信田殿の行く末
知らせてたばせ観世音と
深く祈誓を懸けまくも
熊野の方を心掛け
天王寺、住吉、
根來(根來寺:和歌山県北部岩出市)、粉川(粉河寺:和歌山県紀ノ川市粉河)を打ち過ぎて
三の御山(本宮・速玉・那智)に参りつつ
尋ね給えど、行き方無し
いざや、乳母、四国、九州を尋ねんと
道者船に便船乞うて、打ち乗り
淡路島をも打ち過ぎて
筑紫下りの途次(みちすがら)
長門(山口県西部)のこうや(?)
赤間が関(下関)、芦屋の山(福岡県遠賀郡芦屋町)か博多の津
志賀の崎(志賀島)まで尋ねれど
その行き方はなかりけり
名護屋(佐賀県唐津市鎮西町名護屋)を出で
瀬戸(平戸瀬戸:長崎県平戸市)を行く
松浦(長崎県松浦市)、弥勒寺(長崎県大村市弥勒寺町)
しつの里(不明:じつ=時津(とぎつ:長崎県西彼杵郡)カ?)
伊王が嶋(旧伊王島町)も近くなりて
いきの(不明:ゆきの=雪浦(長崎県西海市大瀬戸町)カ?)も通り、通にぞ
消えゆるばかりの、我が心
日向の国にとさの島(?)
豊後、豊前や肥後の国
筑前、壱岐の里に至るまで
信田の小太郎、何某と
問えど、答うる者も無し
いざや、乳母、中国を尋ねんと
周防の国に差し掛かり
播磨の国、彼方此方と尋ねつつ
後は、堺の松に出で(?)
そうだの森(?)、烏崎(兵庫県神戸市垂水区東舞子町)
人、松ヶ岡(兵庫県明石市松が丘)を尋ぬれど
その行き方は、無かりけり
須磨の浦(兵庫県神戸市須磨区)、蓮の池(兵庫県神戸市長田区蓮池町)と聞くからに
同じ蓮(はちす)に乗らばやな
兵庫に着けば、湊川
雀の松原(兵庫県神戸市東灘区)、打出の宿(兵庫県芦屋市打出小槌町)
こやの(兵庫県伊丹市昆陽)、伊丹、手嶋の里(?)
太田の町(大阪府茨木市太田)や芥川(大阪府高槻市付近の淀川支流)
神内(大阪府高槻市神内)、山崎(京都府乙訓郡大山崎町)
きつね川(淀川支流)、久我畷(こがなわて:大山崎~京都府伏見区久我間の街道)
浮き世は、車の輪の如く
巡り巡りて、またここに
花の都に着き給う
いざや、乳母、東路を尋ねんと
我をば誰か松坂や(松坂関峠:京都府山梨区)
逢坂の関の清水に影見えて(滋賀県大津市:旧関清水町)
大津、打出の浜よりも(滋賀県大津市打出浜)
志賀、唐崎を見渡せば(滋賀県大津市)
堅田の浦に引き網の(滋賀県大津市)
目毎に脆き涙かな
尋ぬる人の面影を
映してや見ん鏡山(滋賀県蒲生郡竜王町)
愛知川渡れば
荒れてなかなか優しきは
不破の関屋(岐阜県不破郡関ヶ原町)の、板漏る月見、
垂井の宿(岐阜県不破郡垂井町)
田を植えし、早苗の黒田こそ(岐阜県揖斐郡揖斐川町黒田)
秋は鳴海と打ち眺め(愛知県名古屋市緑区鳴海町)
三河の国の八つ橋や(愛知県知立市八橋町)
蜘蛛手なるやと思うらん
富士を何処と遠江
恋を駿河の身の行方
月も雲間を伊豆の国
信田には何時か、奥州まで
三年三月と申すには
高野郷に着き給い(福島県東白川郡矢祭町付近)
旅の装束なされけり(※とかれけりカ?)
さてその頃、信田殿は、七月盂蘭盆会の営みとして、父母孝養(ぶもきょうよう)の
為の施行をしておりました。そして、やってきた二人の比丘尼を招き入れたのでした。
持仏堂に招かれた姫君は、御回向の鐘を鳴らして、声高く御回向をなされました。
「父、相馬殿。母、御台。信田殿の成仏なり給え。未だ、この世にあるならば、この御
経の功力によって、今一度、引き合わせてください。」
と祈念すると、泣き崩れるのでした。信田殿は、この回向の声を聞くと、飛び上がって
驚きました。間の障子をさっと開け走り出ると、
「我こそ、信田ですぞ。」
と、姉に抱きついたのでした。なんという巡り合わせでしょうか。二人は、涙々の対面
を果たしたのでした。信田殿は、
「このような目出度い時に、何を嘆き悲しむことがあろうか。さあ、いよいよ本望を
遂げる時です。」
と言うと、奥州五十四郡の中から選りすぐって、十万余騎の兵を集めました。
小山太郎は、この事態を聞き及ぶと、これは敵わないと思い、都へ向けて逃げ出しました。
その頃、奥州の国司は、都から奥州へ下向中でしたが、ばったりと小山と出会い。国司
は、易々と小山を絡め取ったのでした。やがて、国司は、小山を連行して、信田殿へと
渡しました。喜んだ信田殿は、武蔵の国嬬恋が野辺(群馬県嬬恋村)にて、小山の首を
刎ね、念願を果たしました。それから、信田殿は、国司と共に参内し、坂東八カ国を給
わったのでした。
その後、信田殿を売り飛ばした辻の藤太を捕らえて斬首し、母が亡くなった時に世話
になった番場(滋賀県米原市)の宿の亭主には、一所の土地を与えました。本国へ戻っ
た信田殿は、浮嶋の三人の孫に、三千町の土地を与え、千原の後家を総政所としたのでした。
こうして、信田殿は、末繁盛と栄えたのでした。この君の御果報。目出度しともなかな
か、申すばかりはなかりけり。
おわり