おうしょうぐん ⑥
さて、胡国の兵は、輿に乗せた木人形を、誠の王照君と思って、息も付かずに走り帰
りました。ケンダツ王は喜んで、
「そもそも、漢朝の奴輩(やつばら)が、この国に踏み込んで、王照君を奪おうなど、
蟷螂が斧(とうろうがおの:無謀の例え)というもの。漢朝の奴輩の耳、鼻切り落とし、
生きながらに追い返して、末代までも見せしめにしてくれん。」
と言えば、皆々、一度にどっと笑いました。それでは、王照君を輿から出して休ませよ
と、声を掛けますが、返事もありません。ケンダツ王は耐えかねて、輿のそばに立ち
寄ると、
「如何に、王照君。最早、漢朝のことは、ふっつと思い切りなさい。どうして出てこな
いのです。姿は夷だが、心の花は劣ったものではありませんよ。」
と、抱き上げて出して見てみれば、なんとしたことでしょう。人ではなくて木人形です。
「これは、物言わぬも当然。さても無念や。漢朝の奴輩に謀られるとは、口惜しい。最
早、生きる甲斐も無い。おのれ漢朝。」
と、自ら兵三百万騎を率いて、漢朝へと押し寄せる有様は、凄まじいばかりです。
一方、漢朝では、思いのままに王照君を奪い取っての凱旋に沸き立ちました。ハンリ、
両将軍には厚く恩賞が下されました。しかしゲンシリョウは、これで終わった
訳ではないと、次のように言いました。
「まずまず、天下太平。目出度くは思いますが、今度は胡国のケンダツが直々に、攻め
て来ると思われます。今度は、私が一人で出向き、今後、漢朝へ仇をなさぬ様に、しか
と仕置きをいたしましょう。ちょっと持たせたい物があるので、人夫を少しお貸し下さい。」
光武帝はこれを聞いて、
「むう、あなたは只の人では無いので、何かお考えがあるとは思いますが、目に余る胡
国の大軍に、あなた一人では心許ない。せめて、五万十万の軍勢を連れて行きなさい。」
と心配しましたが、ゲンシリョウが、
「いやいや、万事、それがしにお任せを。」
と言うので、帝も諦めて、自分の黄金の具足と明陽剣(みょうようけん)という宝刀を
ゲンシリョウに与えて、万事を頼まれたのでした。
さて、ゲンシリョウは、賜った金の鎧兜を身につけ、明陽剣を帯びると、人夫を集め、
猪や兎、鶏や犬、牛馬など、色々な生贄を用意させると、白雲山の麓の草原に祭壇を祀
り、四方に旗を立て、清き酒と生贄を献げました。すると、不思議なことに、どこから
ともなく、老人が一人珍しい馬に乗り、また恐ろしげな顔の二人の男が近づくと、供え
た酒や生贄を、むしゃむしゃと食べ始めました。やがて、口を開いて、
「この老人は、前漢高祖の頃、帝に一巻の巻物を与えたクホウセキコウという者である。
さてまた我等は、チョウリョウ、樊 噲(ハンカイ)と申す者である。兵法の奥義を究
め通力を得て、今は仙人となる。王照君へも力添えをしてきたが、今、この祀りに合い、
御味方いたさん。もうすぐ、夷どもがやってくるぞ。」
と言うのでした。案の定、しばらくしてケンダツ王が、白雲山の麓に到着をして、陣を
張って休憩しました。すると、どこからとも無く現れた土民らしい者が、立て文を竹に
結い付けてケンダツ王の陣の前に立てて、立ち去りました。ケンダツ王がこの文を開いて見ると、
『漢朝の大臣ゲンシリョウがこの文を書く。さてこの度、ケンダツ王は、三百万騎の軍
勢で漢朝を攻めようとなさっておりますが、このゲンシリョウと、クホウセキコウ、チ
ョウリョウ、樊 噲の三人で、あなた方の首を頂きに行きます。笑止ながら、三百万騎
の人々は、白雲山の苔に埋もれてしまいますがいいのですか。よくよくお考え下さい。』
と書いてありました。ケンダツ王は、いよいよ腹を立て、
「ええ、おこがましい。ゲンシリョウと言う痩せ男め。前漢の幽霊と共に向かうなど、
大嘘に違いない。三百万騎を三手に分けて、攻め立てて、漢朝の種を根絶やしにしてくれる。」
と、怒濤の如くに白雲山から出陣しました。ところが、その途端に辺りは霧に包まれ、
夜のように真っ暗闇となってしまいました。そして手足が竦んで動くこともできません。
そんな中でも、チクリトウとケンカイランは、もがきにもがいておりましたが、怒鳴っ
ても叫んでも、手足は縛られたようにピクリとも動かせないのでした。
そうこうしているところに、ゲンシリョウの一行が、日月を刻印した旗を靡かせて
動けない両将軍の前を通りかかりました。
「やあ、これなる二人は先駆けの大将か。こうなると思ったので、予め(あらかじめ)
お知らせしておいたのに。これから、ケンダツ王も引っ捕らえてくるので、暫く待っていなさい。」
と、言い捨てると、一行はどっと笑って通りすぎました。二人は、口惜し、無念とばか
りにいきり立ちますが、道の端にころがったまま、どうにも動けません。
やがて、ケンダツ王以下三百の大将達が、同じようにして捕らえられてきました。す
ると、ようやく霧が晴れてきたのでした。しかし、胡国の人々の身体はピクリとも動き
ません。ゲンシリョウが、
「悪逆を企んだ科(とが)により、只今、斬首いたす。臨終、良くたしなめよ。」
というと、チョウリョウ、樊 噲は、剣を構えてすり寄ります。しかし、その時ケンダ
ツ王は、はらはらと涙を流して、
「これまでの事、誠に誤りでした。この上は、御慈悲に命ばかりは助けてください。
これよりは、長く漢朝の家来となり、貢ぎ物も献げます。二度と仇はいたしません。」
と言うのでした。しかし、クホウセキコウは怒って、
「今はそんなこと言っても、やがて、約束を変じるに違いない。さあ、早く切ってしまえ。」
と言うのでした。チョウリョウ、樊 噲両人が、剣を振り上げるところを、ゲンシリョ
ウは、押し留めて、
「ここは、それがしに免じて、助けあげて下さい。」
と、命乞いをしたのでした。ゲンシリョウは、ケンダツ王に近づき、
「それでは、命は助けることにするが、最前に奪い取った漢朝の百余州を返還し、さら
に毎年の貢ぎ物を欠かさず、今後、漢朝に弓を引かぬと、固く誓うか。」
と言いました。ケンダツ王は涙を流し、
「命さえ助けていただければ、長く漢朝の家来となります。」
と誓うのでした。その時ようやく呪縛も解かれ、胡国の軍勢は、氷の解けるように元通
りになったのは、まったく稀代の有様でした。
その後、都へ戻ったゲンシリョウは、帝に事の次第をお話になると、暇を賜り、元の
庵に立ち帰り、水草清い山の中で、光武帝の繁盛を祈ったということです。
目出度きとも中々に例えぬ方もなし。
寛文九年巳酉年陽月吉日(1669年)鶴屋喜右衛門板
おわり